私が家を建てるまで
「おめでとう。すみれさん」
「登坂先生、お世話になりました。クミちゃんいつも私たちの健康を気遣い、
しかも健康にいいばかりじゃなく、みんなが楽しめるメニュウを考えてくれて有難う。
とっても美味しかった。
それから、八子さん。一生懸命にバラの花を描いてくれてありがと
う。八子さんのバラ、綺麗です」
みんな泣いた。
すみれさんは、父方のおばあさまが一人暮らしをしている、島根に行くそうだ。
「島根! 山口寄りの?」
「いいえ。安木ですから、鳥取寄りの」
鳥取?どこだ?
「境港に近いんですよ。あの偉大な水木しげる先生を生んだ」
すみれさんは、クミちゃん手製のチーズケーキと、登坂先生のル・クルーゼの鍋
と、私からのオシャレな手袋のプレゼントを持って島根に帰って行った。
その後間も無く登坂先生は、お母様と娘さんと、ご主人と過ごす時間を大切にし
たいということで、しばらくの間漫画を休止することに決めた。
「大ちゃん、漫画を描きなさいよ。どうして描かないの?」登坂先生に聞かれ、八子は
「それが・・・いろいろ時間がなくて・・」と言いつつ、恥ずかしくなった。
すみれさんは、ここのアシスタントの他にバイトをしていた。
チェーン店のうどん屋で、夕方の5時から、夜中の十一時までの仕事だった。
「この時間帯の時給が良いんです」
その仕事をしつつ、すみれさんは漫画を描き続けていたのだ。
私の漫画への情熱はどこに行ったのだろうと、八子は思った。
雑誌に初めて漫画が掲載された時の、あのキラキラした喜びはなぜ、
姿を消したのだろう。
「大ちゃん、漫画を描き続けてよ。続けていれば、漫画脳が出来て来るからね」
「それじゃあ先生は、漫画を休止するって、、、」
「休止するのは、雑誌の掲載よ。お休みの間、描きためておこうと思っている
の。漫画を描くことをやめるなんて、私には考えられないわ」
八子はもう、床にひれ伏したかった。
それからの6ヶ月は、登坂先生の漫画活動休止に向けての準備期間であり、
八子にとっての地獄が復活した。
こんな時こそ、男性に助けてもらいたい。
そんな頃、八子は外町 小路という役者と
知り合ったのだ。
そのきっかけは、高校の同級生だった和歌子が作った。::
なんとなく和歌子と連絡を取らなくなて、2年が過ぎようとしていたある夜、
八子は和歌子からの突然の電話を取った。
「八子、下井草の駅前の居酒屋で飲まない?男二人連れて行くから、4人で」
「男二人って?」
「一人は私の恋人、もう一人は彼の友達」
八子は恋愛したいと思っている最中だったし、和歌子の男ならセンスがいいだろう。
そして、その友達ならきっといい男を友達にするだろう。
八子は、桜木和歌子はセンスがいい男選びをすると思い込んでいた。
その理由は、和歌子が高校生の17歳の頃から、
付き合う男が、30前後の大人だったことだ。
そしてそれが援助交際などではなく、本物の純愛だったのだからすごい。
相手には妻子がおり、男は和歌子が成人するまで、手を出さないと約束
したりするのだ。和歌子が成人する頃までには、自分も妻子と別れるつもりだ。
それまで、お互いを大事にして待っていよう。和歌子、君は待てるかい?と、
口説く男に、八子も憧れた。
自由にならない時間と痛みは、和歌子を驚くほど大人にした。
居酒屋には、まだ客がまばらで、和歌子のテーブルはすぐに分かった。
「外町さん、私の友人の大尊寺 八子です」
「初めまして。外町 小路です。もう、小路と呼んじゃってください」
「はあ・・・」
和歌子が腕時計に目を走らせる。
「今日、岡本さんから連絡ありました?」
「なかったですね。俺は今日一日ぶらぶらしていたけど」
「じゃあ、飲み始めていましょうか?」和歌子が、ビールの中ジョッキを頼んだ。
取り止めのない話をしながら、ゆっくり空けるビールジョッキだったが、2杯、
3杯と積み重なって行く。時間は二十二時時を回った。
「私帰るわ」ちょっと気落ちした様子で、和歌子が言った。
「岡本さんは、これなくなったの?」
「携帯にかけても、出ないのよ。じゃあ、お二人はゆっくり飲んでって」
「ちょっと、和歌子」
「子供じゃないんだから、二人でいられるでしょう?じゃあね」
笑ってはいるが、だいぶ機嫌が悪い。
「じゃあ、またね」和歌子は返事もせずに、居酒屋を後にした。
残された外町 小路は、なかなかいい男っぷりだった。私は、綺
麗な顔の男に弱い。
「外町 小路という名前は、本名ですか?」と、私。
「んなわけないでしょ。こんな面白い名前、ハハハハハ」と、外町。
・・・それほど面白いってわけでもありませんけど・・・
「大尊寺さんも、芸名でしょう?」
「いいえ!芸名ではありません。本名です」
「マジで? 負けた〜!」
「いえ、負けたとか勝ったとか競争するようなことでは」
「僕のは芸名だからね。言っておくけど、本名は聞かないってこと
にしておいてよ」
・・・・・腹が立つな〜 和歌子の彼氏への疑いが頭を持ち上げた。こ
んな男と友達だなんて。
「大尊寺は、一人暮らし?」
急に呼び捨てですか・・・!
「ええ、まあ」
「俺を養ってくれない?」
「はああああっ?!」
「俺を養って損はないよ」
「なんでですか?」
「俺がいい役者だからさ」
「・・・・自分で言うんですか?」
「こう言うことは自分で言わなきゃ。自分を一番知っているのは自分だからね」
「自分の評価が一番あてにならないって思いません?」
「大尊寺は、自分評価他人任せなんだ」
「私そろそろ帰ります」
「俺が君を評価してやるよ」
「結構です」
「自分の価値を知らない女」
「それで結構です」
「俺は、君の価値を知っている、ただ一人の男」
あまりの陳腐さに笑ってしまった。外町も笑った。
一緒に笑うと、私の中の他者への厳しい評価の基準が崩れ落ちる。
「調子いいったら」
「そう?本気なんだけどな」
「口説き下手」
「うん、俺ってそう。役者なんだけどな〜」
「嘘八百を言うからだと思う」
「正解」
心の隅から警告の声が聞こえる。八子、気をつけるのよ
今日会ったばかりじゃない。初対面で、俺を養ってくれなんて言う男よ。最低よ。
八子にとってこの警告が聞こえ出した時は、もはや止めるに止められない
何かが始まってしまったということだ。
要するに、八子はこのとんでもなく図々しい役者を、
好ましいと思い始めているということなのだ。
「じゃあ、これで」
「送らないよ」
「送ってもらいたいなんて思っていませんから」
外町は軽く敬礼の真似をした。
支払いは済んでいた。
和歌子が払ってくれたなんて。
それにしても、和歌子の恋人はなんで来なかったのだろう?
和歌子は大丈夫か?