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【三章】 首くくりの木、仮面の男、青銅の騎士団

 北街区のはずれにある墓地を奥へ奥へと進むと、枝垂れ槐しだれえんじゅが見えてくる。並の槐より背は低いが、その異様な姿のせいで実際よりずっと大きく感じられた。

 老いた槐は、もう長いこと葉をつけていない。むきだしの枝は、大蛇の腹のようにうねりながら虚空へ向かって伸びて行き、ある地点でいきなりま上に跳ねあがる。そこから垂れる枝先はおどろくほど細く、風に吹かれて音もなく揺れる様は甲虫の触覚を連想させた。

 街の連中には〈首くくりの木〉などと呼ばれたりもしているが、その枝にぶらさがってこの世に別れを告げた者は、おれの知るかぎりひとりもいない。たしかに深夜、縄を携えてやってくるやつはいる。しかし異形の老木と向き合うと、どいつもこいつもまわれ右をして帰ってしまう。いくらなんでもこんな禍々しい場所を己の最後の舞台にするのは願いさげだと、みな腰がひけてしまうようだった。

「あの木のまえまで行ってくれ」

 月光が槐の輪郭を浮かびあがらせている。そちらにくちばしを向けて言った。昨夜同様、おれはフォッテに抱えられていた。そうさせてくれとたのまれたからだ。すこし気恥ずかしかったが、断るのも大人げないと思って好きにさせておいた。

「すごい木だね」両手がふさがった彼女は、今夜も角灯を腰からさげている。

「怖いか?」

「すこしね。ランドルフさんはこのあたりに住んでいるの?」

「まあな」

「待ちくたびれてないかな、ランドルフさんと一緒に暮らしている人」心配そうにつぶやいた。

 約束の時間は大幅に過ぎている。予定外の用事をひとつ片づけた。そのためだった。

「気にしなくていい。あいつもおれも暇だから」

 工房での一件を知ったのは、墓場に入ったあとだった。フォッテは言いつけを守り、そこまで口をとざしていたのだ。その場でおれたちは話しあい、先にお袋さんを運ぶことにした。青銅の騎士団がやってきたときに備えてのことだった。ゲルツィオネが口にした脅し文句は、おそらくはったりだろう。しかし、密告という手もある。

 丘の上に建つフォッテの住まいは、煉瓦づくりの小さな家だった。お袋さんは奥の部屋のベッドのわきに、両膝を抱えた姿勢で座りこんでいた。

 フォッテは汗だくになって、布で包んだお袋さんを丘の下まで運んだ。道のわきに置いてあった手押し車に載せて、森に入った。目印になるよう枝を折りながら進み、大きなブナの洞のなかに、なによりも大切な荷を運びこんだ。大量の落ち葉をかけて、ちょっと見ただけでは人がいるとわからないようにした。それだけの作業を済ませてから、ふたたびおれたちは墓地を目指したのだった。

「ランドルフさんのおうちはどこ?」

「この木の向こうに、入口があるんだ」

 不気味に垂れさがる枝を、フォッテがくぐる。異形の老木の奥には、彼女よりも背の高い草がびっしりと生えていた。だれかが刈りそろえたわけでもないのに、それこそ塀のように地面をま横に区切っている。

「降ろしてくれ」

 彼女がかがみこむ。

 大地を踏みしめ、周囲をうかがった。「槐の幹を背にして左に六歩、移動するんだ」

 小さく声に出して数えながら、フォッテが左に進む。

「草をかきわけて、まっすぐ進む。二十歩ほど先に、草が刈りこまれた場所がある」

「本当にこんなところに住んでいるの?」

「そうだよ。怖かったら無理しなくていいんだぞ」

 頭を振って、フォッテは草の壁のまえに立った。両腕を伸ばし、草をかきわける。

 彼女の姿が見えなくなってから、跳躍して羽ばたいた。草の壁を越えていき、唯一地面が見える場所に降り立つ。しばらくすると草のあいだからフォッテが顔をのぞかせた。

「この部分はぶ厚い板でな。普通の地面に見えるかもしれないが、表面にすこしだけ生えている雑草はにせものなんだ。板の端にちょっとしたくぼみがあるんだが、わかるか?」

 指先でさぐっていたフォッテが「あった」とつぶやいく。

「指を引っかけて、横に滑らせてくれ。まん中に穴がある。深いから落ちないように」

 がたつきながら板が動く。黒い円が現れた。直径は大人の足で三歩ほどだ。

「本当だ、すごく深そう。どうやって掘ったの?」

「昔、おれの同居人がな。立ってくれ。槐を背にして左ななめに十五歩ほど行くと、馬鹿でかい石が転がっている。その石に縄ばしごが巻きつけてある。もう一方の端を引っぱって、ここまでもどって来てほしい」

「わかった」

 フォッテの背中が草に飲みこまれる。おれはその場で待っていた。彼女にひとりで考える時間を与えたかった。

 しばらく経ってから、おれたちはふたたび穴のまえで向きあった。

「ご苦労さん。もうわかっていると思うが、おれたちのねぐらはこの下だ」

「どれぐらい深いの?」

「三階だての家屋と同じぐらいだ。どうする、気が進まないなら引き返してもいいんだ」

 フォッテが下くちびるを噛む。それから笑みを浮かべて「行くよ」と言った。

「わかった。はしごはちょうどいい長さになっている。足を滑らせないように、慎重に降りてくれ。引っかかると危ないから、角灯ははずしておいたほうがいいだろう」

 彼女が足もとに角灯を置いた。「火は消したほうがいい?」

「明かりがあったほうが降りやすいだろう。あとでおれが消すから、風よけだけ取っておいてくれ」

 箱形の風よけがはずれると、周囲の暗さが増した。フォッテがはしごを穴に落とす。両手で縄をつかみ、穴に背を向けた。

「縄はぴんと張ってな。ゆっくりだぞ」

「そうする」

 彼女の足が、穴のなかに沈んでいく。体重がかかって縄が鳴った。足もとから次第に姿が見えなくなり、ついに頭頂部も飲みこまれた。

 必要がなくなった火を足で踏んで消す。蛙の鳴き声に似た縄の音を聞きながら、おれはその場で待ちつづけた。

「降りたか?」縄ばしごの伸縮がおさまってから、声をかけた。

「はあい」と、ぼやけた声が返ってくる。

「いまからそっちに行く。背中を壁につけていてくれ」

 返事が聞こえた。ふちを蹴り、足から穴に飛びこむ。こちらの穴を通るのは久しぶりだ。おれ専用の出入り口は巨石の裏にある。

 途中で羽ばたき、いきおいを殺して着地する。穴の底は完全な闇だが、日に五、六度も行き来していれば、だれだってこれぐらいのことはすぐにできるようになる。

「フォッテ、ちょっと事情があるんだ。服についたほこりを念入りに払ってほしい」

 理由を訊ねることもなく、彼女がスカートを叩きはじめる。おれも行水のあとのように体をふるわせた。

「もういいだろう。おまえの腰の高さに把手があるんだが、わかるか?」

 手さぐりをする気配があった。

「見つけたよ」

「あけてくれ。ノックはしなくていい。いまは鍵もかかっていないはずだ」

 きしみながら、扉がひらいた。あふれだした明かりが正面からフォッテを照らす。

「お先にどうぞ」

 腰をかがめて、彼女が戸口をくぐる。おれが入ると、扉をしめてくれた。

「ここがランドルフさんのおうち――」

「そうだ。歓迎するよ」

「あっ!」と声をあげて、フォッテが左手の棚を指した。長方形のテーブルのわきを駆けて、棚のまえに立つ。「あの飴、飾ってくれているの?」

「きれいだからな」飛びあがり、戸口に背を向けている椅子の背もたれにとまった。

 杏の飴は小皿に載せて、棚の上から四段目に置いてある。水晶をはめこんだ首飾りと金色の指輪にはさまれているが、おれの眼にはまん中が一番魅力的に映っていた。

「ありがとう」はにかんだような笑顔が肩ごしにのぞく。「不思議なものがいっぱいあるね。それにこのおうちも不思議。こんな場所に、どうやって造ったの?」

「それも同居人がな。もうずいぶんまえになるが。そのうちあいつが話すかもしれない」

「ふうん」

 おれたちがいるのは、食堂と居室をかねた部屋だった。扉を背にして右手に暖炉がある。左手の壁の中央には帳がかかっている。帳の向こうは通路だ。細い通路を行くと、おれと同居人それぞれの部屋がある。

「ランドルフさん、これはなに?」

「ただのボタンだよ。ある人にもらったんだ」

「貝殻かな。きれいな模様が彫ってあるね」背伸びをしたフォッテが、棚に顔を寄せる。

 おれは周囲に視線をはしらせた。四方の壁にはふたつずつ燭台が貼りついているが、すべての蝋燭に火が灯されている。テーブルには陶製のティーポットと、カップと皿が三客。茶葉の入った缶も置いてある。ポットの口からはかすかに湯気が立ちのぼっていた。

 客を迎える仕度をした者は明らかだ。いくらなんでも無理をしすぎているのではないか。

「フォッテ、ここにいてくれるか。同居人を呼んでくるから」

 彼女がこちらへ顔を向けたときだった。帳の向こうから足音が――靴底を床にこすりつけるようなひどく間延びした足音が――聞こえてきた。

 フォッテがあわてて棚から離れ、椅子のわきに背筋を伸ばして立つ。帳にしわが寄り、そっとめくられた。そこからのぞいたものを眼にした途端、彼女はぎょっとしたように体をこわばらせた。

 現れたのは、蝋のような質感の白地の仮面だ。両眼の部分がアーモンドの種を倒したような形にくり抜かれていて、その奥から血走った眼がのぞいている。

「やあ、いらっしゃい」かすれた声で言いながら、おれの同居人が入ってきた。

 その顔を覆う仮面があらわになると、フォッテは息を飲んでわずかに身を引いた。

 仮面の周囲は、細長い三角形の飾りで囲まれている。銅線が仕こまれた布地の飾りだ。それが重なりあいながら仮面のぐるりを巡り、ちょうど花びらのような感じになっている。とはいえ花と言うにはあまりにも悪趣味だ。金糸で水玉模様が縫いこまれた黄土色の布は、さながら毒蛾の羽のようだった。

「よく来てくれましたね、フォッテさん。シュピールといいます。どうぞお見知りおきを」老人のように穏やかな、抑揚の乏しい声だった。

 フォッテは返事をしなかった。いや、できなかったと言うほうが正しいだろう。眼を見ひらき、口をわずかにあけていた。

「許してくださいね、こんな格好で」恥ずかしそうにシュピールが言う。「少々事情がありましてね」

 うなずくフォッテの視線は、仮面に吸いよせられたままだ。まだひと言も発していないが、責めることはできない。おれもずいぶんいろんなやつを見てきたが、現在のシュピールと張りあえるほど馬鹿げた格好をした者は、そう幾人も思いだせない。謝肉祭の余興に登場した国一番の道化師か、舞踏会に出席できる年齢になって気ばりすぎた貴族のドラ息子ぐらいだろう。

「このままで、失礼しますよ」シュピールが椅子の背もたれをつかむ。紫色のローブからのぞくシャツは光沢のある緑色だ。二の腕の部分が大きくふくらんでいる。

「ひどい格好でしょう?」フォッテの様子をうかがうようにして、シュピールは小首をかしげた。その拍子に安っぽい金属音が生じた。仮面から伸びる例の馬鹿げた飾りの先には、それぞれふたつずつ小さな鈴がぶらさがっている。それが触れあい、鳴る音だった。

 同居人の名誉のために言っておくと、珍奇な仮面も悪趣味な服も、シュピールが自ら選んだものではない。当人が言ったとおり、事情があってのことだった。

「あの――」ようやくフォッテが口をひらいた。「お招きいただいて、ありがとうございます。フォッテ・アインタルトです」

「お会いできることを楽しみにしていましたよ。さあ、かけてください」

 こわばった笑みを浮かべたまま、フォッテが腰を降ろす。テーブルごしにおれと向き合う格好だ。シュピールも定位置の椅子に座った。おれから見て左ななめまえ、帳を背にして、テーブルの長辺の半ばに着く形だ。

「フォッテさん、ハーブのお茶は好きですか?」

「はい。以前はたまに飲みました。お母さんが好きだったから」

「そうですか」シュピールが右腕をまえに伸ばす。「さっきお茶を淹れたんだが――」そこまで言うと、あごを引いて押しだまった。

 フォッテが心配そうに様子をうかがう。その視線の先、シュピールの仮面の右眼の周囲には、群青色の塗料で蔦のような模様がびっしりと描きこまれている。拳大のその円がときおり煌めくのは、塗料に砂金が混じっているせいだ。左眼の下には、穴のふちどりに沿ってごく小さな文字がならんでいる。黒い塗料で細密に描かれた文字には、ある種の呪いがこめられているという話だった。

「なあ、茶はフォッテにやってもらえよ」

「いや――こんなところまで来てもらったんだ、せめてお茶ぐらい淹れないと。フォッテさん、申し訳ないが、お茶は常温でもかまいませんか?」

「ええ、もちろんです」

 シュピールはポットの持ち手をつかみ、ゆっくりと引きよせた。

 カップに茶が注がれる音を聞きながら、おれは気を揉みつづけていた。いまこのときも、やつの腕と肩には太い釘を根もとまで打ちこまれたような痛みがはしっているはずだった。

「さあ、どうぞ」白い手袋に包まれた両手で、おれの同居人はカップを持ちあげた。なんとかこぼさずにフォッテのまえに置くと、背もたれに寄りかかって長々と息を吐いた。ややあってから体を起こし、今度はいくぶん乱暴な手つきで、ふたつのカップに茶を注ぐ。

 気を利かせたフォッテが立ちあがり、片方のカップをおれのまえに持ってきた。

「ありがとうよ」おれはつかまっていた背もたれの上部を軽く蹴り、椅子の座面に載っている木箱の上に降り立った。カップのなかにくちばしを差しいれる。正直なところ、ハーブの茶はまったく好みではなかったが、おかしなものが入っていないとフォッテに伝えたかった。それにシュピールが手ずから茶を淹れてくれることなんて、もう二度とないかもしれない。

「いただきます」フォッテがカップを持ちあげる。シュピールは手をつけようとしない。口に運ぶだけの気力がないのだろう。

「おいしい」彼女は眼を細めて吐息を洩らした。「はじめてです、こんなにおいしいお茶を飲んだのは」

「それはよかった」とシュピール。

 フォッテはふたたびカップに口をつけたが、そのままちらりとおれのほうを見た。申し訳ないような顔つきになっている。

「どうした?」

 あわてた様子でかぶりを振った。

「どんなことでもいいから、言ってみなよ」

 うなずき、視線をテーブルに落とす。

「口に合わないなら、無理して飲まなくていいんだぞ」

「そうじゃないの」

「なら、なんだよ?」

 ほんのひととき、フォッテは決めかねた様子で視線を泳がせた。口もとを引きむすぶと、右手を指した。「気を悪くしないでほしいんだけど――シュピールさん、失礼かもしれませんが、いつもあそこでお湯をわかすんですか?」

 右手の暖炉のわきには、煮炊きに使う窯が設えてあった。

「ええ、そうですよ」

「ここは風が通らないようです。気分が悪くなることはありませんか?」

「気分? 煙はちゃんと外へ逃げるようになっているぞ」おれは言った。

「うん、でも――」

「フォッテ、おまえ、いったいなにを気にしてるんだ?」

「彼女は火が空気を食べることを心配しているんだよ」つぶやくようにシュピールが言う。「そうでしょう、フォッテさん?」

「はい。わたしが働いている工房では、火を使うときは新鮮な空気をたくさん入れるようにと、とても厳しく言われるんです。だから気になってしまって」

 シュピールがうなずく。例の飾りが揺れてかすかに鈴が鳴った。「ありがとう。ここは大丈夫です。帳の向こうは長い廊下になっていてね、そちらに新鮮な空気を呼びこむ仕組みがあります。風は感じられないでしょうが、この部屋の空気も常に入れかわっている。だから安心してください」

「そうですか。余計なことを言ってごめんなさい。せっかくお茶を淹れてくださったのに。それにお招きいただいたのに、失礼なことを言ってしまって」

「とんでもない。わたしたちのことを一番に考えて注意してくれたのでしょう。わたしが機嫌を損ねたとしても、それはしかたがないと割り切って。賢いですね、あなたは」

「いいえ、賢くなんか――」フォッテが手もとへ視線を向けた。

 しばらく沈黙がつづいた。以前のシュピールなら、こういうときはうまい質問を投げかけたりして、場を和ませるきっかけを作ったものだ。おれはそういうことが致命的に下手だから、いつも任せっきりだった。しかしいまの――いや、もうずっとそれが常態なのだが――シュピールは疲れ果てていた。痛みのせいで声を張ることもできない。

「なあフォッテ、おれたちには、どんなことだって言っていいんだよ」おどけた口調になるよう心がけながら、おれは言った。「考えてもみろ。いまおまえが相手にしているのは、墓場の奥の穴ぐらに住んでいる、いかれた仮面をかぶった男とカラスだぞ。失礼もなにもないんだ。なあ、シュピール」

「そのとおり」と、シュピールが調子を合わせた。「遠慮は無用です。楽にして、なんでも自由に口にすればいいんです」

「ありがとうございます」フォッテが微笑む。「あの――あとひとつだけ、気になっていることがあるんです。教えていただけますか?」

「なんなりと」とシュピール。

「シュピールさんは、道化師をお仕事にしているんですか?」

「こんな格好をしているから?」そう訊ねかえす声には、かすかに笑みが混じっていた。

「いいえ、そういうわけではありません。仮面に小さな文字で〈我は道化師〉と書いてあるので」

「ほう、おどろきました。あなたはガタリ語が読めるんですね」

 あわてた様子でフォッテがかぶりを振る。「ほんのすこしです。母に習った文字だけ」

「それでも立派なことです。そう、わたしは道化を生業にはしていません。と言ってもほかに仕事があるわけでもない。考えてみれば、道化より道化らしい身の上だとも言えるでしょうね」

 どう返事をすればいいのかわからなかったのだろう。余計なことは口にせず、フォッテはただあいまいにうなずいた。しばらく黙っていたが、やがて口をひらいた。「一度だけサーカス小屋に行ったことがあります。とても不思議で、きれいでした」

「サーカスはわたしも好きですよ。小さい子供を連れていって、その子が瞳を輝かせているのを見るのもね。フォッテさん、お茶をもう一杯いかがですか?」

「いただきます。よかったら、わたしに淹れさせてください」

 どうぞと言うように、シュピールはテーブルに載せていた両手をわずかにひらいた。立ちあがったフォッテがポットの持ち手をつかむ。

「ランドルフ、帰りが遅かったね。なにかあったのかい?」

 おれは手みじかに事情を話した。昨夜のことはすでに伝えてあったから、さほど時間はかからない。

 シュピールは黙って聞いていた。おれが話し終えると、フォッテのほうを向いて静かに言った。「その工房へは、もう行かなくていいです」

 カップに手を添えたまま、フォッテは小さく頭を振った。「そういうわけには――」

「シュピール、はっきり言えよ」

「うん。フォッテさん、あなたが望むなら、我々はあなたにここで働いていただきたい」

 彼女がはっと目を見ひらく。

 おれは胸を撫でおろしていた。今日の昼まで、シュピールは彼女を雇うことに難色を示していたのだ。

「ランドルフはもともとそのつもりだったし、わたしにも異存はありません。こちらの希望を伝えますから検討してください。ランドルフ、あとはたのむよ」

 うなずき、話を引きついだ。「フォッテ、おれたちはおまえに、ここの家事を任せたいんだ。買いものに洗濯、掃除、それに料理もたのみたい。食事は簡単なものでいい。おれもシュピールも味には文句をつけない。給金についてだが、週に六日、朝から夕方まで働いたとして、月に三百ゾブリンでどうだ?」

「そんなにもらえるの?」怯えたような目つきで、フォッテはおれとシュピールを交互に見つめた。いまにもおれたちが『冗談だよ!』と叫んで笑いだすのではないかと身がまえているような雰囲気だった。

「問題ないよな、シュピール?」

「なにも」

「でも、そんなにお給金をもらえるなんて――」

 ここでおれはわずかに苛立った。ゲルツィオネはいったいいくらでフォッテを雇っていたのだろう、と考えたからだ。大人の家政婦の相場は、通いで月に二八〇ゾブリンというところだ。おれたちが提示した額は厚遇というほどのものではない。

「苦手なことやできないことがあれば、その都度言ってくれ。体調が悪いときは休んでくれてかまわない。年に二度、まとまった休みを取ってもらうつもりだ」

「夢みたいだけど――わたし、料理も掃除も上手じゃないよ」

「それはかまわない。ただし、ひとつだけ固く約束をしてもらいたいことがある」

 フォッテが口を引きむすぶ。『やっぱり。こんないい話には裏があるに決まっている』という声が聞こえてきそうだった。

「おれたちのことはだれにも話さないでくれ。ほのめかすのもいけない。この場所のことも同様だ。お袋さんが元気になっても、隠しとおしてもらいたい」

「それだけでいいの?」

「ああ。それ以外には、無理なたのみはひとつもしない。約束するよ」

 やっと笑顔を見せて、フォッテは深くうなずいた。

「試しに一週間ほど働いてみるか。合わないと思ったら、そのときやめてもいいんだ」

「うん」立ちあがり、フォッテはシュピールとおれに向かってお辞儀をした。「よろしくお願いします。約束は、かならず守ります」

「こちらこそ」シュピールは左右の手を腹の上で組みあわせた。機嫌がいいときのやつの癖だった。

「座りなよ、フォッテ。そんなにかしこまることはない」

「では、これを」シュピールがふるえる腕を伸ばした。くすんだ緑色の小さな環が、彼女のまえに置かれる。「シャクリソウとメナシグサの茎を編んだものです。どうぞ、手にとって」

 フォッテが草の環を目の高さにかかげる。「なんだか、いいにおいがしますね」

「はるか昔のことですが、その香りには魔除けの効果があると考えられていました。当時は大切な人のために茎を集め、編み、お守りとして贈っていたそうです。とても丈夫で熱にも強い。だからそう簡単にはちぎれません。約束を忘れないように、指にはめていてもらえますか?」

「はい」大きさをたしかめると、試しにという感じで左のひとさし指に輪を通した。

 それは懐かしい光景だった。シュピールは以前、草の指輪をひんぱんに人に贈った。裏切り者をあぶりだすためだ。やつが作った環は、身につけた者が誓いを破ると変色した。宮廷での闘争にはかけひきや裏ぎりがつきものだ。草の環のおかげでおれたちが事なきを得たことは一度や二度ではない。

 だからと言って、シュピールがフォッテを信用していない、と考えるのはまちがいだ。現在のシュピールは一切魔法が使えない。フォッテの指にはまった草の輪はただの飾り――気休めのお守りでしかなかった。

「細かいことは、おいおい相談しよう。訊いておきたいことがあるか?」

「朝は、いつごろ来ればいいの?」

「それほど早くなくていい。当分のあいだ、朝は迎えに行くし、夜は送っていくよ」

「ありがとう。それと――とても言いにくいんだけど」フォッテはおれからシュピールへ、またおれへと視線を移した。「最初のお給金を、まえ借りさせてもらえませんか。来週末が工房の給料日なんだけど、行ってもお給金をもらえないような気がして」

「一月分の給金と同額の支度金を明日わたすよ。あの馬鹿店主に近づかないでくれるなら、返す必要はない。それでいいよな、シュピール?」

「かまわない。フォッテさん、よかったら明日以降も、ここで昼食と夕食を食べていってください。わたしはたいてい自室にこもっています。食事をとるときに話し相手がいると、ランドルフが喜ぶでしょう」

「いいんですか?」光が射したようにフォッテの顔が明るくなる。おれは困って下を向いた。シュピールは後頭部にも目玉がついているとうわさされた男だ。おれの瞳がうるんでいたりしたら、きっと気がついてしまう。いや、おれだってわかっている。フォッテは食費が浮くから喜んだのだ。ほとんどそれしか頭にないだろう。それでもカラスと日々の食卓を囲むことを歓迎してくれる娘など、街中探しまわってもまずいないはずだ。

 もう大丈夫、という確信を得てからおれは顔をあげた。微笑みを浮かべるフォッテと眼が合う。すこし身を入れて稼ごうと密かに誓った。すこしはこいつにうまいものでも食わせてやらないと、ばちがあたりそうだ。

「ランドルフ、ぼくはそろそろ寝る時間だ。手みじかに報告をたのむ」

「フォッテも聞いていてかまわないんだな?」

 仮面がまえに傾いた。

「じゃあ要点だけ。新たに石化がはじまったのは、確認できた範囲で三人だ。審問所へ連行された家族は四組十九人。石化する者の傾向に変わりはない」

「ほかには?」

「〈喉笛〉は寝こんでいる。〈千鳥足〉はまだだろうが〈紙袋頭〉はそろそろ限界だな。今週あたりやるかもしれん」

「わかった。ふたりとも喉笛蒐集家には注意しなければいけないよ。彼はきみたちのことを決して忘れないだろうから」そう言うとシュピールは左右の手で肘おきをつかんだ。ふるえる腕を突っぱって、体を持ちあげる。「フォッテさん、すまないが今夜はこれで失礼します。明日からよろしく」

「はい、こちらこそ――」フォッテが腰を浮かせる。

「ああ、そのまま。ランドルフ、あとはたのむよ。ではおやすみ」おれたちのあいさつも待たずに、そそくさとシュピールは帳をくぐった。もう限界だったのだろう。しばらくすると引きずるような足音が聞こえてきた。

 完全に足音が消えてから、フォッテは口をひらいた。「シュピールさん、すごく具合が悪そうだったね。腕も、声も震えていた。彼は病気なの?」

「まあな」

「部屋に行ったら、仮面をはずす?」

「いや、つけたままだよ」

「そう。大きな傷かなにかが顔にあるわけじゃないんだね」

「長い話になるんだ。おいおい話すよ」

 シュピールが言ったとおり、たしかに賢い娘だなと思った。

「ランドルフさんたちは、石化のことや、昨夜みたいな怖い人のことを調べているの?」

「そうだ。あいつはひどく体が弱いから、一歩も外へ出られないんだ。だから街で起きていることを、わかる範囲で教えてやる。おれたちのあいだでは、長いこと殺人鬼どもが一番の話題だったんだが、ここ最近は石化の話もよくしている。なにができるってわけでもないんだが」

 真剣な顔つきでフォッテがうなずく。彼女にとって、石化は切迫した問題だった。

 この段階でなにか言っておくべきだろうか――いくつかの言葉が頭をよぎった。しかし、いたずらに彼女の心を乱すことは避けたい。決めかねていたら、彼女の腹が盛大に鳴った。

「まず、飯にしようよ」恥ずかしそうにうつむくフォッテに向かって、おれは言った。「パンとソーセージを用意したんだ。もう冷めちまってるだろうけどトマトのスープも」

「シュピールさんが料理をしたの?」

「ちがうよ。そういうことをたのめる者が何人かいるんだ。向こうはおれの正体も、この場所のことも知らないけどな」銭を払って買いだしや調理をたのむ。それを指定した場所に置かせる。さらに別のやつに運ばせて、最後はおれがこの場所に運ぶこむ。これまではそうやってなんとかやってきた。

「わたし、支度をするよ。スープは温めても大丈夫?」

「おれのぶんは、人肌程度にしてくれるか」

 フォッテが竈に火を入れた。スープを温め、ソーセージを茹でる。

 彼女が皿を運んでくれる。おれたちはテーブルに向きあって座った。スープにパンをひたして食べた。ぷりぷりとしたソーセージも食べた。温かな料理を口にしたのは久しぶりだ。それに食卓を囲む者がいるのも。これこそ食事というものだ。

 育ちが悪いせいか、もともとおれは行儀がよくない。ついがつがつと食ってしまったが、フォッテもおれに劣らぬいきおいだった。ソーセージとパンを交互にほおばり、その合間にスープをすすった。よほど腹が減っていたのだろう、彼女は二度スープをおかわりした。パンも二枚追加した。おれは愉快な気分になっていた。食べっぷりのいいやつを見るのは楽しいものだ。

 食後の茶を飲んだあとで、おれたちは地上へもどることにした。

 先におれが上へ向かい、空から周囲の様子をたしかめた。穴のふちに着地してあがってこいと呼びかけ、あとはじっと待っていた。

 ぼやけた月の輪郭が夜空ににじんでいる。周囲の草が風に吹かれてざわめき、青くさいようなにおいが鼻をつく。

 フォッテが姿を現した。穴のふちに座りこみ、あらい呼吸をくり返している。

「しばらくの辛抱だよ。そのうち慣れて、どうってことなくなる」

「うん――はしごは、もとの場所にもどす?」

「そうしてくれ。穴も隠しておこう」

 苦労してフォッテは縄を引っぱりあげた。代わってやりたかったがそうもいかない。

 彼女は板を滑らせて穴をふさぎ、縄ばしごを運んだ。そのあいだひと言も不平や弱音を口にしなかった。

「これから槐のまえに出る。たまにあの木を見にくるやつがいるから、できるだけ音を立てないように注意してくれ。草から顔を出すまえに、そっと周囲をうかがう。もしだれかに姿を見られたら、すぐにおれかシュピールに知らせてほしい」

「わかった」

「もう一度あたりをたしかめてくる」羽ばたき、草の壁を越える。明かりは見えない。槐のまわりも無人だ。「出てきていいぞ」

 草をかきわけて、フォッテが顔をのぞかせる。「角灯を灯してもいい?」

「もう遅いから、墓守に見られると不審に思われる。このままだと怖いか?」

「大丈夫。でも、また抱いていてもいい? 墓地を出るまででいいから」

 月明かりをたよりにまっ暗な墓地を進んだ。と言っても、足を動かしていたのはフォッテだけだが。

「ランドルフさん、お母さんをふたりのおうちに連れていったら迷惑かな?」

「ランドルフでいいよ。それはおれも考えた。だが、やめておいたほうがいいだろうな」「なぜ?」

「フォッテは、あの手押し車でお袋さんを運ぶつもりだろう?」

「うん。布で包んで、夜遅くに――」

「青銅の騎士団は、早朝や深夜も巡回をしている。呼びとめられて荷を見せろと言われたらおしまいだ。それに密告って問題もある」

「ああ」とフォッテがうめく。

「疑わしいやつを次々に密告している馬鹿が、大勢いるんだ。人の目は意外なところにある。おれとしては、おまえが密告されるような危険は犯したくない」

 しばらくフォッテの足音だけが聞こえていた。

「ランドルフさんは――ランドルフは、お母さんは森にいるのが一番安全だと思う?」

「ああ。もうすこし奥に連れていってもいいかもしれないが」

 墓地の出口が見えてきた。その向こうに、赤や黄色の明かりが鬼火のように浮かんでいる。貧民窟の端に建ちならぶ、小さな飲み屋の群れだった。どの店も、五人も入ればいっぱいになってしまうような掘ったて小屋で、安酒を飲ませる。つまみには、正体不明の肉を串に刺して焙ったものや、ぱさついたチーズなどを出す。

「降ろしてくれ。来るときに通った路地に入るぞ。場所はおぼえているか?」

「うん」

 墓場を出ると、フォッテは角灯に明かりを灯し、視線を落として足早に歩いた。

 路地に入り、細い道を縫うようにして、おれたちは西街区を目指した。

 草原につづく林道を歩いているときだった。

「仕事は、明日からはじめていいんだよね?」彼女が言った。

「そうしてもらいたいな。朝、家まで迎えに行くよ」

「ありがとう。ランドルフはいつごろ起きるの?」

「おれは毎朝、日の出とほぼ同時に起きるよ」

「よかった。できれば明日だけ、早めに迎えに来てもらえる? お母さんをもうすこし森の奥に運びたいから」

 それに工房の職人たちにもあいさつをしておきたいということだった。ゲルツィオネと顔を合わせないで済むよう、店からすこし離れたところで待っていて、職人が通りかかったら声をかけるつもりだという。

「わかった。それなら明けがたすぎに、おまえの家に行くよ」

 林を抜ける。丘のまえでフォッテはおれを降ろした。

「こらえてくれよ。いますぐお袋さんに会いたいだろうが、夜の森は危険だから」

「うん。じゃあ、また明日ね」

「ああ。寝坊するなよ」

「しないよ」フォッテが笑う。「おやすみなさい、ランドルフ。送ってくれてありがとう。あと、おうちにも連れていってくれて。おいしいご飯も食べさせてくれて。それにお仕事もくれて。あなたがシュピールさんにたのんでくれたんでしょう?」


 おれはいい気分で飛んでいた。

 深夜というほどの時間ではないから、眼下に広がる街にはまだぽつぽつと明かりが灯っている。

 フォッテを送りとどけたあとで、西街区と南街区を見てまわった。東街区に取りかかるまえに、すこし休むことにした。

 一番近い休息所は――ニードルストリート。昨夜と同じあたりに降り立ち、楡の枝の下に移動しかけたときだった。

 いきなり全身の毛が逆立った。

 首をすくめるのとほぼ同時に空を切る音が右後方から迫り、頭上で硬質な音が弾けた。

 とっさに左に体を傾ける。幹にぶち当たった衝撃で身ぶるいをしている矢を見つめたまま、塀の内がわに身を投げた。

 第一矢のすぐわきに、滑りこむようにして第二矢が突きささる。どちらの矢羽も三枚で、髑髏の模様が描かれていた。

 背中から地面に落ちた。塀に体を寄せながら、これで三度目だなと考える。

 気味の悪い模様の三枚羽の矢は、青銅の騎士団のひとりが使っているものだ。あの矢を食らって絶命したカラスは五十羽はくだらない。親の仇でもあるまいに、そいつはカラスとみると街中でも平気で射ってくる。これまでにおれも二度射かけられた。一度目は大通りの向こうから。二度目は角を曲がったところで出会いがしらに。そして今夜が三度目だ。

 二頭分の蹄の音が近づいてきた。

「やりましたか、団長?」中年の男の声だった。

「いや」とこたえる声は、まだ若い。

 矢の腕は、見事と言うほかなかった。こちらの姿をとらえてから矢を放つまでに、ひと呼吸の間もかからない。おまけに狙いは正確だし、間髪いれずに第二矢が飛んでくる。

 はじめて狙われたとき以来、街中にいるときは注意を怠らないようにしてきた。やつらはおそろいの甲冑をつけているし、馬飾りやえんじ色のマントも目印になる。今夜だってぼんやりしていたわけではない。それでも出会うときは出会う。先に見つけられることもある。それはしかたのないことだった。

「珍しいこともあるもんですな。ミルヴァートン殿が仕留めそこなうとは。どうします?」

「放っておけ。害鳥に割く時間などない」

 一定のリズムを保ったまま、蹄の音が遠ざかっていく。

 ――ミルヴァートンね。

 うずくまったまま、その名を刻みこんだ。そのうち、どうにかして痛い目にあわせてやらないといけない。

 三度も狙われたわけだし、おれとよく似た姿のやつらが射たれて、その死骸が道ばたで腐っていくのを見るのは、やっぱり気分が悪いからな。

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