私が家を建てるまで
登坂先生のアトリエにアシスタントがさらに二人やって来た。
「登坂先生のアシスタントを、10年勤めさせていただいた利根川です」
「私は松林と言います。同じく10年、ここで修行させていただきました」
だけど・・・と、八子は思う。どんなにアシスタントを増やそうが、登坂先生の56ページは
変わらないではないか。
登坂先生は、1枚に下書きを書き入れると、ペンを入れる。
徐々に進んではいるのだが、夜の8時の時点で仕上がっているのは10ページ。
あと、46ページが残っている。
しかし、なんで56ページもの原稿を一晩で仕上げるなどと言う事態になっているのだろう?
「寝るわ」
突然、登坂先生が言った。
細長い仕事部屋をパーテーションで仕切り、ソファーとテーブルを置いたお待ち部屋と呼んでいる部屋から、
泊まり込みで原稿を待つ編集者戸川くんの立ち上がる気配がした。
「先生!頑張ってください!!」と、戸川くんの悲痛な叫びの中で、登坂先生は先生のお昼寝ソファーに横になり、
次の瞬間にはもう安らかな寝息を立て始めていた。
入社1年目の編集者戸川くんは、登坂先生の担当になって、この56ページが初仕事だという。
戸川くんは、会社で登坂先生の原稿を待つことの不安に耐えられず、アトリエにやって来た。
登坂先生は、業界では原稿が遅いので有名らしい。
新人編集者でありながら、原稿をかならず間に合わせて見せる。登坂先生には責任を持って仕事をさせてみせると言う
意気込みで鼻息が荒くなっている戸川くんに同情しないでもなかったが、戸川くんが
「どうしてくれるんだよ!こっちの身にもなれよ!!」と言わんばかりの大きいなため息をついたので、
八子の同情心は掻き消えた。
するとクミちゃんが戸川くんに言った。
「20分、寝かせてもらえませんか? そうすれば、登坂先生は必ず復活しますから」
「そんなこと言ってさあ、落とされでもしたら大変なんだよ。責任取らされるのはこっちなんだよね」
「登坂先生は、大丈夫なんです」
「・・・・・・・・どうしてそんなことが言えるのさ。56ページなんだよ」
「私が登坂先生に魔法をかけますから」
クミちゃんは真顔だった。
戸川くんは脅しの威勢を失って、「魔法?」と呟きながらパーテーションの向こうに戻っていった。
20分が経った。
「先生〜〜〜〜〜〜〜〜 起きてくださ〜〜〜い」
クミちゃんの甲高い声が響く。
ガバッと起き上がった登坂先生が、言った。
「クミちゃん、目覚まし」
「はいっ」
クミちゃんが差し出したのは、大きなボールに入ったアイスクリーム。
登坂先生は、それを大きなスプーンんでガッシガッシと、食べ出した。
「あれはね、登坂先生の大好物、クミちゃんお手製のアイスクリームなのよ」
すみれさんが八子に囁いた。
「さあやるか!」
それからの先生とアシスタントの連携プレイは見事としか言いようがなかった。
登坂先生のペン先から生まれる、流れるような線には迷いがなく、
アシスタントたちの達者な絵と、写真をコピーしたものを、切ったり貼ったりして
効果的な背景を作り上げて行く。その速いこと!
朝10時58分、56ページの原稿が仕上がった。
反対に寝落ちしていた戸川くんが叩き起こされて、唖然とした面持ちのまま、原稿を抱えて
アトリエを後にした。
「先生〜〜〜〜〜〜〜〜よかったですね〜〜〜おめでとうございます〜〜〜」
「クミちゃんの魔法のお陰よ」
昨日から今朝にかけての、アトリエでの展開はまさに魔法だった。
そして八子はクミちゃんの存在の大きさを思い知った。
クミちゃん、高田 久美子は、登坂先生がまだ駆け出しの頃からのファンで、絵が描けなかった
クミちゃんは、それでも登坂先生の役に立ちたいと、料理学校に通って調理師免許を取得した。
さらに栄養学や薬膳料理、マクロビ等を学び、幾つものライセンスを手にして、登坂先生のアトリエに来たのだという。
「薔薇の花、描けるようになったわよね?」
クミちゃんの毒のある言葉と受け取った八子だったが、それは登坂先生を思う
クミちゃんの至極真っ当な言葉だったのだと思えた。
八子は、登坂先生の自宅を初めて見た。
56ページの仕事が終わり、午前11時に昼食を取って、それぞれ布団やベッドに入った。
眠くないな〜、他人の布団ではとっても眠れないわと思っていた八子だったが、気が付いたら
夕方の6時を回っていた。
クミちゃんは夕食の支度をしている最中だった。電話が鳴った。
「はい。ああ、お母さん。そうなの。すぐ行くから待ってて」登坂先生は電話を切ると、
「クミちゃーん、ちょっと行ってくる」と声をかけた。
「え〜〜〜〜〜〜〜〜っ 先生〜私が行けたらいいんですが・・・」
「クミちゃんは夕食の支度をお願い。もうすぐうちの人と、野乃が帰ってくるから」
「はい」
「大ちゃん、悪いけどちょっと来てもらえるかしら?」
登坂先生について行くと、道路を挟んで2階建ての鉄筋コンクリートの
建物があり、それの1階部分はかつては店舗が3つほど入っていたような作りになっているのだが、
今はくすんだベージュとも、ピンクともつかないシャッターが降りている。
裏に回って行くと外付けの古い階段があり、錆だらけの心もとない手すりに手をかけるのを
ためらいながら上がって行くと、ビニール袋に入ったゴミが積まれて山になっていた。
テレビで度々見かけるゴミ屋敷と同じだ。八子の脳裏にあるその光景が今、八子の目の前に広がっていたるのだ。
あんなに美しい絵を描く人物が、ゴミ屋敷に住んでいる?それは、八子に大きな衝撃を与えた。
「母なのよ」登坂先生は、ため息混じりに呟いた。