19-5.陽光
『……お前、あの時の狐か?』
礼羅は結局そのまま霧の宮が寝ている部屋に案内されたらしい。
しかしそこに居たのは霞だった。
『やはり霞の宮だったか』
『どういうこと?晴明は霧の宮と言っていたわよね』
『霧も霞も天気としては同じものだしな。混ざってしまうのも無理はない』
藤壺の女御は二人の男女を育てている。一人は実子の内親王でもう一人はかつて後涼殿に仕えていた更衣の子だった。産後の肥立ちが悪く死んだので引き取ったと聞く。
『まぁ名前は分かったわよ。私はどうすればいい?』
『お前の目からは霞の宮がどう呪われているのか見えない』
『さぁ?私にもさっぱりだわ』
そう言いつつも礼羅は脈を取る。礼羅は嗅覚で呪力や妖力を嗅ぎ分ける。狐の血も混じっているせいか鼻も良い。
『冷たいですね』
『そうじゃな……誰も妾のところに近付いてくれぬのじゃ』
病をうつされたくないから避けるというのも無理は無い。
礼羅が手ぬぐいで汗ばんだ額をふき取る。
以前会った時よりもか細い霞の声だ。風邪の時に不安で寂しくなるのと同じ状態なのだろう。
『兄上は来ていないのか』
礼羅から何か言えと言う念を感じるが霞の母親に押し入られたせいでこの狭い部屋にいるのにどうしろと。取り合うつもりは無かったのでその場で黙っておいた。
『主様も見ています』
『……そうか』
礼羅がそれに留めると残念そうな顔をする。俺はそこまで懐かれた覚えがないんだが。
礼羅は脈を取るが霞は熱いとうだる。
『姫宮様の容体はいかがでしょう』
御帳台の向こうから女房が声をかける。
『丹田……へその下に悪い物があります。私の妖力を宮様に流せば追い出せるはずですから、出て行ったものは晴明……天文博士がどうにかしてくれるでしょう。
あとはお腹を温めれば自分の力で治すことが出来るはずです』
礼羅は俺と自分の近くにいる女房に聞かせるように話る。
霞は雨の中遊んで風邪を引いたんだったか。にしても礼羅、晴明殿を良いように使いすぎではないか。
『……免疫が弱ってるところを狙われたのだろうな』
『メンエキ?妖力を流すけど良いわよね』
呪詛を追い出す為に妖力を使う分には問題ないだろう。
もし変に作用して風邪が悪化させることがあっても晴明殿が聖水を持っているはずだ。
『どちらにせよ休ませるから問題ない』
礼羅はその場で頷き、霞の腹の上に両手を重ねた。
『宮様、大きく息を吸ってください』
霞の呼吸と合わせ私も息を吸う。
『息をゆっくり吐いて……悪い物を吐き出すつもりで……』
礼羅の呼吸法は江戸時代に考案されたという「祓修行」のようだ。
「生き」と「息」は異なる言葉だが意味や概念として近い所にある。生物というのは陸であろうと水中であろうと呼吸をする。まさか礼羅の育ての親がそんな事まで考えていたとは思えないが、言葉が違う国でも似た境地に至るのかもしれない。礼羅はその真似事をしているだけで。
『呪いを取り除きます、大きく息を吐いてー!』
霞が精一杯息を吐くと腐敗した臭いが広がる。
呪詛の臭いだろうか。遠くから悲鳴が聞こえてきたが、邪気でも見えたのだろうか。
しかしそれもすぐに霧散した。
『姫宮様、お加減は……』
女房が御帳台の中に入る。
礼羅が霞に顔を向ければ彼女は深呼吸で疲れたのか寝息を立てて眠り始めていることが伺えた。
『お眠りになられました――』
だけど途端に霞はまた苦し始めた。また腐敗した臭いがする。
『姫宮様!?これはどういうことですか!』
女房が詰め寄る。白粉のひび割れた顔が迫ってくるので俺は思わず後ろ手を付いてしまったがそれ以上に礼羅がパニックを起こしていた。
脈の音がうるさいのはどちらの音か。
『どうしよう!呪詛を追い出したはずなのに!』
『落ち着け、他に原因があるなら探れ』
礼羅の感情が流れてくる。
知能のある式神は主人にも感情が流れてくるということを聞いたことがあるが、本当だった。
飲み込まれないように己を律する。
「礼羅。目を閉じろ」
言霊に乗せて命令する。俺はひたすら呼吸をする事に徹する。すると徐々に脈の音が静まってきた。
そして再度視界を開けば霞の腕が入る。少しすれは呪力や妖力が見えてきた。
俺が普段見えてる視界とそう変わらなくなったが、礼羅が何かをしたのだろうか。
『呪詛が見えるなら最初からしろ』
『魔力を消費するから抑えてたのよ……』
今まで妖と同等に扱っていたが礼羅は悪魔の血が入っていた。例え微量でも魔力を消費するなら別の手段を選ぶのも納得する。色々聞きたいことはあるが今は抑える。
礼羅はまた手探りで探しているものの、目視で辿るだけでは分からない。
『……御館様!?』
女房の声に礼羅も振り向くと御簾の向こうには右大臣がいた。あのジジイ、俺のところに来てからすぐにあっちに向かったか。
『騒々しいが、姫に何かあったのか?』
「右大臣……」
不味い礼羅の事で何かあったら死人こそ出ないと思うが面倒なことになる。
――それに呪術なぞ皇子たる貴方様が触れても良い代物ではございませぬ
ややこしいことになりかけているが先ほどのやり取りでまた苛立つのは避けたい。
『御館様、姫宮様の病が移っては行けませぬ。お部屋に入られるのは――』
『よいよい。天文博士がおろう、姫に触れなければ問題あるまいよ。少しくらい孫の心配をさせてくれ……なぁそこの女狐よ』
以前清涼殿で礼羅の実力を見たはずだがそれでもなお礼羅を疑っているのか。
礼羅からも警戒しているのが伝わる感情から伺える。見えない尻尾が逆立っているようだ。
「右大臣のことは気にするな、霞の方に集中しろ」
そうは言うが礼羅は妙な戸惑いを覚えている。右大臣がそっちに来るのが意外だったのか。
『先ほどから何も言わないが、まさか魔物が呪詛を見破れぬなんてあるまい』
右大臣が礼羅を煽る。
何を考えたのか礼羅はとんでもないことを言い出した。
『呪詛の奥に触れてみるわ』
『おい礼羅待て!』
礼羅との念話が切られる。返事がない。なにか嫌な予感がして俺はすぐに俺の居た曹司から障子を開けて飛び出した。
「っ!?お待ちを!何処に行かれるのですか!?」
「らい――霧の宮のところだ!俺の式神が暴走しかけた!」
外で控えていた侍従に適当な嘘をでっち上げて走って向かう。
俺とて幼い頃は母親の宿下がりの場所として度々この屋敷にいたのだ。道が分からない訳ではない。藤壺がいる場所は想像がついた。