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【六章】 奈落の街、結界と呪い、トルソー

 街に入った途端、音がくぐもった。

 だれかの指が耳の穴に差しこまれているようだ。

「ランドルフ、音が――」

「気にするな。周囲を警戒しろ」そう言う彼の声もぼやけている。

 杖を胸の高さにかまえて左右をたしかめる。街のなかは平原よりもさらに暗い。動くものは見あたらない。物音も聞こえない。

「どっちに行く?」

 正面には幅の広い通りがまっすぐに伸びていた。両がわにも道は通っているが、こちらはずっとせまい。

「まっすぐ行こう。道の端を歩け。飛び道具を持っているやつがいるかもしれないから」

 大通りの左端を歩いていく。肌がちくちくする。眼がかゆい。

「かかないほうがいいぞ」ランドルフが言った。

 はっきり感じとれるほど空気が澱んでいる。通りぞいにならぶ家屋はどれも廃屋同然だ。ある家は壁が崩れおち、ある家は屋根がない。明かりはひとつも見えない。

「なんだか妙だな。まったく生きものの気配を感じない」

 ランドルフがそう言うなら、自分が感じている視線は気のせいなのだろう。それにしても、朽ちた家々の窓からいくつもの眼が注がれているような気がして仕方がない。

「みんな、試しの門のところに行ったんじゃないかな」余計な会話はしないほうがいいのだろうが、なにか話して気を紛らわせたかった。「あそこを通してもらって、それからずっとずっと歩いていけば、もとの世界にもどれるでしょう?」

「それはない」周囲を警戒しながらランドルフが言う。「ここの住人は、入り口の木に結んであった縄を越えることができない。一歩でも街から出ると、体が弾けとんでしまうんだ」

「なんだかゴドルフィンの結界と似ているね」

 左手の屋根のほうへくちばしを向けながら、ランドルフは「そうだな」と気のない返事をした。

「もしかして、両方とも同じ人が作ったの?」

「まあな」

「それはシュピールさん?」ずっと、そんな気がしていた。

 ランドルフが笑う。「ゴドルフィンの結界が二重になっていることは話したよな?」

「うん」

「ひとつはおまえの言うとおり、シュピールが張った結界だ。しかし、この街のほうは別人の仕業だよ。シュピールはこんなところに気に入らない者を堕として、自由を奪ったりはしない」

「じゃあ、この街に結界を張ったのはだれ?」

「おまえももう魔法使いの端くれだから言うんだが、結界とはすこしちがうと思う。シュピールは呪いという言葉を使っていたな」

 ふっと背筋が粟立った。「だれがそんなことをしたの? この街にパウロさんたちをとじこめているのはだれ?」

 ランドルフはすぐにはこたえなかった。通りの向こうをたしかめ、背後をたしかめ、紫色の空を見あげる。顔をおろしてため息をつき、それからようやく口をひらいた。「そいつは〈慈悲深き夜の女王〉と名乗っている」

「知っているよ、その人。でも、ずっとおとぎ話だと思っていた」

「残念ながら、実在するよ」

 幼いころ、彼女が登場する本を読んだことがある。友人から話を聞いたこともあった。

 慈悲深き夜の女王は、世界中でもっとも敬愛されている魔法使いだ。彼女はずっと北のほうにある国の統治者だ。国土は横に伸びていて、さらに北に棲息している異民族――巨人族や氷河の民、紅蓮ぐれん族といった者たち――の侵攻を防ぐ盾の役目を担っている。

 女王の力は強大で、野蛮な異国の者たちが攻めこんできてもかならず追いはらってしまうのだという。

 ほんの一週間まえまで、フォッテはそういう話を伝説のようなものだと思っていた。なにしろ慈悲深き夜の女王は三百年以上も生きていて、そのうえいまも若くて美しい姿を保っているというのだ。さらに、北方の民のなかには人の五倍の背丈がある巨人や、腕が四本ある土蜘蛛ぐも族もいるという。小さな子供ならまだしも、フォッテぐらいの年ごろになってまだそんな話を信じている者は、街にはひとりもいないだろう。しかし――実際に魔法が使えるようになってみると、女王にまつわる話も急に現実味を帯びてくる。

「ランドルフやシュピールさんは、女王と知りあいなの?」

「すこし長い話になるんだ。いつかゆっくり、話してやるよ」

「ごめん、そうだよね。いまはそれどころじゃないもんね。早くパウロさんを見つけて、傷を治してもらわないと」

「悪いな。それにしても、どうも勝手がちがう。以前おれが来たときはもうすこし――」ランドルフが口をとじた。どうしたのかと訊ねるよりも早く、彼が叫んだ。

「火を作れ!」

 杖を握りしめる。ななめ上にさし向ける。

『ヘテロ!』

 現れた火の玉は、直径が大人の女性の身長ほどもある。慌てたせいで大きさにまで気が回らなかった。あまりの熱さに思わず左手で顔をかばう。

「馬鹿! ちゃんと見ろ!」

 ランドルフの怒鳴り声と一緒に、異音が聞こえた。水を張った桶に火のついた燐寸を落としたときのような音だ。それが五度、六度とつづく。次第に音の間隔は短くなっていき、ついにはひとつながりの長く尾を引く音になった。濃い臭気が漂ってきた。すぐにあたりに立ちこめて、目まいがするほどになる。

 嵐に巻きこまれたような時間は、たっぷり六十数えるあいだはつづいた。

「もういいだろう」音が途絶えてしばらく経ってから、ようやくランドルフが言った。「怪我はないか?」

「大丈夫」

「そこ、気をつけろよ」

 地面でなにかがひくひくと動いていた。三歳児ぐらいの大きさだ。怒った猿のような顔でフォッテをにらみつけている。片方だけのこった羽で地面を叩き、かん高い声で鳴いた。

「オトドコウモリだ。それ以上近づくなよ。こいつは鼻から毒汁を噴射するんだ。火で焼いてくれ」

 杖を差しむける。例の音を立てて、コウモリは溶けた。

「のこりもぜんぶ焼いておこう」

「きっと、もう飛べないよ。ぐるっと遠まわりをして行こうよ」

「だめだ。どうせもうこいつらは助からない。楽にしてやりなよ」

 そう言われると、拒否できなかった。憂鬱な作業をやり終えたときには、鼻にいやな臭いがこびりついていた。こちらを睨んで威嚇する顔と溶けるときの音も、当分忘れられそうにない。「はじめてコウモリの顔を見たよ」

「普通のコウモリは、もうすこしかわいい顔をしているよ。さあ、行こうか」

「うん。どうやってパウロさんを探す?」

「名前を呼んで歩くってわけにもいかないしな」

 結局、もうすこし歩いて街の様子を見よう、ということになった。廃屋を十五軒ほど通りすぎたところで、ふたたびランドルフにとめられた。

「どうしたの?」

「なにか聞こえた。あっちのほうだ」くちばしが右を向く。

 通りをわたった。小ぶりな一軒家のまえに立つ。玄関扉はなく、戸口がまっ黒な口をあけている。

「ここ?」

「たぶんな」

 横長の看板が、軒先にかかっている。大量のほこりをかぶっているせいで、眼をこらしてもなんと書いてあるかわからない。正面左手の壁はショーウィンドウになっていたようだが、いまは窓枠にわずかにガラスがのこっているばかりだ。

「また聞こえた」

 耳をすます。たしかに戸口の奥から、ささやくような声が聞こえる。

「声をかけてみようか。パウロさんの居場所を知っているかもしれないよ」

「できれば友好的にな。おれが話そうか?」

「大丈夫。すいません」

 つぶやきがぴたりととまった。すこし待ってからフォッテはふたたび声をかけた。

「ごめんください」

「うるさいわね」屋内の女性が早口で言った。「あんな大きな火の玉を作ったりして、自慢したいのかしら。いやな子」

「ごめんなさい。突然、大きなコウモリに襲われて」

「かわいそうにね。みんな焼き殺されちゃって。どういうつもりかしら? よそ者がこれ見よがしに魔法なんか見せびらかしてさ」

「そういうつもりじゃなかったんですけど――」

「さっさとどこかに行っておしまい。ここは静かなところなんだ。あんたみたいなのさえ来なけりゃね」

「そうしよう」ランドルフが言った。「他のやつに訊こうぜ。こいつ、しゃくにさわる」

「静かにして」あわてて言った。せっかく見つけた住人なのだ。多少のことは我慢したほうがいい。それに他人に当たり散らす大人には慣れている。「お騒がせしてすいません。ちょっと伺いたいことが――」

「謝るのは別のことでしょうが。あんたの失礼な連れの声はちゃんと聞こえてるんだよ」

「ごめんなさい。彼にも悪気はないんです」

「どうだか。それで、なにを訊きたいの?」

青斑蛙あおまだらがえるのパウロさんがどこにいるか、ご存じですか?」

「人にものを訊ねるなら、まずはちゃんとあいさつをしなさいよ」

 革袋がもぞもぞと動いた。ランドルフが袋の口から首を伸ばしている。ひらきかけたくちばしを両手で覆った。「そちらに行ってもいいですか?」

「いいわよ。入ってきなさい」

 戸口をくぐった。まっ暗な廊下を火で照らしながら進む。緊張で体がこわばっていた。ほこりのせいか、鼻がむずむずしている。

「左手に部屋がある」ランドルフがつぶやいた。

「失礼します」左手の部屋へ入る。すぐ先にテーブルがあった。大ぶりなはさみとリボン、広げかけた布地が載っている。左手の壁は手を伸ばせば届くほどの距離だ。隅に木製の外套かけが立っている。その円柱からななめに伸びた棒に女性用の帽子がかかっていた。つばの広い帽子で、大きな羽根飾りが左右についている。

「おい、どこだよ」ランドルフが言った。

 フォッテは足もとを照らした。床も散らかっている。布地に、靴に、小さなかばんに、定規も落ちている。それらを踏まないように注意して進んでいく。

 テーブルの角に沿って曲がり、前方へ火を向けた。ちらりと人の輪郭らしいものが見えた。さらに右手に明かりをまわす。

「あっ!」反射的に飛びすさった。ランドルフが小さくうめく。おそるおそる、火を差しむける。見まちがいではなかった。闇に浮かびあがったのは女性の胴体だ。しかし頭がない。肩から先もない。

「あわてるなよ、フォッテ。足もとを見てみな」

 杖の先を下方へ向ける。長方形の台座が見えた。そこから太い真鍮の棒が垂直に伸びて、膝から先が断ちきられた胴体を支えている。トルソーだ。服を仕立てるときに使っていたのだろうか。

「なんだ、まだほんの小娘じゃないか」

 前方から先ほどの声が聞こえる。すぐ近くだ。

「かわいい顔をして。きっと悩みなんかないんでしょうね」

 トルソーのわきに、胸の高さの棚が据えてあった。そちらを照らして、フォッテはようやく――この家に足を踏みいれてから最初の――人の姿をしたものを見つけた。棚の上に少女の人形が腰かけている。レースがたっぷりとついた帽子をかぶり、舞踏会に着ていくようなドレスをまとっている。両腕はばんざいの途中のような角度で、それぞれ別の高さで固まっている。ひらきかけた指も、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳も、宙へ向いたままぴたりと静止していた。

「みんなにちやほやされて、毎日楽しいんでしょうよ。憎らしい。でもいいわ、男どもがあんたにやさしくするのは、ほんのちょっとのあいだだけ。若いうちだけなんですからね」

「すいません。どこにいらっしゃるんですか?」

「あんたの眼のまえよ」

 まさかと思いながら、フォッテはふたたび人形に火を向けた。

「ちがうわよ。まったく人を馬鹿にして。顔がなきゃ話をしちゃいけないの? 頭がなくたってちゃんとものは考えられるんですからね。あんたよりもずっと」

「失礼しました」トルソーのほうへ向きなおる。「あなたでしたか」

「悪い?」

「いえ、とんでもない」信じられない思いでフォッテはトルソーを見つめた。なめらかに隆起した胸と腰の線は美しいが、暗闇のなかで見ると不気味さのほうがはるかに勝っている。それに、口がないのにどうやって発声しているんだろう。

「ごめんなさい、突然お邪魔してしまって」

「それよりまぶしいのよ。こっちは長いことまっ暗なところで暮らしているんですからね。さっさと明かりを消してちょうだい」

 さすがに躊躇した。

「あたしは、まぶしいって言ってるんだよ」苛立ちのこもった声でトルソーが言う。「ここはあたしの家だ。あんた、言うことを聞かないっていうの?」

 どうやって周囲を見ているのだろう。奇妙に思いながらもフォッテは頭を振った。「いいえ、すぐに消しますから」

「おい、フォッテ」

「大丈夫だよ、ランドルフ」

 襲うつもりなら彼女にはいくらでも機会があった。正体を明かす必要もないはずだ。

 火を消した。視界が黒く染まる。なにかあったらすぐに呪文を唱えるのだと自分に言い聞かせる。

「ああ、やっと楽になった」トルソーが言った。「あなた、名前は?」

「フォッテ・アインタルトです」

「ふうん。魔法が使えるのね?」

「ほんのすこしですけど。あの――あなたのお名前は?」

「名前なんかない。〈癇癪かんしゃく持ちのトルソー〉なんて呼ぶやつがいるけど、冗談じゃないよ」

 どうこたえていいかわからなくて、フォッテは黙ったままうなずいた。「わたしたち、パウロさんを探しています。彼がどこにいるかご存じですか?」

「知らないね、そんなやつは。知っていても興味がない。興味があっても教えない。教えないどころか――」

「フォッテ、もう行こう」うんざりしたような口調でランドルフが言う。「時間の無駄だ」

「なにさ、失礼なカラスだね」

「うるせえよ、意地悪ババア。いますぐ黙らねえと、突っついてぼろぼろにするぞ」

 てっきり怒りだすかと思ったが、トルソーは鼻で笑って受け流した。「そりゃあ意地も悪くなるだろうよ。廃れた街のかびくさい部屋でひとり、気が遠くなるほどの時間を過ごしているんだからさ」

 フォッテは手さぐりでランドルフの首すじに触れた。「だめだよ、ランドルフ」

「ランドルフ、ランドルフねえ」トルソーが歌うようにつぶやく。「わたしが知っているランドルフとは大ちがいだね。恥ずかしくないのかい、カラスの分際で。大昔のこととはいえ、勇猛果敢でならした騎士と同じ名を名乗るなんてさ」

「恥ずかしいに決まってる」ランドルフが言った。「だが、しかたがないだろう。自分でつけたわけじゃない」

 ひひっとトルソーが声をあげた。「名付け親の気が知れないね」そう言うとかん高い声で笑いはじめた。ひとしきり嘲笑をつづけてから苦しげにうめき、「カ、カラスにランドルフだってさ。馬鹿みたい――」自分の言葉に吹きだして、また笑う。耳ざわりな声が部屋中を駆けまわっていた。

「ランドルフは勇敢ですよ」フォッテは言った。「見ず知らずのわたしを助けるために、ナイフを持った悪い人と戦ってくれたんです」

 ぴたりと哄笑がとまった。

「いま怪我をしているのも、わたしを助けようとしたからなんです。見あげるぐらい大きな男に向かっていって、殴られたんです」

「――みっともないね、力がないくせにそんなことをして。結局、怪我をしてさ」

「彼も非力は罪だと言ったけど、わたしはそうは思いません。力は他の者が補えばいいでしょう? いまならわたしも、すこしは彼の力になれます」

「おう、気持ちが悪い!」トルソーが声を張りあげる。「そういう上っ面のきれいごとが、あたしゃ一番きらいなんだよ。鳥肌が立っちまった」

 そろそろ潮時だとフォッテは考えていた。ランドルフの言うとおりだ。これ以上ここにいても、パウロの居所がわかるとは思えない。

 けっと吐き捨ててトルソーはさらにまくしたてた。「わたしも力になるって? コウモリを数十羽焼き殺したぐらいで、いい気になるんじゃないよ」

「そういうつもりじゃ――」

「どうだか。そうだ、あんたたちロンユエのところに行きなよ。あいつはここの王様みたいなもんだ。パウロの棲み家ぐらい知っているだろう。だが、いまロンユエは荒れているからね。兇暴な獣のまえでも嘘くさいきれいごとを吐いていられるか、試してみるといい」

「ロンユエか」ランドルフが小声で言った。

「ほう、知っているのかい、カラス?」

「まあな」

「そうかい。だがおまえが知っているロンユエとは別人だと思ったほうがいいよ。昔なら怒鳴りつけるだけで済ませたようなことでも、いまはすぐに殺しちまう。ここ一年ほどはずっとそうだ。それでこの街はこんなに静かになっちまったのさ」

 ランドルフが袋のなかで足踏みをした。「なにがあった?」

「さあね。あいつは北のはずれの四阿あずまやをねぐらにしている。この通りをまっすぐ行って、突きあたりを右に折れ、またすぐ左だ。あとは道沿いに行けばいい」

「ありがとう、トルソーさん」

 フォッテの言葉が終わるまえに、トルソーはかぶせるようにして言った。「うるさい。さっさと行って食われちまいな」

「お礼に、なにかわたしたちにできることはありませんか?」

 一瞬、間ができた。

「なんだって?」

「いえ、お礼をと思って」

 それきりトルソーは黙りこんだ。

 たしかな計算があって口にしたわけではなかった。頭をよぎったのは、革工房のお客のことだ。初対面のフォッテに苛立ちをぶつけてくるお客が、たまにいた。最初はおどろいたし傷つきもしたが、そのうちわかった。彼らはなにかと理由をつけてフォッテをなじったが、本当は彼女に対して怒っているわけではない。不安やあせりの解決策が見つからず、はけ口を探しているだけなのだ。だから目のまえの弱そうなものにあたる。

 闇に目を凝らしながら、フォッテは思いきって気になっていたことを口にした。「よかったら、洋服を探してきましょうか?」

「――なぜさ?」

「わたしがトルソーさんだったら、そうしたいと思って」

 革袋の中でランドルフが身をよじっている。早くこの家から出ようと言いたいのだろう。しばらく待っていると、根負けしたようにトルソーがつぶやいた。

「なら、たのもうかね」

「はい。服はどこにありますか」

「廊下の突きあたりに衣裳部屋がある」

「どんな服にしましょう」

「黒い、イブニングドレスにしておくれ」ゆっくりと――おそるおそると言ってもいいような口ぶりで彼女はこたえた。「絹織りの、光沢のあるドレスがいい。つるんとした手触りのやつだよ」

「探してみます」

 廊下に出た。火を灯して歩いていく。その部屋の壁は、天井すれすれまで棚で埋められていた。立てかけてあったはしごを使って、ドレスを探す。それらしい服が五着あったので、すべて抱えてもどった。

「このなかにありますか」テーブルに服を広げていく。

「ああ」トルソーが吐息を洩らした。

「どれですか?」

「左からふたつ目の、胸もとがざっくりあいたドレスがいい」

 そのドレスを持って、トルソーのわきに立つ。太もものほうから着せていく。背中がわに縦にならんでいるボタンを下から順にとめた。最後に左右の肩のあたりをつまんで、位置を整える。

「ああ、いい気分だ」

 トルソーの声は、母を思いださせた。

「心が浮きたつね」と、はっとするほどやさしい声でトルソーがつぶやく。

 フォッテはあごを下げた。涙があふれ出てしまいそうだった。

「どうしたんだい、あんた?」

「――いえ」

「なんだ、近くで見たら、昔のあたしによく似ているじゃないか。陶器の人形みたいなきれいな顔をして、眉間のあたりにはすこし憂いもあって、くちびるは桃の花びらみたいだ。まあ、あのころのわたしには敵わないけどね」

「本当かね?」ランドルフが言った。「あんたにゃ顔なんかないじゃないか」

「昔はあったのさ。長くてきれいな足もね。ちらりと視線をくれてやれば、男どもが夢見心地になっちまうほどの美人だったのさ」

 それがなぜ、とはさすがにランドルフも訊かなかった。

 フォッテはトルソーの変化がうれしくて、なにか他にもできることはないかと考えた。頭に浮かんだことを、試しに訊いてみた。「トルソーさん、どこか別の場所に行きたいですか?」

「いや、ここでいいよ。それよりあんたたち、どうしてもパウロに会わなきゃいけないのかい?」

 そのとおりだとこたえた。

「それならしかたがない。その辺にまち針がないかい? 火をつけていいから、探してごらんよ」

 テーブルの角のところに光るものがあった。「これですか?」

「それだ。あんたにあげるよ」

「それより、パウロがどこにいるか教えてくれよ」ランドルフが言った。

「あたしゃ本当に知らないんだよ。パウロは隠れるのが得意だし、ひどく臆病だからね。街中探し歩いても、まず見つからないだろう。それでもあいつに会いたいって言うなら、あんたたちはやっぱり四阿に行くしかない。ロンユエならパウロの居所を知っているはずだ。知らなかったとしても、その気になれば探しだすことができる」

「しかし、あいつは危険な状態なんだろ」

「手がつけられないほど兇暴になっている。その原因がわたしの考えているとおりなら、きっとその針が役に立つよ」

「まち針が? はっきり言えよ。どういうことだ?」

「行けばわかる。いいかいお嬢ちゃん、やるかやらないかは、あんたの自由だからね。決して気分のいいことじゃないから、ああしろこうしろと指図するようなことは言わないよ」

「わかりました。ありがとうございます、トルソーさん」左の袖口をつまんで山を作った。そこにまち針を通す。

「礼には及ばないよ」

「じゃあ、わたしたち、そろそろ行きます」

「気をつけてお行き。まだコウモリがいるかもしれない」

 廊下へ出る直前だった。肩からさげた革袋がごそごそと動いた。

「よう、ババア」つまらなそうな声でランドルフは部屋の奥へ呼びかけた。「なかなか似合ってるよ、そのドレス」

 ふふんとトルソーは鼻で笑った。「お世辞がうまいじゃないか、カラスのくせに」

 憎まれ口を叩く彼女の声には喜びが満ちていた。ふいにフォッテは悲しくなった。先ほどトルソーは、気が遠くなるほどの時間をひとりで過ごしてきたと言った。ならばこれから先、彼女はいつまでこの部屋で、暗がりに佇んでいることになるのだろう。

 ――せめてだれかがこの家を訪ねてくれるといいのだが。

 そう考えながらフォッテは玄関口をくぐり、外へ出た。

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