16-7.礼羅
大祓後から二日。
慈雨の宮から晴明の北の方に文が届き、左大臣の桜邸と呼ばれる屋敷に来ることになった。元々二人はたまに文をやり取りしていたらしいけれど、北の方は仲のいい『友人』が多い。陰陽師の家に生まれた故にいろんな人に頼られるのだろう。
付き添いの女房として何故か私も北の方に付いて行くことになった。
それに対して陽光はついでとばかりに私に慈雨の宮への文を預け、「もし左大臣と鉢合わせても俺のことは絶対に知らぬ存ぜぬを通せ」と言う。気が重い。
表向き女房として付いて行くので北の方は「仕方ないけれど物足りないわね」と控え目に仕上がった女房のお仕着せ姿の私を見ては少ししょんぼりした顔をしていた。陽光に化粧を施すことができたのがとても楽しかったのだろう。
「お久しゅうございます。……中納言殿の折には何も出来ず申し訳ございませんでした」
「貴女の夫が表で動いている中、貴女が陰で力を尽くしていることは知っていましてよ」
「おほほほ……私には北の対に座ることしか出来ませんよ」
そうとぼける梅の君に慈雨の宮は懐かしむような顔をする。
改めてみると慈雨の宮は姫皇子なのだなということが分かる優雅さがある。
そして北の方は本来『仕える側』の人なのだろう。ぐいぐいと責めるところはあるけれど、女房達の談笑でも控え目で、他愛のない会話で相手を立てるのが上手い。世話をすることが好きなようだしこれが北の方の素なのだろう。
「……梅の君、貴女は唯一母に臆することなくわたしに尽くしてくれました。恩知らずなことをしたことを申し訳なく思います」
扇のない慈雨の宮はだいぶ恥じているようで、だいぶしおらしい。
北の方もとい梅の君、慈雨の宮の母に仕えていたことがあるらしい。
「貴女が内裏に入られた頃はまだ幼かったですもの。覚えていないのも仕方ありませんよ」
慈雨の宮の記憶の断片を探るけれど、どこにも梅の君の姿は無いのは私が見たものは慈雨の宮にとって強烈な出来事だけだったのだろう。忘れようと思ってもそうそう忘れられるものではない。
「して、そちらの女房は?ずいぶんと若い娘ですが」
「懇意にしているある御方からお借りてきたのです。貴女が幾度も対面を望んだ娘ですよ」
梅の君がなじるような声で言う。それに慈雨の宮は少し眉を潜ませているけれど、挨拶をすすめられたので私は膝立ちで梅の君の横に出ると頭を下げた
「夜半と申します」
慈雨の宮が消えたと騒ぎがあった際に顔を合せた女房らは全員私のことを狐面の女としてしか記憶に残っていないだろう。
慈雨の宮は私が陽光の式神だと気付くとはっとしたような顔をする。
「貴女が――」
「……?」
慈雨の宮が何か呟いた気がしたけれど聞き取れなかった。
「……梅の君には重ねて感謝せねばなりませんね」
「お礼は充分いただいておりますよ」
慈雨の宮がまた梅の君とわけのわからないやり取りをしている。
「……あの時はわたしも気狂いを起こしておりました。疫を断ち切った貴女ならあの箱を消すことが出来たのではと思っていたのです。……あの時のわたしは母の二の舞でした。陛下や貴女がたにも迷惑をかけましたわね」
「……」
私は梅の君の女房として付いてきたけれど、今は陽光の式神として慈雨の宮から謝罪をされている。
「私が謝罪を受け取れば、それは私の主様も許したことになります。私におっしゃるのはお門違いかと」
そう正直に言えば慈雨の宮は少し驚いたような顔をしては呆れた顔をする。
「……彼と会う日がまた来た時にもう一度謝罪をさせて欲しいと伝えておいてください」
「……かしこまりました」
そう言えばこの屋敷に来てから藍の君を見ていない。桜邸も広いから別のところにいるのかもしれないけれど、にしても妙だ。もしかして三条源氏の屋敷に残ったのだろうか。
忘れないうちに私は懐から陽光の文を取り出す。
「慈雨の宮、主からこれを……」
本当なら手渡しは良くないのだけれど生憎今は文箱も盆がない。
慈雨の宮もそれに気に留めることなく文を受け取るとすぐに文を開いて読んだ。裏から透けて見えた筆跡は惟也のものだった。
「……わたしだけでは分からないことが多いですね。返事は後日を出しましょう」
大した心配りができるような人ではないので業務連絡のような文だろうとは思っていたけれど、陽光は一体何を慈雨の宮に聞いてきたのだろう。
「あの方は、あの一件であの御身で長く生きられるかと思っていたのですが、健やかでいられたのは御仏の加護を受けたからでしょうね」
慈雨の宮はそっと文を撫でながら感慨深そうにつぶやく。梅の君はある一件がなんなのか知っているようだった。
「覚えて……いえ、姫様は知っておられたのですね」
「姫と呼ぶのははおやめになって。もう二人の子を持つ母よ。……人の口には戸が立てられないでしょう?子供だった私でもその話は耳にしました」
内裏で陽光に何かあったのだろうか。
「その件とは……?」
それを聞くと梅の君が説明してくれた。
「あぁ……あの方は昔、毒を入れられたことがあって、一度生死を彷徨われたことがございました。犯人は藤壺に仕える女房の一人だったようで、その際祈祷を当時の女御……彼の母君が自ら行ったとか」
出家しなくとも経を覚えさえすればお経を唱えることは出来るだろう。
「ですがわたくしも当時の仔細は存じないので養生中は橘邸に戻られたのか、それとも藤壺にずっとおられたのかすらも分からないのです。仏の御力を借りるにも限界があるでしょう。よく健やかに育ったと存じますが」
「内裏にいて分からないものなのでしょうか?」
内裏の中でも後宮と言われる七殿五舎は渡殿でつながっていると梅の君から教えられた。
そうでなくとも近衛が警備をしているだろう。彼らを通じて噂で広がるのではないのか。
「周囲を警戒しておられたようで、表立って動くことを好まない方でした。女房も必要最低限で数もとても少なく、あの女御のお顔を知る者は大分少なかったようですし、わたしも当時は彼……殿下の顔は見ることができても女御の顔は見られませんでした」
慈雨の宮も当時のことを思い出している。陽光の母はそこまでして陽光を守っていたのか、にしても女御の顔すら内親王が分からないとは不思議だ。
「そう思うと、副臥の相手に殿下は指一本も触れなかったのはそのせいでしょうか。
相手の方には折に会ったのですが、相手は触れられることなく済んで安堵しておられたようでしたけれど」
慈雨の宮の言葉に一瞬出遅れる。今なんて言った?
「姫様……」
梅の君がちらりと私を見ると慈雨の宮が何かに気付いた。
「あら、貴女は知らなかったのですか?」
「何の話でしょう」
「……まぁ」
返事に感情が出なくて自分でも驚く。
「……ごめんなさいね。多くの貴人が裏で知っていることだから口がこぼれました。本人には何も触れないであげてくださいな」
徐々に落ち着きを取り戻していくと、陽光がまだ清い体であることが皆に知れ渡られているのかと思うと本人が可哀想に思えてきた。
「……それで念のため聞きますが貴女とはそういったことは?」
「一切ございません」
これには即答した。