【七章】 四阿、ロンユエ、まち針の使いかた
おれたちはトルソーの指示どおりに進んだ。
コウモリの群れが襲いかかってくるたびに、フォッテは火を作ってやつらを燃やした。闘いかたが次第にこなれていく。新兵の調練を見物しているようで、気分がよかった。
最後の角を曲がる。前方の暗がりから風が吹いてきた。野原のようだが、光源がとぼしいために奥行きが定かでない。
「やっぱり引き返さないか?」何度かくり返した言葉を口にする。
「行こうよ。帰れって言われたら、針を置いていこう」
「おまえ、意外と強情だよな」
短くフォッテが笑う。野原に足を踏みいれた。
「ここから先は、おれやシュピールの名は口にしないでくれ」
「なぜ?」
「ロンユエとは、以前ひと悶着あったんだ。もしあいつがしかけてきても絶対に応戦するなよ。おれが名乗れば、やつの注意はかならずこちらへ向く。おまえは隙を見て逃げろ。トルソーの家にかくまってもらうといい」
頭上からため息が降ってきた。「いやだよ、ひとりだけ逃げるなんて」
「なら、引き返そう。この条件が飲めないなら、四阿に行かせるわけにはいかないよ」
フォッテが足をとめた。しばらく考えこんでから「わかった」とつぶやく。「ごめんね。ランドルフの傷を治すためにこの街へ来たのに」
「いいさ。ここの空気が効いているのか、もう痛みはほとんど感じないんだ」
うなずき、フォッテはおどろくべきことを口にした。「わたし、ちょっとロンユエさんに会ってみたいんだ」
「なぜだ?」
「どんな人かなと思って。トルソーさんはとても――個性的だったでしょう? ロンユエさんのことも気になるよ」
「変なやつだな、おまえ」
フォッテがまた小さく笑う。「そうかな?」と言って、歩きはじめる。
もう口はきかなかった。しばらく行くと、それらしいものが見えてきた。扇を逆さにしたような形の暗い色のふちどりが、うす闇に浮かんでいる。
さらに近づいた。やはり、四阿の屋根だった。柱はただの丸太だ。さほど広くもなく、どこにでもあるような簡素な造りだ。
フォッテが、四阿のすぐ手まえで立ちどまる。屋根の下は一段と闇が濃い。
「ごめんください。ロンユエさん、いますか?」
うなり声が返ってきた。迷惑だと言わんばかりの気だるげな声は、正面の低い位置から聞こえた。
「わたしは、フォッテといいます。パウロさんに会うためにこの街へ来ました」
「娘、ランドルフはどこだ?」不機嫌そうな口調で、ロンユエは言った。
フォッテが押しだまる。
「ここだよ、ロンユエ。どうしてわかった?」
首を伸ばしてそう言うと、四阿の床から大きな影が浮きあがった。
「これだけ静かなんだ。おまえらの会話など、まる聞こえだ」
「知らなかったよ、そんなに耳がいいとは」
影が、近づいてきた。足音は聞こえない。獣の体臭が鼻をつく。
「その格好はなんだ、ランドルフ」
杖の先の火に照らされて、ロンユエの顔が闇に浮かびあがる。目鼻は狼に似ているが、体は牛よりでかい。
「おまえこそどうした、ロンユエ」
どんよりとした目つきで、獣が睨んできた。眼のふちから大量の目やにが吹きだして、瞳を半ば覆っている。左の耳が欠けていた。わずかにひらいた口もとからは長い牙がのぞいているが、そのすぐとなりには縦長のすき間が見える。
「ああ、うるさい」羽虫でもまとわりついたのか、ロンユエは不快そうに頭を振った。以前は雲のようにやわらかそうだった毛が、いまはよじれて固まっている。筒状になった毛の束に、赤茶けたものがこびりついていた。
「天を切り裂く霊獣と呼ばれたおまえが、見る影もないじゃないか」
「うるさい」
「おまえ、すぐにでもこの街を脱けだして、試しの門を破り、もとの世界へ舞いもどると言ったよな」なじるような口調になっていた。ロンユエの無残な姿を目のあたりにした途端、頭に血がのぼってしまった。「えらそうな口を叩いたくせに、こんなところでくすぶりやがって」
獣がうなった。口の両端が裂けるように伸びていき、耳のすぐ下まで達する。「首を、ねじきってやろうか。ランドルフ」
「待ってください、これを――」フォッテが右手を差しだした。「トルソーさんにもらったんです。彼女は、ロンユエさんが困っているのではないかと言っていました。これが必要なのではないかと。わたしたちにできることがあれば――」
「おまえらに、どうこうできるようなことじゃない」ロンユエが右の前肢を持ちあげた。三日月形の爪が音もなく伸びでる。三本肢で器用に立った獣が、首もとをかきむしりはじめた。
なにか滓のようなものが舞い散って、こちらまで降りかかってくる。たまらず眼をとじたの。
「かゆいんですか?」フォッテがたずねた。
「ああ、かゆくてかゆくてたまらねえ。気が狂いそうになるほどだ」
「掻かないほうがいいと思います。余計にかゆくなりますよ」
「そんなことは百も承知だ。ちくしょう、また逃げやがった」
フォッテがこちらに顔を向けた。「パウロさんの薬を塗れば、かゆみがおさまるかな?」
「そんなもの、とっくの昔に試したわ」
フォッテがあとじさる。いきなりロンユエが床に転がったからだ。体をばたつかせながら、左右の前肢で激しく頭部を掻いている。
「うるせえぞ、こんちくしょう!」いやな音がした。皮膚が裂けたようで、ロンユエの額から血が噴きだす。頬を染め、あごから地面へしたたり落ちていく。
「大丈夫ですか?」
「苛つくから話しかけるな。いますぐ消えろ」せわしなく振動していたロンユエの尾が、床を叩く。「パウロなら円形広場に面した酒場にいる。時計塔を目印にして行けば迷うこともない」
礼を言うと、フォッテは革袋の肩紐をかけなおした。「でも、放っておけません」
うっとうめいて、ロンユエはいきおいよく立ちあがった。体をふるわせながら、足もとに大量の液体を吐きもどす。
酸っぱい臭いが漂う四阿に、フォッテが足を踏みいれた。ロンユエのわきにまわりこむ。
火に照らされた背中はひどい有様だった。方々の毛がごっそりと抜けおちて、皮膚があらわになっている。えぐれたような傷が縦横にはしり、肉の裂け目の奥に白っぽいものがのぞいている箇所もあった。
ロンユエがまた吐いた。
「退がれ!」とっさに叫んでいた。
フォッテが反応するよりも早く、鞭のようにしなったロンユエの尾が飛んできた。全盛期の鋭さには遠く及ばなかったが、それでも打たれたフォッテは横にふっ飛び、円柱に背中を打ちつけた。
「大丈夫か、フォッテ」袋のなかにいたおれも、彼女と一緒に床に落ちていた。
「うん」片膝をついて、なんとか立ちあがろうとする。杖は放していなかった。
かすかな擦過音が耳についた。振りかえる。手を伸ばせば届くほどの距離に、ロンユエの顔があった。眼球が上方へまわり、だらしなくあいた口の端から、長い舌が垂れている。
「ロンユエさん――」
「うるせえ、消えろ」
黄色い瞳が一瞬おれたちをとらえ、ふたたびあらぬ方向へ向かう。そのときだった。ロンユエの右眼――眼球の白眼の部分の表面を、紐状のものが横断した。黒っぽい色で、全長は人の小指ほどだ。蛇のように身をくねらせて進み、目のふちに達すると、そこから潜りこんで姿を消した。
「おい、なんだいまのは」
「知るか!」肢の先で眉間のあたりを叩いた。「一年もまえから体のなかを這いまわっていやがる。何度も爪でえぐり取ろうとしたが、そのたびに潜りこんで始末に負えねえ」
「なにか、悪さをするのか?」
「おかげでこのざまだ。あの野郎、たまになにか吐きだしやがる。じりじり痺れてひどい気分になる。眼の奥がちりちりして――」
今度は左右の眼に、一匹ずつ現れた。ヒルのようだが、動きが敏捷だ。もぞもぞと眼球の表面を泳ぐ姿は、まるでおれたちをおちょくっているようにも見える。左眼のやつは、細い体を持ちあげて空中でふらついて見せることさえした。
たまらずロンユエが、眼のあたりをこすりはじめる。
「ねえランドルフ、パウロさんの薬は、どんな病や傷にも効果があるんでしょう? どうしてロンユエさんには利かないんだろう?」
「当然だろうが」激しく身をふるわせながら、ロンユエが自嘲するように笑う。「やつらは生きている。おれがパウロの薬を飲んでも、向こうが元気になるだけだ」
「ああ――そういうことか」
ロンユエがわきにつばを吐いた。「さっさと消えろ。あの連中、おまえらが来てから、とち狂ったみたいに動きまわっている。これ以上ぐずぐずしているなら、本当におまえらを殺す。そうすりゃすこしはおとなしくなるだろう」
「待てよロンユエ。あのヒルみたいな生きものは、いつも動いているわけじゃないのか?」
「だとしたら、とっくにおれは発狂している。おまえらが気になっているんだろう。たしかにおまえら、おれよりはるかにうまそうだからな」
フォッテの手が伸びてきて、おれの首すじに触れた。なぜか、いやな予感がした。
「ランドルフ、わかったよ」固くて冷たい声だった。
「なんのことだ、フォッテ?」いやな予感がふくれあがっていく。
「トルソーさんの言葉の意味がわかった。ロンユエさん、あのヒルみたいなものが、ぜんぶで何匹いるかわかりますか?」
五匹だと、あえぐようにロンユエがこたえる。
「あれは、傷口からも顔を出しますか?」
「しょっちゅうだ。もう行け。首をはねるぞ」
フォッテが杖を左手に持ちかえた。ロンユエのわきに膝をつく。「やっぱり。眼だけじゃないんですね。穴があれば、そこから出たり入ったりするんですね」
彼女の左のひとさし指が、まっすぐに伸びた。右手にはまち針――
「だめだ!」遅まきながら、おれも気がついた。足をかいて袋から出ようとするが、彼女がわきではさんでいて身うごきが取れない。
フォッテがこちらを向いて小さくうなずく。微笑を形づくる口もとに、怖じ気がのぞいている。彼女はひとさし指の腹にまち針が突き刺した。ねじりながらさらに深くえぐる。指の腹に小さな血の玉が浮きあがってきた。
「やめろフォッテ! それは駄目だ」
おれの制止を無視して、彼女は同じ動作を二度、三度とくりかえした。フォッテの突発的にも見える行動には、これまでにもいくたびかおどろかされてきた。しかし、このときほどの驚がくを感じたことはなかった。すでにパウロの居所はわかっている。フォッテとロンユエは初対面だ。そして目のまえに立つ獣は明らかに挙動がおかしい。トルソーの言葉どおり以前よりもはるかに兇暴になっている。すぐに四阿から出ていかなければ、おれたちを殺すと言っているのだ。
「じっとしていてくださいね」フォッテが指を寄せていく。
「ランドルフ、この娘――」言いかけたロンユエが首をすくめる。鼻の頭にしわを寄せて、うめきはじめる。とじたまぶたのあいだから、例のヒルが顔を出した。
獣の頬に触れんばかりの距離で、フォッテが指を揺らす。その動きにつられるようにして、ヒルが細長い体をさらに伸ばす――そいつがぽとりと指の腹に落ちた瞬間、フォッテがまち針の先端で突いた。串刺しにされて身もだえるヒルを、杖の先に浮かべた火で焼く。
さらに二匹のヒルが、フォッテの指に張りついた。一匹は針で捉えた。その隙にもう一匹がフォッテの指先の傷に頭を突っこみ、強引になかに入ろうとした。
とっさにおれは革袋の側面に爪を食いこませた。体を持ちあげ、思いきり首を伸ばす。上下のくちばしで、なんとかヒルをはさみこむ。そのまま断ち切ってしまおうと思ったが、あごに力を入れようとした刹那、急に動くことができなくなってしまった。ある思考が脳裡をよぎったせいだった。
――まっぷたつにすれば、こいつは死ぬのか? かならず? ばらばらになっても動きまわるような生きもので、しかも口から体内に侵入したら、どうなる?
動けなかった。ヒルはもがいていた。くちばしからはみだした部分が、うねうねと 蠕動している。
「ランドルフ、そのままじっとしていて」
まち針の先端が近づいてきた。フォッテはそっと針を運び、火に近づけた。枯葉を踏むときのような音を立てて、そいつは溶けた。
思わず安堵の息が口から洩れる。フォッテも口の端に笑みを浮かべていた。しかし――
「ぼさっとするな!」ロンユエが言った。
のこった二匹のヒルは、すでに宿主の体から出てきていた。どこをどう移動したのか、一匹がフォッテの右眉の上に、もう一匹が頬に貼りついている。
彼女はぎゅっと眼をとじて、眉の上に指を這わせた。指先でヒルをすりつぶし、もう一匹を頬から払い落とそうとしたときだった。
ロンユエとおれは、同時に声をあげた。
血のにおいを嗅ぎつけたのだろうか――最後のヒルが、なんと体を縮めて跳躍したのだ。フォッテの親指のつけ根に着地すると、血が垂れるひとさし指の穴へ向かって素早く移動をはじめた。
針を持ちなおしたフォッテが、二度、三度とヒルを突こうとする。だが紐状の生物は体をくねらせて針を避け、傷口のまえまで行くと、いきおいよく穴に頭を突っこんだ。
フォッテが針の中ほどで、ヒルの腹を押しつける。
「よし! 引っぱり出せ。あわてるなよ。慎重にな」
針の先が、ひどく揺れていた。
「ほら、もうすこしだ」
フォッテの指先に力が入ったのか、それとも危機を感じ取ったヒルが自らそうしたのか、不意に紐状の体が――針が食いこむ部分から下が――ずるりと縦に裂けた。
半身を両断された状態で、ヒルは激しく体をうねらせた。猫に追われ、必死で巣穴へ駆けもどろうとする鼠を思わせる素早さで、フォッテの指先の穴へと潜りこんでいく。
まち針が、彼女の指に突き刺さった。引き抜かれて、また刺さる。
ヒルは移動をつづけている。フォッテの指の側面がわずかに盛りあがり、平らになる。皮膚の下のどこにいるか一目瞭然なのに、なかなか捕まらない。ヒルが手の甲を通過した。手首に達し、二の腕をのぼりはじめる。
フォッテは片膝をついた姿勢で狙いを定め、もう二十回以上、自分の腕を刺している。
それでもヒルは止まらない。周囲の肉の動きや音を感知しているのか、針が迫るたびに身をよじり、追撃をかわしつづける。
「ランドルフ、どうしよう!」耐えかねた様子でフォッテが叫ぶ。
「もっと深く突け! あとのことは心配するな、おれがかならずパウロの薬を持ってくる。とにかくそいつを止めるんだ!」
「うん、でも――」
いびつな隆起が、フォッテの上腕を這いあがっていく。どうもヒルは体が膨張しているようだ。皮膚の下から盛りあがる輪郭が、いまは小枝ぐらいの太さになっている。
目のまえでくり広げられているのはまさに悪夢そのものの光景だった。肩まで行かれたらなす術がなくなる。そこからは胴体へも頭部へも行ける。そして一度体内へ潜られたら、取りのぞくことは難しい。
「ああ!」フォッテの口から嗚咽が漏れる。突き刺した針が、八割がた腕に埋もれている。腕も、指も、頭部も、瘧にかかったように震えている。
「すぐわきにいるぞ。ひねって掻きだせ!」
「痛いよ、ランドルフ」
「泣くのはあとだ、ほら」言いながら、声をかけることしかできない我が身を呪った。
「ランドルフ、怖いよ、もうこんなところまで――」
いまや忌まわしい隆起の先端は、フォッテの肩口のすぐ下まで来ていた。
「あきらめちゃだめだよ、フォッテ、もう一度、よく狙って」
歯を食いしばり、目尻から涙をこぼし、彼女は針を引きぬいた。赤い斑点がいくつも浮かぶ腕の隆起に狙いを定めて、ふたたび突き刺す。ずぶずぶと深く差しこんでいくが、またしてもヒルがかわす。まるで針が通る道筋を予測しているかのような動きだ。
フォッテが頭部をのけぞらせた。尻を床についてしまう。「ああ、もう――」
彼女の肩が下がって、おれは革袋と一緒に地面に落ちた。
「先に、礼を言っておく」低い声――ロンユエだった。
「おまえ、こんなときになにを――」
やつが前肢を振った。一瞬遅れて、フォッテが眼を丸くした。悲鳴はあげられなかった。
茫然と見あげるおれの顔に、温かいものが降りそそぐ。フォッテの腕に、骨まで達するほどの深い傷ができていた。よく研いだ剣で斬りつけたような切り口だった。
「まだ、気を失うなよ」噴きだす血を頬に受けながら、ロンユエは体の側面をフォッテに寄せた。肢を折り、床に腹をつける。「背中に乗って、つかまれ」
恐ろしく浅い呼吸をくり返しながら、フォッテは探るように片腕を伸ばした。頭部ががくがくと揺れている。半分ひらいた口からよだれが垂れていた。鼻水も。涙も。汗も。
彼女に背中の毛をわしづかみにされても、ロンユエは微動だにしなかった。
フォッテが片足をあげる。足の内がわをこすりつけるようにして獣の背中にまたがると、まえのめりに倒れて、ほつれた長い毛に覆われた首のつけ根に顔をうずめた。
「ランドルフ、杖を取れ」
乳白色の杖は、革袋のわきに落ちていた。袋から出ようとしたが、肩が引っかかる。
「さっさとしろ」と急かされた。
首を伸ばしてくちばしで取りあげる。ロンユエの牙が目前に迫り、体が浮きあがった。見ると、革袋の肩紐の部分が、やつの下あごから生える牙に引っかかっている。
「娘、十数えるあいだ、耐えろ」
ロンユエが駆けだした。おれの体はほとんど揺れなかった。おそらくフォッテも振動は感じなかったはずだ。そういう走りかたを、ロンユエはしていた。
それでもやつは疾風のような速さで、正面からぶつかってくる風が痛いほどだ。
たまらず、後方へ顔を向けた。
紫色の空に、例の渦が浮かんでいる。
なぜかおれにはその渦が、悪意を放ちながらこちらを睨みつけているように感じられた。