カーテンコール
はるか北、栄華を極める宮廷で、一つの恋が実を結んだと、誰かが噂した。
勇敢で誠実な若き王子が、美しくも酷薄な恋敵から、純真無垢な乙女の愛を勝ち取ったと。まるで歌劇のように、情熱的に。
それは違うと、別の誰かが口を挟んだ。
人々に忘れ去られていた亡国の娘が、艶やかで傲慢な魔女の悪意を退けて、運命の人に巡り会ったのだと。それこそ舞台のように、劇的に。
最後に誰かが言った。
それは同じ恋人たちの物語だよ、と。
***
マリーは心地良い音色に耳を傾けながら、二つ目のケーキに手を伸ばした。
(昔、バイオリンで習った曲だわ。全然弾けなかったけど)
「ねぇ、お聞きになった? フェルゼル侯爵家のお噂」
「ええ勿論。ご令嬢が関係していたという証拠はないということらしいけど、侯爵は勘当を言い渡したとか」
見渡す大広間のそこかしこに、止まない音楽に合わせて踊る男女と、ひそやかな内緒話に花を咲かせる小さなグループができていた。
クリームで可愛らしい花を描いたデザートは、見た目は良いがいわば大広間の音楽と同義。舞踏会にはないと困るが、誰もそれを目当てにはしていない。
でも、貴公子からのダンスの誘いもなく、噂話のグループにもあぶれたマリーには、唯一最大の関心ごとだった。
北の地で繁栄を誇る王国ベルヴィエルの黄金の宮廷では、毎夜のように舞踏会が開かれる。この国の亡き先代国王が生涯をかけて莫大な費用を投じた建築は、信仰心によるものでも虚栄心によるものでもない。ただただ美しいものをこの地に造りたいという意志のもと、絢爛豪華で悪魔的な美しさの黄金宮となった。
(あ、これおいしい。あとでもう一度取ろう)
「しかし、この宮廷での舞踏会も、これが最後かもしれないな」
「それでよかったのですよ。王弟一派を遠ざけよという王太子殿下のお言葉に、国王陛下も理解を示し始めたというのは」
他国の使者を圧倒する黄金と大理石、そして異国の宝石に彩られたこの多大なる出費は、国を引き継いだ現国王と王太子の政治手腕に重くのしかかっている。
輝くシャンデリアも、優美な楽団も、高貴な人々の美しい衣装も、贅を尽くした御馳走も、この国の貴族にとっては見慣れた日常風景であり、そして陰りを帯び始めた斜陽の栄光であった。挽回できるかどうか、この5年10年が勝負だろうと新顔の財務大臣が厳しい顔で話している。
でも、マドレーヌの甘さを堪能するだけのマリーにとっては、それでも自分よりはよほど長い命の栄華だったと思う以外の感慨などなかった。
有象無象の声と香りと思惑が立ち込める大広間で、人々の歓声が上がる。舞台に主役が立ったように。
重なり合う派手な衣装の隙間から、マリーの鳶色の目にも祝福される人間たちが見えた。結い上げた黒髪に今日は派手な飾りをつけていないから、彼らの方からこちらにはきっと気づかないだろうと思いながら。
「ご婚約おめでとうございますフィリップ王太子」
「まぁジゼル様、今日はまたなんて美しいんでしょう。お怪我の具合はもうよろしくて?」
「モルガン王家の希望の門出ですなぁ!」
――鳴り響く音楽。割れんばかりの喝采。めでたしめでたしの二人。
思い起こされた記憶に浸かりかけたマリーの意識は、耳障りな声ですぐに引き戻された。
「あら、マリー様だわ」
「しっ! あなたも仲間だと誤解されるわよ」
「お前、今日はマリー嬢のそばにいかなくていいのか? ほら、いつものワインもあるぞ」
「やめてくれよ」
マリーは皿に乗った食べかけのエクレアを見て、その脇にオレンジのタルトを乗せると、幼いころから癖づけた優雅な足取りで大広間を出て中庭に向かった。数日前まで友人を名乗っていた人間たちに逃げたと思われていようと、もう気にもならなかった。もともと彼女の名誉と評判は地に落ちて泥溜まりをえぐっているようなものである。後ろ髪をひかれたのは、あの曲が最後まで聞けなかったことくらいだった。
(私も、とんでもなく高い舞台で足を滑らせたものね)
マリー・フローラック。大貴族フェルゼル侯爵の長女にして、昨今起きた『王太子の想い人にして亡国グレディス最後の王女ジゼル・モラン暗殺未遂事件』の黒幕と噂される17歳の悪女の名前だった。
(主役のつもりが、とんだ敵役だったなんて)
配役を見誤って、無様に転げ落ちた自分の人生に添えられる花なんて、もうこの国には咲いていない。
10年越しの片思いも、あの人垣の向こうに消えていったところだ。
***
夜の闇の中でも、整然と手入れされた木立が立ち並ぶ広大な中庭には仄かな明かりがつけられていた。今まで何度も我が物顔で歩き回った庭園であるからと、マリーの足はよどみなく人気の無い場所へ向かった。こんなところに一人でいるなんて、今までは考えられなかったのだが、価値が暴落した今は侍女すら伴わなくても、家の者すら誰も咎めなかった。マリー自身、未婚の淑女の貞操の安全など、結婚の当てもなくなった以上、くそくらえという気分だった。
「殿下! わ、わたくしは、殿下のために、フィリップ殿下ではなくクロード殿下に王冠をと、身を粉にして尽くしてきたのですぞ! それが、なぜこんな辱めを受けなければならんのです!」
勝手知ったる幼馴染の城と近づいた東屋に、どうやら先客がいたらしいと、がなりちらすダミ声で気が付いた。足を止めたマリーは舌打ちをこらえて、エクレアのクリームを一口舐めた。
「……」
「きいているのですかクロード殿下! それが、あんな小娘に肩入れしたあなたのせいでめちゃくちゃだ! 王は近くわたくしから爵位を剥奪するという噂まで流れている……なぜだ、なぜわたくしだけ、わしだけがこんな目に!」
「……ディズラ卿」
「どう責任を取ってくれるんだ! ええい、いっそそのすかした顔ごと今ここでズタズタに引き裂いてやりたい!」
「卿」
「なんだ!!」
「人が見ていますよ」
一瞬の間の後、喚き散らしていた中年男が何事かの捨て台詞を吐きながら、マリーのいる方とは別方向に向かって走り去っていった。
まだ一人残っているからな、どうしようかな、そうぼんやり考えていたマリーは、東屋の中の先客が自分を見ていることに気が付いた。「人が見ている」とは自分のことだったのか。
「……お邪魔してしまって申し訳ございません。クロード殿下」
闇夜も照らすベルヴィエルの月とうたわれた銀髪の貴公子が、その青い目をマリーの方に向けていた。
「皮肉か? むしろ助かったところだ、礼を言う。マリー嬢」
クロード・モルガン。オルヴィエ公爵家当主にして、当代国王の腹違いの弟であり、王太子派との熾烈な権力争いの中枢にいた人物の名。ジゼル・モランに求婚していたという噂の色男。
奥底見えぬと噂された鳶色の瞳と、氷の如くとおそれられた青の瞳で、二人は互いに無言で見つめあった。
口を開いたのは同時だった。
「「負け犬には、今宵の宴はいたたまれなくて」」
とくに誰が問うたわけでもなく、示し合わせたわけでもないのに、同じ言葉が重なって、気まずさに二人の間にまた沈黙が落ちた。
それでも、宮廷で華々しい女性の噂に事欠かなかったクロードが、優美な所作で、向かいのベンチを指し示した。本来なら男性は立ち上がって女性の手を取りエスコートするものだが、そんな気を回す相手でもないと思ったのか、立ち上がる気配はなかった。
マリーも、本来なら王弟との相席にあたって丁寧な謝辞をのべてエスコートを待つべきだが、会釈だけすると黙って向かいに腰掛けた。挨拶もなにも、ここがどうして公の場と言えようか。そして、エスコートされるべき手には、皿と菓子が陣取っていた。
ベルヴィエルの夏の夜、華やかにかがやく黄金宮殿で開かれる、数多の試練を乗り越えた王太子フィリップと元王女ジゼルの婚約の舞踏会。
マリーの幼馴染にして片思い相手と、クロードの求婚相手の、運命の恋がハッピーエンドを迎えた夜だった。
***
宮廷の大広間で披露された異国の歌劇のフィナーレに、幼い少女の胸は高鳴った。
最高潮の盛り上がりをみせる音楽と、歌唱。溢れんばかりの喝采の中央に立つ、「めでたしめでたし」の二人。
輝く舞台の主役に、いつかおまえもなるのだと、彼女の薄い肩を抱く父親が囁いた。少女は、隣に座る王太子へ視線を向けさせられた。
いつか王となるこの少年と、高貴に、華々しく、栄誉に満ち溢れた最高の恋をするのだと。
夢と希望と野心に熱が灯る。マリーは少しだけ頬を染めて、一緒に観劇していた少年にはにかんだ。
優しく笑い返した幼馴染の翡翠のような瞳が、ずっと自分の方だけを見てくれますように。そう願いながら、踵の高い靴を履き、豪奢なドレスを着て、ひたすら高みへと手を伸ばしていた。それが、彼との舞台にふさわしい女でいられる道だと信じて。
指揮棒が振り上げられる。楽団が、演者が、ひと際盛大に空気を震わせる。
記憶の中の幼馴染の、その翡翠の瞳は、知らぬ間に近づいてきていた平凡な茶色い髪に琥珀のような瞳の庶民女に、簡単に奪われた。それが、運命の恋という、神様の台本どおりといわんばかりに。
幕が下りる。
敵役の魔女の行方は誰も気にしない。
***
「なぜ、こんなところにひとりでいる?」
エクレアを咥えたまま、記憶の庭を漂っていたマリーの思考は、低い、かすれたような問いかけによって、また現実へと引き戻された。
「誰も伴わないなんて、あなたらしくないな。不用心だとおもうが」
「……4日前に、友人を名乗っていた人間がみんな『ただの知り合い』になってしまったので、こんなところまではついてきてくれませんでしたわ」
「取り巻きの話じゃない。そんなことは予想できていただろう。であれば侍女くらい連れ歩くべきでは? マリー・フローラック嬢ともあろう人が」
「4日前から、父がわたくしと口を利かなくなったので、使用人も恐れをなして、最低限の用事以外では、わたくしをいないもののように扱うのです。勝手に家を出ても、誰も何も言いません」
「…………口調を、やめてくれないか」
「はい?」
「畏まった話し方はやめてくれ。どうせ、近いうちに爵位を剥奪される予定の男なんだから」
「……」
「言い直す。さっきの男の崩れていく敬語が不愉快すぎて、だったら最初から砕けた口調で話してほしい」
「……私も」
ベンチの背もたれに上体を預けて、あらぬところを見つめていた男の焦点が、向かいの女の顔にゆっくりと定められた。
「私も、父に勘当を言い渡されたの。もうどこへでも行け、この恥さらしって。このまま本当に追い出されたら、もう侯爵令嬢なんかじゃないから、呼び方を改めて」
口元のクリームをぬぐった拍子に、口紅が指先についた。こんなことがあるから、みんなあの場の菓子を食べないのだなと妙に納得していた。
「ついでに言うと、元友人たちと同じ呼び方をしないでほしいの。虫唾が走るから」
男は、くっと喉で笑った。無表情から浮かんだその感情表現は、自分たち両方に向けられた嘲りだった。
「なに笑ってんのよ」
マリーは一緒に笑わなかった。クロードも悪びれず、「別に?」と返した。
ただ、その表情の歪みに、慰めを一言も寄越さない冷淡さに、自分と同じものを感じた。マリーは一口残っていたエクレアを口に押し込んで、飲み込んでから次の言葉を吐いた。
「フィリップにたてつくと大変ね。爵位まで剥奪するのに、逮捕されないのが不思議」
「最初は、俺が首謀者じゃなかったんだ。王太子の追放なんて、どう考えても無理だろう。話が出たとき、俺だってまだ子どもだったさ」
「あら、名前だけ貸したの? だめよ、あのフィリップ相手にそんな他人任せで、うまくいくわけないじゃない」
「が、あの優等生な甥がジゼルに手を出そうとしてると知って、がぜんやる気になった。フイリップを陥れるために金も策も全力で投じた。あいつを横領の罪で国外追放にする特別法廷が開かれるまで、あともう少しだったのにな」
「…………なぜ、あなたは地獄に落ちていないのかしら」
クロードの唇の端は上がっていたが、空を見つめる目は何も映していなかった。
好きな女のことだけ見つめていたのに、それができなくなったから、きっともう何も見えないのだ。
マリーと同じで。
「それでも、マリー。あなたよりは、随分頑張った方じゃなかったかな」
「人質としてジゼル・モランが攫われたと知った途端、首謀者が血相変えてアジトに飛んでったことを、なかったことにするならね」
「手厳しいな。悪女マリー・フローラックならどうした?」
「フィリップに、保守的で贅沢しか知らない女をちゃんとした妃としてあてがうだけよ。従来の政策を続けたい王弟一派もジゼルと結婚したいあなたも大満足」
「王太子を取り戻したいその女も大満足。だが、その女が全然見向きもされないうえ、王太子に詰め寄られて恋敵に一服盛ったことを白状してたら世話ないよな。それこそなんであなたの家はお咎めなしなんだ?」
「だって、毒だとは思わなかったんだもの。デートに遅刻させて、待ちぼうけさせられたフィリップを拾って一緒に観劇に行こうと思っただけよ。睡眠薬だってきいて侍女が買ってきた瓶の中に入っていた粉薬だったし」
「馬鹿な言い訳だな。すぐ解毒薬が手に入ったからよかったものの、殺しておいてそんな気はなかったなんて言ったら、俺だってあなたを許さない」
「でも、死んでもいいと思ってたわ。あの薬、自分用に買ったんじゃないもの。ほんとに死にかけてると聞いたときは、神様ありがとうって侍女にも感謝したくなった」
「…………今、俺が丸腰でよかったな。ものすごく撃ち殺したい」
マリーは今日はじめて唇の端を上げた。もうずいぶん長く、作り笑いさえしていなかった。
「みじめね。私たち、そんなことしても、一番感謝してほしい人にはもう相手にされないのよ」
それに、と下を向いて呟く。かつて宮廷を席巻した侯爵令嬢の覇気は、もうどこにも見当たらなかった。
「うちだって、きっとお咎めなしとは言えないわよ。証拠がないからどうにもできないってだけで、我が家は父も弟もこの先ずっと要職にはつけないでしょうね」
「さぁ。父親はともかく、弟の方はまだ子どもだろう。フィリップの考え次第じゃ、逆に味方に引き入れたいところかもな」
「そうかしら。そうだといいけど」
「あなたが家から出ていれば、の話だけど」
ああ、とマリーは木造の天井を仰いだ。
修道院に入るのは嫌だが、落ちぶれていく家の中で針の筵で暮らすのも想像のできない苦痛だった。
家を出るなら、決断は早い方がいいだろう。できれば、あの父が言い出すよりも、早く。
「あなたは、クロード殿下は、どうするの」
「………………」
「……クロードは、どうするの」
「……裁判を待つ身だよ。今は俺の方から証拠は出ていないが、頭の回らない支援者とやらがぞくぞく捕まってる。ディズラ卿も時間の問題だな。奴らの証言だけでも、俺への怨嗟根深いフィリップは法廷まで引きずり出そうとするだろうよ」
「……え、証拠がなくても、そんなことになるの? じゃあ私もヤバいのかしら」
「さぁ? フィリップがどれほど怒ってるかによるだろう。俺だったらジゼルに危害を加えた女なんて一族もろとも絞首刑にするつもりで証拠をでっちあげるけど、被害者のジゼルがとりなせば、あいつは幼馴染の情けできみを見逃すんじゃないか。根はお人好しなんだから」
「……私のうち、あなたが敗れて命拾いしたのね」
この男なら本当にありもしない罪を着せてくるだろう、頭がよくて性根の腐った男は嫌だな、と自分の性根を棚に上げてマリーは閉口した。
(フィリップと同じ血が流れてるとは思えない)
お人好しなんてものじゃない。マリーは記憶をたどる。
彼は一つ年下の自分にいつも優しかった。お人形遊びにも、ダンスの練習にも付き合ってもらった。一曲だけ、彼の前でバイオリンを弾いた。父が真っ青になって止めに入るまでの、短い時間だったが。
***
『マリーは、音楽が好きなんだね』
父が音楽講師を解雇したとき、フィリップの前でだけ悲しみを打ち明けて、泣いた。
『でも、わたしは上手じゃないから、恥ずかしくって、皆の前に出せないから、もうやらなくていいって、かわりにダンスと歌をがんばりなさいってお父様が』
見上げたフィリップは少し困ったような顔をしていた。金色の髪がさらさら揺れて、そのはざまに見える緑の目が、マリーの寂しさに寄り添うように、揺れていた。
『でも、一緒に演奏を聴くことはできるね』
音楽講師を呼び戻すよう父に言ってくれなかったことは、つまるところ本当にマリーが下手だったからということなのだろうが、それより優しく頭を撫でてくれた手が温かくて、うれしかった。
***
(もう、誰の演奏も一緒に聞くことなんてできないけれど)
マリーは、皿の上に残ったオレンジのタルトを見つめた。
ゼリーでコーティングされたその果物は、気温の低いこの国ではあまり作られない。きっと王家のために、南の温暖な王国から海路で取り寄せたものだろう。
「思うんだけど、フィリップはあなたのこと、見逃す気がする」
「慰めはいらない」
「本当よ。だって、ジゼルを助けに行っちゃったんだもの」
マリーは両手に持ったタルトに力をこめた。ぼろ、と端が崩れ、半分よりは少し小さくなってしまった。
「それこそ、ジゼルもあなたのことは温情をかけてくれと縋ると思うわ。道徳観念が服着て歩いてる女でしょ」
「それであいつに情けをかけられるのは全く不愉快だな」
「そうね。私も」
マリーは先程の宴会場を思い出した。幸せそうな二人。祝福しようと周りに駆け寄った人間に、どれほどの信頼がおけるのかは、もう彼らの問題だ。せいぜい東屋の二人を隠れ蓑にしていた不届き者たちを潰すのに、優しい二人で苦労すればいい。
「そういえば、あなたはいつ宴会場に来たの? 見かけなかったと思ったけど」
「……そもそも、お互いよく今日この王宮に来る気になったな」
「私は、家を追い出されたらもう二度とフィリップに会えないと思ったから……同じ音楽を聴けるのは、今夜が最後だと思ったから」
「音楽?」
マリーはタルトの半分を一口齧って、こたえなかった。フィリップを陥れようとした男に語るには、柔らかすぎて、大切すぎる思い出だった。
「あなたはなんで? ジゼルの顔が見たかったなら、はやく行った方が良いわよ。きっとフィリップ、彼女は今日体調が万全じゃないとかなんとか理由をつけて、すぐに寝室に引っ込めちゃうでしょうから」
気を逸らしたくてわざと二人の体の関係をにおわせる言い方をしたが、クロードは目に見えて激昂することはなかった。流石は謀略渦巻く宮廷で、甥である王子と同い年の王弟なんて立場で過ごしていただけはあると、少しつまらなく思った。
食べる? そう言ってタルトの半分を向かいの男に差し出した。足を投げ出すようにして腰掛けていた相手は銀色の前髪が目元まで達していて、その隙間から胡乱げにオレンジの菓子を見つめていた。そういえば、いつもはきっちりセットしている髪なのに、今日は随分ラフないで立ちだと、今さらながらに気が付いた。今までのマリーなら、相手の装いは真っ先に気にするところだったのに。
要は自分にとって、きらきらした服も、流行りの髪形も、貴族社会という戦場で自分がちゃんと時流を知っていることを周囲に知らしめるための旗でしかなかったのだなと思い当たった。
今はもう降参済みだ。白旗を掲げる代わりに、自分の髪飾りも相手の髪形も、気にしなくなった。
「今日は、この宮殿を見に来たんだ」
差し出したタルトから目を逸らされたので、マリーは自分の皿にそれを戻した。それと同時にクロードがぽつりとつぶやいた。
「黄金宮を?」
緊縮財政とは無縁の、贅を尽くして権力を示し、外交で優位を保つことをよしとした王弟一派の、その象徴ともいえる、悪魔のような輝きの宮殿。
クロードの眼差しは、そこへ向かっていた。
「俺の母のことは知っているだろう」
頷いた。娼婦だと、皆が言っている。
「娼婦だって言われているけど、本業は楽師だったんだ」
違ったらしい。口に出さなくて良かった。
「あそこは、母が、父に見初められたところなんだ」
誰が同伴したのか、頽廃した宮廷に、目も覚めるような美しさの、身分の低いピアニストを連れてきた。
その女がどこでその音楽性を培ったのかは、もうだれにもわからない。老いた王の子どもを一人生んで数年後、流行り病で亡くなった。
「思えば、フィリップたちにとっては、悪魔が引き合わせたみたいな出会いだったんだな」
亡き先代国王が、美しいものを集めるために建てた、宝箱のような宮殿。
マリーも齧ろうとしたオレンジタルトを膝の皿に戻して、遠いきらめきを見つめた。
この宮殿で舞踏会が開かれることは、もうしばらくない。誰かがそう言っていた。
そうね。口に出さずに、マリーは思いを馳せる。
夢のような場所で、夢のような時代を過ごして、いつまでも続くようにと願った、私たちの夢は覚めてしまうのね。
ほかの人たちには、きっととんでもない悪夢だったんでしょうね。
「あなたも、ピアノが弾ける?」
マリーは何も考えずにそう訊ねた。母親がピアニストだった、なんて聞いたからだ。
「今日流れていた曲が、歌劇の曲で、以前あの大広間でも演じられていたもので。好きな曲だったんだけど、途中で出てきてしまって」
クロードがマリーに視線を戻した。
前髪の隙間から、静かな湖面のような瞳が見えた。
「あれは、バイオリンだと、うまく弾けなくて」
クロードの顔が歪んだ。笑ったのだ。マリーはばつがわるくなった。もしかして、フィリップからバイオリンの腕前について、何か聞いていたのかもしれない。大人ばかりの宮廷で、同い年の叔父甥は、きっと昔は親友だった。
「バイオリンのせいにするのか」
「ダンスは自信あるわよ。あと、歌も」
踊るのはあの人と沢山練習した。二人で音楽を聴くのが好きだった、もちろん歌劇を見に行くのも、大好きだった。
本当は全部、あの人とすごしたかったのだけれど。
クロードの視線が下がる。
「ピアノは、離宮の自室にある。もう、勝手に入れないところだ」
男は、沙汰が下りるまで王太子派の貴族の家に預けられている。そもそも、こんなところに一人で来れるわけもないのだ。
「色男もかたなしね。せっかく女の方から誘ったのに」
「相手から誘われるのは慣れてる。きみ誘うの下手だな」
「ああ、だからあなたはうまくジゼルを誘いこめなかったのね」
「きみほんと手厳しいな」
「うるさい、だいたいこっちだって、何も考えずに言ってしまっただけで、いやらしい意味なんてなかったのよ」
マリーがそう言って最後の一口を口に含んだ。甘いゼリーが殆ど落ちてしまっていて、甘くて酸っぱい素の果物の味が口内に広がった。
甘いものは、ずっと興味がなかった。だけど。この4日、誰にも相手にされない空虚な自分に、無差別な甘さはよく沁みる気がした。
物足りないから、もう一つ取りに行こうか、そう思ったマリーは、自分の頭上に覆いかぶさる影に何の違和感も持たなかった。
あごのさきに、何かが触れる。え、と思った時には顔を上げられ、目前に月の影のような銀糸が降り注いでいた。
青い湖面が視界に映る。澄み切った水面に、黒い髪を結っただけの地味な女が反射している。
口に広がっていたオレンジの甘酸っぱさが遠くなる。薄い舌でするりと歯列をなぞられたのは、一瞬だった。
「すっぱ」
はにかんだ顔が、存外幼く見えた。
クロードの唇は離れたが、依然としてその顔は近い。呆然としたマリーの顎から頬へと、その手は動いていった。
「このオレンジが、どこから来たのか知ってるか?」
「………コルメルサ」
違う、今問題なのは果物の産地ではない。このオレンジが南の王国から船で運ばれてきた輸入品であることなどより、もっと大事な問題が勃発している。
だけど、突然のこと、文字通り降ってわいた事態に、マリーの頭は全く働かない。
だって、自分はもう戦場で負けたのだ。場の空気の流れをつかむのも、相手の真意を推し量るのも、誰よりも優位な立場を奪うのも、そうして誰かを追い落とすのも、もう全部いらないと思って置いてきてしまったのだ。今日はフィリップを見て、音楽を聴いて、甘いものを食べて、もうそれでおしまいのはずだったのだ。
だが、目の前の男はそれで許してくれない。捕らえた相手が戦意のない捕虜だとしても、鎖でぐるぐるまきにして、逃げ出さないよう見張るかのように、目を逸らさないし、逸らさせない。
「あの国には、演奏家だった母のパトロンがいる。母が宮廷に迎えられてからも、何度も手紙を送ってきていた」
「……その人を頼るの? ふつう、気に入った女がほかの男との間に儲けた息子なんて、可愛く思えないと思うけど」
「大丈夫、パトロンは女性だ。母は、南の王国では本当に一端の芸術家だったんだよ」
「え、あ、そう、あ、じゃあそこにいくのね。いってらっしゃい」
「何言ってるんだ。きみも行くんだよ」
マリーは目を見張った。今、どんな話の流れでそうなったのか、彼女には全く追いつけなくなっていた。
「あいつの……あの二人の情けをかけられて、この国でこそこそと生きていくのは不愉快だ」
「え、ええ。そうでしょうね」
「きみも同意しただろう」
「してない! ……いやしたけどそんなつもりじゃ! いえ、それより!」
「勘当寸前で、ほかに行く当てがあるのかきみ」
ない。
ないが、だからと言って、この男と国外逃亡だなんて、あまりにも突飛すぎる。
マリーはここで、相手が正気を失っている可能性に思い当たった。自分の人生を悲観して、クロードは気が狂ってしまったのではないか。
「クロード、おちついて、あなた……」
正気じゃない。そう言おうとして、マリーはふと考えた。
正気じゃないならなんだというのだろう。彼に背負うものはない。もう、大事なものは全部フィリップに奪われている状態なのだ、と。
翻って自分はどうだと胸に問う。
さっき、修道院にいくしかないと思っていた。罪人まがいの体でいくのだ、歓迎はされないだろう。
振り返ってみた宮殿は、もうじきただの過去の遺物になる。自分にだって、もう居場所はない。
「あの曲の名前、おしえてあげようか」
マリーは、宮殿を見たまま、クロードに問うた。
「わかるの」
「もちろん。あの日、きみたちが観劇した一座は、俺の母を偲んで呼ばれたんだから」
あの曲は、母にも自分にも得意の一曲だと。
そう言った男の手が、マリーをもう一度振り向かせる。
見つめあう二人には、甘い雰囲気は流れない。あるのは同じ傷を負う敗者の、労りと慰めの気配だけだ。
そうね。わたしたち、もうあそこに戻れないものね。
華やかで、悪魔的で、絢爛豪華で、優しい夢は、ここでおしまい。
「でも、どこまで逃げ切れるのかしら。わたしは、どうしたらいいのかしら」
「俺の手だけ握ってて。後ろが気になるなら、目を閉じて金髪男だと思い込んでな。4分の1くらいは同じ血が流れてるんだし」
「誤差とするには遠くない?」
笑った。まるで今すぐここから旅立つみたいに彼が言うからだ。謀略家と名高いクロード・モルガンがきいてあきれるではないのと、言ってやると。
「今すぐ旅立つに決まってるだろ。どうせ帰っても見張られてて準備なんてできるはずがないんだから」
マリーの顔から笑みがそぎ落とされたのを、クロードがにやりとまた笑った。性根のせいか、すこし馬鹿にしたように、笑われた。
「言ったじゃないか、手だけ握ってろと。だいたい、こんなところで話題の黒幕二人でしけこんでれば、王太子一派に目をつけられて、いらない罪までかぶせられるかもしれないだろうが」
さっきまでの優しい面影はどこへやら、クロードが冷たい笑みでそう言った。まさか、そんな、と震えた笑いで誤魔化そうとするマリーに、追い打ちもちゃんと用意して。
「俺が自由にここまでこれたわけないだろう。俺たちまわり中見張られてるよ」
この包囲網の中で、誰が俺の協力者か、今だけ教えてやる。
そう耳に流し込まれた甘い囁きに、まさしくここは悪魔と引き合わせられる宮殿だったと思い知った。
だけど。
「あなた、ほんとに、あの曲が弾けるのよね?」
もう、これだけ確認ができればいいや、息も絶え絶えの心臓にそう言い聞かせて。
なのに男は顎を上げて酷薄に笑う。
「大丈夫だ。コルメルサは歌劇の本場だから」
「は!? ちょっと!?」
「ケーキもおいしいよ」
それはどうでもいいことだから!
***
とある南の国、太陽が照り付ける古い都のお屋敷に、今日も手紙が届く。
仕分ける使用人の手から奪い取って、広い廊下を走り出す少女。
「ママー、外国からお手紙来てるよ!」
たどり着いた明るいサロンで、母と呼びかけられた女は、はしたないと鼻に皺を寄せて少女を迎える。
同時に、音楽がなりやむ。
少女は封筒の差出人を確認してから、身重の母に差し出した。
「誰からだ」
ピアノ越しに問われた声に、さぁ、と言った女の動きが止まる。女の代わりに少女が答えた
「フィリップ・モルガンだって! ねぇ、コーデルもう外国語も読めるのよ、すごくない!?」
バン、と濁った音が鍵盤からはじきだされた直後、重いピアノ椅子が蹴倒された。
「ふざけるな、捨てろ!」
「ええ! いやよ、せっかくフィリップが送ってくれたのに!」
「きみ、あれほど喧嘩したのにまだあいつに返事を書いてるのか!」
女がふんと鼻を鳴らす。
「私宛の手紙よ。読むかどうかも、返事を出すかどうかも、私の一存で決まるわ。そんなこともわからないなんて、お里が知れるわね」
「同郷だバカ女」
「おおいやだ、なんて野蛮な言葉遣い。負け犬根性拗らせるとこれだから」
言い争いを始めた両親を交互に見る少女コーデルは、慣れたものなので動じなかった。
ただ、一つ引っかかっていることがあったので、親に似ない正直さで大声を出した。
「ママ、パパは野蛮じゃないよ! ママが捨てちゃったジゼルさんからのお手紙に、パパはちゃんと返事書いてたもん!」
沈黙が場を支配したのは一瞬だった。
「この裏切り者ーーーーーっ!! どいつもこいつも!!」
「君にだけは言われたくない! だいたいジゼルは俺たち二人に送っているが、フィリップは君にしか送らない! これでやましくないとはどういう了見だ!」
「なによ! そんなに言うならここで朗読してあげましょうか!」
「いらない! あいつの言葉なんてききたくもない!」
「うるさーーーーい!! ……えー、コホン。『親愛なる我が幼馴染へ。』ふふ、親愛ですって……『きっとこの手紙のことでわが叔父とまた喧嘩してしまっていることだろう。もしかしたら、身の潔白を示すために、きみはこれを朗読しているかもしれないね』……」
「……」
二人の男女はどちらともなく黙った。コーデルが続きをねだる。
「……『きみたちがあの晩に忽然と消えてから』……白々しいわねぇ、追わせなかったくせに。『随分たつ。我が息子も随分大きくなって毎日てんやわんやだ。そして嬉しいことに、この国まで音楽家クロードの名声は届いている。どうにか我が宮廷に招待したいものなのだけれど、今はまだ難しそうだ』」
「誰が行くかって返しておいてくれ」
男は倒れた椅子を戻しながらそう吐き捨てた。
「『ジゼルも、彼の演奏を聞きたがっている』」
男が手紙を読み上げる女に向かって振り返った。
「嘘よ」
「きみ……!」
「なによ、なに期待してるのよあさましい男ね」
「年甲斐もなく頬を染めて浮かれて開封したくせに言うじゃないか。太ったのは出産のせいだけじゃないだろう」
「だまりなさい!」
それから二人がまた言い争いを始めてしまったので、コーデルはむくれて母の手から滑り落ちた二枚目の手紙を拾い上げた。
「『最後になるが』……うんと、『もうこの際だから外交を口実にして、こちらから会いに行こうと思う。さっきの、ジゼルがかの黄金宮を久方ぶりに開放して、演奏をききたがっているというのは本当だけど、絶対クロードとは二人きりにさせないので安心してほしい』」
幼い読み上げに、二人の動きが止まった。男は自分につかみかかっていた女の手をほどき丁重に椅子に座らせると、コーデルの手からその紙をひったくった。
「『ちなみに、この手紙に返事は出さなくていい』」
「クローーード!!」
「違う、本当にそう書いてある。『なぜなら』」
ピアノのあるサロンに、家令が顔を出す。
「『きみたちが娘を連れてまた逃げたりしないよう、この手紙は僕たち家族が旅立った5日後に発送するよう言い含めておいたから。追伸、この機会に老フェルゼル侯爵ときみの弟君も同行するから、客室は多目に用意してくれ。孫と姪会いたさに毎日宮殿に押しかけられ国交を再開するよう泣いて迫られた、僕たちの身にもなってくれ。』」
室内労務に携わりながらも、故郷の人間よりずっと日焼けした肌の家令が、冷や汗と共に来客を告げた。
マリーは、いまここで二人目の子を破水するんじゃないかと思った。
***
はるか北、栄華を極めた宮廷で、一つの恋が実を結んだと、誰かが噂した。
勇敢で誠実な若き王子が、美しくも酷薄な恋敵から、純真無垢な乙女の愛を勝ち取ったと。まるで歌劇のように、情熱的に。
それは違うと、別の誰かが口を挟んだ。
人々に忘れ去られていた亡国の娘が、艶やかで傲慢な魔女の悪意を退けて、運命の人に巡り会ったのだと。それこそ舞台のように、劇的に。
最後に誰かが言った。
それは同じ恋人たちの物語だよ、と。
夢の最後に、主役も敵役も、カーテンコールの笑顔でしめくくる。
皆さま、また、次の舞台で。