【二章】 革工房、ゲルツィオネ、スカートの裏地
――なんて間抜けだったんだろう。
丘を駆けおりながらフォッテは考えた。昨夜、寝床に入るまでは心が浮きたっていた。神父さまのところへ品物を送りとどける途中、言葉を話すカラスと出会った。彼はフォッテのために刃物を持った男と戦ってくれた。神父さまの屋敷までの道案内を買ってでて、そのうえ家までついて来てくれた。
フォッテはこれまでひた隠しにしてきたこと――母のことや工房の旦那のこと――を夢中で話した。別れぎわ、彼は明日また会おうと言った。その瞬間は飛びあがるほどうれしかった。いや、そのとき立っていたのが丘の途中でなかったら、本当に跳ねていたにちがいない。昨夜は必死でこらえていたのだ。カラスは明日(つまり今日だ)彼の住まいで、一緒に晩ご飯を食べようと言った。約束だと。
――本当に馬鹿だった。
交互に足を振りだしながら考える。目が覚めると興奮は消えていた。かわりに胸に満ちていたのは後悔と恥ずかしさだ。いまも冷たい声がフォッテの頭のなかでささやきつづけている。あのカラスはフォッテ自身が作りだした幻だと。会話ができて、あんなに勇敢で、しかもやさしいカラスなど現実にいるはずがない。毎日があまりにつらくて、すぐにでも逃げだしてしまいたくて、気づかぬうちに空想上の友だちを作りだしてしまったのだ。昨夜フォッテは喉笛蒐集家などという男とは遭遇しなかった。迷路みたいなまっ暗な小径を歩いたのも、神父さまに飴をもらったのも、それをあげたらカラスがうれしそうに眼を細めたのも、別れぎわの約束もすべて幻――起きたまま見た夢のようなものだったのだ。
林道を抜けて、街へ入る。
泣きたい気分のまま、工房の戸をあけた。
「おはようございます」おそるおそる声をかける。返事はない。この時間、店主のゲルツィオネは店舗のほうでお茶を飲んでいるはずだが、ここ数日はフォッテが挨拶をしても知らん顔だ。
牛を解体する業者から届けられたのだろう、腐るのを防ぐために塩づけにされた巨大な皮の塊が、工房の奥に積みあげられている。その匂いを意識しながらほうきを取った。
床を掃いていると、次々に職人がやってきた。この工房では三人の職人が働いている。親方のチコリ爺さん、三十過ぎの大男のトラン、それに見習いのハッカだ。
しばらくするとゲルツィオネがやってきた。白いシャツに包まれた太鼓腹が、ベルトに載ってまえにせりだしている。
工房の主は不機嫌そうなしかめっ面のまま「おはよう」とつぶやいた。
職人たちが、挨拶を返す。
「フォッテ、神父の荷物は届けたな?」
「はい」
「なにか文句でも言っていたか?」
「いいえ」
「袋から出して見せたんだろうな」
「そうさせてくださいと言ったんですが、たしかめる必要はないからって、それで――」
「ならいい。銭を寄こせ」天井を向いた太いひとさし指が、くいくいと折れ曲がる。
昨夜受けとった硬貨を、ぶ厚い手のひらに載せた。
枚数をたしかめると、ゲルツィオネはいやな感じの笑みを浮かべた。「まったくおいしい客だよ。布のかばんに革ものとほとんど変わらない額を払う。よし、はじめてくれ」
職人たちがのろのろと仕事に取りかかる。ゲルツィオネは店舗のほうへ消えた。
フォッテは見習いのハッカとともに、積みあげられた皮を一枚ずつ剥いでは水を張った樽に沈めていった。工房の右手の壁を埋める樽は、大人の男が十人同時に浸かれるほど大きい。大量の水でしっかりと塩を抜くためだ。
昼までかかって、すべての革を運んだ。
「飯にしよう」チコリ爺さんが言った。
「フォッテ、水」ハッカが赤銅の杯に水をくんで持ってきてくれた。
「ありがとう――」受けとり、一気に飲みほした。全身が汗だくだ。スカートの内がわが足にはりつく不快さには、なかなか慣れることができない。
職人たちが、弁当を広げはじめる。
フォッテはひとりで外へ出た。通りを歩いていき、野菜と果物をならべた露店のまえに立つ。傷がついているりんごをひとつ買った。ソーセージやハムを食べたほうが午後も体が動く。それはわかっているが、見習いよりすくないフォッテの給金では手が出ない。傷ものの安く売られているりんごが精一杯だった。
工房の裏へまわり、木箱に腰かける。果実の表皮を袖で拭いてかじりつく。
噴きだした果汁が体内に染みいっていくのを感じながら、フォッテは母のことを考えた。彼女も決して体力があるほうではなかった。しかしチコリ爺さんに聞いたところによると、フォッテの母は男たちに混じって、塩抜きや石灰漬けはもちろん、脱灰や背割りもこなしていたそうだ。毎日の暮らしのために彼女がどれだけのことをしていたか、ここで働くようになってフォッテははじめて知った。
いつまでつづくんだろう――りんごの中心の渋い部分をしゃぶりながら考えた。これから先もずっと、ここで働かなければならないのだろうか。
果肉をすっかり歯でこそげ落とし、食べられるところがなくなると、足を振って木箱から飛びおりた。向かいの空き地にへたを投げる。鳥か虫が食べればいい。
午後は三つの品を客の家まで運んだ。
配達は気が重い仕事だった。どちらか選べと言われたら、フォッテは迷うことなく工房での力仕事を選ぶ。汗でべとつく服はきっと臭う。通りで人とすれちがったりお客と向きあっているとき、それが恥ずかしくてたまらない。お客が品物の出来をたしかめているあいだ、フォッテは口の端を持ちあげることに意識を向けて、できるだけなにも考えないようにしていた。
配達が済むと、トランの手伝いをした。太くて重い筒を転がして革を伸ばしていく。
ハッカは作業台に覆いかぶさるようにして、背割りの練習をしていた。背骨の部分に沿って皮を裂く作業だが、フォッテはまだやらせてもらえない。
「もっと力を抜きな」チコリ爺さんがハッカの手もとを見ながら言った。「一服してくるから、そのあいだにあと三回やっておけ」
「はい」ハッカがナイフを置いて、ひたいの汗をぬぐう。壁ぎわまで行って新しい皮を抱えてもどる。彼が裂いているのは、穴があいたりして商品には使えない皮だった。
「フォッテ、手がとまっているぞ」極太の筒を引きよせながらトランがつぶやく。
それからしばらくは、一心に筒を転がした。
「おどろいた――」煙の香りを漂わせてもどってきたチコリ爺さんが、開口一番そう言った。「だれか見たか? 表にいる馬鹿でかいカラス」
思わず顔をあげた。
「見た見た」下を向いたままトランがつぶやく。「カラスのくせに、やけに肉づきがいいやつでしょう?」
「それだ」うれしそうな顔で、チコリ爺さんが握りこんだパイプを向ける。「ふてぶてしい野郎だな。ひさしの上からじっとこっちを見おろしやがる。しかし、あれだけでかいとさすがにちょっとひるんじまうな」
「実際、人を襲うカラスもいるらしいですからね」
「そのうちゲルツィオネが騒ぎだすぞ。あんな不吉なものが店のまえにいると、客が寄りつかなくなるってな」
筒を転がしながらフォッテはふたりの会話に聞き入っていた。胸が動悸を打っている。すぐにでも外へ出てたしかめたいが、そうもいかない。なにか口実はないかと考えていると、
「ハッカ、フォッテとふたりで樽の水を入れかえろ」チコリ爺さんが言った。
返事をして、ハッカが巨大な樽に近づいて行く。フォッテは桶を持って外へ出た。すぐ先にある井戸へ向かいながら、あたりを見まわす。カラスの姿はない。
「かわるよ」すぐとなりに立ったハッカが、水を汲みはじめた。
それから何度となく、フォッテは井戸と樽のあいだを往復した。作業のあいだじゅう気にしていたが、カラスは一羽も眼に入らず、同じ考えが浮かんでは消えた。いつもは待ちどおしいのに、その日にかぎって夕方になるのが怖いような気がしていた。
チコリ爺さんとトランが連れだって工房を出たのは、日が暮れかけたころだ。
彼らが帰り支度をするまえから、フォッテはほうきで床を掃いていた。
「フォッテ、一緒に帰らない?」ハッカが声をかけてきた。
「ごめんなさい。今日は用事があるから」
「そう――」
すこし冷たい言いかたになってしまったかな、と思った。「ハッカさん、いつも助けてくれてありがとう。力仕事がちゃんとできなくて、ごめんなさい」
「いいんだよ、そんなこと」
しばらく、彼は戸口のわきに立っていた。なにか言いたそうなそぶりを見せたが、結局あいさつだけ口にして帰っていった。
本当は、掃除が済むまでいてほしかった。しかし、待たせておいて戸口の先ですぐに別れるというのでは、さすがに申しわけない。
急いで床を掃いていく。店舗のほうにはゲルツィオネがいる。この建物のなかに、いまはふたりだけだ。早く掃除を切りあげたかったが、ゲルツィオネは床に落ちた小さなごみや汚れを見のがさない。フォッテはすでに二度、掃除をおろそかにした罰として給金から半日分を引くと告げられていた。
思ったよりも時間がかかってしまった。
手落ちがないかたしかめていると、重い足音が近づいてきた。
「今日はもういい」
顔をあげる。店舗へつづく戸口のまえにゲルツィオネが立っていた。
「腹が減っただろう。一緒に夕飯を食おうじゃないか」
「すいません、今夜はお母さんのそばにいてあげたいんです」用事があると言えば、どんな用だとしつこく聞かれる。やはり、こう言うのが一番だと思った。
「いつもそう言うな。わしの誘いは迷惑か?」
「そういうわけじゃないんです。ただ、お母さんの具合が悪いので」
「マーゴットもずっとそうやって断っていた。寡婦だというから哀れんで拾ってやったのに、まったく恩知らずな母娘だ」言いながら、工房に入ってきた。作業台のへりに手をつき、挑みかかるような目つきになる。「今夜はどうあってもつきあってもらうぞ」
「でも、お母さんが――」
「どうせ向こうはなにもわからないんだろう?」鼻の下のひげをうごめかして、にたりと笑う。「マーゴットは病気なんかじゃない。石になったんだろう?」
「ちがいます」
「これでもおれは顔が広い。青銅の騎士団にも知りあいがいるんだ」
顔から血の気が引いていくのがわかった。動揺を気取られてはいけないと思うが、どうしていいかわからない。
「そいつにマーゴットを診てもらおう。ただの病気なら困ることはないだろう?」
「そんなことしないでください、お願いですから」
「やっぱりな」満足そうにうなずき、作業台をまわりこんでくる。「石になったマーゴットが見つかれば、おまえも審問所行きだ。やつらの拷問はきついぞ。爪を剥ぐところからはじまるが、その先はとてもとても、わしの口からは言えんよ」
なにか言わなければいけないのに、言葉が見つからない。ぶあつい手のひらが伸びてきた。肩をつかまれる。目のまえに立ったゲルツィオネが、フォッテを見おろしている。
「これからは、わしの言うことにはすべて従え。おまえがいい子にしているならマーゴットのことは秘密にしておいてやる。わかったか?」
引きよせられた。太鼓腹に顔が押しつけられる。シャツに染みこんだ脂っぽい体臭が鼻をつく。
「やめてください!」せりだした腹を手のひらで押した。身をよじり、手をふりほどき、戸口へ向かって駆けた。
「おい、待て!」
重い足音が追ってくる。
工房の壁ぞいに走り、建物の正面へ向かった。
そこにいて――祈るような気持だった。
ランドルフ。黒い鳥。昨夜のことが夢でないなら、チコリ爺さんとトランが目にしたカラスが彼なら、約束どおり店のまえにいるはずだ。待ち合わせの時間はとっくに過ぎてしまったけれど、彼ならきっと待っていてくれる。『どうしたんだ』とフォッテに訊ねて、昨夜みたいに助けてくれる――
店舗の正面扉を背にして立つ。通りはにぎわっていた。仕事を終えた男の人たちが、連れだって歩いていく。買いものかごをさげた女の人が行きすぎていく。子供も目についた。
頭上のひさしをたしかめた。通りの向こうの塀を見る。いない。
左右の屋根へ視線を向ける。いない。こちらがわの塀にもいない。
苦しげな呼吸音が、すぐうしろに迫っていた。
「話の途中だぞ!」
振りかえる。角からまっ赤に染まったゲルツィオネの顔が現れた。怒りに目尻をはねあがっている。
「お仕置きだ!」
駆けだした。腕をからめて歩く若い男女のわきをすりぬける。棒きれを持った三人組の少年たちを追いぬく。こちらへ歩いてくる老婆が、目を丸くして立ちどまる。
いつのまにか、涙が頬をつたっていた。足をとめずに背後をうかがう。ゲルツィオネは店のまえでまえかがみになり、両手を膝にあてていた。
「クビだ、小娘!」彼が叫んだ。「騎士団が行くぞ! 楽しみに待っていろ!」
角を曲がる。そこからは早足に切りかえた。乾いた笑いが勝手に口から洩れる。
――馬鹿みたいだ。
小さな子供でもないのに。朝方はわかっていたはずなのに。またあんなことを信じる気になるなんて。それより大変だ。仕事がなくなった。いや、それどころではない。早ければ今夜にも青銅の騎士団が家に来る。石になった者は審問所へ連れていかれる。あそこがうわさどおりの場所だとしたら、母も自分も無事ではすまない。
母と一緒にマクスラビの森に隠れていれば、見つからないで済むだろうか。それしかないような気がした。フォッテの靴より大きな蜘蛛も、腕より長いムカデも、鳥と見まちがうほど巨大な蛾も我慢するしかない。だけど――フォッテは空をふり仰いだ。
――だけど今度はいつまであそこにいればいいんだろう。このまえはお母さんを見つけたらすぐに帰ってくればよかった。今度はちがう。いったいいつまであの森のなかで暮らすことになるんだろう。
恐怖で縮こまった心が、これ以上ないほどひどいことをささやきかけてくる。そう、ひとつだけ確実に助かる道がある。自分も母も。引きかえしてゲルツィオネに謝ればいい。彼の言うことをなんでも聞いて、これ以上怒らせないようにすれば――
「なかなか、気持ちのいい夕べだな」その声は左手の塀の向こうから聞こえてきた。
頭がまっ白になり、それから視界がぼやけはじめた。
「昼間は蒸し暑かったが、次第にいい風が吹くようになった。おれは好きだよ、こういう風は。なんと言っても乗りやすいからな」
まちがいない。例のカラスだ。人語をあやつる鳥。勇敢でやさしくて、抱きしめるとおどろくほど温かい――
「ランドルフさん?」
「うん」
「ねえ、出てきてよ」
「いまはやめておこう。カラスに話しかけているところなんか見られたら、魔女だと思われるぞ」
「黙っているから。お願い」
しばらく待った。やっぱりあとでいいよと言おうと思い、口をひらきかけたところで、羽ばたく音が聞こえた。塀の上に立つと、彼は艶のあるまっ黒なくちばしをわずかにひらき、首を縦に振ってみせた。
「どこにいたの?」つい訊ねてしまった。それも責めるような口調で。
「悪かったよ」ひそめた声で彼が言う。「人が来る。こっちに背中を向けていな」
言われたとおりにした。
ささやくような声で、彼はつづけた。「店舗の向かいの塀の上で待っていたんだが、棒きれを持った三人づれの悪ガキが騒ぎだしてな。石を投げつけてきたんで、いったん塀の向こうに避難したんだ。ガキどもの声が遠ざかってから塀にのぼったら、ちょうどおまえが走っていくところだった」
「声をかけてくれればよかったのに」
「そりゃだめだ。すぐに追うのもやめておいた。理由はわかるだろう? もう行こうよ。案内するからついてきてくれ。おれがなにかの上にとまったら、その角を曲がるんだ。いいか?」
うなずいた。
「よし。周囲に人がいなくなるまで、もう話しかけるなよ」
ランドルフが塀を蹴った。翼を広げて、滑るようにま横へ飛んでいく。
通りを歩いていた人々が足をとめる。だれもが彼の姿を――普通のカラスよりもずっと大きい彼が優雅に羽ばたく姿を――目で追った。
彼はななめに上昇していき、十字路の角に立つ街灯のひさしの上にとまった。十数人の視線を浴びながら左に首を振り、こちらを向いて、また左手へくちばしを向ける。
ようやくその動作の意味に気がつき、フォッテは夢中で駆けだした。
仕事の疲れも、汗で湿ったスカートの裏地の感触も、ゲルツィオネに追いかけられたときに感じた恐怖も、その瞬間はすべてが消えうせていた。