16-2.神祇大史
神祇官府、東院。
六月晦日の大祓まであと五日。
地方から贖物や祓物、職人に作らせた祭壇が徐々に運ばれていくので当日までの保管場所を指示したり、会場である朱雀門を行き来しては準備のために走り回る。
今年は複数の者が入れ替わり立ち代わり役目が変わり、引継ぎもままならないまま大祓の支度をする必要が出てきたので夜遅くまで大内裏にいることが多かった。
最近三人目の子を産んだ妻とその子らの顔を合せる時間も作れず朝早くに出仕し夜遅くに帰り一人で寝る日が続いて早十日。ようやく目途が立ち、思わず欠伸が出る。
茅の輪の完成も間近。後は大副が祝詞を用意するだけだ。
しかしそんな大副も大祓の前に物忌だと言って昨日から出仕を渋って来ていない。
あの莫迦者、神祇官でありながら天津罪・国津罪すら覚えていなかったという分かりやすい嘘で大祓詞を書き換えると言い出した。
何を話したのか几帳面で頑固なところがあると定評のある神祇伯が条件付きで書き換えることを許したことが意外だったが、その条件が当日の式次第を変えないことだ。確かにこれで行事の流れごと変えられたら自分らが当日混乱を招くこと違いないだろう。これは神祇伯様様だ。
あの男には同じ中臣の者として幼い頃から散々振り回されたものだ。年下でありながら立場としては向こうが上であるためこちらの頭は上がらないのが口惜しい。
二十数年前に突然母方の祖父がいる壱岐に行くと書き置きを残して出奔したかと思えば、それから数年した後に曰く付きの童を連れて来てはそれを自分の子だと言い張った。
子の母親は死んだと言っていたがその母親が誰なのかは幼くも一目瞭然だった。最後に聞いた噂から、あぁ結局死んだのかと納得し特段それに嘆くことはなかった。
自分の子だというが、その童が生まれた時には自分もまだ烏帽子も被っていない童だったろうに何を言っているのだと一族が集まっている中で彼の父親から平手を打たれた時の様子は溜飲が下がったものだ。
その童だった男はもう二十歳をとうに超えており、立派な男になったが、普段は女人のように扇を構えては顔を隠している。
内裏にいない噂の親王について行く役目を負っているようだが、――あぁそうかそれで大副が祝詞を書き換えると言い出したのか。と納得し、いや親王が参列することは慣例なのだから初めから来る前提で考えればよかったのにとまた憤りを覚える。
「何?雨乞いの巫が物忌みだと」
神祇伯が神祇官の一人の報告に目を見開く。
ここで呼ぶ巫とは巫女のことだ。皇子と混同しないようにここではそう呼んで区別している。
本来大祓では雨乞いの必要は無い。大祓で雨乞いをするのは異例なことで、雨乞いの舞を朱雀門の前で行えというのが陛下からのご用命だ。
かつて斎宮だった慈雨の宮は神に気に入られた故に雨を降らすことが出来たようだが、本来は帝が祈らねば神に声が届かない。故にこの神祇官府にいる巫らは慈雨の宮程の力はない。
それを知らぬとは思えないが、陛下のお考えが分からぬ。雨乞いの舞は見世物ではないのに。
「申し訳ございません!娘には外に出ぬよう言ったのですが、用向きの際に隙渡で鳥の亡骸に触れてしまったようで……!」
報告した者は舞う予定だった巫の父親であり、舞の指導を任された者でもあった。
この時代、特に貴族らは動物の屍骸に触れると穢れ、一週間の物忌が必要になった。
それは大祓を営む事が初めての神祇官らには突発的なことで、それでも想定内の事だった。
「代わりの娘はどうしている?」
「実はその巫も……」
「他は」
「大祓の舞を務めるに相応しい娘はおりませぬ」
この催事で舞う者は一人。もともと神降りの力がある若い娘はそうそういない。
それに巫女もあくまで神に祈りを捧げる舞を舞うだけで、雨も都合のいい頃合いに一時だけ降らせることなど出来ない。それに朱雀門には多くの官人が集まる。外で突然の雨に見舞われたら大祓どころではなくなってしまう。
帝のお考えがよく分からない。
「ええい!なら初めから余の言う通り更子を使えばよかったのだ!呼べ!余の孫ならあの安倍の屋敷にいるだろう!?」
神祇伯も普段こそ几帳面だが相変わらず孫贔屓が強い。その孫も元魔障憑きという噂のせいで今は忌々しい半妖である天文博士の女房になっていると聞く。
噂では出雲に行った天文博士の息子と歌を頻繁に交わしていたと最近になって耳にしたようで神祇伯も怒髪冠を衝く勢いだ。
本人は元の事情から家に帰ってこないし息子も今は出雲だ。そこで天文博士に問い詰めてようにものらりくらりと躱されているようで、ここぞと本人に問い質すつもりだろう。
元魔障憑きなら息子のどちらかが責任を取る形で娶るのを見越した上で女房としてそちらに預けたのではないのか。
実際その家でも北の方は女房として務めさせる傍ら娘のように大事に教育していると聞く。むしろ恩があるのは神祇伯の方だろうに。
「巫がいないのならいっそ官僧に頼んで護摩を焚けばいいのでは……?」
そう囁く若者らの声が聞こえ、自分がそちらに振り向き睨んでおく。神祇の意味を忘れたとは言わせない。神祇官府こそが神と仏の区別を付けなければこの組織の存在意義がなくなってしまう。
「伯王よ、何度も申しますがその娘を呼ぶのはおやめください」
「更子は今もここの巫だ!それにお主の娘だろうが!そもそもお主の側女の娘が口を滑らせなければ……!」
少副がなだめるがさらに日に油を注ぐ。
神祇伯は先々帝の従兄弟であり親王として宣化されていない諸王であるため『伯王』と呼ばれている。
普段なら大副が適当になだめているのだが本人が不在の今抑える者がおらず自分も含め多くの神祇官が居心地の悪さを覚えている。
「奏上したことをお伝えしようと様子を見に行けば、これでは皆も居心地が悪うございますねぇ」
その声に少しの安堵とさらに面倒臭くなったとげんなりする。何をしているのかは知らないが帝が時折呼ぶ。そしてついでとばかりにこの神祇官府にもご用命を伝えに来るのだ。
この男、周囲を物ともせず帝にすり寄っているように見えるから周囲から恨まれていることに気付いているだろうか。その振る舞いは益々育ての親に似てきている。己の烏帽子を被せた恩を忘れるなんてことがあったらただじゃおかない。
今回も何か別途で奏上した後に使い走らされたのだろうがこの若造は己の役目は終わったと言わんばかりに出仕を疎かにしていたのだ。
彼の従伯父としてはその生い立ちにこそ同情はするところはあるものの、知らない間に偉くなったのかと嫉妬の念を抱く。
「有明よ、何か案があるだろう。こちらも私の娘が何も用意もなく大衆の目に晒されるのは忍びない」
そう思っていないだろうに、さらりとそう言ってしまうところ少副も腹が分からぬ。
「恐れながら、先ほど雨乞いの巫が物忌だと聞いたので陛下にお伝えいたしました。所縁もないのに慈雨の宮のような御力はございませぬ故……」
それにしては話が早すぎる。神祇伯も今知ったその話をどこで聞きつけたのだろう。
神祇伯もそれを疑っているのか、不服そうに問う。
「して陛下はなんと仰せになっておいでなのだ」
「……今回の雨乞いは先月の瘴気がすべて事が終わったこと親王、官人らに知らしめるための意図がございます。要は知らしめることさえできればいいのですから――」
その案に賛同する者はいるものの、準備する身としては今夜も帰りが遅くなることにめまいがしそうになった。