【二部 十四章 三】 召喚魔法、脱出、カーストン
遠くで、だれかが叫んでいた。
靴音が近づいてくる。かかとが鳴るたびに、金属が触れあう濡れたような音も聞こえた。
「てめえら、ここを離れなかっただろうな?」
「はっ!」
「あいつは魔法を使ったか?」
「先ほど治療のための魔法を――」
「馬鹿が!」
大きな花瓶が割れるような音で、一気に目が覚めた。体を起こして周囲を見まわす。
兵士がひとり、通路にうずくまっている。そのわきに別の兵士が倒れこむ。どちらも見張りをしていた男だ。
三人目が尻もちをついた。その頭部を青みがかった鎧を装けた男が蹴りつける。肩に弓と矢筒をかけている。ミルヴァートンだった。「あいつが唱えているのが治療の魔法だと、なぜおまえらにわかる。相手は魔女だぞ」
見張りをしていた男たちが大声で謝っている。三人とも立ちあがろうともしない。
「おまえらの処遇はあとで考える。一階でほかの団員と消火にあたれ。働き次第じゃ、馬鹿げた失策をすこしは埋められるかもしれねえぞ」
「消火というと――」床に両膝をついたまま、ひとりが訊ねた。
「火事だ。かなりのいきおいだ。いまカーストンを呼びに行かせた。おれが行くまでは、あいつに指揮を取らせろ。他の者にもそう伝えておけ」
「団長は?」
「ここの始末をつけてから行く。鍵を寄こせ」
兵士のひとりが立ちあがり、環に通した鍵を差しだした。
「行け!」
三人が駆けだす。
「火事だって? 一階か?」格子越しにモースが訊ねた。
ミルヴァートンは返事をしなかった。片手をあげて矢を一本引きぬき、弓につがえて引きしぼる。
牢内の人々が――特に通路のそばにいた人々が――あわただしく動いた。となりの者に体を押しつけて、左右の壁へ寄ろうとする。
若い女が悲鳴をあげている。子どもが泣きはじめた。男が怒鳴っている。老人が周りの者をなだめようとしている。
「おい、魔女」
フォッテのまえに道ができていた。正面、鉄格子の向こうにミルヴァートンが立っている。左右の目尻がはねあがり、ぴりぴりと震えている。顔は蒼白だ。鉄の棒のあいだから差しこまれた矢が、ぴたりとフォッテのひたいを指している。
「治療と見せかけて、火を飛ばしたのか?」
「そんなことしていません。わたしは――」
「なら、おまえの仲間か?」
「知りません。仲間なんか、わたしにはいません」
「どうだかな。おまえが来た日に火事になるなんて、都合がよすぎるだろう」
ミルヴァートンの足もとに煙が漂いはじめた。鉄格子のそばにいる人々が咳きこむ。
『バルテモア』
透明な楯を作る。片ひざをついて、深く息を吸いこんだ。
フォッテが作る楯は、手のひらを四つならべた程度の大きさだ。座っていても完全に体を隠せるわけではないが、立っているよりはましだろう。
白っぽい煙が、こちらまでやって来た。涙があふれだす。ぼやけた視界には、いわれのない罪で囚われた人々のうごめく影が映っていた。まえのめりになり、四つん這いになり、あちこちで吐きもどすような音を立てている。
「さっきみたいに、楯を作っているのか?」
いきなり、矢が放たれた。
さらに三本、立てつづけに飛んできた。
左肩に痛みがはしる。あとは防ぐことができた。
「おまえは、ここで仕留めておく」
房には喧噪が満ちているのに、ミルヴァートンの声はよく通った。
「火事だけでもひどい失点だが、そのうえせっかくとらえた魔女を逃がしたときたら、おれの出世の道は完全に途切れるからな」
矢が突き刺さった部分から、しびれるような痛みが広がっていく。次の矢をいつ射ってくるかわからないから、治療魔法が使えない。
「兵隊さん、やめてよ」そう言った少年が、咳きこみはじめる。
「お嬢ちゃん、こっちにおいで」老婆がフォッテの腕を引いた。
「おい、邪魔をするな」平坦な声でミルヴァートンが言う。「余計なことをしないで静かにしていれば、おまえらは逃がしてやらんこともない」
老婆がフォッテの肩を抱き、壁に寄る。
「いますぐどかないと、おまえも射るぞ」ミルヴァートンが言った。
「離してください。わたしは大丈夫ですから」
「大丈夫なわけ、あるかい」つぶやく老婆の腕がふるえている。
仕方なく、彼女を押しのけた。
フォッテが房の中央に立ったところで、大きな影が動いた。ミルヴァートンの姿が見えなくなる。
「やめなよ、団長さん」モースが格子越しにミルヴァートンと向きあっている。「たしかにこのお嬢ちゃんは魔法を使うが、悪いことをするとは思えない」
「どけ、でかぶつ。魔法を使う者はすべて捕らえて審問にかける。この国じゃ、大昔からそう決まっているんだ」
「こんなときだ、火を消すのが先だろう」
「そうだ!」若い男が声を張りあげる。「おれたちは無実なんだぞ。こんなところで焼かれてたまるか!」
その声に呼応するように、牢内の人々が口々に声をあげはじめた。異様な興奮がにわかにふくれあがる。その声に混じって、
「団長、退避してください!」通路の左手でだれかが怒鳴った。
「火は?」ミルヴァートンが訊ねる。
「わたしたちだけではとても消火は不可能です。いまにこちらにも火が来ます」
「ほかの房はあけてかまわん。囚人たちを庭へ連行しろ。ひとりも逃がすなよ」
「ここもあけろ!」叫んだ男が格子に取りつく。「おれたちを焼き殺す気か!」言って、激しく体を揺さぶりはじめた。
数人が太い鉄の棒をつかむ。格子がわずかに持ちあがり、床にあたり、早鐘のように鳴り響く。
「いますぐ離れろ。そこのでかぶつもだ。言うことを聞かないなら射つぞ」
向かいの房の戸があいた。囚われていた人々が押しだされるようにして、通路へ出てくる。ふたりの騎士が剣を差しむけて、勝手に逃げようとする者を制止している。
通路の煙が、濃さを増している。房内にも入りこんでくる。
口もとに袖口をあてた。わずかに息を吸った途端、せきがはじまった。また煙を吸ってしまう。立てつづけにせきが出る。涙と鼻水が大量にあふれだしてきた。
「おっ!」モースの背中が傾いだ。「こいつ、本当に射ちやがった」
彼のとなりにいた男が悲鳴をあげる。さらにそのとなりの男が、うめきながら崩れ落ちる。
房内の混乱がさらに高まっていく。怒号。吐きもどす音。悲鳴――天井付近には、煙が立ちこめている。
「さて、魔女」ミルヴァートンの顔が、モースの肩ごしにのぞいていた。「特殊な状況における指揮官の権限で、審問を省き、刑に処す」
ミルヴァートンがふたたび弓をかまえた直後、大柄な影が下方から伸びあがり、格子をつかんで立ちあがった。ほとんど同時に、男女数人の悲鳴がこだました。
ミルヴァートンのわきに火が現れた。天井に届きそうなほど大きい。それまでとは異なる高温の熱気をはらんだ黒煙が、房内に入りこんできた。
「うん!」モースが声をあげた。また射たれたのだろうか。
混乱した数人が鉄格子を蹴りつけ、揺らしはじめる。
そのうちのひとりが、倒れこむ。さらにふたり、三人と、声を洩らしてうずくまる。ミルヴァートンが格子に取りつく人々をつづけざまに射っていた。
――これは、もうだめだろう。
自分でも意外なほど静かな気持でフォッテは考えた。助かる手段が見つからない。いや、あるのかもしれないが、いまはあまりにも息苦しく、目やのどがひどく痛み、まともにものを考えられない。
だれかが泣いている。先ほどの少女か少年かもしれない。その声に野太い雄叫びがかぶさった。いまだに自分たちを解放しないミルヴァートンに向かって呪詛の言葉を吐いている。その声がふいに途切れた。矢で射たれたのか。熱気でのどが焼けたのか。
房のなかは煮立ったスープのような有様だ。熱と煙、悲鳴と怒号、体臭と吐瀉物の臭いが混じりあい、なにも考えられない。なにもわからない。知りたくもない。
「やめて――」口から勝手に洩れでた。熱をともなった煙がのどから入りこみ、たまらずうずくまる。胸の内がわが焼けるようだ。「もうやめて。いやだ。こんなの――」
助けてくださいと、決してそれだけはしないつもりだったのに祈ってしまった。
他人をたよってはならないと、リョカに言われた。人の何倍も頭を使えと、ゲッセンバウムは教えてくれた。ずっとそうつもりでいた。厳しい修行に耐えた。魔法の腕もあがった。しかしひとたび手にあまる事態が起これば、結局フォッテひとりではなにもできない。
「――ッテ」
濁流のような混乱の向こうから、そう聞こえた気がした。まただ、と思う。弱い心が自分の耳に聞かせた。こうだったらいいのに、という願望がそのまま実現することなど、この世界ではあり得ない。それはもう痛いほど思いしらされた。それに彼らに出会えたことだけでも、フォッテにとっては充分に奇跡のような――。
「フォッテ!」
顔をあげた。奥の壁に目をやった途端、これまで以上に涙があふれだしてきた。通気口の格子の向こうに、丸みを帯びた黒い影が月を背にして立っていた。
「無事か、フォッテ?」
「ラ、ランドルフは?」口に袖をあてて言ったが、うまく言葉にならない。
「見てのとおりだよ。杖は? 取りあげられたのか?」
「うん」
周囲の悲鳴が一段と高くなった。熱気が背後から襲ってくる。服や皮膚や髪が燃えているのではないかと思うほどの熱さだ。
「落ちついて聞いてくれ」言って、ランドルフは通気口のへりの上で足ぶみをした。「おれの指示どおりに行動してほしい。うまくいけば脱出できる。なに、それほど難しいことじゃない。いいか?」
「いいけど、もうそんなに長くはもたないと思う。あと、ここにいる人たちはどうなるの?」
「みんな助かるよ。六十数えるあいだに片はつく。気をしっかり持ってくれ。いいか、やれるか?」
「うん。なにをすればいいの?」
「まず荷物をわたす。ま下に落とすから受けとってくれ」格子のあいだに細長い筒が差しこまれる。「三つ数えてから落とす。よく見て、しっかり受けとれよ。いくぞ。いち、にい、さん――」
腰を落とし、両手ですくうようにしてつかんだ。円筒形のガラス瓶で、ずしりと重い。側面に紙が張りついている。
頭上でランドルフがうなりはじめた。
見ると、格子のあいだに強引に体をねじこんでいる。片方ずつ肩を通すと、腹をこすりつけるようにして格子を抜けた。間髪入れずに軽く跳ねて、床に降りたつ。
「瓶の外がわに紙とチョークが紐で巻きつけてある。それをはずしてくれ」
指で紐をさぐる。結び目を解いてチョークと紙片を取った。「次は? ランドルフ、次はどうすればいい?」
「おまえに、戦場で生きのびる秘訣を教えてやるよ。尻に火がついているようなときこそ、ゆっくりと行動するんだ。普段の倍の時間をかけるつもりでな。仲間に責められても気にするな。おれは何度も見てきたが、そういう図太い神経の持ちぬしだけが、結局は生きのびるんだよ」
周囲はものすごい熱さだ。まともに呼吸ができないし、大量の涙がずっと流れつづけている。それでも彼が言うなら、そうしてみようと思った。「わかったよ。ゆっくりやる。それで、次はなにをすればいいの?」
「チョークで床に魔方陣を描いてもらう。大きさはおまえが両うでで作る輪ぐらいでいい。その紙に手本が描いてある。魔方陣を描くときの注意事項は、もう知っているよな?」
うなずき、紙片をひらく。ふるえた線で、円におさまった星と四つの絵が描いてある。下のほうには、文字が二行ならんでいる。「これ、シュピールさんが?」
「そうだ。明かりがいるだろう? 小さな火を左手の指さきに作るといい。鉄格子のほうに背を向けて、体で火を隠すんだ」
肩ごしに通路のほうをうかがう。人々がついたてがわりになっていて、ミルヴァートンの姿は見えない。
「あっちはおれが見ているから、おまえは魔方陣に集中しろよ」
「うん」壁に向かってしゃがみこむ。背中を丸め、ひとさし指を胸のまえで立てる。
『ヘテロ』
親指の爪ぐらいの大きさの火が現れた。ランドルフがフォッテの背後にまわりこむ。
紙片を足のあいだに置く。そのすみに瓶のふちを載せた。
チョークで円を描いていく。ゆっくり、ゆっくりと自分に言いきかせる。喧噪を自分とは無縁なものと思いこもうとする。熱も、煙も、ミルヴァートンも――。
ぐるりと曲線を描き、慎重に線を結ぶ。だいぶゆがんでしまったが、問題ないはずだ。多少形が崩れていても、線と線がきちんとつながっていればいいのだと、シュピールが教えてくれた。
円のなかに、五芒星を描く。五つの鋭角の先に、ガタリ語らしき文字を書きこんでいく。
「フォッテ、瓶を守れ!」背後でランドルフが叫んだ。
雪崩のように人が押しよせてきた。両手を壁について魔方陣と瓶をかばう。
腰を蹴られた。覆いかぶさるようにして、だれかが背中に倒れこんでくる。少年と少女と無事だろうか。もうどこにいるかもわからない。
人の波が去った。
円の外がわに四つの絵を――太陽、三日月、果実のなった木、鳥の羽を描いていく。
「できたかい?」
「図は書いたよ。たぶん大丈夫だと思うけど」絶対にまちがいないと断言することはできなかった。前回魔方陣を描いたときとは、あまりにも状況がちがう。
ランドルフがわきに来た。「うん、よさそうだ。図形の下に文字を書けば完成だな。それと紙の裏に、今後の手順と詠唱の文言が書いてある。わかるな?」
「娘! なにをしている!」ミルヴァートンだった。
ランドルフがくちばしを通路のほうへ向ける。「フォッテ、あわてずにな」言うと、彼はぴょんと飛びあがって羽ばたいた。「よう! 腐れ弓使い!」
乾いたかん高い音――矢が壁に当たった音のようだった。
「下手くそ!」ランドルフがせせら笑う。「散々カラスを射殺してきたくせに、今日は当たらないじゃないか。この程度の火事でびびっているのか? それとも腕が落ちたか?」
ミルヴァートンがなにか叫んだ。ついで、くぐもった悲鳴が左後方から聞こえた。ランドルフがそちらへ移動した。そちらにいた人に矢が当たった。きっとそういうことなのだろう。
振りかえりたい衝動を抑えこむ。意識を床の図形に向ける。あと五つ文字を書きこめば完成だった。
背後で金属音が鳴る。鉄柵が横に滑る音がした。
「どけ!」ミルヴァートンが言った。「てめえら全員さがれ! 叩っ斬るぞ!」
「弓使いが剣を取っても、まったく怖くないなぁ」歌うようにランドルフが言う。
最後の文字を書きおえた。手本と見くらべて、書きそんじがないかたしかめる。
耳につくのは、舞踏をしているような足音だ。それに剣が壁を叩く音。ランドルフが羽ばたく音。彼がミルヴァートンをはやす声――それらと共に男女の悲鳴や怒号も聞こえてくる。
「娘! いますぐこっちを向け!」
紙片の指示に従って、瓶のふたについた留め具に指をかける。
「おれだろう、おまえの相手は」
羽ばたく音が聞こえた。
「おっ!」とミルヴァートンが声をあげる。
拍車が床を削る音。鎧が触れあう金属音。ランドルフが短く鳴いた。
留め具が固くてなかなかあかない。
ランドルフは、房内を飛びまわっているようだ。剣が宙を斬る音が、間断なくつづく。
いきなり留め具が跳ねあがった。
瓶を傾ける。もう一方の手を、瓶の口の下へ持っていく。
粘ついた液体と一緒に、わずかに弾力ののこった物体が落ちてきた。
それを五芒星のまんなかに置く。
ケープの袖に刺していたまち針を抜いた。おや指の腹に突きたてて、血を垂らす。
紙片を顔に近づけた。シュピールの字は幼児が書いたようにがたつき、ゆがみ、ひどく読みにくい。あのふるえる指先で、ひどい痛みに耐えながら書いたのだろう。その文字を眼で追いながら、フォッテは唱えはじめた。
『我にその身の一部を差しだした者よ。その身に自ら刃を突きたてた勇敢な者よ。おまえの誓いは受けとった。血と智の誓約にしたがい、ここに命じる――』
「ぎいいいっ!」
思わず息を飲んだ。カラスそのものの声で、ランドルフが鳴いている。フォッテの頭部に、首すじに、なま温かいものが降りかかってきた。鉄さびに似たにおいが鼻を刺す。
「しぶとい野郎だ。まだ動いてやがる」ミルヴァートンは息を弾ませていた。
すべての衝動を押し殺して、フォッテは紙片に眼を落とした。フォッテではミルヴァートンには敵わない。先ほどと同じような結果になるのは目に見えている。しかし――。
「よく聞けよ、カラス。これからてめえを火で焙る。黒焦げになった肉は――」
『我の願いを叶えよ。いますぐここへ現れよ』
「そこにいる娘に、ぜんぶ食わせてやるからな!」
『現れよ、ロンユエ!』
最後の言葉を口にした途端、周囲の喧噪がかき消えた。
房内に満ちていた煙が、渦を巻きながら魔方陣へ吸いこまれていく。
ひと筋のこらず煙が消えたのち、わずかな間を置いて大きな音が――落雷が大樹を断ちわるような荒々しい音が響きわたり、白っぽい光が床から照射された。
熱も、音も、においも消えた。
恐怖も、痛みも、希望も忘れた。
気づくと、音がもどっていた。光は途絶えている。火と煙も、消えている。
ひそめた声がいくつも同時に聞こえてきた。
「ありゃいったいなんだ?」
「その娘、さっき座りこんでなにかしていたぞ」
「化けものだ」
「もうすこしそっちに寄れ」
彼に、声をかけようとしたときだった。
背後から髪をつかまれ、力まかせにうしろへ――鉄格子のほうへ引かれた。
房のまん中あたりまで引きずられて行く。今度は肩をつかまれた。右腕がひねりあげられ、腰のうしろへまわされる。
「なんだ、あれは?」フォッテの背後に立ったミルヴァートンがつぶやく。
奥の壁ぎわから、低くて太いうなり声があがった。
「あれはなんだと訊いているんだ、魔女」
まえぶれもなく耳もとで、重ねた紙を素早くこすりあわせたときのような音がした。
ひねられていた腕が自由になる。とっさにまえに踏みだして距離を取る。攻撃にそなえるつもりで、振りかえった。
ミルヴァートンは目を見ひらいていた。その視線はフォッテをとらえていない。見つめているのは自らの右肘あたりだが、肘から先は消えている。切りおとされて平らになった断面から、堰を切ったように血が噴きだしてきた。
「おお――」たまらずといった様子で、ミルヴァートンが片膝をつく。歯を食いしばり、のこったほうの手で断面のすぐわきをつかんだ。
彼の体から離れた前腕は、フォッテの手首に取りついたままだった。固くとじている指をこじあけて床に置く。あとずさりしながら、周囲をたしかめた。
ランドルフは右手の壁ぎわに伏していた。
駆けより、治療魔法を唱える。背中に深い刀傷がはしっていて、血が止まらない。強く引っぱったら右翼が根もとから取れてしまいそうだ。
「そいつ、殺しておくか?」
「ちょっと待ってください。ランドルフがひどい傷なんです。このままだと死んでしまうかもしれません」もう一度治療魔法を唱える。目まいが襲ってきた。今日は魔法を使いすぎている。
「怪我なら、こいつに任せりゃいい」
声のほうへ顔を向ける。彼はまだ、先ほどフォッテが描いた魔方陣の上に立っていた。くすんだ灰色の毛がもつれて垂れさがっている。あちこちに地肌が露出しているが、無数にあった裂傷は消えている。片眼はとじたままだ。
「ロンユエさん、突然呼んでごめんなさい」
小さくうなずくと、大きな獣はいやいやをするように頭を左右に振った。鼻先を床へ向け、喉の奥を鳴らす。
「うひゃっ!」瓜に似たものがロンユエの口から転がりでた。床に落ちるとごろりと回転して、「おお、苦しかった――」
「パウロさん!」
「やあやあ、フォッテさん」立ちあがり、顔にこびりついた液体を手のひらでぬぐう。「あなたがいるということは、ここは地上ですかね?」不安そうな顔つきで見あげてきた。
フォッテがうなずくと、まだら模様が浮かぶ頭部にいく筋もしわが現れた。
「やっとだ!」泣きだしそうな表情で、パウロが頭上をふり仰ぐ。「やっと出られた! ああ――」
「パウロさん、ランドルフを診てもらえませんか。わたしの魔法では追いつきそうにないんです」
「あっ、また怪我をしている。ひどいなこれは。まったく、よく体がもつもんだ」
「なんとかなりますか?」
にやりと笑うと、パウロは肩にかけていた布の鞄をまえに回した。「例の薬を持ってきました。手術のための道具も」
壁に手をついた。安堵で座りこんでしまいそうだった。
パウロはランドルフのわきに膝をつくと、袋を探り、細長いガラス瓶を取りだした。瓶の中身をたっぷりと傷にふりかける。それから革の包みを床に置き、左右にひらいた。小さなナイフや、錐のようなものがならんでいる。
「杖はどうした?」ロンユエが訊ねてきた。
「捕まったときに、取りあげられてしまいました」
獣はちらりと責めるような目つきになった。「ここにあるのか?」
「わかりません。ただ、ここは魔法について調べる場所ですから」わざわざほかの場所に持っていくとは思えない。
フォッテがそう言うと、ロンユエはふうんとうなった。
「階下が燃えているな」
毛の房が、ロンユエの背中からひとすじ伸びでた。鞭のようにしなって床を叩き、奥の壁に食いこむ。さらに数回、房は眼にもとまらぬ早さで宙をはしった。細かく分断された壁が外がわへ落ちていき、立ったまま通りぬけられるぐらいの穴ができた。
「ここから出るぞ。背中に載れ」
穴から、どっと夜風が吹きこんできた。
「みんなは?」
「出口はあるんだ。自分でなんとかするだろう」
「でも、子供もいるんです」
息を吐きながら、ロンユエがこちらに向きなおる。フォッテのわきを通りすぎ、ミルヴァートンのまえに立った。「逃げだそうとしなかったのは、ほめてやる」
汗だくの顔をあげて、騎士団の長は引きつったような笑みを浮かべた。彼はのこった手と口を使って、切断面のわきを布で縛ろうとしているところだった。「逃げようとしたら腕か足か、また飛ばすつもりだったんだろ?」
「次は首だ。当然だろう」
胸を突かれたミルヴァートンが、背中から床に倒れこむ。
ロンユエは右の前肢の爪を一本だけ伸ばした。その爪を鎧の胸あてにひっかけて、騎士をうつ伏せにする。爪をおさめた前肢で、ミルヴァートンの背中を踏みつけた。「力のないやつだけ先に降ろす。餓鬼と老人、こっちへ来い」
だれも動かなかった。いきなり現れた大きな獣を、遠まきに見つめるばかりだ。
フォッテはロンユエのわきに立ち、房内の人々に呼びかけた。「子供とお年寄りのかた、こっちに来てください。安全にここから出してもらえます。わたしが請けあいます」
「お姉ちゃん!」先ほどの少年と少女が駆けてきた。
「この人、お姉ちゃんのお友達?」少女がフォッテのスカートの布地をつかんだ。
少年はおそるおそるといった様子で、灰色の獣の背中へ腕を伸ばした。彼の指が触れても、ロンユエはじっとしていた。
ふたりを順に抱きあげて、大きな背中に載せる。「まだ、何人か乗れます」
「ちょっと、立たせておくれ」老婆の声だった。「みんなが遠慮するって言うなら、乗せてもらおうかね」
だれもとめなかった。老婆がこちらへやって来る。
「お婆さん、安心していてください。彼は絶対に乱暴なことはしませんから」
「わかってるよ」老婆はフォッテの肩につかまり、ロンユエの背中にまたがった。
高齢に見える人を探した。白髪を短く刈りこんだ男に声をかける。彼は自分よりも妻をと言って、となりにいる女性の肩に触れた。結局、少年と少女、老婆のほかに女性ばかりが四人、ロンユエの背中に乗った。
「もういいな」言うと、彼はミルヴァートンの肩口をくわえた。ぐったりとした様子の騎士をひきずって穴のまえまで行くと、そのままふわりと外へ飛びだした。
穴に駆けよった。
前庭に降り立ったロンユエの周りに、二十人ほどの騎士が近づいていく。消火にあたっていた騎士たちだろう。
最初に少年が、獣の背中から飛びおりた。少女も降りた。
一斉に兵士の足がとまる。ロンユエがなにか言っているようだ。
女性たちがひとりのこらず降りると、ロンユエはふたたびミルヴァートンをくわえた。屋敷のほうへ向きなおり、駆けだした。
彼の姿が見えなくなっても、兵士たちは動かなかった。少年たちもじっとしている。
五つ数えるほどの間しか、なかったと思う。
ロンユエが、鉄格子の向こうに現れた。剣の刃先を触れあわせるような音がして、断ちきられた数本の鉄の棒が床を転がる。
房内の人々が、そちらへ殺到した。
ロンユエはつまらなそうな顔つきで、彼らのまえに立ちふさがった。「階段は火の海だ。ここから出たら死ぬぞ」
先頭の男が後退する。
ロンユエが房に入ってきた。帯状になった毛の束が、フォッテの胸もとへ伸びてくる。
「おまえのだろうが」
シュピールにもらった杖だった。「ありがとう、ロンユエさん」
「出るぞ。火のいきおいが増してきている」
「この穴からですか? そうだ、下の人たちは?」
「なにかあったら大声で呼べと言っておいた。だが、騎士どもは手出しをしないだろう。余計なまねをしたら片腕の騎士を殺すと脅しておいた」
それで思いだした。「ミルヴァートンは――あの騎士はどうしたんですか?」
「一階に捨てた。行くぞ。早くしろ」ロンユエが背中を向けてくる。
「ここにいる人たちは、どうするんですか?」
「おまえを降ろしたあとで助けてやる。さっさと乗れ」
「フォッテさん、言うとおりにしたほうがいいですよ」パウロがランドルフを抱えて立ちあがった。「わたしをロンユエさんの背中に載せてください。あなたもわたしのうしろに乗るんですよ。さあ、早く」
フォッテのうしろに、三人の女性が連なった。それで房内の女性は全員だった。
通路がわに立っている人々が咳きこみはじめた。ふたたび煙が入りこんできている。
「行くぞ」ロンユエが壁の穴に向かって跳躍した。
ぱっと夜空が広がり、下から風が吹きつけてきた。近づいてくる地面に向かって、ロンユエの房が数本伸びていく。地面に突き立ち、木の根のような形状になって、フォッテらを支えた。
「お母さん! お姉ちゃん!」
少年と少女が両手をあげて呼んでいる。老婆たちも顔をあげている。
房に支えられて、ゆっくりと下降していった。
周囲を取りかこんでいる者は、四十人ほどに増えている。騎士が八割、それ以外の者――看守と審問官と拷問官――が二割ぐらいだ。カーストンがいた。腕を組んで、こちらを見つめている。
ロンユエが地面に降り立つ。
パウロとランドルフを先に降ろした。パウロは周囲には目もくれず、その場にしゃがみこんでランドルフの治療を再開した。金具に糸を通して傷口を縫いあわせていく。小さく鼻を鳴らして、軽やかな旋律を奏でている。
フォッテと他の女性たちも、ロンユエの背中から降りた。
「しばらくここにいろ」建物のほうへ鼻先を向ける。彼が歩きだすと、進行方向に立っていた騎士が左右に寄って道をあけた。
一階の壁は、黒煙に包まれていて見えない。激しくうねる炎は、すでに二階に達しているようだ。
ロンユエが駆けだした。灰色の毛をたなびかせながら、煙と炎が噴きだしている正面玄関へ突っこんでいく。
「なんだ、ありゃ」言ったカーストンが、こちらへ顔を向ける。「お嬢ちゃん、団長はどこだ?」
その問いを無視して、フォッテは少年と少女の肩を抱きよせた。
「みなさん、円になって、外を向いてください。だれかが近づこうとしたら、すぐに大声で報せてください」
「おいおい、おれたちは別に、あんたらに危害を加えるつもりはないよ」カーストンが言う。「団長はあの獣にくわえられていたと聞いたが――お嬢ちゃん、知らないかい?」
答えに困った。ミルヴァートンは一階に置きざりにされた、などと言えば、逆上した騎士たちが襲いかかってくるかもしれない。
「なあ、こんなときだ。協力しあおうじゃないか」
「協力ですって!」背中合わせに立っている、おかみさん風の女性が叫んだ。「よく言うよ。火事になってもわたしたちの牢の鍵をあけなかったくせに。みんな焼け死ぬ寸前だったのよ」
「本当か?」カーストンが眼を細める。「おれは、いま来たばかりなんだ。寝ているところを叩きおこされてね。だから、細かいことはなにもわからん」
「あんたたちの団長っていうのは弓を使う男だろ? 火事だっていうのにあの男は、子供もほったらかしでこのお嬢ちゃんを殺そうとしたんだよ。あんなやつは――」
彼女の声は、そこでたち消えた。
建物のほうから地を震わせるような轟音があがり、みながそちらに視線を向けた。
「うわあ!」少年がかん高い声を張りあげる。
審問所が――見あげるほど大きな建物が、右に傾きはじめたのだ。しばらくすると、左に傾いでいった。轟音がおさまり、ふたたび右へ倒れていく。
炎と煙のせいではっきりとは見えないが、どうやら一階部分の壁が、両わきからすこしずつ崩れているようだった。
「今夜はずいぶん慎重だな」パウロが立ちあがる。
「パウロさん、杖もありますし、ランドルフに治療魔法をかけましょうか?」
「必要ないです。やることはやりましたからね。それよりフォッテさん、いまのうちにわたしの薬を飲んでおいてください。大さじ二杯分ぐらいでいいでしょう。疲れが取れるし、魔法もよく利くようになるはずです」
ガラスの瓶を受けとった。
「もうすぐ牢のなかにいた人が出てきます。そちらの治療は手伝ってください」
手が汚れていたから、顔を上へ向けて直接口で受けた。はちみつのような粘りけのある液体を飲みこむ。
ひときわ大きな音がして、風と一緒に粉塵が吹きつけてきた。
「あっ! 痛い!」少女が、両手で顔を覆う。
フォッテも腕で顔をかばった。うすく眼をひらく。
土煙の向こうにぼんやりと見える審問所は右に傾ぎ、一階分背が低くなっている。
ロンユエがあけた穴から、人影が這いだしてきた。
「あなたの言うとおりだ」パウロが言った。「こんなときですし、協力し合いましょう。彼らには手当が必要です。きれいな水をできるだけたくさん用意していただきたい。熱湯と強い酒、杯、きれいな布もあればうれしいですが、そちらはできる範囲でかまいません」
カーストンは複雑な表情で、二本の肢で立つ蛙の言葉を聞いていた。頭には無数の疑問が浮かんでいるはずだったが、すべて飲みこんだ。「聞いていたな、まず水だ。そっちの十五人。兵倉まで行って、樽ごと水を運んでこい。水のあとで、それ以外の物を運びこめ。行け」
剣を鞘に納めた騎士たちが駆けだす。
「のこった者は、おれと一緒にミルヴァートン殿を探す。建物の下敷きになっていないといいんだが」
カーストンを先頭に、二十人ほどの騎士が建物へ向かう。鎧を装けていない男たちは、その場に立ちつくしたままだ。例の小柄な拷問官の姿はない。逃げおくれたのだろうか。
「お婆さん、彼を見ていてもらえますか」パウロが言った。「わたしの大事な友人なんです」
「いいとも」とこたえた老婆が、ランドルフを抱えあげる。
「フォッテさん、治療をはじめましょう。熱と煙で内臓をやられている者がいるはずです。そちらはわたしの薬で治療します。フォッテさんは、わたしが指示した者の火傷を治療してください。重度の者から先に。ただし重すぎる火傷はあとまわしです。判断に迷ったら声をかけてください」
パウロとならんで歩いていく。母のことが気になっているが、彼らを放っていくわけにもいかない。
少年と少女がフォッテの横についた。女性たちも追ってきた。
穴から出てきた人々が、建物からすこし離れて座りこんでいる。どの顔も煤と粉塵で黒っぽくなっている。服が破れている者も多い。地面にあお向けに横たわる者、頭を低く垂れている者、自らの肩を抱いて苦しげに体をふるわせている者もいる。
「まずはその人をお願いします」パウロが左手の男性を指さした。「次にあっち、それからあの、いま吐いた人」パウロが人々を指さす。
「蛙さん、なんでしゃべれるの?」少女がたずねた。
「いや、なんでって言われてもねえ――うひっ! ちょっと坊ちゃん、やめて。くすぐったい!」体をよじってから、パウロはつづけた。「ふたりにも手伝ってもらいましょう。もうすぐ水が届くはずですから、布を湿らせて、つらそうな人にわたしてあげてください。杯があったら、それに水を汲んでわたすように。できますか?」
はあい、と少女が返事をする。
「じゃあ、お姉ちゃんは向こうに行くね」少年の手を離して、パウロが最初に指さした男のわきに座りこむ。
背中を丸めてうなだれているのは、ひたいの広い男――先ほど房内で、フォッテの治療を拒んだ男のひとりだった。シャツの袖がほとんど焼けおち、ただれた皮膚がのぞいている。顔と首もとにもひどい火傷があった。
「つらいでしょう。治療をしてもいいですか?」
男が小さくうなずいた。
「ただ、わたしは魔法を使います。治療も魔法で行います。それでもかまいませんか?」
黒く染まった顔のなかで、そこだけ浮きあがったように見える充血した瞳が、フォッテの顔と杖を交互にとらえた。
「たのむよ」と、ささやくような声で男が言った。
うなずき、杖を向けて呪文を唱える。一度治療魔法をかけただけで、はっきりわかるほど男の表情が和らいだ。やはり杖があると効果が段ちがいだ。パウロの薬も効いているようで、目まいもない。
ふたりめの男のもとへ向かう途中だった。ロンユエが穴から出てきた。つまらなそうな顔つきであたりを眺めると、川をわたった犬がするように、胴をふるわせて全身の毛を舞いあがらせた。
「ロンユエさん」
彼が顔をあげた。「もう、なかにはだれもいない」
「ありがとうございます。でも、なぜ建物を壊したんですか?」
壁にあいた穴から直接二階の牢へ入ることもできただろう。あの伸縮自在の房を使えば、もっと簡単に房内の人々を外へ連れだせたのではないか。
ロンユエが横を向いた。「汗くさい男に触るのはごめんだ。においが移る」前庭を横切って、人の群れから二十歩ほど離れた場所に座りこんだ。
「フォッテさん、早く!」パウロが手招きをする。「水も来たみたいですよ」
審問所の裏手から、騎士が出てきた。四人がかりで大きな樽を運んでいる。かけ声をあげて歩調を合わせ、かなりの速度でこちらへ駆けてくる。樽はぜんぶで三つあった。
それからしばらく、治療魔法を唱えつづけた。最初の数人には、魔法で治療をすると断りを入れたが、そのうち負傷者のほうから、かまわないからやってくれと言ってくるようになった。
少年と少女は、両手に杯を持って駆けまわっていた。ロンユエの背に乗って先に脱出した女性たちも、忙しそうに立ち働いている。湿らせた布で血や汚れをぬぐい取ったり、治療の邪魔になる服を破いたり、なにか言っている人の口もとに顔を寄せて、話を聞いたりしていた。
フォッテが最後に治療したのが、モースだった。彼自身が、自分はあとでいいと言いはったからだった。
矢傷の治療は、パウロが済ませていた。背中に広がるひどい火傷に杖を向ける。
治療が済むと、モースがこちらへ向きなおり、「あんたが無事で、よかったよ」照れくさそうに笑った。「あの騎士にやられたかもしれない、と思っていた」
「モースさんも、無事でよかったです」
「無事ってことはないが」彼が微笑む。「あの医者みたいな蛙と、向こうにいる馬鹿でかい獣は、お嬢ちゃんの知りあいかい?」
「はい。以前、とてもお世話になったんです」
「あの、牢にいた勇敢なカラスも?」
フォッテがうなずくと、
「困ったな」と言ってモースは頬を撫でた。「明日からはカラスがゴミを漁っていても、追いはらえなくなっちまった」
濡れたような金属音が、背後から近づいてきた。
モースの顔に、警戒の色が浮かぶ。
立ちあがりながら振りかえる。カーストンだった。ひとりでこちらへやって来る。
「なあ、お嬢ちゃん、うちの団長も助けてくれないか。ひどい火傷なんだ」
「なに言ってやがる」冷たい声でモースが言う。「あいつがこのお嬢ちゃんと仲間に、どんなことをしたか知っているのか?」
立ちどまったカーストンとが、神妙な顔つきで見つめてくる。そのうしろにちらりと人影が見えた。彼の部下だろうか。
「さっき部下から聞いたよ。悪かった。この通り謝るから、助けてもらいたい。建物のわきで倒れているのを見つけたんだが、このままじゃまちがいなく死んじまう」
すぐには返事ができなかった。ミルヴァートンは危険だ。復調したら、フォッテとランドルフはもちろん、牢に囚われていた人たちも危険な目に遭うのではないか。
「助けてやれよ」
顔をあげた。
カーストンのわきに老婆が立つ。彼女の胸に抱かれたランドルフが、こちらを見つめていた。
「傷はどう?」
「もう平気だよ。パウロの薬は本当によく効くな。おまえが考えていることはなんとなくわかるが、ここにいる連中が捕まることはないよ。石化の犯人は、もうわかったからな」
「ランドルフもわかったの?」
「ほう。おまえもか。あの飴のことを考えたのか?」
うなずいた。彼もフォッテと同じ人物を疑っている。いや、それどころか犯人と決めつけているような口調だった。
「実を言うと、おれは自分で推理したわけじゃないんだ。シュピールに聞いてな」
「シュピールさんが。彼は無事なの?」
「まあ、なんとか生きているよ」眼を細めてそう言うと、ランドルフはくちばしを小さく振った。「死んじまうまえに治療してやりなよ。放っておいたらきっと後悔するぞ」
たしかにそうだ。それにフォッテとランドルフだけ気をつければいいなら気が楽だ。「傷を見ます。彼はどこですか?」
「ありがたい。こっちに来てくれ」カーストンがほっとした表情できびすを返す。
「ちょっと待ってください。パウロさん! 手が空いたらこっちへ来てもらえますか?」
パウロは座りこんだ男の後頭部へ顔を寄せていた。その姿勢のまま片手をあげる。そばに立っていた女性になにか告げて、こちらへ駆けてきた。
「やあやあ、ランドルフさん。こうやって地上で再会できるとはね。フォッテさんとゲッセンバウムさんのおかげですよ。もう聞いているんでしょう、同盟の話は?」
「詳しい話はまだだよ。もうひとり怪我人がいるんだ」
「こっちに来てくれ」ミルヴァートンが歩きだす。
すこし離れたところに、騎士たちが集まっていた。その中央に、半裸の男が横たわっていた。ミルヴァートンなのだろうが、面影はない。髪が一本のこらず焼けおちている。ひどい火ぶくれのせいで、全身の皮膚が腐りきった果実のようになっている。
「パウロさん、例の薬で治せますか?」
「それが、もうほとんど使ってしまったんですよ。まずはフォッテさんの魔法で、できるだけもとにもどしたほうがいいでしょう。表面はもちろん、体の深いところも傷ついているはずだ」
呪文を唱えた。ただれた皮膚がわずかに色を変える。のぞきこんでいた騎士たちが口々に声を洩らす。
三度、四度とつづけた。
羽ばたく音が背後から近づいてきた。
そちらを見なくても、もちろんフォッテにはだれの羽音かわかった。
「いいか、おまえら」フォッテの左肩にとまると、ランドルフは低い声で言った。「おまえらも騎士の端くれなら、受けた恩は忘れるなよ。魔女だろうが化けものだろうが関係ない。そこに寝ている上官にもよく言いきかせておけ」
肩にかかる重みがありがたかった。女王と面会したときから、もう会えないかもしれないとどこかで覚悟していた。
「絶対に手出しはさせない」カーストンが言った。「おれのお袋の名にかけて誓うよ」
さらに五度、呪文を唱えた。思わず眼を背けたくなるほどひどかった火傷が、かさぶたを剥がした直後のような、淡い桃色になった。
「もういいでしょう」パウロが言った。「これ以上は、何度魔法をかけても同じですよ」
うなずき、立ちあがる。
ミルヴァートンは目をとじたまま、ぴくりとも動かない。髪も眉も鼻も右腕もなくなってしまったが、それはフォッテにはどうすることもできない。
「感謝するよ、フォッテ」カーストンが静かに言った。
「いいんです。それより、教えてもらいたいことがあります」
「なんだ?」
「石化した人たちは、どこへ運ばれたんですか?」
「それは――」
「わたしの母も石化しました。一ヶ月ほどまえにここへ連れてこられたはずなんです」
カーストンが息を吐く。わきにいる部下をちらりと見てから、小声で言った。「別の場所に移動した。神父の屋敷だ」
「なぜですか?」やはり、と思いながら訊ねる。
「もともとそういう決まりだったんだよ。彼には石化の調査にも協力してもらっているし、あの馬鹿でかい屋敷にはあまっている部屋が山ほどある」
フォッテが視線を向けると、ランドルフは小さくうなずいてみせた。
「わかりました。ほかに怪我をしている人はいませんか? いないなら、わたしはもう行きます」
騎士たちのあいだを通りぬけようとしたところで、前方でどよめきが起こった。男たちが押しあうようにして左右へ寄り、獣の顔がのぞく。
「話が聞こえた。急ぐんだろ」
「はい」
「なら、乗れ」
ぴょんと跳ねて、パウロがロンユエの首にしがみつく。フォッテも彼の背中にまたがって、長い毛をそっとつかんだ。ランドルフはフォッテの肩にとまったままだ。
「念のために、言っておく――」
片方だけの眼に射すくめられたのだろうか。前方の騎士たちが、顔をこわばらせて視線を落とす。
「この娘に手を出したら、どこにいようとかならずおれが仕留めに行くからな」
「ロンユエ、その話はもうしたよ」ランドルフが言った。
「いいんだ」カーストンが言った。「おれたちは――横になっている団長も含めて、決してあんたたちには手を出さない。約束するよ」
「おまえらの顔は、おぼえたぞ。そっちの連中もだ。忘れるなよ」ひとかたまりになっている審問官と拷問官と看守のほうに、ロンユエが鼻先を向ける。
鎧を装けていない男たちは、怯えきった表情で小刻みにうなずいた。
鼻を鳴らしたロンユエが、背後へ向きなおる。囚われていた人々がひとかたまりになっているほうへ向かう。
通りに面した壁のほうから、喚声が聞こえてきた。
フォッテが侵入した門のすきまから、こちらをのぞいている者がいる。建物が崩れるとき、ものすごい音がした。それで人が集まりはじめているようだった。
最初に少年が、それから少女が、こちらに気づいて足をとめた。ふたりとも両手に杯を持っている。モースが顔をあげた。老婆もいる。人々がこちらへ視線を向けてくる。
彼らのまえまで行くと、ロンユエはいきなり切りだした。「今夜ここで見聞きしたことは、墓場まで持って行け。死ぬまでひと言も口にするな。そのうちうっかり口にしちまいそうだと思うやつは手をあげろ。いますぐ首をはねて、口をきけなくしてやる」
「あんたに言われなくたって、そのつもりだよ」モースが言った。「そのお嬢ちゃんには借りがある。ここにいる連中はみんな同じさ」
「あのね、ここは魔法使いや魔女には、理解のない国みたいですからね」パウロが口をはさんだ。「フォッテさんとどこかで会っても、気軽に話しかけたりしないほうがいいでしょう。あちらにいる連中が、全員信用できるとは限りませんから」ミルヴァートンを囲んでいる男たちのほうへ顔を向ける。「だからお互いのために、知らんぷりをしたほうがいいと思います。いいですか、お嬢ちゃんも坊ちゃんも、さっきみたいに『魔法使いのお姉ちゃん』なんて呼んじゃだめですよ。どこでだれが見ているかわかりませんからね」
杯を握ったまま、ふたりが真剣そのものの表情でうなずく。
「そうだね。騎士はともかく、審問官と拷問官はろくでもない連中みたいだからね」老婆が言った。「身の安全が保証されたら、お嬢ちゃんのことを捕まえようとするかもしれない。あいつら魔女を目の敵にしているからさ。やじ馬が集まりだしているみたいだから、もう行ったほうがいいよ。あんたたちは目立つからさ」
「行こう」ランドルフが言う。「ロンユエ、神父の屋敷は北北西に一里だ」
ロンユエが左手へ頭を巡らせる。
「みなさん、お世話になりました。お婆さん、お元気で」
老婆がうなずいた。杯を持ったまま、少年と少女が小さく手を振っている。
「フォッテさん、しっかりつかまって」パウロが灰色の首すじにぴたりと体を寄せる。
一歩、二歩と踏みだしたロンユエが、次第に加速していく。
フォッテも上体を倒し、地肌がのぞいている背中に腹ばいになった。
ロンユエが跳躍した。敷地を囲む塀の上を蹴り、通りの向かいの塀を蹴り、奥の建物の屋根を駆けあがる。屋根から屋根へと、ものすごい早さで飛びうつっていく。
「左へ!」頭上でランドルフが叫んだ。風を斬る音がして、両翼を広げたまま斜めになった彼の姿が右手に現れた。「尖塔がふたつならんでいる屋敷だ。そろそろ見えてくるぞ」
ロンユエが宙を舞う。風のような早さで急勾配の屋根の頂上まで行くと、ふたたび跳躍した。となりの建物の屋根を蹴り、広い庭を飛び越えて、次の屋根を駆けあがる。
風が吹きつけてきて、顔をあげていられない。
突然、ふわっと体が浮いた。視界のすみに、尖った塔の先端が映りこむ。
川底をめざして潜るときのように、ロンユエは鼻先をま下へ向けた。
パウロが短い悲鳴をあげる。
浮きあがりかけたフォッテの体に、毛の房がからみついてきた。
地上がものすごい速さで迫る。
最初にロンユエが降り立った。パウロが転がりおちて鞠のように跳ねる。房に導かれる格好でフォッテもふわりと着地した。
「ここだな?」
「はい」
背の高い木々のあいだから月光が射しこんでいる。ま四角に整えられた生け垣が、まっすぐに伸びている。以前、夜ふけに歩いた庭だった。
羽ばたきながら降りてきたランドルフが、フォッテの左肩にとまる。
ロンユエがあごをあげた。
その先には屋敷が――ランドルフと出会った夜、彼とともに訪れた屋敷が――うす闇のなかにひっそりとそびえ立っていた。




