私が家を建てるまで
だが、今の八子には、お先が真っ暗にしか見えないのだ。どんなに目を凝らしてもだ。
大物漫画家の残留エネルギーのご利益に縋りたいと言う気持ちに寛容でいてほしいと言うものだ。
独立してたった1ヶ月で、迷っているこの有様、将来のホームレスの道は十三ではなく、自分に開かれているのではないかと思えた。2ヶ月後には文無しになるのだから。
と言って部屋にボンヤリ座っていても、ますます不安が広がるばかりだ。
とにかく今の状況を冷静に見ることが必要だ。
今手元にある資金は、2作分の原稿料30万円と、家から持ち出した
自分の貯金16万円。23歳にしてたった16万円の貯金とは情けないが、
学校を卒業してから一度も就職どころかバイトもせずに、漫画だけを描いてきたのだから
仕方がないと言うものだ。そして、家を出る時父親が、これを足しにしろと言って30万円をくれたのだ。
八子は涙が出た。家族の中で、自分に心をかけてくれたのは、無口な父親だったと言うことを八子は思い出した。
その父親を、退屈な男の代表にしていたことを八子は内心で謝った。
漫画家で大成したら、きっとお父さんに恩返しするからね。八子はたった一人家の玄関の前に立って
見送る父に心の中で誓った。
その金を足して、76万円。そしてそこからアパートを借りるのに15万円、ジーンズ2本と
シャツを3枚買って、2万円が消え、生活をするのに必要なものに2万円。布団一式に9千八百円食費に1万2千円。光熱費を引いて残金は55万円。あと3ヶ月は暮らせるだろう。
今は5月。これから夏に向かって行くので本当によかった。
「なんで、家から布団とか色々持ってこなかったの?
あるものを使えばお金はかからないでしょう?」和歌子が言った。
そうだけど、八子はそうしたくはなかった。
自分の新たな人生の始まりを真っ新にしたかった。
母が選んだ数々の物の一切を、八子は捨てたかった。
母が下す自分への評価、未来へと一歩を踏み出す時に決まって
その歩みにストップをかけようとする母の言葉。それらの全てを
実家に葬ってきたのだ。
八子には悩んでいることが一つあった。
藤井司に連絡するかどうかについてだ。
藤井司と付き合ったのは2年前友人が企画した飲み会で、席が隣同士になったのが縁だった。
二人は翌日の食事を約束した。
それから2年が経ち、その2年の間八子はこの男といつ別れようかと考え続けている。
藤井司はハンサムだ。
大きな目と、はっきりとした眉、どこか気持ちの優しさと、弱さをを物語る輪郭。
かすりの着物に袴といった大正時代の書生の格好が、本当に似合うだろうと思われる雰囲気を持っている。
そして、飲み会の翌日藤井司が彼の叔父である推理作家で、パリに長年住んでいた後田 暗の
甥であることを知った。
藤井司の謎に満ちた推理作家と呼ばれている叔父さんは、恋人が4〜5人・・・もっといたかもだったらしい。
こう言った話は大好きだと、身を乗り出すように聞いた八子だったが、
それ以降藤井司から寝ても覚めてもの勢いで叔父さんの話を聞くことになった。
「あの映画をどう思った?」
ある日八子が映画の感想を求めると、
「あの映画か・・・僕のおじさんだったらきっとこう言うはずだ。
人は人生に騙されるんだと」
「人生に騙される?どう言うこと?」
「さあ、おじさんに聞いてくれよ」
「はあ? ねえ、叔父さんではなくて、司はどう思ったの?」
「待って。考えがまとまったら話すから」
だが彼の考えがまとまる日は永久に来ないのだ。
「ねえ、あの映画の感想は、いつまとまるの?」
「君、急がせるなよ。考えているんだから」
「6ヶ月経ってますけど」
「おじさんならこう言うな。時というものは、時間の長さではない。深さなのだと」
「それ、どういう意味?」
「叔父さんに聞いてみ」
「叔父さん亡くなってるって言ってなかった?」
「叔父さんは人を分けるのは、生死ではないと言っているんだ」
藤井司に、「司は、スキーできる?」と聞くと、
「僕の叔父さんはすごかったんだぜ。スキーの名手だったんだ」
八子は次第に思うようになっていった。
「会ったこともないあんたのおじさんなんかに興味もないのに、なんで年がら年中
叔父さんの話を聞いていなくちゃならないのっ?うざいんですけど!」と、思ったことを、藤井司に
ぶつけたことがある。
すると、司は
「叔父さんはよく言っていた。所詮話なんて、大した意味はないんだ。
みんな自分の心象を無駄に語っているだけなんだから。
それでも、自分の気に入った話をしろと相手に要求する。この精神構造が
世界を不安に陥れているのかもしれないってね」
「司、あんたの中に叔父さんを入れて歩いている見たいね。司は、叔父さんの人生を歩きたがっているんだわ」
司との付き合いをお続けて行くためには、叔父さん話に耳を傾けなければならない。
司と話すうちに、叔父さん像がはっきりしてきた。
叔父さんは3冊の推理小説を書いた。
「5時間目の裏切り」「箸にも棒にも探偵に、朝は来るか」
「1番目と3番目が怪しい」の3作だ。八子は1冊も読んでいない。
そして次第にはっきりしてきた叔父さん像というのは、こうだ。
後田 暗は小説を3作書いて、パリに渡った。フランス文学研究のためと
本人は言い歩いていたそうだが、フランス文学を学んだ形跡はなく、ただ
パリの飲み屋で飲んだくれ、何人もの女性と浮名を流した。
日本に妻子がいるのにだ。そして、妻に度々金の無心をした。
ある日、日本にいる家族と連絡が途絶えたので、10年ぶりで自分の実家に電話を入れると、父親に
お前は2度と日本に帰って来るなと言われた。
後田 暗はパリの女たちに泣きついて工面してもらった金で日本の雑司ヶ谷に帰ってくるが、
妻子に激しく拒絶される。そうこうしている内にかなりの資産家であった父親が亡くなり、遺産が入った。
母親はとうに亡くなっていたので、その遺産を持って再びパリへ。
と思ったが、同じく雑司ヶ谷にある実家で肝硬変を患い脳梗塞で死んだ。
ただただハンサムな男だったらしい。
「クズではないですか」
「破天荒なおじさんだろ?」
「破天荒とクズは同じですか? ねえ司、その叔父さんのどこがいいの?」
司の八子を見る目の光が消えた。が、その虚な瞳にすぐに光を取り戻した司は
「普通はそう思うのかもしれないね。それは当たり前だよ。
だけどおじさんはこう言うんだ。当たり前こそ疑ってね。
疑いを持たない人間はまだ母親の子宮の中にいて、生まれてないんだってさ」
いやいやいや、疑いを持つ持たないではなくて、叔父さんの甘ったれた生き方こそ
子宮から1歩も出ていないのではありませんか?
藤井司が言った。
「ごめん、八子さん。ここの代金お願いします。僕、今日、金が無いの」