18-5.礼羅
多くの風水を取り入れて作られた晴明屋敷はとても簡素な庭であるものの、紅梅を中心に四季折々の草花が彩られている。その中で秋のの七草がもうじき花を開こうとしていた。
しかしその庭も雨に振られ中に雨が入らないよう庇の間の向こうでは戸の下半分を閉めているため庭を眺めることは出来ない。
昼間でも燈台が必要なほど薄暗い部屋の中で私は高く積まれた紙と硯を前に途方に暮れていた。
「少し休みましょう。白湯を入れましょうね」
北の方がそう言って近くに控えていた女房を呼ぶ。長袴を履いているものの、少し足元が寒いことに気付く。
自分の仕事があるだろうに、この御方は時折顔を見に来てはこうして休みの時間を共に過ごしてくれていた。
というのも、晴明がしつこく来るからだ。
星の読み方なんて知らないのに、あれはこれはと天文書のようなものや図式を見せてくる。
以前は私の妖術に興味を示していたのに、どういった風の吹き回しだろう。まぁ妖術は陽光に色々聞かれたりしたからもう話すのも面倒なのだけれど。
その様子を見て北の方が呆れながら引き離すのだ。
「そんなに夜半の君の様子が気になるのでしたら私がきちんと見ておきますから」
なんて言うので北の方も定期的に見に来るようになった。
さすがにわざわざ北の対から西の対まで毎日来るのが申し訳なくて北の対近くの局に移って作業したいと申してみるも、どの局も埋まっているという。そんな馬鹿な。
「中々終わらないですね……」
「いつまでと決まっている訳ではないのだから、焦らず行えばいいのですよ」
北の方はそう言うが、陽光から命じられた手前罰として受けざるを得なかった。
「そういう訳にはいきませんよ……」
「あなた、しばらく見ない間に少し目の下に隈ができていますよ。まさかほとんど眠らずに式札を書いているのではないの?それとも何か気にかかることでもあるの?」
「まさか」と苦笑する。ただ、目草の件では今までそんなことなかったのにどうしてこんなことになったのだろうとは思わなくもないけれど。
「少し筆をお借りしても?」
「え、えぇ……」
北の方は陰陽頭の妹ということもあり、多少術にも精通しているということは知っている。何か書いてくれるのだろうかと期待しながら少し場所をずらすと、北の方はすらすらと筆に文字を書き記し始めた。
「降る雨や晴るる間もなく乱れそめ、我が心こそ秋の空なれ」
(雨が降ったかと思えば、晴れる間もなくまた曇り、私の心は乱れ始めました。まるで秋の空のように移ろいやすいのです)
「えっ!?」
「あらまぁ、図星だったかしら?」
ニマニマとそっとその紙をこちらに寄せてくる。これをどうしろというのだろう。
「これをあなたの名前で、嵐山殿に送ってもよろしくてよ」
「しませんから!」
「御方様」
女房の一声で会話が終わり、安堵の息が漏れる。北の方は少々つまらなそうに御簾をみればその向こうでは先ほど傍にいた女房が座っていた。
「どうされました」
「夜半の君に、文でございます」
「またですか。殿方への文はお断りしているのにどんな強引な方が?」
「それが、藤壺の女御でございまして……」
申し訳なさそうな、畏れ多いような、面倒そうな声色で女房が文の主を告げた。
私と北の方は顔を見合わせる。
女房は部屋に入るとそっと盆に乗せた文をこちらに差し出す。北の方に促されて文を開けて読めば数日己の女房として橘の屋敷に来てくれないかという誘いだった。
藤壺の女御は陽光の叔母に当たる。
文を北の方に見せれば北の方も眉を寄せた。
「夜半の君、右大臣の二ノ姫とは内裏でお話したそうではありませんか。あの時に何かございまして?」
「い、いいえ話してないし何もございません!」
慌てて首を横に振る。
二ノ姫とは後から入内した藤壺の女御だ。一ノ姫は陽光の母――ではないらしい。今の帝が当時東宮になるにあたって猶子をしたからだ。
内裏を訪れた際、霞という陽光の異母妹に呼ばれて藤壺で遊び相手になっただけだ。その間女御もこちらをひたすら凝視していたけれど、かなり警戒していたのだと思う。
陽光と右大臣はあまり仲がよろしくないらしい。戸籍上は祖父でも血の繋がりはほとんどないらしいし、これまで陽光に与えられるべき予算が陽光に正しく与えられていなかったとも聞く。
真っ先に表向きの後ろ盾を疑うのは自然なことだろう。
「にしてもなぜ夜半の君を指名しているのでしょう。これには嵐山殿の名前も無いわ」
陽光に文を送るために晴明に託すこともあるそうだ。今のところ後見人というか後ろ盾のような立場でもあるからだろう。
陽光には内密に来いというわけでもなさそうだ。しかし己の主人を裏切るようなことをしては今受けているような罰とは別に祟りのようなことを受けかねない。式神だと言っているのにどうして己がさも人間のように扱うのか。
それに場所が場所だ。橘の屋敷と言ったら右大臣の屋敷である。本来なら陽光の後ろ盾であるはずだけれど、以前聞いた話を思うにいい印象を受けない。
「右大臣の策略だったりして……」
「滅多なことを仰るのではありませんよ」
しかし理由なく断るわけにもいかない。北の方も何かあったのか考えて口を開く。
「なら殿下にお伝えしてから向かうとお返事を――」
「いいや、それは出来ない」
上げていた御簾の向こうから晴明がやってきた。少し雨に降られたか烏帽子と深緑色の狩衣が少し濡れていた。
「話が遅れてすまないね、梅。霧の宮の容態が悪く、それで藤壺の女御と宿下がりをされている。卜占で雨避けの儀に選ばれているからか帝も気にかけておられた。祈祷のため私にも向かって欲しいと言われた」
「宿下がりされていることは存じておりましたが、それで彼女を連れて来いと?」
「そうだろうね」と晴明は言う。
私は術師でも医者でも無いのに勝手に話が進んでいる。
「私は君が出来るとは思っていないけど向こうはそうでは無いんだろう。今陽光も車にいるから夜半の君も来なさい」
これはほぼ命令だ。
「……分かりました」
「そうなれば準備をしましょう。女房の召し物をを」
北の方も自分の女房に指示を出す。なんだか私も良いように使われているような気がしてならない。
私は慌てて仕上げた式札をまとめて懐に忍ばせるのだった。