私が家を建てるまで
「相手は誰なの?」
「う〜〜ん」
う〜〜んて、なに?
「私、産んで育てるわ」
どこまで軽い人間なんだと、八子の中に怒りが込み上げてきた。
「十三、人間の命が生まれてくるのよ!犬や猫の子を飼うのとは違うのよ」
八子は、嫌っていたはずの世の中のおばさまたちが口にしそうなセリフをはいた。
十三は言った。
「私ねえ、ずっとずっと、いつ死んでも別にいいやって思いながら生きてきたんだ。
将来なんて考えた事もなかった。
私には一都のように純粋に好きなものがない。八子みたいに才能もない。
七世みたいな素直な愛されキャラでもない。
何にもないんだなって思ってきた。でもさあ、医者に妊娠を告げられた時、
ぱあっと目の前が明るくなったんだ。だって私のお腹の中に、生きようとしている人間がいるんだよ!
その小さな人間の前には、未来しかないんだよ!一つも過去を持っていない命がいるんだよ!
本当に新しいんだ。って思ったら、私の未来の扉も開いたように感じたの。
私本当は、この話をしに来たんだ。八子に聞いてもらいたかった。聞いてくれてありがとね」
そう言って十三は帰って行った。
その翌日、「八子、ちょっと来れないかな」七世から連絡が入った。
「なんなの?みんなどうしたの?」
実家に急いだ八子が玄関ドアを開けると、そこはすでに修羅場と化していた。
「では、母さん、今までお世話になりました」
「一都!なんで母さんに相談もしないで勝手に決めるのよっ!」和枝がヒステリックな声をあげた。
「僕は何度も母さんに話そうとした。でも、母さんはまともに取り合ってくれなかったじゃないか」
「お前は人のせいにするの?」
「は?」
「こんな大事なことを一言も話さなかったくせに、私が取り合わなかっただなんて。
大体一都には一人暮らしは無理に決まっているでしょう?」
(いえいえ、お母様。一人暮らしじゃあありませんから)八子は腹の中で言った。
「私は許しませんから」
だはははと笑いだしたのは十三だった。
「一都はもうすぐ30だよ。母さん。おじさんだよ。
一人暮らしが無理なんて、笑っちゃうよ!どこまで一都を子供のままで置きたいの?
それ、自分のためだよね。そろそろ一都の世話は、若い女性とバトンタッチしたら?」
八子は耳を疑った、ヘラヘラと、争い事からいち早く逃げ出す十三が、我が家の支配者である母親に
こんなことを言うなんて!
和枝の目の色が変わった。黒い瞳が仄かに色を失って灰色に見える。
和枝が本気で怒った時の目の色だ。和枝の子供たちは、この目で見つめられると震え上がり、服従してきたのだ。
和枝はその目で十三を見すえて言った。
「偉そうなことを言ってるんじゃあないわよ! だらしなく生きてる人間がっ」
一都が大きなリュックを背負った。
「じゃあ、僕はこれで。十三、ありがとう。僕が母さんに言いたかったことを言ってくれて」
一都は母親に向かい合うと、
「母さん、僕はやっと自分の道を見つけた。でも、母さんを連れて行くことはできないんだ。
これから僕は、母さんの守りの手から離れて、たくさんの経験をして行く。
母さん、ありがとう」
一都の落ち着いた声を聴きながら、和枝はただ立ちすくんでいた。
一都が玄関ドアを閉めた。
今日、一都は本当に独り立ちをしたのだ。
バラバラの6人家族だが、それでも大人として生きる道に踏み出して行く家族を送り出すのは寂しい。
八子はふと、自分が家を出た時、誰かが寂しいと思ってくれていただろうかと思った。玄関に一人立って
見送ってくれた父の姿が脳裏に浮かんだ。
パタンと音がして、和枝がキッチンの扉を閉めた。聴き慣れた、静かだが断固とした音だった。
和枝は自分の部屋を持っていない。与の助と共有の寝室があるきりだ。
だから、和枝は寝る時以外、キッチンで過ごす。
小さなテレビを置き、カウンターでコーヒーを飲み、家計簿をつける。ここが和枝の
全世界だった。この場所で、30年家族のために料理をしてきた。
でも、外食を愛する十三。いつ帰るのかわからない与の助。学生寮に入っている七世。
5ヶ月前に出て行ってしまった八子。たった一人、この家から出ては生きてゆけないだろうと思われていた一都は
今日、出て行った。
今、母親に会いたくないと八子は思った。
いつの間にか姿を消していた十三の後を追って、十三の部屋を訪ねた。
「あはははは」
「十三、何を笑っているの?」
「だってさ、かっこよくね?一都はさ。あ〜あ一都がいなくなっちゃった」
「十三は寂しいの?」
「寂しいさあ。一都が好きだったし」
「でも一都って、あまり口を聞いてくれなかったじゃない?」
「八子はさあ、一都にお前はダメなやつだとか言われたり、馬鹿にされたり
したことある?」
「・・・ないけど。それは一都は他人に興味がないからじゃない?」
「違うと思うな。一都が興味がないのは、他人の変な考えにだよ。一都はいつも人を見ている。
でも、その人が自分の考えやなんやかやをぐたぐた言い始めるとさあ、いなくなるんだ」
八子には覚えがあった。
八子は漫画は描けるが、図工が苦手だった。
小学校3年の時、マッチ箱でマッチの街というものを作って夏休みの宿題に提出したが、
余りのなっちゃ無さに先生はやり直しを命じた。
「大尊寺さん、夏休みの宿題の展示に、お父様、お母様をお呼びして、
見ていただくんですよ。もっと頑張りましょう。
今日は木曜日ですから、今日から作り始めて、来週の月曜日に
持っていらっしゃいね」
八子には自分の作品の何が悪いのかよくわからない。
一生懸命に作ったのだ。
母にはやり直すことになったなんて言えない。
言ったら、なんでだとしつこく聞き、つまらないものを作るからよと言うだろう。
八子は今その言葉は耐えられそうにもなかった。
涙が溢れてきた。その時、中学3年だった一都がどうした?と聞いてきた。
やり直しのことを言うと、一都は「やるよ」と言ってマッチの空箱をたくさんくれた。
大小様々にあるマッチ箱が綺麗で、八子は目を見張った。
それは、一都のコレクションだった。一都が貰う相手は父親。与の助は色々な喫茶店の
洒落たマッチをいつも持っていた。
八子はあまりに綺麗なマッチの箱だったので、色紙を貼らないことにした。
箱を縦に積み上げて窓を切ろうとした時、一都が
「面倒でも手を抜くんじゃないぞ。
始まりをきっちりやると、後が楽ちんになるんだ」
と、言って定規を持ってきてマッチの寸法を測り、鉛筆で丁寧に窓の印をつけた。
そして窓に穴を開けるのではなく、一辺を切り残して開戸の窓にし、
その扉にした部分からさらに小さな四角を切り取って、
開けた穴に、オレンジ色のセロハンを貼り付けた。
細かい作業だったが、一都はプラモデル製作の腕前を発揮して
きれいな窓を作り上げた。
「後は八子がやるんだぞ」
「出来ないよ〜」
「出来る!コツは、時間をかけて丁寧にすること。丁寧って、素晴らしいんだぜ。
なんでも出来て しまう魔法の力なんだ」
八子の作品は、優秀賞を獲得した。
最初のマッチの街は、色鉛筆で塗られた川を挟むように、
四角いマッチ箱に色紙を貼り付けたものが5〜6個が並んでいた。
それでおしまいだった。
だが、新しく作り替えられた街には、色々な模様のマッチ箱が置いてあり、窓が開いたり閉じたりしている。
窓の色はオレンジで、マッチの街は、夕焼けを映しているかに見えた。
そして、公園もあり駅もあった。小さな電車も走っている。
町の名前は「どこかにきっとある町」
「大尊寺さん!あなた、素晴らしいわ。素敵な作品ね〜」
先生が、赤いリボンに結んだ金色のメダルを、首にかけてくれた。
八子が図工で脚光を浴びたのはこれが最初で最後だったが、八子は
今でも丁寧にすることが、時間を救うと信じていた。
確かに、一都はいつも寄り添ってくれていた。
自分にだけではなく、兄弟みんなに。
「あ〜あ。私も出て行こう」
十三がぽそりと言った。