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有能な者ばかりの世界と愚者たる「わたし」

作者: 毎路

 幸福について考えてみたことがある? 温かい腕に抱かれて、何の心配もなく眠り、好きな時に泣いて親を呼びつける。人生で最も幸福で、安楽な時は、間違いなく赤ん坊の時だ。そして人生二度目である自分は、余すところなくその時分を謳歌してきたと自負している。


 お腹が空けば泣き、お腹がいっぱいなら泣き、ベッドに下ろされれば泣き、両親が側にいてくれなければ泣き、何がなくともとりあえず泣いた――構ってほしくて。好きな時に寝て、好きな時に起きて泣いた。必ず両親のどちらかが、あるいは両方が気付いて抱き上げてくれた。抱き上げてくれなければ、抱き上げてくれるまで泣き続けた。おろおろと右往左往するのを見て嬉しくて泣いた。唯一無二の、幸福な時間だった。こんなにも振り回されて大変な両親を目の当たりにして、いずれ大きくなった暁には、必ず親孝行をしようと思いながら、母の胸で眠った。


 成長してその世界が、余りにも高度に発達し、自分があまりにも「不出来な子」であると気づくまでは。


 前世の記憶はおぼろげで、思い出せるのはつらいことばかり。きっと前世の自分は、楽しいことや嬉しいことよりも、つらいことや苦しいこと、嫌だったことを繰り返し思い返して、それを引きずってきた人生なのだろうと思う。そして、きっとそれほど長くは生きていない。仲の良い友達の名前は忘れているのに、虐めてきた同級生の名前はフルネームまで覚えている。両親の顔は忘れてしまった。声はなんとなく覚えている。


 こんなに悲しいことはない。


 それでもきっと、この前世の記憶を覚えているというのは、教訓として残されたからだと思う。

 そのように自ら悟るほどには、自分は賢い人間だと思っていた。

 ずうずうしくも、他の人よりも一歩抜けたアドバンテージが自分にあり、よりよい人生にしていけると。けれども――


「頭脳は人工知能かってくらい良くて、身体能力も人間やめてるレベル、みーんな容姿端麗で、人格まで聖人並ってどうなの?」


 前世での人類は失敗作で、この世界の人類こそが、神の傑作なのだ――と言われても「はあ、そうでしょうねえ」と首を垂れるしかない差があった。


「こういうときって、例え何が優れていたとしても、優しい心とかで世界を救うなんてことが定番だと思ってた……」


 あまりにも自分は不出来だった。

 人格的にも、知能的にも、身体能力的にも。


「いやでも、顔! ………この顔は、まごうこと無きこの世界産だもんね!」


 この世界では、美男美女にしかあったことはないが。

 毎朝鏡に映る自分の容姿も結局は平均止まりではある。


 贅沢は言うまい。

 平均が一つあるだけでも僥倖というべきだ。


「麗しの父さんと母さんから受け継いだ見事な美少女だし!?」


 退廃的な美しさを持つ父から、生糸のような砂色の髪を。

 植物の女神を彷彿とさせる柔らかな美貌を持つ母から、木苺のような赤い瞳を。


 二人に共通する、抜けるような白い肌を。


 それぞれ取り集めて来た容貌は、前世の基準からすれば、控え目に言って「目が潰れるほどの美少女」であるに違いない。素材がぴか一だ。この世界のほかの人と同じように造作が美しいと思う。つまり、十人並みといっても差し支えない筈、なのだけれども……。

 学校の手洗い場の鏡の前に立ち、眼鏡をはずしてみる。

 端正な顔立ちも、自信の無さからか、暗い表情をしていてひどく印象が薄い。 


「…………内面って、こんなに関係あるんだな」


 にじみ出る内面なんて、嘘だと思ってた。

 頬を持ち上げてみても、ここ(・・)では上手に笑えない。


 指で髪を梳き、柔らかく砂色の髪を何とか三つ編みにして結う。

 滑らかなのであちこちはみ出ながらも、なんとか1本の束にして、命綱の眼鏡を掛ける。


「…………ずぼら女子か」


 せっかくの美少女が台無しだ。

 しかし、この恰好でもこの世界において、馬鹿にしてくる人は一人もいない。


「薄々感じるけど、美醜の頓着ないよね………誰々が美人って聞いたことないし」


 前の生のことはほとんど覚えていない。

 けれども、そこ他と比較して自分が優れていたものはきっとなかった。


 ………比較、比較、比較。

 そして今、自分は圧倒的に上の存在と比較している。

 おこがましいその事実に目をつぶる。


 パン、と両手で頬を打つ。


「気合いだ、今日も何とか乗り切る!」


 惨めな気持ちを手洗い場で整えたら、眼鏡をかけ、誰もいない教室へと向かう。


 継ぎ目一つ見えない通路には、四角く切り抜かれた窓が等間隔にある。

 絵画のような真四角の窓から、ラベンダー色の空が見える。

 そしてどの窓からも見える――天を穿つ神木。


「今日も、たくさんいるな……」


 黄金色の小さな光が大樹の枝先に浮遊している。

 そこから目をそらした。





******



 この世界には、転生した世界でよくあるような魔法はない。ただ、不思議な概念というか、信仰というか――生きている神話というのは存在する。建物から出れば、どこからでも目にすることができる巨大樹が地上から天を貫いている。


 前世では、目に見えない「神様」や「仏様」を信仰している人がいれば、目に見えないものは信じない人もいた。でも、目に見える超常現象を信じない人はいるだろうか。


 この世界の人間はみな、前世での人間よりも、遥かに高度な知性と人格、高い身体能力を持っているにもかかわらず――あるいはそのために、目の前で起きている現象を驚く程、抵抗なく受け入れている。


 ただ『世界樹』と呼ばれる巨大な樹。


 淡い燐光を纏う神木は、ざわめいて天空を支えるように伸びている枝に、小さな白光が雫のように鈴なりに宿る。その一つ一つの輝きはまるで呼吸するかのように光を強めたり弱めたりする。ただしその一つ一つの輝きが消えることはない。その意味を、この世界の人々で知らない者はいない。


 この世界では魔法などは存在しない。

 けれども、科学はSF映画のように高度に発達している。

 人格すらも、優れている。


『アイゼラン・ドゥイア』


 今世での名前だ。

 自分の席につくなり、宙に自分の名前が浮かぶ。

 同時に出席がとられている。


 教室には自分のほかには誰もいない。

 席について俯いて時間が来るのを待つ。


 開始時間の間際に、同級生たちが各々席についていく。

 皆、系統違えども、美男美女だ。

 たまにその中に、スバ抜けた美人もいる。そして、その逆はない。


 定刻には、空いている席は一つもなくなっている。

 生徒が全員席について、数秒後に灰色の教師が白い教室に現れる。

 ホログラムで、教師は他の場所にいる。


 挨拶はなく、すぐに教師が監督する時間が始まる。

 これがこの世界の、所謂『授業』だ。


『今送った問題を解きなさい。解答する生徒は当てたとおりです』


 受信した問題を開くと、解答者に自分の名前があった。

 それは最終問題で、同級生らが前の19問を解凍する間も考える猶予がある。

 それは自分の、あまりの不出来さを配慮してのものだろう。

 しかし――現実は無常だ。


『ドゥイア、答えなさい』


 解答の番が3分もしないうちにやって来た。

 担当する問題文をやっと急いで全部目を通したところだった。

 内容を理解するにも至らない。


「………わかりません」

『そう。では――ダンニプ、答えなさい』


 小さくなっていうと、教師は少しの感情も見せず、代わりの生徒を指名した。

 生徒は席についたまま解答を送信して、それが教壇の前に表示された。

 もちろん他の生徒の解答と同じく、すべてが正答。


 羨望の目でそれらの解答を見上げる。

 どうしてだろう……。

 どうしてこんなにも美しい解答ができるのか。


『では、今送った計算式を出来次第、返信しなさい』


 深呼吸して、強く瞬きをする。

 まだだ。まだやれる。


 送られてきた計算式を、必死で読み取る。

 全部で80問ある。

 数字は二つの記号によって、1から9を表している。

 簡単な、1+2という問題文も、全く異なる記号によって表記されている。


 脂汗が額に滲みながらも、5問まで解けたところだった。

 解答用の個人パネルには解答不可の表記が出る。

 制限時間の5分をゆうに10分も過ぎていた。


『その状態で返信しなさい』

「………はい」


 もちろん、全部解くことができなかったのは、自分だけだ。

 顔から火が出そうだった。

 ほかの同級生たちは既に手を止めて待っている状態だった。


 教師も、同級生も「わたし」の解答を制限時間の倍以上待ってくれていた。

 それでも出来なかった……。

 出来る気も、しなかった。


 俯いて唇をかみしめる。


 残りの時間も、指名されて解答したり、出来次第返信したりする。

 指名、解答、送信という教師とのやり取りを唯一途切れさせたのは、自分の時だけ。


 しかし、教師にも、他の同級生にも、失望や蔑視、呆れなどは全くない。

 淡々と、あるがままを受け止めている。

 出来ない自分を、のけ者にすることなく、苦しくなるほどに平等に。

 そして順番がくればまた自分の解答の時間になる。

 いっそ飛ばしてくれれば、と思うほどに、公平に。


 当てられた解答欄は、順番が来ても空欄だ。

 この教室の皆が知っているだろうに、律儀に、機械的に淡々と。

 自分は、この流れの中で、たった一つ突き出た邪魔な石だ。


『ドゥイア、答えなさい』

「…………わかりません」


 理知的な女教師のクリーンな声がフラットに響く。


『では、ダンニプ。答えなさい』


 自分は再び俯いた。

 男子生徒が解答し、また途切れることのないサイクルで時間が過ぎていく。

 今回の周期的に、自分の次がダンニプという男子生徒が当たるらしい。


 居たたまれず、申し訳ない思いが沸く。

 同級生たちは、どの問題が当たったとしても、構わなかったとしても。

 果ては、いつも通り「わたし」の番で問題の解答者がずれるので、それを見越してすらいるだろう。


『これで監督は終わりです。午後からは自主学習に努めなさい』


 ホログラムが消える。

 灰色の髪をきっちり結い上げた怜悧な美人の教師は退出した。


 ほかの同級生たちが立ち上がり、各々で動き出している。


 気を遣っているのか、分からない。

 ただ、意識されているのを感じた。


 腫れ物に触るかのように、意識だけされて、話しかけるのを戸惑われている。

 そんな気さえした。


 そんな風に周りを想像するのも……苦しくて、悔しくて、情けなくて。


 ああ、今日も今日とて何もできなかった。

 しかし授業が終わったことで、ほっとする自分も確かにいた。

 そんな自分自身に何度も何度も嫌気がさす。

 傷ついているような顔をすれば、聖人のような同級生たちを困らせるだろう。

 奥歯を食いしばって、この世界では珍しい紙でできた教科書とノートを鞄にしまう。


 この世界で自分はこの下はないとだろうというレベルの劣等生だ。


 使い込まれて手垢の付いた教科書を眺める。

 よくもまあ、今まで進級できたものだと思う。


 多忙な父になんとか時間を取って、勉強を見てもらった。

 休職中の母に、付きっきりで教えてもらった。

 そうしてようやく、テストの点数が、二桁に届くようになった。


 前世であれば、もちろん落第だ。

 しかし、この世界では、赤点という概念がそもそもない。


 ここまで出来ない生徒を想定されていない。

 追試もなければ、留年もない。

 この世界の人間を、異常なレベルで発達した知能だと「わたし」が驚くのと同様に、この世界の人間は「わたし」のことを、異常なレベルで出来ないことを驚いているのだろう。


 ただ、こんなに不出来な生徒がいなかった。

 これが、自分のような最底辺の劣等生が進級してきた理由というわけだ。


「留年というシステムがなければ、留年しないという………」


 編んだ髪を撫でた。

 これは願掛けだ。

 叶ったら、肩上までバッサリ切ってやるつもりだ。

 そういってもう五、六年が経っている。


 こうした自分の決意も実行しきれたためしがない。

 長いこと叶わないために、髪の長さは腰の辺りを過ぎたことがあった。

 それで背中を覆う程度に、既に何度かハサミを入れている。


「帰ろ…………」


 それでも決意を忘れないために、毎朝編んでいる。

 ただ、腰に届きそうになる度に、何度も髪を整え、自分の決意を裏切り続けている。


 その度に自信が無くなっていくのだろう。


 もはや、自分が心から自信をもって言えることは、こんな自分でも――両親には愛されているということだけだった。


「帰らなきゃ」


 両手で重い鞄をしっかりと持つ。


 学校の教師が監督する時間は、昼前の40分に過ぎない。

 あとはすべて自由な活動時間だ。

 学校に残ってもいいし、帰ってもいい。

 昼休みには、学校から家に帰って昼食を食べ、そのまま戻らなくてもいい。

 あるいは、学校にいたままリフレッシュしたり、学友と昼食を取ってもいい。

 または自主学習や研究に割り当ててもいい。

 過ごし方は様々だ。


 とはいえ、生徒も職員も昼食を家で取るのは一般的と言えるだろう。

 教室内でも四分の三がそうなのだ。


 そして「わたし」も家に帰って昼食をとる。

 その後は、家で母に勉強を付きっきりで見てもらう。 

 その時間は、心の安息だ。


 ――優しい母を思い出して恋しくなった。


 重い鞄にふらつきながら席を立つ。

 この鞄も「わたし」にとっては凶器にもなる。

 自分の膝や脛に鞄をぶつけて青あざを作る人間はこの世界には「わたし」しかいない。


「ドゥイア、今帰るのか?」


 声を掛けられてびくっとする。

 振り返ると、「わたし」の代わりに解答した、セイラン・ダンニプだった。


 臙脂の髪に、日に焼けたような肌を持つ。

 色彩は派手だが、爽やかな美形。

 いかにも運動が得意そうな外見だが、そんなのは当たり前だ。

 運動神経は前世のオリンピック選手であっても比較にもならないレベル。

 以前、軽く助走をつけて4階建てほどの垂直の建物の表面を駆け上がっているのを見た。

 そして当然のごとくこの世界の人間なので、頭もいい。

 おまけに、性格さえもすこぶるいい。


「うん………」


 そんな彼は、他の学友たちと会話をしていたのに、わざわざ声をかけて来た。

 解答できずに落ち込む「わたし」が気がかりだったのかもしれない。

 良心の塊、善意の結晶か何かである彼らを、今は視界に入れたくない。

 そうしなければ、いっそ……憎しみすら感じかねない。


「帰ろうと思って」


 絞り出すように答えた。

 意識して呼吸を深くする。


 この世界では、ただ声を掛けてきただけでは済まされない。

 何か意図があっての行動だ。

 気がかりなのは皆がそうだろう。

 ただ、話しかけてくるということは、それ以上かそれ以外に何かあるはずなのだ。


 その何かは、「わたし」の頭で考え付く程度のものしか思いつかないので、自然と被害妄想になる。


「その『教科書』も持って帰るんだ? また持ってくるの大変じゃない? ドゥイアってあんまり力もないだろ」


 ダンニプの周りにいた男子生徒も、こちらを見ている。

 涙が出そうだ。

 悪いけれども、言われたことを、脳内で勝手に悪意を継ぎ足して解釈しているので。


 誰か、もう生きてるだけで褒めてくれないだろうか。

 大した精神力だって。


 周りはみなそろいもそろって、聖人並みの人格者で。

 創作物の中にしかないような非現実的な身体能力を持っていて。

 人工知能もここまでだろうかというほどの頭脳を持つ。


 そんな世界で、ただ凡人として――いや、愚者として、滑稽だろうとただ生きていることを、誰か認めてくれないだろうか。


「うん……でも、ちょっとでも出来るようになりたいから」


 皆に追いつきたいとは口が裂けても言えなかった。

 涙声にならなかったことは奇跡だ。

 でも声は震えていた。


「…………あの、さ。俺が教えよっか?」


 悪意がないのは分かっている。

 悪意という、生物として生きるのに害にしかならない感情は、この世界の人間には存在しないようだ。


 少なくとも、「わたし」は見たことがない。

 ただ、「わたし」の被害妄想の中でなら、散々に見た。


 つまり、そういうことだ。


 いつになく早口で言った。


「ううん。いいの。わたし、何がわからないかもわからないぐらいで……だから、家で母さんにみてもらうよ。だから、ありがと、ごめんね」


「なんで礼を言って謝るんだ? 申し出ておいて、助けになれない俺が謝るべきだろ」


 聖人か。

 これが十六歳だ。

 野球と仲間たちに青春のすべてをささげていそうな風体なのに。

 青春の代わりに精神修行にその年月を費やしたのでは疑うレベルだ。


 ただ、一点――こんなにも無力な感覚を知らないこと。

 出来ないこと、追いつけないことの劣等感がわからないこと。


 でももしかしたら、そこまで、敏い同級生たちは気づいているのかもしれない。



 これぞ、疑心暗鬼。

 被害妄想の塊。

 本当に惨めだ。


 結局、人は自分の物差しで、他の人を測る。

 だから「わたし」はそんな人間だ。

 鏡のように人を見る。


 だから、「わたし」のこの外見はくすんでいる。

 整っているはずなのに、美しい筈なのに、前世の感覚を持つ「わたし」ですらそう思えない。


 それでいて同級生の男の子は、気遣う眼差しなのだ。

 悔しいではないか。

 このままではいけない、と呼吸をして、声を出す。


「その……気にかけてくれて、ありがとう」

「…………どういたしまして?」


 困ったように笑うダンニプを見ていられなかった。

 それじゃ、と声をかけ、鞄を提げて教室を出る。

 



 はあ、とため息をつく。


 学校は楽しくない。

 なぜなら、授業ではこの通りまったくついていけない。


 偶にわかるところが少しでもあると、はっと嬉しくなる。

 しかし、すぐに次の問題で手も足も出ない。


 ということで、前世の知識を生かして無双という野望はあっけなく潰えている。

 笑ってほしい。

 ……いや、もともと平均よりも目立とうとか、目立ちたいとか思ってはいない。

 ただちょっと楽できないかなとは考えていた。


 現実は甘くない。

 二度目の人生で改めて知った。


 異世界転生という人と比べると特別な経験ができた。

 だから今回の生で、運を使い果たしたのかもしれない。


 どん底のここから這い上がれる気がしない。


「もういい……帰るんだから」


 家に帰れば、優しい父と母がいる。

 帰る、帰ると言っておいて、ちっとも進んでいない。

 さっさと帰路に就くんだ、と教室を出る。


 ――と、曲がり角を曲がったところで、人が歩いてくるところだった。


「おっと」

「……え、ぐえっ」


 驚くべき身体能力によって、ぶつかる前にその相手は立ち止まる。

 ふつうなら、ここで両者が瞬時に立ち止まるか避けるかで、決してぶつかりはしない。

 けれども、この男子生徒の前にいるのはこの「わたし」だ。


 すぐ前方にいる相手を察知するのがぶつかる寸前だった。

 そして「わたし」の身体能力もここではあり得ないほど悪かった。

 立ち止まる相手に驚きながらぶつかりにいく格好になる。


 鼻を硬い胸板にしたたかぶつけて鞄を取り落して両手で押さえる。

 相手はすぐに反応したというのに、ぶつかるまで声も出ない。

 この反応の遅さ、前世なら普通だと思う。


「……ご、めんなさい」


 上を見あげると、怪訝そうな顔で見下ろして来る強面にぶちあたる。

 同級生でなければ、知り合いでもない。

 思わず自分の口からひきつる息の音が零れた。


「いや………」


 ぶつかった相手の方は、瞳孔を開ききってじっとこちらを見てきていた。

 しかしどう考えても自分が悪いので頭を下げた。

 誠心誠意。

 しかし、無言。

 恐る恐る顔を上げると、相手は眉根を寄せて物思いに沈み込んでいる。


 何事か。


 この足りない頭で推測する。

 そして、思いつく。

 この世界では、人とぶつかるなど、ありえないことなのだ。

 あり得たのなら、どちらか一方、あるいは双方に、何かの意味があると考える。


 ここで起きるあらゆるやり取りは、互いに事情や背景を理解してのやり取りなのだ。

 何の意図もない偶発的なこととは考えもしない………。


 逃げよう、と思った。


 最も短絡的な行動だ。


「そ、それじゃあ、さよなら!」

「………は? あ、え?」


 強面男子を置いて、鞄を腹に抱え、走ろうとした。

 しかし、すぐ行ったところで隣の教室から男子生徒が出てきて呼び止められた。


「ドゥイ」

「ユ、ユウラン………」


 出鼻をくじかれる。


「僕も帰るよ。一緒に行こう」


 隣のクラスから顔を出したのはミシュリ・ユウランという男子生徒だ。

 亜麻色の髪をした少年で、ライトグリーンの瞳が目に優しい。


 この世界での「わたし」の母方の従兄弟だ。


 ユウランは同級生と話していたようだったが、その相手とはすんなりと離れる。

 彼らの会話はとてもにこやかに弾んでいるように見えるがどこか冷たく感じる。

 

 学校は能力を計測する場であると同時に、社交の場でもある。

 有能な彼らには、何かしらの意図があって会話までしているようだ。

 今まで育ってきた過程でなんとなく気付いてはいた。

 けれどもそういった対象に、「わたし」が選ばれた例はない。


「ゆ、ユウラン、友達はいいの?」

「もう済んだからね」


 ほら、ドゥイアだけだと危ないからさ、とにこやかに傷を抉ってくる。

 思わず口許が引きつる。


 ユウランの言葉は、「わたし」がひとりでは問題なく下校できないことを指す。

 何度も練習を重ねて、今では通学は一人で出来るようになっている。


「ユウラン、ありがとう。でも」

「いいから、いいから」


 ユウランは社交的に「わたし」の手を取って通路を進んだ。

 ワンテンポ置いてからの誘導。

 人と歩くのすら上手だ。


 歩き始める前は何も言わず、少しの間、ドゥイアを見て待っていてくれる。

 そして一歩踏み出すのを見届けてから動き出す。

 

 別に、「わたし」が普通に歩けないということではもちろんない。


 ただ、ユウランに限らずこの国の人々は非常に機敏だ。

 いうなれば、予備動作の一つもなく次の動作に移る。


 それを異様と感じるか、優美と感じるかはともかくとして。

 前世の感覚で言うと、さり気なく人間離れしている動き、だ。


 違和を感じるが、動きが滑らかで美しいので見惚れてそれを忘れてしまう。

 歩くのすら離れ業。

 そんな人間離れした動作を、特別でも何でもないことのように繰り出す彼らに、「わたし」が手を引かれると、反応が一拍も二拍も遅れて、足を縺れさせてしまうのだ。


 この世界の人間は、考えもしないのだろう。

 自分の足に引っかかって転ぶことなんて。


 しかし、従兄弟のユウランは、慣れた様子で「わたし」の動作の準備を待っていてくれる。

 実のところ、いままで何かをするときの動作に予備動作が必要だということさえ知らなかった。


 自分でも気がつかなかったことを、ユウランは実によく観察している。

 どうして「わたし」がついて来られないのか。

 どうすれば「わたし」がついて来られるのか。


 答えをその場で瞬時に導き出して実行してくれる。


 それはとても有難いことだった。

 ………が、その的確過ぎる対応に空恐ろしさをも感じる。


 こんなことを考えているのも、すべて把握されているのではないか。

 そう思うと背筋が寒くなる。

 余計なことを考えていたせいか、階段で、自分の足に足を引っかけて転びそうになった。


「っと、大丈夫?」


 後ろに目でもついているのではと疑う。

 それほどにスマートに空いている方の手で肩を支えられる。

 あわや学校内で大転倒なんて悪夢のような状況にならずに済んだ。

 小柄なように見えて体幹が全くぶれないユウランの腕につかまり立ちして持ち直す。

 すんなりと適切な距離をとるが、手は離れないままだ。


 そんな要介護者のように扱うほどだろうか。


「あ、ありがと。……あ、あの、手はなんで?」


 微妙な心地になりながら、相手は身内なので恐る恐る疑問を口にしてみた。

 すると、ユウランはじっと「わたし」を見てからすらすらと言い放った。


「それ聞いて、また落ち込むんじゃない? 僕は別に、問いに答えるだけだからいいけどさ……だって、一人で歩かせたらやっぱりまたこけそうなんだもの、ねえ?」


 慮ったかと思えば、至極あっさりとユウランは、ダメージを負わせてきた。

 悪意がなければ、より鋭い刃物になる。


 気負いなく同意を求められて、目元が乾いた。


「そうだね……」


 何か合理的な理由がない限りここでは行動として表れてこない。

 つまり、手をつなぐという行動が、ユウランに必要だと判断されたわけだ。


 伊達にこの世界で生きていないので、そのくらいは察しが付く。


 理解から遠いところにあるような、SF染みた世界だ。

 けれども、目に触れる表面的なものでいえば、それほど違いはない。

 例えば、学生たちが通う、校舎の間取りはそれほど違いがない。

 紙媒体を置いているわけではないけれども図書館のような場所はある。

 食事を調理する人も配膳する人もいないが食堂のような場所はある。そして。


 ユウランにひかれて歩いていた足を止める。


 昇降口前に、成績優秀者が電子盤で表示されている。

 前回の試験の結果だ。


「まだ?」

「も、も、もうちょっと………」


 そこには目を疑うようなスコアが表示されている筈だ。

 読み取るのも一苦労だが。

 しかし、行き交う生徒はちらりと見ては淡々と素通りする。

 その目配せのような一瞬で、すべての結果を把握できてしまうのだ。


「知りたい名前を言ってくれたら、言うよ」

「うん………」


 当然、ユウランもすべて把握している。


 科学が発展すると、なんでも数値化したくなるというのは、偏見だろうか。

 この世界には、前世になかったような様々な尺度が既に存在している。

 そして各々の能力値を的確に測ることができる。

 だからこそ、測りたくなるものなのかもしれない。


 電子盤で表示されているのは、身体能力測定、演算能力、論理的思考が主だ。

 それらがさらに細かく計測されていて、名前の横に三十ほどの項目の数値が出ている。

 目がちかちかしてきた。

 もういいと言おうとすると、ユウランがすでに歩き出していた。

 察しの良さ、エスパー並。


「誰のこと知りたい?」

「えと、だ、ダンニプ」

「セイラン・ダンニプは上位者じゃないから載って無いよ」

「そ、そっか」


 当てられた問題を即答して正解する、優秀な同級生だ。

 けれども、この世界では、上位50人にも食い込まない。


 再び歩き出して校舎の外につながるいくつものベルトのうちの一つに乗る。

 硝子張りの動く通路に立って、家路につくのを待つ。


 ふいにユウランが顔を上げた。

 そちらにつられて顔を向ける。

 ラベンダー色の空に、虹色の彗星のような光が流れていく。

 その先は、世界樹の中心の輝く核で、光は吸い込まれていった。


 その光は、人魂だ。


「テツァリだね」


 テツァリというのは、同級生の誰かの兄だった気がする。

 何故知っているかと言えば、彼は公平で、博愛で、冷静で、明晰で、俯瞰的な視野を持ち、無私の極みのような人物だと評価されていたから。ただ彼は今や、人ではなくなった。たった今。


「……そっか」


 この世界の人々は、完璧に見える。

 完璧に整った容姿、完璧な頭脳、完璧な身体能力、完璧な人格。

 なのに、この世界の人々の世界観は、悲観的だ。


 ここでは、生きている限り、不完全だというのだ。


 完璧でないから、生かされている。

 完璧な存在は、選別される。今流れた一筋の光のように。


 選ぶのは世界樹だ。

 生きている不完全な人間たちの中から、完全なる魂だけ救い上げられる。

 そして中心核である、世界を支えるエネルギー体の一部になる。

 選ばれた瞬間、肉体を脱ぎ捨てた魂は永遠のものとなり、肉体は抜け殻となる。


 人間としての生に幕を閉じられる。

 世界樹の核で魂は和合し、枝先へと流れて世界樹を照らす黄金の光になる。


 そうして永遠の機能として世界の一端を担うようになる。


 科学が高度に発展し、人類の人格も完成され、素晴らしい肉体を得ているこの世界の人々は、こんな風に永遠を願っている。


「……ユウランも、世界樹の一部になりたい?」

「――そりゃあね」


 即答だった。

 ただ、当たり前の答えに対する質問の意図を考えるような顔をしていた。

 有体にいえば、怪訝そうな雰囲気だった。


 それに顔をこわばらせると、ユウランはいつものような穏やかな表情になっていた。


「世界とひとつになる至高の途だよ。これ以上の幸福はないだろう? 肉体という制限から解き放たれ、量的縛りのない普遍的な存在となる。果てなく永遠に循環し、思考し、世界の一部となることができる。これ以上の価値も意味も栄誉もない。僕は、あそこに逝くのが究極にして最上の望みだ」


 ユウランはゆっくりと瞬き、「わたし」の顔を覗き込んだ。


「すべての人間が最も合理的な思考をするのなら」


 合理的……。

 ライトグリーンの美しい新緑の輝きにじっと見つめられる。


「――行きつく望みはみな同じになるはずだよ。僕が、と前置きした望みは、他のすべての人間と同じであって然るべき、実にごく当たり前のことだ」


「そ、っか」


 それが全員が行きつく望みとは思えない。

 だって、それは死ぬということと何が違うのだろう。


「でも、ドゥイアってさ、そういった結論に行きついてはいないよね?」

「……………っえ?」


 見透かされている。

 思考を。異質性を。

 ひゅっと喉が鳴った。


 自動通路によって外の景色は一定の速度で流れていく。

 ふいに、建物の影になって暗くなった。


「なら、君にはいったい、何が見えるんだろう、ねえ?」

「…………ゆ、ユウラン?」


 舌の根はカラカラで、緊迫感で胸が苦しい。

 こ、これは質問されている。

 何の質問か。


 疑問に思った瞬間に、言葉が重ねられる。


「聞きたいんだ、ドゥイア。君の望みを。そして、それは世界に呼ばれる栄光以上に価値があることなのか?」

「え、ええと」


 優秀過ぎるこの世界の人々には、共通した夢がある。

 世界樹のエネルギーは選ばれた人間の集合体であり、それは一定以上に傑出した人間でなければ、世界に呼ばれることはない。


 この世界の人々は皆、優秀だ。

 でも、その中でも世界樹に呼ばれるほどに完全な固体になりたいと思っている。

 そのための努力をしている。


 正直なところ、自分には電子盤を見てやっと、誰が優れているのかを順位付けで知る。

 しかし、誰のどこがどう優れているかはわからない。


 けれども、彼らはそれを自然に悟っている。

 物差しが違うのだ。


 自分の物差しは大雑把なうえに、とても短い。

 対して、この世界の人々は、目盛りが微細なうえに、いくつもの色分けで複数の基準を同時に計測することができるレーダーのような高性能な物差しだ、きっと。


「望みなんて……」


「……ドゥイアってさ、どこを学園に評価されてるか知らないでしょ」


 耳に入ってきた情報に、表情筋が死んだ。

 ま、待って、何かおかしい言葉を聞いた。


「評価されてるなんて知らなかった、信じられないって顔……それって毎回やってるけど、わざとじゃない……んだよね?」


 ユウランが訝しそうに尋ねてくる。

 だが、そんなことに構ってはいられない。


「どこどこ!? そんなのあるの? あ――もしかして……」

「――なに?」


 思いつかなかったのだろう。

 首をかしげて尋ねてくるユウランに、暗雲たる思いで重く口を開く。


「……。………どこまで頭が悪いかっていうこと、かな。あまりに珍しいほど出来が悪いから」


 ユウランは奇妙そうに目を見開いた。

 そして次の瞬間には、破顔した。


「え、なに? 何で笑う??」


「あー……なーいしょ。学園の考えてる事なんて、誰でもわかると思うんだけどなあ。まあ、でも、そういう観点もあるのかあ。………面白い」


 笑われるのは愉快な気持ちではない。

 しかし、こんな柔らかな微笑みをする少年がいるのは何かの詐欺ではないか。

 どぎまぎとしながら、居心地悪く視線をそらす。


「『誰でも』わかる、かあ…………わかんないよ」


 ベルトコンベヤーは自宅の前で一時停止する。

 乗っている人間のIDで自動的に止まってくれるシステムだ。

 コンベヤーから降りて、玄関の扉を開く。


「答えはそれさ」

「え?」


 振り返るとユウランが顔を近づけてきていた。


「さっきの質問に、答えてもらってない。そろそろ教えてよ」

「な、なにを?」


 さっぱり内容を覚えてない。

 じっと顔をみられながらもう一度聞かれた。


「――ドゥイアの夢って、何?」


 散々目を泳がせた。

 夢なんてたいそうなものはない。

 しかし、世界樹の一部になりたいとは口が裂けても言えない。


 そしてその瞬きの刹那で思い浮かんだのは、前世でのささやかな願望。

 年ごろの女の子のありきたりな夢だ。


「………お、お……」

「――お?」

「……お…ぉよめさんになること……かな…………」


 言った瞬間後悔した。

 身を乗り出してベルトを停止していたユウランは、目を丸くした。

 数秒経っただろうか。

 その間に、ユウランの表情は怪訝な顔、嫌悪と、不可解さ、そして微妙な顔になった。


「本心なんだね」

「………い、一応………」


 恥ずかしくなって誤魔化してしまったが、本心と言えばそうだった。

 というか、女の子はたいがい皆そうだろう。

 いつか、素敵な人と結婚してお嫁さんになりたいというのは。


 この夢に、何が何でもノー!と全否定する人はいないと思う。

 そんな自分が掲げる一般論を盾にしていう。


「そっかあ………」


 ユウランは、乗り出した身を引いて手を離した。

 動き出すベルトに立ちながら、またねと手を振ると行ってしまう。


 それをカクカクとした動きで見送って、家の中に入る。

 そして床にごろんと転がった。


「あああああああいたたたたた! なーに言ってんのわたしいいいいいいい」


 十六歳女子が、将来の夢はお嫁さんなんて口にした。

 同い年の従兄弟に。

 しかも、十六歳なんて、この世界では半成人だ。

 夢見がちな少女というレッテルを張られかねない。


 能力的な格差で惨めさを味わっていたのに、思考の面でも恥を味わう。

 こんなことってない。

 現実は厳しい。なんて残酷な世の中だ。


 ごろごろと転がって絶叫していると、家の奥から母が声を掛けてくる。

 鈴を転がしたような声だ。


「ドゥイア、手と足を綺麗にしてから、こっちに来なさい。クリュフ作ったから」


 クリュフとはこの世界で言うクッキーだ。

 細かい説明はしたくない。

 つまりクッキーだ。

 甘い! 美味い! 

 そしてそれを作成した母は最高だ。


「やったー! 母さんのクリュフ大好き! 母さんも大好きー!」

「手と足、洗ってね。ちゃんと拭いてから来るのよ」


 ……忘れるところだった。

 玄関で両手と膝を払って、洗面所へ行く。

 靴下を脱いで、足を洗い手も洗い終わった。

 そのまま行こうとすると、リビングから母の声がする。


「ちゃんと足を拭いてからね」


 再度言われてハッとする。

 忘れるところだった。


 足を拭いて手も拭いて、リビングへ向かう。

 リビングの取っ手を掴んだ瞬間、扉の向こうから母の声がする。


「静かにドアを開けなさいね」


 しかし既に手の動きは止められない。

 扉を勢いよく開けてしまった。

 その拍子に手首を軽く捻ってしまう。

 しかし、こんな痛みなど何のその。


「出来たて? ほやほや!?」

「どうぞ」


 湯気が立っている。

 まるで今できたところのようだ。

 いや………今できたようにしか見えない。


 少し違和感を覚えたが、いいじゃないか、出来立てのクリュフ。

 指でひっつかんで口の中に運ぶ。


「おいしー! 母さんのクリュフ、おいしー! さいこう!」


 ほろっと口の中で崩れる感触に、あふれ出る感想を言う。

 語彙力は死んでいる。


 すこし喉が渇いたので、いいところにある熱い紅茶に手を伸ばす。

 紅茶は熱いので、咳き込むほど口に詰め込んでいたクリュフの手をいったん止める。

 息を吹きかけて少し冷ましてからゆっくりと啜る。

 一口飲んで、ほっと息を吐く。


 向かいの席に座った母もまた、紅茶を手にとる。

 そして実に異様なほど滑らかな動きで窓際に顔を向ける。

 信じられないほど、優美だ。

 この横顔の端麗さと肢体の曲線美はこの世のものとは思えない。


 この癒しを感じさせる若草色の髪を持つ女性が母である。

 信じがたい。


 この世界、この両親のもとに産まれ出た自分にグッジョブである。


 はあとため息をつきつつ、癒しの聖母の横顔につられて、そちらへ目を向ける。

 すると、飾られた薄桃色の薔薇の生けられた花瓶が見えた。

 窓枠から吹いてくる風が、レースのカーテンを押してゆるやかに膨らませる。

 花の香りがほのかに風にのって紅茶の香りとまじりあう。


 完璧な午後のひととき。

 今自分は、最高におしゃれで優雅な、至福の時間を過ごしている、と断言できる。


 自分のことを第三者の視点から見て、悦に浸っる。

 すると、先ほどまで何に心を乱していたのか、すっかり忘れてしまった。

 少し前のことなのに、もう思いだせないのなら、きっと大したことではなかったのだ。


 ひとり頷いて、クリュフをサクサク、ほろほろいわせる。

 その時、玄関の扉の開く音がした。


「ゆっくり立ちなさい」


 母の言葉の直後に強か机に脚をぶつけて立ち上がる。

 とても痛かった。

 悶絶していると、足音が廊下から聞こえてきた。


「とうさん、おかえり!」


 膝の痛みを堪え満面の笑みで両手を広げた。

 扉を開けて入って来た人物を出迎える。

 そして固まった。


「あー…………」


 とりあえず、広げたままだった両腕をぎこちなく下ろす。

 父ではなかった。

 

「………誰?」


 誰何ではなく、いるはずがないという現実の否定の意味で口からこぼれた。

 なぜならその人は――。


「アルジャイン・セルカ」


 切れ長の瞳をゆっくりとひとつ瞬かせて、目を向けてくる。

 神が創り給うた、と付けたくなるような超絶技巧を思わせる造作。

 この世界でも稀なレベルの美貌。

 骨格が作り出す陰影すら神懸かっている。

 

 彼は、同学年の首席様だ。

 彼の名前は、電子盤の一番上に出てくる常連だ。


 首席といえば、数いるこの世界の優秀な同い年たちを押さえてさらに一位になるという、過ぎた才人だ。


 けれども、それを差し置いても、異例なことで有名だ。

 シミュレーションのような社交相手にも選ばれない「わたし」ですら、知っている噂だ。


 彼は、いわゆる特異者で、例外。


 優れた人格、頭脳、身体能力を持っているのは当然として。

 周囲の彼への評価が異様なことが、こんな自分でもわかるほどだった。


 曰く――欠点が見当たらない。完璧である、と。


 口々に話題に上る内容。

 とすれば、だ。


 こんな傑物が、才覚が、神木に呼ばれていないのはおかしいと思うだろう。

 違うのだ。


 実際に、彼は呼ばれていた――僅か四歳の時に。

 そのように、幼い頃に大樹へと召命されたこの世界でも希少な例だ。

 にもかかわらず、それを自ら神木に延期させたという、皿に輪をかけて稀少な人物でもある。


 極々稀にいるらしい。

 本当に稀に、世界樹に呼ばれて、その場で応じるでもなく。

 ただ、ひとつに溶け込む瞬間を将来に延ばしてほしい、と。


 誰もが世界樹と一つになりたいと願う。

 にもかかわらず、それを一時でも断るというのは、何かよっぽど深い理由あってのことだろう。


 世界樹に見込まれるほどの希少な人物でありながら、この地上に残っているさらに稀有な人物なのだ。

 この世界には十人も満たないほどしかいないという。


 その中でも、この青年は、僅か四歳の頃に召命を受けるという、実に稀な人間なのだ。


 そんな雲上人が、何故ここに……。

 あまりの緊張に、吐き気がした。

 今はいたら、出来立てのクリュフがそのまま出てきてしまう……!


 何とか唾を飲み込んで、落ち着ける。


 彼は、誰何に答えてくれた。

 もちろんセルカの名前を知らないはずはなかったけれども。

 いや、知ってる、といっても良いのだろうか。

 とりあえず、名前を名乗られたら、名乗り返さなければ。


「あ……わ、わたしは………アイゼラン・ドゥイア、です」

「知ってる」

「……」


 自分だって、知ってたわい、と猛烈な悔しさに襲われたが、我慢した。

 しかし仮に、セルカがここにいなければ、なりふり構わず地団太を踏んでいただろう。


「ただいま、ドゥイア」


 長身のセルカの後ろから、父が顔をのぞかせた。

 艶やかな砂色の髪を持ち、全体的に儚く繊細な雰囲気を纏っている。

 しかし容貌は艶やか。

 小難しく言えば、清らかなようでいて艶美さを持つこの男性が、ドゥイアの父だ。

 周囲に自慢したいくらいに格好いい。

 この父と母は、この世界でも飛び抜けている美男美女だと自慢したいくらいだ。


 …………セルカは論外だが。

 どうにも神様に盛大に贔屓にされた容貌をお持ちのようなので。


 セルカの手前、いつものように父に抱き着くこともできない。


「…………………………おかえりなさい」


 ドゥイアは広げていた両手を体にしまった。

 小さく縮こまり、父の顔をちょろっと見てから、ぼそりと返した。


 いつも四六時中眺め倒していたいくらいに麗しい父のご尊顔へは目を向けず。

 またその隣にいるやたら美々しい同学年の有名人を避け。

 視線を間の空中にうろうろさせた。

 どうにかこの場から抜け出ることはできないものかと糸口を探す。


 助け舟は母から出された。


「三人とも、上がって。クリュフを多めに作ってあるから、一緒に食べましょう」


 逃げ出すチャンスだと二階へあがろうとすると、名前を呼ばれた。

 激しく瞬きをする。


 言われた通りに座っていた椅子に腰かける。

 そして首を傾げた。


 母の向かいに座っていたのは自分だ。

 それは変わらない。

 母の隣に父が座るのもいつも通りだ。


 だが、この四人の面子であれば、母の隣に自分が。

 父の隣に、父が連れてきたセルカが座るのが順当ではないのか。


「えと……なんか……」

 この状況、おかしくなかろうか。

 セルカは座る前に、失礼しますと挨拶をしていた。


 ここへ来ること、このやりとりも、家に来る前から父とセルカには分かっている。

 こういった社会性はこの世の人々にとってはシミュレーションのようなものだ。

 お互い解りあって、その通りに行動している。


 とはいえ、礼儀正しく見えるので、素直に感心した。

 そして次に、自分は、初対面でやらかしたと気分が落ち込む。


 どんよりとした気持ちでいると、クリュフさえも色あせて見える。

 落ち込みながら、サクリ、サクリといわせ、嚥下する。

 色もそうだが、なんとなくパサパサしている気がする。

 唾液と合わさって、口の中で生温くとけていく。

 ……おかしい。さっきはとてもこの上なく美味しかったはずなのに。

 食欲が激減して、それでもちまちまと皿の上のクリュフをつつく。

 すると、三人の視線を感じてそろっと顔を上げた。


 しかし、彼らはこやかに談笑を続けていた。

 気のせいかと思って、再びサクリ、サクリと。

 まるで通夜のように陰鬱とした心地で食べていく。

 いつの間にか温かいものに取り換えられていた熱々の紅茶を両手で持つ。

 飲むでもなく、じっとその波打つ表面を眺める。

 冷たくなっていた、指先が温められる。


 クリュフを食べ終わったら、勉強する口実にこの場から離れよう。


 残りを確認しようと皿をみると、いつの間にか新しいクリュフが追加されていた。

 あれ、と思って、なんとなく三人の横顔を順々に見ていく。

 その流れで、目を合わせて来たのはセルカだった。


「食べないのか」


 その目は深い森の中の湖面のように凪いでいて、すごく苦手だ。

 何と答えようとも、あらかじめそれを知っているようにも、何を言っても無関心なようにも、何でも受け入れるようにも見える。

 それとも、観察されているのだろうか。

 誰を――自分を?


 そんなはずがない。


 酷く口の中が乾いた。


「た、べます……けど……」


 ちらり、とセルカの皿の上を見遣った。

 そこには、ある程度減っただけの特に変哲もない受け皿のみ。

 父と母の皿も順繰りに見たが、少し減っただけのクリュフ。

 では、ドゥイアのさらに追加された皿の上のクリュフはいったい誰が置いたのだろう。

 この三人ならば、知っているだろうに、誰も口にしない。


 ――まさか、三人で少しずつドゥイアの皿の上に置いたわけでもあるまいし。


 非常に、不可解で不審な気分になりながらクリュフをつついた。


「そういえば、ドゥイア。今日の学校はどうだったの」

「今日は、先生に2回もあてられたよ。でも問題も分からなかったし、答えも分からなくて、分かりませんって言っちゃった……」

「そう。分からなかったなら、そう答えるのは正しいわ」

「うん。でも、ごめんね、かあさん」


 母は首を傾げた。


「わたし、ダメな子どもで。母さん、悲しいよね」


 情けなくて、俯いた。

 一人娘が回答欄に名前も入力できなかったこともある、不出来な子どもで。

 気苦労ばかりかけただろう。

 疲れも見せずに傍にいてくれたが、きっとどこかで思い悩んだりしているはずだ。


「あなたがダメといったのは誰かしら? 私たちが気にするのは世界樹の評価だけよ。そして世界樹は資格者を認めて召命するだけで、そこに満たない者を評価しない。そして、私は問題が解けないくらいでダメだと批評しない。――たとえ」


 顔をあげると、母はクリュフのかけらが付いた指先を払いつつ、淡々と言った。


「世界樹があなたを否定するとして、その評価は私には関係のないことだわ」

「……それって」


 つばを飲み込んで、尋ねる。


「かあさんは世界樹とは関係なく、わたしのことが好きってこと……?」

「――そういう解釈になるのかしら。私の言葉をまとめたとは言えないのに、違うと言えないのが、不思議な子よね」


 違わないということはあっているということだろうか。


「それで。……私があなたのことを好きだと事実がどうかしたのかしら」

「いひひ。やった!」


 実の母親から好きだと面と向かって伝えられる。

 面映ゆくて口許を隠しながら、喜びを押さえた。


「一個体に好感をもたれるだけで喜ぶだなんて、変な子ね」

「一個体じゃないよ! わたしの母さんだもん」


 拳を作って力説する。

 あらそう、と母は若草色の長い一本の三つ編みを撫でている。

 このドライさがいい。


「ドゥイアが好かれてうれしい個人は、かあさんだけかい?」

「父さんも、ドゥイアのことすき?」

「好きだよ」

「やった!」


 どうせ自分は逆立ちしたって聖人にはなれない。

 相手に好かれなくとも自分が好きであれば構わないという人間ではない。

 なので、両親から好かれれば、そりゃあ嬉しいのだ。

 恥ずかしいのでもろ手を挙げて喜びを表現することはしない。

 口を覆って喜びを隠すにとどめる。


 つと、その場にセルカの声が響いた。


「――私が君のことを好きだと言ったら?」


「…………え?」


 暖かな幸福感に、冬の風が吹き込んだようだ。

 真顔で、隣の人物を見上げる。

 すっかり家族のだんらんの気分だった。

 そういえば、いたなと頭の冷静な部分が気づく。

 


「えー……ははっ……どうも」


 社交辞令には、お返しを。

 きちんと笑えていたかわからないが。

 じっとこちらを見下ろしてくる瞳が深淵を覗き込んでいるようで、目をそらした。

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