【四章】 火の魔法、紙袋頭、魔方陣
フォッテはひとりで墓地を歩いていた。
むずむずするような甘い香りが、鼻先をかすめていく。焼きあがって運ばれてきたばかりのパンを買った。ほかにも、ハムとベーコンとキャベツ、ニンジンと牛乳とチーズ、それに小麦粉とじゃがいもも買った。夕食はシチューにするつもりだ。
土中の家で働きはじめた。今日で五日目だ。三日目からは西街区の市場まで、ひとりで買いものに行くようになった。
左足を振りだすたびに、スカートのポケットのなかでちょっとした重みが揺れる。仕事の初日、ランドルフから硬貨が詰まった小さな袋を受けとった。十日分の食費にあてるようにということだった。
そのときはうれしかった。『その金額以上の価値がおまえにはあるのだ』と言われたような気がして、くすぐったさと同時に誇らしさが胸に満ちた。その日から、フォッテは食材を真剣に吟味するようになった。勇気を出して値ぎり交渉もする。
「あら――」右ななめまえの墓標の陰から、腰の曲がった老婆が出てきた。
「こんにちは」軽くお辞儀をする。
「お嬢ちゃん、墓まいりかい?」
「はい」もう一度頭をさげて、彼女のわきを通りすぎる。
墓地ではたまに人と行きあう。声をかけられることもあるが、たいていはあいさつだけで済む。しつこく話しかけられたときだけ、友人の墓にかごのなかのものを供えに行く途中だと言うことにしていた。
――みじん切りにしたタマネギと香草を入れたら、もっとおいしくなるんだけどな。
においの強い食材は使えない。ランドルフたちが暮らす家にはいくつかの規則があり、フォッテもできるかぎり守るようにと言われていた。
ひとつ、大きな物音を立てない。ふたつ、扉はきちんとしめる。三つ、帰宅時は穴の底でほこりと汚れを入念に払いおとす。四つ、刺激の強い食材を持ちこまない。五つ、香水や白粉などを使わない。
すべてシュピールのためだった。彼はとても体が弱い。ほこりを吸いこむと脈が跳ねあがる。強いにおいを嗅ぐと吐きもどしてしまう。ちょっとしたものを持ちあげただけで、指先から頭頂部まで激痛がはしる。日ざしを浴びれば皮膚が焼けただれ、その部分の肉が泡だちながら溶けだしてしまうのだという。
『冗談みたいに聞こえるかもしれないが、ぜんぶ本当なんだ。だから試してみたりしないでくれよ』と、ランドルフは言っていた。
そんな体だから、シュピールは外出をしない。食事もほんのわずかしかとらない。自室にこもり、すこしだけ本を読み、すこしだけなにかを書きつけ、あとは横になっている。
――なぜ、あんな体になってしまったんだろう。
生まれつきではないようだ。一度だけランドルフに訊ねてみたが、彼の口は重かった。こちらからは質問しないほうがよさそうだと、フォッテは思っている。
〈首くくりの木〉が見えてきた。
ま下に向かって垂れる枝をくぐり、裏へまわる。周囲をたしかめてから、草のなかに入っていく。穴のふちに座りこみ、かごの持ち手と縄ばしごの端を結んだ。
両手で縄をつかみ、すこしずつ縄をくりだしていく。しばらくすると手ごたえが消えた。穴に背を向けて、今度はフォッテ自身が降りていく。
ひとつ、ふたつと数えながら、足を交互に下方へ伸ばす。二十三段で足がつく。
かごを引きよせ、布をかけなおした。服についた汚れを払いおとそうとしたときだった。
『ぼくは反対だよ』
扉の向こうから声が洩れてきた。めずらしくシュピールが居室にいる。
『だがな、フォッテに――』ランドルフの声。こちらはくぐもっていて、よく聞こえない。
『断る。ぼくはもう、あんな思いをするのはごめんだ』
『マルコはしかたがなかった。そのまえのはそれこそ災難――』
『やめてくれ!』
暗い穴の底で、フォッテは眼を見ひらいた。シュピールが声を荒げるなんて。いまは顔を出さないほうがいいだろう。地上にもどってしばらく時間をつぶそう。
『フォッテに訊いてみよう』ランドルフが言った。『あいつはきっとやりたがるぞ。お袋さんがもとにもどるなら、どんなことだって喜んでやるはずだ。危険なことはおれも承知しているが――』
扉をあけた。
白地の仮面と黒くて艶やかなくちばしが、同時にこちらを向く。
「お母さんを、もとにもどせるんですか?」
ランドルフのくちばしが、ぱくぱくと動いた。シュピールは人形のように固まっている。「すいません、盗み聞きをする気はなかったんですけど、聞こえてしまって」
「どうするつもりだ、ランドルフ」静かな声で、シュピールは同居人を責めた。「彼女に余計な期待をさせて」
「絶対とは言えないんだよ、フォッテ」ランドルフはしきりにまばたきをくり返していた。「だが、なにもしないよりはましだと思うんだ。それはシュピールも同じ――」
「勝手にぼくの意見をねじ曲げるな」仮面の奥からシュピールが言う。「ぼくはただ、あれは流行病ではなさそうだと言っただけだ」
「街の連中を石にしているやつが、どこかにいるってことだろうが。フォッテが協力してくれれば犯人も、そのやりくちもわかる。治す方法だってわかるかもしれない。それはおまえも同意しただろう?」
「可能性は高まるだろう。きみとちがって、彼女なら聞きこみもできるからね」
「そのとおりだ。それに怪しいやつの家に忍びこんで、調べることだってできる」
シュピールが小さく頭を振った。飾りの先についた鈴が、木戸を爪でひっかくような音をたてる。
「彼女は兵士ではないんだ。怪我でもしたら、どう責任を取るつもりだ?」
「だからさっきから言ってるだろうが。最低限の魔法を修得すればいい。身を守ることができるし、犯人を捕まえることだって――」
「だめだ。一生後悔するような道に、彼女を引きずりこみたくない」
今度はランドルフが頭をふった。「そうと決まったわけじゃないだろう?」
「そうなる怖れがあると知っていながら甘い言葉で誘うのは、大人のすることじゃない」
「ちょっと待ってください!」フォッテは声をあげた。もう堪えるのは限界だ。次から次に突拍子もない話が出てきて、わけがわからない。「どういうことですか? シュピールさんは魔法使いなんですか?」
ふたりがこちらに顔を向ける。いまのいままで、フォッテは魔法も魔法使いも、おとぎ話のようなものだと思っていた。しかし、もし現実に魔法を使う者がいるとしたら、シュピールのような人こそふさわしいのではないか。言葉を話すカラスと、不思議な地下の家に暮らしている。奇妙な仮面をいつもつけている。彼よりも変な人を、フォッテはひとりも思いつかない。
「たしかにこいつは、魔法を使ったよ」黒いくちばしがシュピールの胸のあたりを指す。「だれもが認めるすご腕だった。大国の王が、礼を尽くして招こうとするほどのな」
仮面の奥で、うなり声があがった。「昔の話はやめてくれ」
ふん、とランドルフが鼻を鳴らす。
「さっきランドルフは、わたしがシュピールさんに魔法を習えばいいって言っていた?」
「そのあとでおれと一緒に、街の連中を石にしてまわっているやつを捜してもらいたい」
いい加減にしろと言うように、仮面がななめに傾ぐ。
それを無視してランドルフはつづけた。「おれが調べたかぎりでは、石化しているのは八割がたが若い女――十代と二十代の女だ。のこりは老若男女さまざまだが、幼い子どもの割りあいが多い。おれは新種の流行病だと思っていたが、シュピールはちがう意見だ。病にしてはかたよりがありすぎるんだと」
シュピールが苦しげに咳をする。「誤解を招くような言いかたはやめろ。たしかなことなど、わかるものか」
「あの――病でないなら、だれかが薬かなにかを使っているんでしょうか? それとも王様のお触れのとおり、悪い魔法使いが関わっているんでしょうか?」
お触れに書いてあることなど、フォッテは信じていなかった。トランやチコリ爺さんもそんなはずがないと言っていた。しかしランドルフの言葉が真実なら――シュピールが魔法使いだとしたら――他にも魔法を使う者がいてもおかしくない。ならば悪い魔法使いが人々を石にすることもあり得るのではないか。
「それはない」と、ランドルフはきっぱりと言った。「ゴドルフィンで生まれ育った魔法使いはひとりもいない。おれは毎日欠かさず街を見まわっている。信じてくれていい」
「でも、街の外から来ることはあるでしょう?」
「この街のまわりには、ずっと昔から魔法使いだけをはじき飛ばす強力な結界が張られている。それも二重にな。どんなすご腕の魔法使いも、この結界を通りぬけることはできない」
「じゃあ、この街にいる魔法使いはシュピールさんだけってこと?」
「いや、それは――」ランドルフが言いよどむ。わずかな沈黙ののち、
「フォッテさんは、勘ちがいをしているようだ」シュピールがつぶやいた。「わたしは、もう魔法使いとは言えないんですよ。ごく初歩の魔法も使えない体になってしまった」
仮面を見つめて、うなずいた。いまだに彼は、フォッテと話すときはすこし口調を正す。
「知識はのこっているだろう? それをフォッテに教えてやればいいだろうが」
「断る。あんな思いは二度としたくない」
ランドルフが背もたれの上で足を踏みかえる。「フォッテのお袋さんはどうなる?」
「彼女の母上とは会ったこともないが、娘が魔法使いになるくらいなら、自分は石になったままでかまわないと思うのが、親心というものだろう」
「でも、わたしはやりたいです」フォッテは言った。「お母さんがもとにもどるなら、どんなことでもします」
「ほらな」ランドルフがうれしそうに言う。「フォッテはやる気だぞ」
「卑怯者め。彼女の立場ならそう言うに決まっている。人でなしと言ってやりたいところだが――カラスに言ってもしかたがないか」
ランドルフのくちばしが、焚き火のなかで炭が爆ぜるような音を立てた。
部屋の空気が張りつめていく。
「わかってるよ」
フォッテには意外だったが、ランドルフの声にはいくらか笑みがふくまれていた。
「おれは卑怯者だし、勝手だよ。そのかわりこれから先はぴったりとフォッテについている。もしもこいつに危険が迫ったら、身を挺して守る。いざとなったら先に死ぬ」
「そんなこと言わないでよ」あわててフォッテは言った。
「いいや、騎士に二言はない」
「いまのきみはただのカラスだよ、ランドルフ」
挑みかかるようにあごをあげて、黒い鳥は仮面を睨みつけた。「それでも痛みと後悔を引きうける覚悟はあるからな。おまえよりはましだよ、この腰ぬけ野郎」
それからたっぷり二十数えるあいだ、ふたりとも口をひらかなかった。
折れたのはシュピールのほうだった。仮面の向こうでため息が洩れ、しぼんだように肩が落ちた。
「最初に――」ひどく気だるげな声でシュピールは言った。「重ねて念を押しておく。後悔するのは避けてほしいから」
まっ赤に染まった両眼に、見つめられた。
「魔法は便利なだけのものではない。気性の荒い悍馬のようなものだ。仲よくならんで歩いていたはずなのに、突然うしろ足で蹴り飛ばされて大怪我をすることもある。あなたは別人のようになってしまうかもしれない。場合によっては死に至ることもある。
そしてもうひとつ。この世界には〈均衡を保とうとする意思〉がある。なにかを得ればなにかを失う。魔導の道に足を踏みいれたら最後、ぐっすり眠ることも、おだやかな気分で休日を過ごすことも、二度とないと思ってもらいたい」
机のへりに、白い手袋をはめた右手がそっと載る。軽く握ったこぶしは、瘧にかかったように震えていた。
「ぼくとしては、魔法などとは縁のない生活を送ることを強く勧める。ちなみにひとつでも魔法をおぼえたら、きみは生涯この街から出られない。ランドルフが話したとおり、二重の結界が街を覆っているから。そんな不自由はいやでしょう?」
ランドルフがくちばしを開閉させる。なにか言いたいことがあるようだが、口にはしなかった。
「かまいません。それでお母さんがもとにもどるなら」
「たいていの国で、魔法使いは怖れられ、遠ざけられている。迫害を受けることもある。ゴドルフィンには審問所があり、捕まれば拷問を受ける。最後は火焙りだ。ずっと北には魔法使いが治める国もあるが、そこでも公の機関に入った者以外が魔法を使うことは禁じられている。勝手に魔法を習得したり使ったりすれば、牢へ入れられる。極寒の牢に裸同然でつながれて、死ぬまで出てこられない」
「捕まらないように注意します」
「もし捕まったら?」つぶやくようにシュピールは訊ねた。「あなたはどう思うだろう。指先を金づちで潰されたり、眼球をくり抜かりしたら」
背すじを悪寒がかけあがる。言葉そのものよりも声色のほうに、フォッテはより強い恐怖を感じた。この人は実際にそういう光景を目にしたことがあるのではないか――そう思わせるような暗く沈んだ声だった。
「もし捕まったら、自分のことを責めます」
ふたたび居室に沈黙が満ちた。つぎに口をひらいたのは、ランドルフだった。
「もういいだろう、シュピール。そういうことにならないように、おれがしっかりそばについて支えるよ」
シュピールが長々と息を吐く。仮面がゆっくりと動いて、正面にカラスをとらえた。「きみは、なぜそこまで――」
「毎日毎日、おれは見ているんだ。若い娘や幼い子供が石になっていく様子をな。その家族が連行されていくところもだ。審問所では拷問が待っている。手足の腱を切られたりして、体ががたがたになるって話だ。楽になりたい一心で嘘の自白をすれば、黒焦げになるまで火で焙られる。こんなこと、許されないだろうが」
「ちがうよ。なぜきみは、そこまで彼女に魔法を習わせようとするんだ?」
ランドルフは片足を持ちあげ、その爪の先をシュピールの胸もとに突きつけた。「おまえももう気づいているはずだ。フォッテには素質がある。あいつと――アリアと同じようにな」
仮面の奥で、はっと息を飲む音がした。
「石化の件が片づいて、そのあとどうするかはフォッテ次第だ。だが魔法の奥深さに触れた彼女が、さらに習熟したいと思ったらどうだ? ぐんぐん上達したらなにか道が見つかるかもしれない。いつかおれたちは自由になれるかもしれない」
「やめろ」シュピールが手をあげてさえぎった。「彼女の身にもなってみろ」
ランドルフが押しだまる。フォッテは耳にしたばかりの言葉について考えていた。いつか自由になれると言うなら、いまはちがうのだろう。シュピールはわかる。だが、ランドルフも不自由なのだろうか?
「すまなかったな、フォッテ」ランドルフが言った。「気にしないでくれ。あとでなにかを無理強いするつもりはないんだ。お袋さんが元気になって、おまえが魔法なんてこりごりだと思うならそれでいい。おれたちと会うのをやめて、お袋さんと普通の暮らしをしたいって言うなら、引きとめたりしないよ」
シュピールが咳をした。五度、六度とくり返される。もうずいぶん長いこと、彼はこの部屋にいる。こんなにたくさん言葉を交わして大丈夫なのだろうか。
「それでどうするんだ、シュピール。フォッテはもうやる気だぞ」
充血した瞳から放たれる、探るような視線を受けとめて、フォッテはうなずいた。
またしてもシュピールはため息をつき、背もたれに寄りかかり、のろのろとあげた両腕を肘おきにあずけた。「ぼくは手本を見せることができない。これは致命的だ。ほかの魔法使いの弟子よりも、きみは何倍も苦労することになる」
「かまいません、それは」
「――弟子になったら、ぼくの言葉にはすべて従ってもらう。質問をするのはかまわない。議論もまあいいだろう。しかし指示を拒否することは許されない」
うなずいた。心が昂ぶっていた。シュピールはもうその気になっているようだ。言葉使いが微妙に変化している。
「そんなに簡単に決めてしまっていいのかな。ぼくらは知りあってからまだ十日も経っていない。きみはぼくのことをなにも知らない。過去も、人柄も、素顔さえ」
「かまいません。すこしはお話もしましたし、ランドルフの友人なら信じられます」
シュピールの肩が小刻みに揺れた。背中を丸めて、こぶしを口もとにあてる。空咳をしているのかと思ったが、そうではなかった。彼はうめくようにして笑いをこらえていた。まえかがみの姿勢がつらくなったようで、机のへりをつかみ、上体を持ちあげた。「ランドルフ、いったいどうやって彼女の信頼を勝ちとったんだい?」
「知らん」
そっぽを向いたランドルフを指して、「照れている」とシュピールは言った。それから居ずまいを正した。「きみの気持はわかった」
「じゃあ、魔法を教えてもらえるんですか?」思わず大きな声を出してしまった。母が助かるかもしれない。それが頭の大半を占めていたが、それ以外の感情もあった。
「それはすこし、気が早い」シュピールが言う。「これから試験をする。最低限の素質があるかたしかめさせてもらう」
うなずいた。ひと言も聞き洩らさないようにしなければ、と考えた。
「これからひとつ、魔法を教える。きき腕のひとさし指を上に向けて、そこへ意識を集中させる。それから呪文を唱える。『火の精よ、ここへ寄り集まれ。ヘテロ』これだけでいい。指先に火を作ることができる。生みだす火は小さくてもいい。日暮れまでに習得しておきなさい」
「ヘテロ――」
「そう」ふらつきながらシュピールが立ちあがる。腰を痛めた老人のような危なっかしい足どりで椅子のうしろへまわりこむ。「ランドルフ、横になっているから時間になったら声をかけてくれ」
「おい、はじめての魔法なんだぞ。手とり足とり教えろとは言わないが、もうすこしなにか、助言でもしてやれよ」
「できて当然と思いなさい」帳を押しあげながらシュピールは言った。「世界中に三百人は、この魔法を使える者がいる。では」
帳が落ちた。引きずるような足音が遠ざかっていく。
ランドルフが小さく舌を鳴らした。「あれだけかよ、まったく」
「ねえ、本当にさっきの呪文を唱えるだけで、火を作ることができるの? それができる人が三百人もいるの?」
「数は知らないが、魔法使いが火を生みだすところは、何度も見たことがあるよ」
「魔法が使えるようになったら、シュピールさんが言うように毎日がつらくなる?」迷いが生じたわけではないが、彼の意見は聞いてみたかった。
「人によるんじゃないかな。別人のように傲慢になったり、なにかに取り憑かれたようになる者もいる。そうならない者もいる。おれが知っている魔法使いは、気のいいやつが多かったな。変人も多かったが」そこまで言うと、彼は声を低くした。「シュピールはこれまで弟子に恵まれなかった。それに慎重な性格だから、ああやって脅しめいたことも口にしたんだろう。だが、嘘をついたわけじゃないぞ。あいつが言ったようになることだってある。おまえならきっと大丈夫だと思うが」
「気をつけるね」
「よし。じゃあ、やってみな」
うなずき、フォッテはひとさし指を立てた。その爪の先を見つめて唱える。
『火の精よ、ここへ寄り集まれ。ヘテロ』
なにも起こらない。
「もう一度だ。指先に火が浮かんでいるところをしっかり想像するんだ」
言われたとおりにしてみたが、やはり火は現れなかった。
「窯のわきに燐寸箱がある。それを持ってきな」
小さな箱を取って、席にもどった。
「燐寸を擦って、よく見てるんだ。火の色、輪郭、音、におい――眼をとじて、まぶたの裏にくっきりと浮かべられるようにする」
燐寸の先を、箱の側面にこすりつける。軸をつまんで火を見つめた。軸が燃えていき、次第に指先が熱くなってくる。火が爪のすぐ先まで来たところで、吹き消した。
「もう一度だ」
五度くりかえした。今日ほど注意ぶかく火を見つめたことはない。ためしに眼をとじると、ありありと火の像を思いうかべることができた。今度はうまくいくような気がする。
『火の精よ、ここへ寄り集まれ――ヘテロ』
駄目だった。急に自分がひどい間抜けに思えてくる。そう言うと、ランドルフは声をあげて笑った。
「おれを見なよ。言葉を話すカラスがいるなんて、あの夜まで想像もしなかったはずだ。だれかがそういう話をしても、きっと信じなかっただろう。でもいまは受けいれている。そうだろう?」
たしかにそうだ。普通に考えればランドルフはいるはずのない存在だ。だからこそフォッテは、彼に関わるすべてを自分が生みだした幻だと思ったのだ。
「魔法は、本当にあるんだね?」
「ある。その昔シュピールはいくつもの魔法を使った。岩を溶かす火の矢も、見あげるほど巨大な氷柱も、鉄の門みたいに頑丈で透明な壁も、作ることができた」
うなずき、フォッテはふたたびひとさし指を見つめた。ここに火が現れる。ここで火が揺れる。きっと熱も感じる――くり返し自分に言いきかせていると、ふいに視界がせばまった。燭台で燃える火の音がしぼんでいく。ランドルフの気配が遠ざかっていく。
確信めいたものをおぼえながら、フォッテは唱えた。
『火の精よ、ここへ寄り集まれ。ヘテロ』
縄ばしごを使って、地上に出た。
穴のふちで待っていたランドルフが周囲をたしかめに行く姿を、フォッテはぼんやりと眺めていた。彼がもどってくると草をかきわけて進み、枝垂れ槐のまえに出た。角灯にはまだ火をいれない。彼を抱えて、まっ暗な墓地を歩いていく。
「なあ、そんなにしょんぼりするなよ」ランドルフが言った。
約束の時間はとっくに過ぎていた。つい先ほどまで、なんとか火を生みだそうとして、フォッテは懸命に励んでいた。だが、できなかった。ランドルフにたのんでシュピールを呼びに行ってもらった。何度呼びかけても彼は自室から出てこなかったそうだ。疲れきってしまったのだろう、とランドルフは言っていた。
「明日もう一度やってみな。あっけなくできるかもしれないぞ」
「ありがとう。でも、もういいの。また掃除と料理をがんばるよ」
「じゃあ、もうあきらめるって言うのか?」
日暮れまでにとシュピールは言っていた。自分は失格だ。
「真面目すぎるんだよ、おまえは」ランドルフが笑みの混じった声で言う。
「でも、シュピールさんの弟子になった人で、時間以内に火を作れなかった人はいる?」
「――あいつは、ふたりしか弟子を取らなかったからな」
「ふたりとも、すぐにできたんでしょう?」
「すぐってことはないが」
「でもできたんだ。すごいね。どんな人たちだったの?」
腹にあたっている羽のつけ根の部分が盛りあがり、もとにもどった。
「マルコは、弟子入りしたときはたしか十五歳だったな。気のやさしい男だったよ」
「男の子だったんだ。もうひとりは?」
「おまえと同じ年ごろの娘だった」
ふたりとも、それほど年齢は変わらない。そう思ったら余計に羨望と悔しさを感じた。彼らは火を作った。シュピールの弟子になった。そのあとどんなことを習ったのだろう。どんなことができるようになったのだろう。
「ふたりはいま、どうしているの?」
「死んだよ、ひとりは。もうひとりは知らん」そっけない口調だった。
「ごめんね、いやなことを訊いて」とっさにそう言った。興味本位で訊いていいようなことではなかったのだろう。『あんな思いをするのはごめんだ』とシュピールは言っていた。ランドルフも『シュピールは弟子に恵まれなかった』と教えてくれたではないか。
「気にするなよ。ちょっとあたりをたしかめてくる」
腰をかがめて、腕の力を抜いた。
ランドルフが偵察に向かう。喉笛蒐集家のように、明かりを消して闇に潜む者もいる。
中途半端に丸い月を、ぼうっと見あげて待っていた。
彼が帰ってきた。問題はないそうだ。墓地を出たところで腰にさげた角灯に火を灯す。貧民窟を抜けていく。人気のない裏路地に入り、またランドルフを抱えた。
「なあ、その気があるなら、今晩ひとりで練習してみろよ」
「うん――」
「気が乗らないか?」
「練習してもだめだと思うな。さっきも指の先に火が灯ったところを、真剣に思い描いていたんだよ。でも全然――」フォッテはそこで言葉をとめた。ランドルフの体がびりっとふるえたからだ。「どうしたの?」
「角灯を消せ。この先で悲鳴みたいな声が聞こえた」早口で彼が言う。「降ろしてくれ。ちょっと様子を見てくる」
「待ってよ、わたしも一緒に行く」こんなところにひとりで――しかも明かりを消して立っているのはいやだ。
「だめだ、ついてくるのは危険だよ」
「だれか怖い人が来たら、どうすればいいの?」
ランドルフがわきにくちばしを向ける。「そこに入ってじっとしてな」
傾いた家屋と家屋のあいだに、わずかなすき間があった。二軒とも互いにもたれあってなんとか建っているような古い建物だ。壁に使われている木がささくれ立っている。じめっとした雰囲気で、いまにもなにかが――野鼠かなにかが飛びだしてきそうだった。
「こんなところ、怖いよ」
「言うとおりにしろ。早く明かりを」
彼の声にはかすかに苛立ちが混じっているようだった。それ以上抗うのをやめて、フォッテは角灯の火を消した。すき間に体を滑りこませていく。
「そこを動くなよ」
彼の爪が石畳を叩く。羽ばたく音が、遠ざかっていく。
上を向いて息を吸った。暗闇のなかで腹と背中を押されながら、フォッテはただ待ちつづけた。不意にどこからか、子供を叱る母親の声が聞こえてきた。こんなに遅くまでなにをしていたのかと問いつめている。泣いて謝る少年の声を聞きながら、フォッテは気持が沈みこんでいくのを感じた。自分にはなにもない。さっきは――ほんのひと時ではあったが――心が浮き立った。彼らの仲間になれると思ったからだ。母を助けるために、というのももちろん本当だ。だがそれと同時に、特別な秘密をふたりと共有できることが自分でもおどろくほどうれしかった。だから必死で試験に挑んだ。目まいがするほど集中して、火を生みだそうとした。
早くご飯を食べてしまいなさいと、母親が少年に言っている。思わずため息が洩れた。
自分には素質がない。だから明日からもただの小間使いのままだ。
まっ暗な場所で圧迫されていることが、にわかに耐えがたくなってくる。耳をすまして十かぞえた。通りがかる者はいない。体を横にずらしてもとの小路へ出ると、途端に胸が楽になった。二度、三度と深呼吸をくりかえす。
――ここで待っていよう。もうランドルフも帰ってくるはずだ。建物のあいだから出たぐらいで、彼は怒ったりしない。
「いいや、許せねえ!」男のだみ声だった。
あわてて肩ごしに振りかえる。角灯の明かりがふたつ揺れていた。距離は二十歩ほどのようだ。
「あのいかさま野郎、叩き殺してやる。とめるなよ」
「とめやしねえよ」と言うと、もうひとりがかん高い声で笑った。
ふたりともかなり酔っているようだ。フォッテは酒を飲んだ大人が好きではない。いや、恐怖を感じると言ったほうが近いだろう。まだ母が元気だったころ、赤い顔をしたゲルツィオネが家へ押しかけてきたことがある。酩酊した工房の主はいつもより口調が乱暴で、身振りにもどこか獣めいた荒々しさがあった。酒くさい息を吐き、どんよりとした目つきになった男の人を見ると、そのときの恐怖が甦ってくる。
――すき間にもぐりこむ時間があるだろうか。
微妙なところだ。気づかれずにもぐりこめたとしても、通りがかったときにふたりのどちらかが顔を横に向けたら、見つかってしまう。そうなったら逃げようがない。
ランドルフが向かったほうへ視線を向ける。暗くてすぐ先までしか見えない。爪が鳴る音は聞こえない。
「とめねえどころか、手伝ってやる」
「ほう?」
「ふたりがかりなら楽だろう。ただし、あいつの銭は山わけだぞ」
「いいだろう。どこでやるかな」
「行きつけの酒場はわかってる。ほとんど毎晩顔を出すんだ。近くで張りこもう」
ふたりの声を聞きながら、フォッテは忍び足で進んだ。背後のふたりは歩みが遅い。こうやってすこしずつでも進んでいけば、追いつかれることはないだろう。もどってくるランドルフとも行きあえるはずだ。
しばらく行くと、右手へ折れる道があった。通りすぎたところで、聞きなれた音が道の奥から聞こえてきた。彼が舞いあがるときの羽の音だ。
ほっとしてわき道に入る。その直後だった。予想もしていなかったものが視界に飛びこんできて、フォッテは足をとめた。
小路は十五歩ほどで行きどまりになっている。そのどん詰まりの壁のまえで、男女が向き合っていた。
ひとりは見あげるほどの巨漢――頭を茶色の紙袋ですっぽりと覆っている。だぶついたシャツを着ていて、馬のお尻のように盛りあがった肩の筋肉が剥きだしになっている。
もうひとりは若い女の人だ。大男にのどをわしづかみにされている。噛みしめた歯をむきだしにして、爪を男の手の甲に食いこませていた。
ふたりの姿がはっきりと見えたのは、女性の足もとに転がった角灯の火が消えていなかったからだ。しゃれたフードを装けた角灯は横むきに倒れ、火の先端が風よけのガラスに触れてせわしなく形を変えている。
巨漢の腕の筋肉が盛りあがった。女性の足が浮き、かかとが高くなっている靴がばたばたと宙をかく。
紙袋頭――ランドルフの声が頭をよぎる。おそらくこの男は喉笛蒐集家の同類だ。ゴドルフィンには少なくとも五人の殺人鬼がいるとランドルフは言っていた。たぶんそのうちのひとりだろう。
引き返さなくてはいけない。そう思ったが、足が動かない。
気配を感じとったのか、巨漢がこちらを向いた。広い肩の中央にちんまりと載った紙袋には、小さな丸い穴がふたつならんでいる。
女の人の足が地に着いた。彼女の首をつかんだ巨漢が、こちらに向かって踏みだした。
「逃げろ!」
ランドルフの声――頭上から聞こえた。二階のひさしから彼が顔を突きだしている。
「とにかくそいつから離れろ!」
そうしたいのは山々だが、足がすくんでいる。男はもう目のまえだ。大きな手がこちらへ向かって伸びてくる。
木の枝を折るときのような音がして、男の腕が引っこんだ。ランドルフだった。巨漢の右肩にとまった彼が、紙袋の上から側頭部のあたりにくちばしを突きたてている。
紙袋頭が、肘を支点にしてこぶしを上へ振りあげた。
手の甲でしたたかに打たれたランドルフが、ひと声うめいて落下する。
「おいおい、こりゃいったい、なんの騒ぎだ?」
先ほどのふたり組――そう思った瞬間、胸ぐらをつかまれて、ものすごい力で引きあげられた。視界がまわり、気づくとうずくまっていた。呼吸ができない。背中を壁に打ちつけたようだ。目のまえに先ほどの女の人が倒れている。その向こうにランドルフがいた。べたりと地面に伏している。一方の羽だけを中途半端にひらいている。その姿にフォッテは目のまえが暗くなるような不吉さを感じた。
ふりしぼるような悲鳴があがった。見ると巨漢が左右の手にひとつずつ、中年男の頭をつかんでいる。紙袋頭が、無言のまま腰をひねった。頭部をつかまれていた男の一方が、体の正面からいきおいよく壁にぶつかっていく。
友人の血と肉が飛びちった壁を呆然と見つめる男の頭頂部に、ぶ厚い手が載った。もう一方の手が、男の肩をつかむ。
くぐもった音が聞こえて、思わずフォッテは眼をそむけた。横たわった女性が視界に入る。いままで気がつかなかったが、彼女の首もおかしな方向に曲がっている。見ひらかれた眼はぴくりとも動かない。
ゆったりとした足どりで、紙袋頭がやってくる。
ランドルフの羽が弱々しく動いた。起きあがりかけた彼の腹を、巨漢が蹴りあげる。風に飛ばされた洗濯物のように宙を舞い、ランドルフは地面に背中を打ちつけた。
目のまえに立つ大男を見あげながら、フォッテはひどく後悔していた。ランドルフひとりなら逃げられたはずだ。わたしが言いつけを守っていれば、こんなことにはならなかった。
大きな手が、フォッテの視界を埋めた。
逃げようしたら、肩をつかまれた。頭部にずしりと重みが加わる。よろめきかけた途端、右のふくらはぎに刺すような痛みがはしった。反射的に声が洩れる。ほとんど同時に思いあたった。角灯だ。さっき女性の足もとに落ちていた。これをぶつければ――
首をつかまれた。急速に力が抜けていく。視界がぼやける。手を振って探ってみたが、角灯には届かない。ここで死ぬのだろうか。自分も。ランドルフも。母はあの森のなかでずっと石になったままか。
ふくらはぎには、ナイフでえぐられるような火傷の痛みがつづいていた。手が届けばいいのに、と思う。倒れた角灯のなかで燃える火が脳裡に浮かぶ。ここへ集まれ、と念じた。祈るような気持だった。ここへ集まれ。お願い。ここへ寄り集まれ。火の精――
「ギッ!」と巨漢が声をあげた。首の圧迫が消える。
咳きこむフォッテのまえで、大男は片手を顔のまえへ持っていき、せわしなく宙をかいた。もう一方の手が伸びてきた。胸ぐらをつかまれる。もう一度――今度はま上に伸びあがりながら唱えた。
『ヘテロ!』
握りこぶしほどの大きさの火が突然宙に現れて、フォッテと巨漢は同時にのけぞった。
袋のなかに蜂でも入ったかのようなあわただしさで、大男が自分の頭部を叩く。
紙袋に燃えうつった火が、あっという間に袋を燃やしつくす。
巨漢が腰を折り、癇癪を起こした子どものように両手で激しく頭部をこする。煙が立ちのぼっていた。男の髪が燃えている。においからすると皮膚と肉も――
フォッテはそのわきを走りぬけた。両手ですくいあげるようにしてランドルフを拾い、さらに駆ける。もとの小径に出た。
「ランドルフ!」
首から先が、ぶらぶらと揺れている。
「返事をして、ランドルフ!」
なにかにつまずいて転びかけた。角灯が足にあたって邪魔だった。縄をほどいて足もとに置く。右手のひとさし指を前方へ向ける。ふたたび例の呪文を唱えると、くるみ大の火が闇に浮かんだ。だれかに見られたらまずいことになるが、いまは一刻を争う。
だらりと弛緩したランドルフの体を抱えなおす。
墓地をめざして、フォッテは駆けた。
片手にランドルフを抱えたまま、もう一方の手で縄をつかんで穴を降りていった。
扉をあけてなかに入る。居室は無人だった。
「シュピールさん!」黒い帳を肩で押す。土のにおいが押しよせてきた。ひんやりとした幅のせまい通路を奥へと向かう。燭台の明かりがむき出しの土の壁を照らしている。天井も足もとも土だ。これまでこちらに入ったことはない。掃除はしなくていいと言われていた。突きあたりに扉が見えた。右手の壁にも戸口がある。
「シュピールさん!」突きあたりの扉を叩く。右手がシュピールの部屋だとしても、物音聞きつけてくれるはずだ。「起きてください! ランドルフが!」
把手がまわった。扉がわずかにひらき、鈴の音を伴いながら例の仮面がちらりとのぞいた。
「ランドルフがひどい怪我をしました。呼んでも返事をしないんです」
「――居室へ」
それだけ言うと、彼は扉をしめてしまった。
「早く来てください!」
通路を引き返す。帳をくぐり、食卓の上にランドルフを寝かした。くちばしが赤黒いもので濡れている。泥ではなさそうだ。血だろうか。しかし外傷は見当たらない。
足音が近づいてきた。帳がめくれて、
「なにがあった?」シュピールが言った。
「大きな男に殴られました。わたしのせいなんです」
うなずき、彼は右手にはめていた手袋を抜きとった。手の甲にはまったくと言っていいほど肉がついていない。骨と腱の形が浮きだして、大きな黒いしみが散っている。伸びすぎた爪は五本とも曲線を描き、先端のほうが割れたり欠けたりしている。
「殴られただけじゃなくて、そのあとお腹を蹴られました」
「そう」猛禽類を思わせる節くれだった指が、ランドルフの腹を、胸を、這っていく。
「生きていますよね?」ここまで、それをたしかめる余裕もなかった。
「かなり弱いが、脈はある」仮面の奥からシュピールがこたえる。
「よかった」どっと疲れが襲ってきた。椅子に座りこむ。「どれくらいで治りますか?」
「回復することはないだろう」下を向いたままシュピールが言った。「折れた肋骨が肺と胃袋に突き刺さっている。こうやって息をしているのが不思議なぐらいだ」
「――嘘でしょう?」
シュピールが小さく頭を振る。かすかに鈴が鳴った。彼は慎重な手つきで手袋をはめた。
「助ける方法はないんですか?」
「無理だ。腹を裂いて骨を抜きたいところだが、抜いた途端に血が噴きだすだろう。血が流れすぎて死んでしまう」
「なんとかしてください。シュピールさんはすごい魔法使いだったんでしょう? なにか手段が――」
仮面がぐらりと揺れた。倒れかけたシュピールが椅子の背もたれにつかまる。なんとかもちこたえると、ひどくゆっくりとした動作で椅子をひき、腰をおろした。「先ほど言ったとおり、ぼくは一切の魔法が使えない。以前そういう呪いをかけられてね。残念だが、せめてふたりで見送ってやろう」
「いやです、そんなの」
「聞きわけなさい。こんなときに駄々をこねてはいけない」
「――そうだ!」あることを思いついて、椅子から立ちあがった。「見てください。火を作れるようになったんです」ひとさし指を立てて『ヘテロ』と唱える。握りこぶしほどの火が指先に浮かんだ。
「シュピールさん、わたしに傷を治す魔法を教えてください。いますぐおぼえますから」
「呪文名のみとはおどろいた」シュピールが言った。「短いあいだによくそこまではっきりとした火を作れるようになったものだ。しかし彼の傷は深い。場所も悪い。生きものの体を――それも呼吸や消化を行う部分を治す魔法は非常に高度だ。一朝一夕に身につけられるものではない」
「でも、寝ないでがんばりますから」
シュピールの仮面がかすかに動く。「一心に励んでも習得に一年はかかる」
「それなら――お腹のなかを治す魔法が使える人は、どこにいるんですか? 一番近くにいる人のところへ、彼を連れて行きます。街の外なら馬車を使って――」
またシュピールが頭を振る。「現在どこにどんな魔法使いがいるか、ぼくは知らない。たとえ知っていたとしても彼を連れていくことは不可能だ。ごく初歩とはいえ、きみは魔法を身につけてしまった。二度とこの街から出ることはできない。結界がこの街を――上空や地中もふくめてすっぽりと覆っているからね」
「なにもないんですか? 結界を消す方法は」つい声が大きくなった。
「ない」
「じゃあ、試しにわたしが結界を越えてみます」
「だめだ。触れれば確実に、きみの体ははじけ飛ぶぞ」
眼の奥がかっと熱くなった。「じゃあ、なにもできないって言うんですか?」
「さっきからそう言っている。あっ――」シュピールが口もとに手をあてた。
咳きこむのか、もしくは吐きもどしてしまうのかと思ったが、彼は微動だにしない。じりじりしながら待った。シュピールは押しだまったままだ。
「シュピールさん、なにか思いついたんでしょう?」
「待ちなさい」
それからたっぷり二十数えるだけの時がかかった。フォッテは息を詰めて待っていた。さすがにもう待てないと思い口をひらきかけたところで、ようやくシュピールが顔をあげた。
「なにかあるんですね、ランドルフを助ける方法が」
「助かる望みは、ひどくうすいが」
「かまいません、どうすればいいんですか?」
痙攣するようにふるえる指で、シュピールは椅子を指した。「そこに座って」
悠長にかまえている場合ではない――そう言おうと思ったが、仮面の奥の充血した瞳に見すえられると、言葉が出なくなってしまった。急いで椅子の横にまわり腰をおろした。
「魔方陣というものがある」彼が言った。「ある場所からある場所へと、瞬時に移動することができる。通常ふたつの陣は同一人物が描かなければならない。そのうえで陣を使う際の呪文を定める。事故や悪用を防ぐための措置だ」苦しげな音を立てて、シュピールが鼻から息を吸いこむ。「しかし例外もある。いくつか条件はあるものの、どちらか一方の魔方陣を、別の魔法使いが描くことは可能だ」
「条件って?」
「新たに描く陣の図柄は、もとの陣の特徴をしっかりととらえていなければならない。また、道をひらく際の呪文は、一語一句たがわずに唱える必要がある」
催促をするように、頭が勝手に上下に揺れる。何度も何度も小刻みに。まるで自分の体ではないようだ。
「魔方陣を使えば、結界に触れずにこの街から出ることができる。ただし、ぼくが各地に描いた魔方陣はすべて消されてしまった。たったひとつをのぞいて」
「その、ひとつだけのこっている場所に、ランドルフの傷を治せる人がいるんですね?」
「あわてるな」彼が言った。「大切なことだから、順を追って話したい。まず、件の魔方陣がのこったままだと確認したのはずっと昔だ。すでに消されているかもしれない」
「まだ使えるか、いますぐたしかめられますか?」
彼の指が、苛立たしげに肘おきのふちを叩いた。「ひとつきみに大切なことを教える。二度と言わないから、そのつもりで聞きなさい。あせると時は早足で逃げる。好機も逃げる。それどころか取りかえしのつかない過失を犯すこともある。命がかかっているときこそ、慎重に行動しなさい」
あわただしくうなずきながら先を待つ。こんなときになにを言っているのかと思ったが、口ごたえをして話がそれるのはごめんだった。
「問題はほかにもある。その場所はひどく治安が悪い。ぼくが行きたいところだが、この体は外気に触れただけでひどい火傷を負ってしまう。その人物のもとへたどりつくまえに、ランドルフ共々行きだおれになるのが関の山だ。だから行くとしたら――」
「行きます、わたし」
シュピールが小さくうなずいた。手袋に包まれた左右の手が、膝のうえでこすりあわされている。
彼が心配してひどく迷っていることが、フォッテにははっきりとわかった。その葛藤に気づかないふりをして、さらに訊ねた。「どこにいるんですか、その人は?」
遠い国だとしたら、言葉が通じないかもしれない。それが心配だった。
「この世とは言いきれない場所に」シュピールが言った。
「どういうことですか?」
「説明するのは難しい。魔法使いのあいだでは〈ひんやりとしたどこか別の場所〉とか〈拘禁世界〉などと呼ばれている。中心部に〈奈落の街〉がある。風が凍り、時が消え、音が死んだ街だ」
よくわからないが、とにかく奇妙な場所のようだった。
「ぼくが書いた魔方陣がいまものこっているなら、拘禁世界の端へ出られる。そこから奈落の街へ向かうためには、〈試しの門〉の門番に許可を得る必要がある」
「どうすればいいんですか?」
「門番は、相手によって試す方法を変える。ぼくに言えるのは、とにかく正直にということぐらいだ。街に入ることができたら青斑蛙のパウロを探しなさい。彼の治療の腕はたしかだ。それに特別な薬を作ることができる。どんな傷や病にも効き、質の高い治癒魔法と同等の効果がある薬だ。ただし彼が薬をわけてくれるとはかぎらない。すでに街を出たということも考えられる」
「パウロさんのほかに、たよれる人はいないんですね?」
「いない。しかし拘禁世界は本来忌避すべき場所だ。一日中陽は射さず、よどんだ空気が精神を侵食する。住人はみなある種の囚人で、ひどく虐げられている。意味もなく襲われたり、罠にかけられることもあるだろう。きみが重傷を負ったり、帰ってこられなくなる怖れもある」仮面の奥から、例の瞳がじっと見つめてきた。「それでも行くかい?」
「はい、すぐに」立ちあがった。こうしているあいだにもランドルフは弱っていく。
「そうか――」シュピールも腰をあげた。「すこし待っていなさい。必要なものを持ってくる。そのあいだにテーブルと椅子を、わきへ寄せておいてくれ」
先に椅子を運んだ。テーブルのへりを両手でつかみ、壁にぶつかるまで押していく。体に力がみなぎっていた。できることがあるのはいいものだ。
シュピールがもどってきた。肩にかけていた袋を壁ぎわの椅子の座面に置く。そのわきの椅子へ腰をおろした。「こっちへ来なさい」
彼のまえに立った。
「まずは、これだ」
年季の入った革の袋から出てきたのは、乳白色の短い棒だった。
「なんですか、これ?」
「呪文を唱えるときに使う杖だ。きみにあげる」
「ありがとうございます」両手を伸ばして受けとった。象牙のような手触りで、羽のように軽い。長さは手首からひとさし指の先ぐらい。先端は針のように鋭くとがっている。反対の端には麻ひもが巻きつけてあった。垂れた先で、環になっている。
「袖の内がわに差しこんでしまっておきなさい。失くさないように、紐に手首を通しておくといい」
言われたとおりにして、袖口のボタンをとめた。
「次はこれだ。魔法陣はこの石で描く」
黒い小石を受けとった。
「替えはないから失くさないように。このとおりの図形を、これから描いてもらう」
丸まった羊皮紙は湿ったような質感で、簡単に破れてしまいそうだった。それをテーブルの上に広げていく。表面に茶色や黒の染みが浮いている。端のほうから裂けている箇所がある。穴もいくつかあいている。
魔方陣と思われる図形は、赤黒いインクで描かれていた。円のなかに、六つの角を持つ星がおさまっている。その頂点と曲線が触れている部分に、文字らしきものが見えた。
「これはガタリ語ですか?」なんとなくそう思った。
「そうだ。読めるかい?」
頭を振った。「この絵は、どこまで正確に描けばいいんでしょう?」
円の上下左右に、単純な絵が描いてある。上から時計まわりに、花びら、どくろ、逆向きの十字架、牡羊の頭部だ。
「大きさや角度はすこしぐらい異なってもかまわない。あせらずていねいに描くように。線を結ぶときは特に注意するように。はみださないようにきっちりと結ぶ」
「わかりました。どこに描きますか?」
「床に」
「大きさは?」
「円のなかにきみが立って、充分に余裕があるぐらいがいい」
返事をして、居室のまん中に移動した。
床に膝をつき、まえかがみになり、フォッテは円を描きはじめた。