数寄者、好事家。傾奇者、古玩迷(クーワンミー)、風流人、粋人、 趣味人、マニア、 ヲタク。、、、、、ハグレ者たちのワンダフルワールド
数寄者とは、主として茶道などの芸道の愛好家で、物好きな人、珍しいものを集める蒐集家、
好事家とは、物好きな人、珍奇なものを集める人、
傾奇者とはカブキモノであり、目立ちたがり屋、奇矯な服装や行動で飛びぬけている人、
ま、
いずれにしても、
このくらいでないと、
骨董など趣味の世界では
「遊戯三昧」の
遊びはできませんね。
骨董の世界とはまさに「遊戯三昧」の世界であり、
一般人からしたらただの汚い壊れた壷に数寄者はそこに神を見る(見立てる)
という完全な「三昧境」を
求道する世界ですからまさに無価値の価値化というちゃぶ台返しの世界なのです。
同様に以下のような「語彙」が意味するところも同じです。
古玩迷 クーワンミー 中国語で「骨董狂い」の意味です。
風流人
粋人
趣味人
マニア
ヲタク
これらの言葉の意味するところはどれもおんなじですね。
役にも立たない汚い古物品を
高いお金出して
眼の色変えて、、蒐集する人のことですね。
まああえて
言わせてもらえば
数寄者とヲタクでは
その志?の高さからいって
つきとすっぽんでしょうけどね?
古玩迷とは中国語で
直訳すれば、、『古いものが好きで玩弄?して迷う?』、、とでもいうのでしょう。
まあ中国人は昔から
こういう古いものを愛でるという点では
国民性からしても大好きなのでしょうね。
中国人は骨董品とか無類の 大好き国民ですよ、
でも共産革命でそれも抑圧されて古いもののぶっ壊しを散々しましたよね?
でも経済が発展してみると、、
先祖返りです。。
それがこのところの経済発展で
火がついたという感じですかね?
それにしても
クーワンミーとは
言いえて妙ですね。
ヲタクなんて無粋?なネーミングよりも
素晴らしいじゃないですか?
日本の
数寄者というのも、、捨てがたい言い方ですよね?
数寄とは、、また、、粋にも通じることでもあり
傾奇、、にも通じるでしょう。
それはまた
古物遊行の三昧境でもありますね。
遊行とは
行脚でもありますし、、
古物行脚と言い換えてもいいでしょう。
つまり
これらは
その根底で
通底しているということですね。
ただ、、
マニアとかヲタクとなると、、、
その精神的な次元というかベクトルは、、「美学」にもとずいていませんから
かなり異質、、というか別次元の物でしょうね。
端的に言えば、、マニアとかヲタクは 奇妙な収集癖オンリーですからね。
そこに美が介在しませんね。
美の追求が皆無ですね。
世界に1枚しかない古切手を1億円出して買う、、、
それは古美術的な意識からは出てきませんよ。
だってそうでしょ?
薄汚れた古切手のどこに美が有りますか? ありえません。
数寄者とか古玩迷というのは
美の追求者ですよ。
少なくとも、、ただ物珍しいから、希少だから、、集めるという、マニア心理ではないです。
風流、、、脱俗、、、行脚、、、粋、、、幽玄、、、わびさび、、、
そういう世界の追求、、
それこそが数寄者の世界ですからね。
でも?
さて?
結局?
どうなんでしょう?
モノ集めって結局
やがて夢覚めれば
言いようのないむなしさ。。しか残らない?のでしょうか?
コレクター
収集家
ブンダーカマー(なんでも収集家)
好事家
粋人
これらの人々は、、、
あるもの(骨董品とかマニアものとか)に惹かれて
そのものを集める。
そこには様々な理由があるのでしょう。
不肖。私もモノ集めが好きで
いろんなものを買い集めていますが
夢中になっているときはいいんですが
時としてふっと我に返ると、、
言いようのないむなしさに囚われることが多いですね。
「おれはこんなどうでもいいようなものを買っていていいんだろうか?
もっと他に人生ですることがあるんじゃないのか?」
そういう思いは常について回りますね。
あれほど惚れ込んで買ったはずのコレクションが時として見るのも嫌になることもあります。
まあ、、、しょせん物は物にすぎません。
「命無き砂の悲しさよ、握ればさらさらと手より落つ」啄木
まさにその通り。
どんなたかい骨董品でも
物はモノ、、ただのココロ無き物体にすぎないからです。
たとえ200万円の骨董品だとしてもそこに、心なんてありませんし、
それを擬人化?して見立てて?
愛玩対象にしてるのも
私たちの心の作用であるにすぎないからです。
つまり思い入れ、、思い込みにすぎませんね?
簡単に言えば、、
汚い人形を「なんとかちゃん」などと名前まで付けて
愛玩する人形コレクターの心理とおんなじです。
いずれにしても、、
たとえばこの私のコレクションにしても、
私がある日ぽっくりと、死ねば、、、
これらのコレクションは他人にとってはただの「壊れ茶碗」「汚いお皿」にすぎません。
なぜなら他人はこんな割れた茶椀になんか全く心を寄せないからです。
あるいは、、、それは、、
どんな高級宝石でも
どんな高級家具でも
どんな豪邸でも、、、、
突き詰めればこの私の「壊れ茶碗」と同様でしょうね。
しょせんは「物」にすぎませんし
「物」は結局はむなしいのです。
じゃあ
百歩譲って
心があればいいのか?というと
心があればもっと事態は厄介です。
たとえば、、人間関係の難しさですよね。
心のある人間との付き合いってとっても大変ですよね?
だったら心無き骨董品に入れ込んで
見立てて
思い入れて
心を付与?しちゃった方が楽勝でしょ??
まあ
だから、、
世間の人間関係に疲れた、
コレクターたちは
心の無いモノ集めで避難?して
物に心を「思い入れ」で付与していささかの慰めを得てもいるんでしょうが。
でも
元気に動き回る操り人形だって、
もしも「操り人」が死んだら
パペットも不動になり、つまりは死ぬのです。
というか元の物体に戻るのですね。
次から次から買いあさる買い物依存症。
きりもなくコレクションを増やし続けるコレクター
この両者の病気?は同病でしょうね。
コレクターは死ぬまで買い集めます。
キリがありません。
もうここでよいという限度は無いのですね。
生きてる限りお金がある限り買い集める。
それがコレクター魂?です。
つまり骨董の沼です。この沼にハマったら、死ぬまで抜け出せません。
というかいずれは、沼に溺れて沈んで溺死です。
買うことをやめることは禁断症状の苦しみなのです。
買わずにはいられないのです。
買うとスーッと楽になるんです。
困った病気です。
でも買った後、
ふと
言いようのないむなしさに囚われるんです。
こんな古びた割れた使えない茶碗におれは100万円も払った。
これで本当にいいんだろうか?
ヒューっと冷たい風が心を吹き抜けるんです。
まあでも
世の中見渡せば
お酒におぼれる人もいれば
女色に溺れて破滅する人もいる
ギャンブル依存症もいれば
薬物中毒もいる。
そういう真の?ハグレ者のウヨウヨいるのがこの浮世ですよ。
そう思うと
開き直って
別に骨董にハマったっていいじゃないか、
刑法にふれるわけでなし、、
モラルに反するわけでなし
、、、、、、
そうだ
そう思えば
数寄者、
好事家。
傾奇者
趣味人
なんてむしろ
ずっとマシ?じゃないか?
、、って
思うのは私だけでしょうか??
かくして自己弁護しながら?
今日もまた
凝りもせずに
沼にハマり続けるのです。
それが宿命?
それが必然だから??
、、、、、、、、、、、、
ところで、、
俳句の世界も
実は
ハグレ者文芸の典型世界なのです。
俳句とはハグレ者そのものです。
その詳細についてはこちらでどうぞ↓
https://ncode.syosetu.com/n3504dh/