【二部 十六章】 氷柱、黄緑色の光、見知らぬ男
目のまえで、大きな獣が燃えていた。
とっさに杖をかざしたら、ものすごい早さでなにかが正面から飛んできた。
後方の壁ぎわまで飛ばされた。
腹に突き刺さったものに触れる。冷たくて手のひらが張りついてしまった。
「――!」ランドルフが、なにか叫んでいる。
「――!」顔をくしゃくしゃにしたパウロが触れてくる。
フォッテを貫いた杭のようなものは、壁に突きささっているようだ。なぜか痛みは感じない。吐き気がわきあがってくるばかりだ。
また、飛んできた。
ランドルフたちに伝えようと思ったが、声が出ない。
矢のように細くて先端が尖った雪柱が、ふたりに降りそそぐ。
パウロの背中に、ランドルフの首もとに、次々と突きささる。
周辺の床から数十本の透明な杭がいきおいよく生え出て、ふたりの体を貫いた。
フォッテの足の甲からも突きだしている。やはり痛みは感じない。ひどく気分が悪いだけだ。
広間の向こうに目をやった。ぼやけた視界に、大きな椅子に座った女王が映っている。彼女は最後に見たときと同じような青い布地のワンピースを着ている。ひたいと首に金色の大ぶりな装飾品をつけていた。
火に包まれたまま、ロンユエが起きあがった。
駆けだした彼に、女王が杖をさし向ける。
強い光がほとばしり、ロンユエの全身から細い筋となった血が噴きだす。
いつのまにか、天井すれすれの高さに巨大な拳が浮かんでいた。五頭だての馬車よりも大きな拳が、ロンユエの背に振りおろされる。
衝撃で床がびりびりと振動しても、女王は表情ひとつ変えなかった。しおれた雑草でも見るような無関心さで、立ちあがろうとするロンユエを眺めている。
拳が上昇し、また振りおろされた。
撃たれたロンユエがもんどりうって床に伸びる。その口から赤い霧が舞いあがる。
視界に陰がかかった。頭部が勝手に、がくがくと前後に揺れている。
ランドルフは、床から突きだした四本の氷柱に貫かれて宙に固定されている。パウロは二本の足で立ってはいたが、ぐったりと頭を垂れている。ふたりとも、意識はなさそうだ。
拳がふたたび天井付近まで上がっていく。
よろつきながらロンユエが立ちあがる。
右手の壁から、極太の雪柱が横向きに生え出た。ま横から衝射された雪柱が、ロンユエの腹に当たる。
その衝撃で、彼は左手の壁まで飛ばされた。壁に体を打ちつけて、床に倒れこむ。
せめて母を助けたかった、と考える。もうすこしシュピールから魔法を習いたかった。欲を言えば一度ぐらい、ランドルフとどこかへ遊びに行ってみたかった。
眠りにつく寸前のような浮遊感が全身を包んでいた。このまま終われるなら、それも悪くないのではないか――そう考えたところで、ガラスが割れる音によってフォッテの意識は強引に現世に引きもどされた。
「いててててて」
禿げあがった後頭部が見えた。裾の長い夜会服を着ている。節くれだった杖を持っている。床に山高帽が落ちているが、ひろおうとはしなかった。
「なぜ、ここへ来た」女王が言った。
「城からおまえの気配が消えたと、報せがはいってな。急いで飛んできたが、まあどいつもこいつも、仮の姿とは言えふがいない」ゲッセンバウムは肩ごしに振りかえり、ちらりとフォッテを見た。「その様子だと、おまえもあきらめかけていたな。考えろ考えろ。その氷塊を溶かす魔法、おまえは使えるだろう?」
剣を腹にさしこまれたように、ゲッセンバウムの体がびりっとふるえた。反りかえった彼の胸もとから、衣服を突きやぶって異様なものが――光沢のある黒い棒状のものが――突きだした。
二本の棒は、丸みを帯びた殻に覆われている。節の部分が盛りあがっている。カティーナの体に張りついてたものそっくりだ。節の部分が折れて、棒の先端がゲッセンバウムの顔前へ迫る。先端部分が鋏のように割れて、素早く開閉しはじめた。
「いまさら拘束具を出しても遅いぞ、アリア」ゲッセンバウムが勝ちほこったような声をあげる「禁呪はすでに発動させた。四方二十里に存在する呪いはすべて消える。ほら――」
左手の窓が、一斉に鳴り響いた。大量のガラスが割れ、カーテンがはげしくはためき、黄緑色の光が突風のようないきおいで流れこんできた。
「おまえが逆立ちして小便を漏らそうが、三百数えるあいだは呪いはもどらん。連中を一度に相手にできるか? どう思う、アリア?」
ゲッセンバウムの体を、黄緑色の光が包む。
「斬首と拷問部屋送り、どちらがいい?」女王がたずねた。
彼女の周囲にも光が届く。
「どちらもごめんだよ」笑みをふくんだ声でゲッセンバウムがこたえる。
高波のように押しよせた黄緑色の光が、床にあたり、壁にぶつかり、広間全体を駆けめぐる。フォッテの体も光に包まれたが、害はなさそうだ。流動する光はとろりとした感触で、春の木漏れ日のように温かい。床から腰の高さには濃い光が漂い、天井に近づくほど色がうすくなっている。
腹と足の冷たさが遠ざかっていく。入れ替わりに激痛が生じた。急いで治療魔法を唱える。光のせいで、腰から下はよく見えない。
ゲッセンバウムが、鼻を鳴らして旋律を奏ではじめた。
見ると、彼の頬と首もとを、棒の先端の鋏状のものがちょきちょきと切り刻んでいる。
ゲッセンバウムは気にするそぶりを見せない。彼の鼻歌は奈落の街で耳にしたものと同じだったが、いまは跳ねるような軽やかな響きだ。
「危ない!」考えるよりも早く、叫んでいた。
彼の頭上に、音もなく黒い渦があらわれたのだ。ゲッセンバウムも気づいた。素早く背後へ飛びすさったが、渦はぴたりと彼の頭上に張りついたままだ。
「覚悟しろよ」女王が言った。「泣いて許しを乞うまで、責めつづけてやる」
すとんと渦が落下した。
ゲッセンバウムが消えた。
渦も見えなくなった。
「あらたに唱える魔法には、影響がないようだな」ひじ置きに手をついて、女王が立ちあがる。
黄緑色の光が駆け巡る広間を睥睨して、彼女は言った。「さっさと来い、ランドルフ。それともロンユエが先か?」
フォッテの足にやわらかいものが触れた。とっさに横へ移動する。
「ああ、ごめんなさい」光をかきわけてパウロが顔をのぞかせる。「腹部と足の傷をふさぎましたよ。ほかに痛いところは?」
ゲッセンバウムが現れた瞬間から、傷のことを忘れていた。たしかに痛みが消えている。「ありがとう。もう大丈夫です」
「杖は手もとにありますか?」
「はい」
「よかった。それはとても貴重なものですからね。いいですか、フォッテさん、もしそのときがきたら、躊躇せずにやるべきことをやるんです。一瞬の気の迷いが、命とりになりますからね」
「え?」
「パウロ――」左手から、知らない男の声が聞こえた。
見ると、胸あてを装けた背の高い男が、すみの戸口から出てくるところだった。
「奥の部屋の剣を、こっちに運んでおいてくれないか」男は幅広の長剣を肩に載せていた。胸板が厚く、肩の筋肉が横に張りだし、腕と首が異様に太い。「剣が折れたら声をかけるから、代わりを放って寄こしてもらいたい。たのめるか?」
「任せてくださいよ」と、弾むような口調でパウロがこたえる。
「たのんだぞ」
わずかに頭をまわして、男はこちらへ視線を向けた。髪は短い。額がせまい。鼻梁のまん中あたりに、えぐれたような傷あとがある。
フォッテを見つめたまま、彼ははにかんだような笑みを浮かべた。
口を引きむすび、視線をまえへ向けると、わずかに腰を落として駆けだした。




