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【二部 十四章 二】 通気口、少年と少女、疑ってはいけない人

 二階の通路には、兵士が三人いた。

 フォッテが戸口をくぐると、冷たい視線を向けてきた。

 槍を持っている者がふたり、腕組みをしている者がひとり。三人とも青みがかった鎧を装けている。

「ご苦労」背後でカーストンが言った。

 三人が道をあける。射るような視線は変わらない。初対面の者に、これほど露骨に敵意を向けられた経験はなかった。

「どの房へ入れますか?」若い兵士が訊ねた。

「一番奥だ。今日、空きができたはずだ」カーストンがこたえた。

 三人のまえを通りすぎる。そのまま壁ぎわまで進んだ。

「あけろ」

 鍵をあけた兵士が、鉄格子をつかみ、いきおいをつけて横に滑らせる。

「ほら、入れ」

 背中を押された。勝手口のようなせまい入口のすぐ向こうに、人が横たわっている。房は奥行きがある。左右の壁のかなり高いところに角灯がひとつずつ据えられていて、囚われた人々の姿を照らしている。二十五人はいるだろう。みな憔悴しきった暗い顔つきだ。腕や顔に包帯を巻いている者もちらほら目についた。

 もういちど押された。身をかがめて房内へ足を踏みいれる。床にはほとんどすき間がない。

 男の足をまたぐ。足の先に、床に寝そべった男の腹がある。右手には大柄な男が座っていた。壁の手まえにあぐらをかいて座り、じっとフォッテを見つめている。

「魔女だ」奥のほうで声があがった。「おれは見たぞ。そいつが杖を振りまわしたら、看守がぶったおれたんだ」

「勘弁してよ」若い女性が泣きだしそうな声で言う。「兵隊さん、わたしは魔法なんて知らない。一切関係ないんだよ。本物の魔女に呪いでもかけられたら、どうしてくれるんだい」

 膝のあたりを軽く叩かれた。はっとして見ると、壁ぎわの大柄な男が奥の壁を指さした。「あっちへ行け。奥のほうは空いているはずだ」

「ありがとうございます」

 舌打ちが返ってきた。「おまえのそばに居たくないだけだ。ここに居る連中は、みんな同じだろうけどな」

 背後で鉄格子が滑り、壁に叩きつけられる。錠をかける音がつづいた。

「すいません、あけてください」

 もぞもぞと、人々が体を動かした。

 踏まないように注意しながら奥へ向かう。

「ちゃんと見張っていろよ」カーストンが言った。

 大柄な男が言っていたとおり、最奥部にはフォッテがなんとか横たわれる程度のすき間があった。

 そちらへ向かいながら、上方に目を向けた。天井すれすれの場所に横長の通気口がある。天井は高く、フォッテが大人の肩の上に立ち、腕を伸ばして、ようやく触れられるかどうかというところだ。通気口には太い鉄の棒が五本はめこんである。あれは、そう簡単には外せないだろう。外せたとしてもフォッテの体が通るか微妙なところだった。

「おい、座ってろ」

 振りかえる。通路に立つ兵士が手を上下に動かした。

 壁を背にしてしゃがみこむ。膝を抱えて、あごを載せた。

 通路には兵士が三人立っている。この房のまえから移動する様子はない。カーストンと若い兵士の姿は見えない。

 ――解錠魔法は使えない。

 錠をあけるためには、その部分に触れる必要がある。柵のまえまで行けば、兵士たちの妨害にあうだろう。

 注意をそらす魔法も、十歩の距離まで接近しないと効果はない。それに、ひとりに一回ずつかける必要がある。どれだけ素早く呪文を唱えても、ひとりは逃がしてしまう。逃げた兵士は仲間を連れてくる。カーストンが――下手をすればミルヴァートンも来るかもしれない。

 火の魔法を使うのはどうだろう?

 大きな火を作り、背後の壁に穴をあける。これも駄目だろう。いつかは焼きおとせるかもしれないが、見張りの男たちが黙っているとは思えない。格子のあいだをすり抜けるぐらいの小さな火を作って飛ばしても駄目だ。見張りのうちひとりかふたりは逃げてしまう。応援が駆けつけて、見張りが厳重になるだけだ。

 ――ほかに、ここから脱出する方法はないか。

 人の十倍考えろというゲッセンバウムの声を思いだす。なにか、いまの自分にも可能な手はないだろうか。

「ねえ、お姉ちゃん」

 顔をあげた。右手の壁ぎわから少女が近づいてくる。ほつれた髪が顔に張りついている。五歳か六歳ぐらいだろう。フォッテのとなりに座りこみ、床に両手をついて体を支えた。その指先に包帯が巻いてある。

「お姉ちゃん、魔女なの?」

 周囲の大人たちが、もぞもぞと体を動かす。房内の人々の意識が一斉にこちらへ向いたような気配があった。

「ねえ、魔法が使えるの?」

「そうだよ」蝋燭の火を受ける邪気のない瞳を見つめて、フォッテはこたえた。嘘をついてもしかたがない。ここにいる人たちにはすでに魔法を使うところを見られてしまっている。

「ねえ、どんな魔法が使えるの?」

「ちょっと、どいて」少女の背後から男の子が這いよってきた。こちらは十歳ぐらいだろう。髪がぼさぼさで、くちびるが割れている。明かりの加減かもしれないが、片方のまぶだが腫れているように見えた。少年は少女の横に座りこむと、うかがうような上目づかいで見つめてきた。「本物なら、なにか見せてよ」

「ごめんね、いまはだめだよ」小声で言った。囚われている人々と見張りの三人を刺激したくなかった。

「マリー!」大人の女性の声だった。「こっちに来なさい。早く」

 母親だろうか。手招きをしている女性の顔には疲れの色がはっきりと現れている。それに苛立ちと、おそらく恐怖も。

「マリー!」

 女の子はフォッテを見つめたまま、口の両端をきゅっと下げた。「はあい」と返事をして、膝をついたままうしろ向きになる。

 周囲の大人たちが道をあけた。少女は彼らの肩をつかみ、足に乗りながら進んでいく。

「おい、おまえもその女から離れたほうがいいぞ」少年に呼びかけたのは、先ほどフォッテの膝を叩いた男だった。「ちょっかいを出していると、石にされるぞ」

「ちがいます」あわてて言った。「わたしはそんなこと――」

「じゃあおまえの仲間のしわざか。ちくしょう、おれの女房を石にしやがって」

「石化のことは、本当になにも知らないんです」

 いやな気配が、牢内に充満しはじめていた。下手をすると大変なことになってしまう。しかし、うまい言葉が見つからない。

「おれたちは家族を石にされた。そのうえ身におぼえのない疑いをかけられて、毎日毎日拷問だ」男が腰をあげた。「どんな気分だ。おまえが石にした連中の、その家族どもに取りかこまれているのは」

「ですから、わたしは知りません」周囲にも聞こえるように、大きめの声を出した。「わたしも調べたいと思っているんです。街の人を石にしている犯人と、そのやりかたを」

「しらを切りやがって。ちょっとどけよ」男がまえに座っている人の肩を横へ押す。こちらへ近づいてくる。

 しかたなくフォッテも腰をあげた。無意識に左の袖口に手をやり、杖がないことを思いだした。

「ちょっとモースさん、やめときなよ」左手のほうから中年の女性が声をかけた。「あんたこそ近づかないほうがいいよ。その娘は魔女なんだ。なにをされるか、わかったもんじゃないよ」

「やれるもんなら、やってみろってんだ。女房は石になったままだ。もう砕かれちまったかもしれねえ。どうせここでくたばるなら、あいつの仇をとってやりてえ」

 モースの言葉に触発されたのか、四人、五人と立ちあがる。

「待ちなよ。本当にその子じゃないかもしれないよ」老婆が言った。手の壁に背中をあてて、背筋を伸ばして座っている。「あんな娘っこを、いじめるもんじゃないよ」

「黙っててくれ、婆さん」モースがフォッテのまえに立つ。かなりの巨体で、肩幅が広い。太い腕と首筋に包帯が巻いてある。シャツにも血が染み出している。

「モースさん、だめだよ」わきに寝転がっていた痩せた男が、顔だけあげて言った。

「うるせえ。おれの女房は呆れるほどの善人だった。なぜあいつが石にされなきゃいけない。おれにとっちゃ魔法使いは、みんなまとめてあいつの仇だ」

「そうよ」中年の女性がモースのわきに立つ。「あたしだって許さないよ。子供も旦那も石にされたんだ」

 いまでは房内の八割ほどが顔をあげている。こちらをにらみつけている者が多い。

 かたわらの少年は、それこそ石になってしまったように動かない。少女は右手の壁ぎわに座りこみ、母親らしき女性の腕をつかみ、心配そうな顔つきでこちらを見つめている。そのとなりに、困ったような表情の老婆が座っている。

 見張りの兵士たちには、止める気がないようだ。先ほどフォッテに向けてきた視線を考えれば当然かもしれない。

 モースの左わきに、ひたいの広い中年男が立った。顔をしかめて敵意をむきだしにしている。いまにも飛びかかってきそうな様子だ。

「魔女、名前は?」モースが言った。

「フォッテ・アインタルトです」

「この街の出身か」

「はい」

「いつ魔法をおぼえた?」

「二ヶ月ほどまえです」

 モースが舌を鳴らす。「石化する者が出はじめて、しばらくしてからか。嘘をつけ。だれに魔法を習った?」

「それは言えません」通路の三人も聞いている。彼らは青銅の騎士団の団員だ。シュピールとランドルフのことを知られるわけにはいかない。

「上等じゃねえか。拷問官にやらせることはねえ。おれが吐かせてやるよ」ひたいの広い男が腕を伸ばしてきた。

 ――しかたがない。

 握り拳大の火が現れると、男はぱっと手を引っこめた。座りこんでいる人々がざわつきながら身を引く。モースと女性もわずかに退がった。みなの視線がフォッテの指先に集まっている。

「本物だ」少年がつぶやいた。膝立ちになってフォッテの指に顔を近づける。やはりまぶたが腫れている。くちびるの裂け目は思ったよりも深い。

「すごぉい」声をあげた少女が、母の手をふりほどいて駆けてきた。少年のわきに座りこみ、わずかに口をひらいて火を見つめる。「これ、魔法で作ったの?」

「そうだよ」ふたりを交互に見ながら言った。「でも、悪いことには使わないの。本当だよ」

 うなずいた少年が、手のひらを火にかざす。彼の指にも包帯が巻いてある。爪のあたりに黒い汚点がにじみだしている箇所があった。「ちゃんと熱いよ、この火」

「うん。ねえ、これはどうしたの?」

「お昼に、地下の部屋に行ったんだ。それで――」うつむき、口をつぐんでしまう。

「痛いの?」

 少年がうなずく。

 あの拷問官だろうか。激しい怒りがわきあがってくる。彼はフォッテの爪を剥いだ。同じようなことを、彼らにもしたのか。

「まちがいない、本物の魔女だ」ふたたびモースが踏みだした。

 そちらに火を向ける。「それ以上近づかないでください。わたしはもっと大きな火も作れます。あなたを焼きたくありません」

 一度火を消して、ふたまわりほど大きな火を作った。

 モースたちの顔に、はっきりと怖れが浮かぶ。

 本当はこんな真似はしたくなかった。彼らの気持ちはフォッテにもわかる。幼い子供たちも拷問を受けている。おそらく大人はもっとひどい目にあっているだろう。家族が石化したことも含めて、すべての元凶が目のまえにいると思えば、力ずくで痛めつけたくなってもしかたがない。

「ねえ、ちょっと見せて」

 手を取ると、少女は「いたあい」と顔をゆがませた。

「痛いのを減らしてあげる。怖い?」

 すこし考えてから、少女が頭を振る。

「ちょっと! うちの子に変なことしないで」

 声のほうへ顔を向けた。「治療をしたいだけなんです。この子が痛がるようなことは決してしませんから」

「やってよ」少女が歯をむきだして笑った。「魔法、かけてみて」

「うん。怖くないからね」少女の手を重ねて、上下からそっとはさむ。

『肉よ、われとそなたの願いは同じ。いますぐこの裂け目をふさげ。フェリオス』

「あ――」少女の指が、もぞもぞと動いた。

 もう一度治療魔法を唱える。少女がはっきりと笑みを浮かべた。

「どう?」

「痛くないよ。お姉ちゃんが、わたしに魔法をかけたの?」

「そうだよ」

 少年が横から手を伸ばした。「ねえ、ぼくにもやって」

「いいよ」少年の手を取った。ふたたび呪文を唱える。

「ああ」と、少年が息を洩らした。「お湯に手をつけているみたいだよ」

「まだ痛む?」

「もう大丈夫みたい。ありがとう」

 うなずき、顔をあげた。意識的にあたりを見まわしながら、フォッテは口をひらいた。「いまのは、治療魔法と呼ばれるものです。傷口をふさぎ、痛みを取ることができます。だれか、傷を治してほしい人はいませんか?」

 だれも返事をしなかった。

 しばらく待った。みな、身動きひとつせずにこちらを注視している。

「わたしは、街の人を石にしている犯人を見つけたくて、魔法を習いはじめました。魔法をおぼえれば色々なところをこっそり調べられますから。犯人を見つければ、石化を解く方法がわかるかもしれません。ある人にそう言われて、魔法使いになることに決めたんです。だから――」

「なぜおまえが、街の連中のためにそこまでしなきゃならない?」モースが言った。「おかしいだろう。出まかせを言ってるんじゃないのか」

 すこし迷ったが、正直に話すことにした。「わたしの母が石化したからです。四ヶ月ほどまえです。わたしは母をある場所に隠していました。体の異変に気づいた母が、そうしろと言ったからです。事情があって、わたしは今日、一ヶ月ぶりにゴドルフィンにもどってきました。母はいなくなっていました。ここへ連れてこられたはずです。審問所の出頭命令書が玄関の扉に貼ってありましたから。それでわたしはここへ来ました。母を連れて帰るためです」

 数人がため息をついた。

「でも、この建物の二階と三階には、母はいませんでした。他にも石化した人を集めておく場所があるのでしょうか。どなたか、知っている人はいませんか?」

 しばらくは、みな口をつぐんでいた。

「あたしらにも、わからないんだよ」言ったのは、先ほどモースを止めようとした老婆だった。「無理やりここへ連れてこられて以来、地下の部屋とこの牢を往復しているだけなんだ。だからあたしは、孫と息子夫婦がどうしているかわからなくて、もう気が気じゃないんだよ。他の人たちのこともまったくわからない。ここにいる人はみんな同じさ。でも、そうかい。あんたのお母さんも、石になっちまったのかい」

 うなずいた。

「大変だったね」

 老婆の声を耳にした途端、なんとか抑えこんでいたものが、また腹のなかで暴れだした。それをなんとか静めようとする。「心配なんです。お母さんがどうなってしまったのか。もしかしたらうわさどおり、もう砕かれてしまっているかもしれませんし」

「気持ちはわかるよ。あたしだって同じだからね。六日まえ孫と息子夫婦が石になった。それからは毎日が地獄だよ。こうなったらもう自分の命は惜しくないが、孫だけはなんとか助けたい。まだ三歳なんだよ」

 うなずいた。彼女の気持はよくわかる。考えてみれば、家族が石化した人と話をするのはこれがはじめてだ。

「決めた。あたしもやってもらおう」老婆が片手をあげた。ふるえる腕でとなりに座っている男の肩をつかむと、ゆっくりと腰をあげた。彼女の腰はほぼ直角に曲がっている。屈みこむような姿勢で、顔だけこちらに向けてきた。「ひどいんだよ、こんな歳だっていうのに爪を剥がされて、腕を叩かれてさ。腰痛もぶりかえしちまって、まっすぐに立てないんだ」

「わかりました。いま、そっちへ行きます」

 人々がわきに寄って道をあけた。右手の壁ぎわまで移動する。

 老婆の腕の傷に触れて、呪文を唱えた。指も治療する。それから腰に手のひらをあてた。二度、三度と治療魔法をくりかえすと、

「ああ、もういいよ」老婆が上体を持ちあげた。「だいぶよくなった。ほら、腰は伸ばせるし、指も痛くない。なあ、あんたたちも治してもらいなよ」

 はっと数人が息を飲む。

「このお嬢ちゃんは悪い魔法使いじゃないよ」冗談めかして老婆はつづけた。「こんなかわいい魔女に魔法をかけてもらえる機会なんて、きっとこれっきりだよ」

 フォッテは黙ってうつむいた。このせまい牢のなかで争いが起こらないようにと、老婆も考えているのではないか。

「おれも、たのめるかい?」床にあぐらをかいている男が手をあげた。痩せた男だった。包帯があごの下から側頭部へ向かい、ぐるりと一周している。「昨日、耳を落とされちまったんだ。痛みがひどくて眠れないんだよ」

 そちらに歩いていく。包帯の上から手をあてて、呪文を唱えた。彼の痛みを消すには、四度魔法を使う必要があった。

 男が拝むようにして感謝を述べると、数人が手を挙げた。乞われるままに魔法をかけていく。

「なあ、石化の原因は、そいつの母親かもしれないぞ」先ほどモースのわきに立っていたひたいの広い男だった。「母親が魔法に失敗して石になった。流行病のように広がって、石になる者が増えている。そういうことだって考えられるだろう?」

「馬鹿なことを言うんじゃないよ」老婆が言った。「このお嬢ちゃんは石になっていないじゃないか」

 治してほしいとたのむ者の数は増えつづけた。フォッテの周りに人垣ができると、兵士のひとりが柵のあいだから槍を差しこみ、からからと鳴らした。「座れ。騒ぐな」

 治療をやめろ、とは言わなかった。黙認するということだろうか。腰をおろして呪文を唱えた。兵士に制止されることはなかった。

 大人たちの傷は、想像よりもずっとひどかった。途中から数える余裕もなくなったが、少なくとも五十回以上は魔法を使ったと思う。次第に鼓動が不規則になり、目まいが襲ってくるようになった。魔法の効果も衰えている。

 例の少女の母親の傷も治した。老人も、若い男も、中年の女性も治療した。もちろん、変わらずフォッテに敵意を向けてくる者もいた。周囲の者が勧めても、彼らはフォッテの治療を受けることをかたくなに拒んでいた。

 最後にフォッテのまえに立ったのが、モースだった。すでに治療を済ませたふたりの男に両がわをはさまれていた。ぐっと口を引きむすび、うつむいたまま動かない。

「あなたも――」

 フォッテが片手を差しだすと、彼は困ったような表情になってうなずいた。のろのろとした動作でシャツのボタンをはずしていく。胸と腹に、包帯が巻いてあった。白いはずの包帯は、七割がた黒く染まっている。

「包帯は、ないほうがいいと思います」

「ああ」

 傷があらわになった。肉がはぎ取られて、白っぽい筋と骨がのぞいている。

「この傷は、わたしには治せないと思います。痛みを減らすぐらいしか――」

「いいよ、それで」

 傷に触れた。杖があれば、と思う。五度呪文を唱えたところで、視界がぐるぐると回った。吐気がこみあげてきて、顔を上げていられない。

「もういいよ」ボタンをとめながらモースが言った。「かなり楽になった。礼を言う」

 その言葉はたぶん嘘だった。魔法の効果はほとんどなくなっている。

「さっきは悪かった。謝って済むものでもないが――お袋さんが石にされたと知っていたら、あんなことは言わなかったんだ」

「いいんです。すこしだけ休ませてください。回復したらもう一度、治療をしましょう」

「もう充分だよ」モースがひかえめに笑いかけてきた。「他の者にたのまれても、無理しないほうがいい」

「はい、そうします」

「お姉ちゃん、あっちで休もうよ。横になれるから」少年がフォッテの手を取った。立ちあがり、奥の壁のほうへ向かう。

 少女の母親が、毛布を持ってきてくれた。礼を言い、布で体をくるむ。少年と少女が、フォッテの両わきに座りこんだ。少女が伸ばしてきた手を取り、牢内を見まわす。

 この房に囚われている人の四分の三程度に、治療を施した。のこりの人はいまだに疑わしそうな――憎しみと恐怖をたたえた目つきでこちらをうかがっている。モースの治療が終われば彼らの態度も軟化するかもしれない。とにかくこれで、争いごとは避けられそうだ。

「ちょっとごめんよ」老婆の声だった。周囲の人々の肩や腕を支えにしてフォッテのまえまでくると、床に座りこんだ。「すまなかったね。大変だったろう」

「いいえ、助かりました。ありがとうございました」

「お嬢ちゃん、さっき犯人を捜しているって言っていたね。あれは流行病じゃないのかい?」

「わたしの知りあいは、おそらく病ではないと言っていました。年齢や性別に偏りがありすぎると――」

「ふうん。心当たりはあるのかい、犯人かもしれないっていうやつに」

「何人かいます。事情があって、まだ調べられていませんが」

 サーカス団の人々。香水の調合士。酒屋の主人――以前、ランドルフが怪しいと言っていた。一緒に調査に行こうとふたりで話しあった。もうずっと昔のことのようだ。

 老婆はため息をつき、片手を頬にあてた。「犯人を捕まえたら、本当にあたしの孫はもとにもどるかね?」

「絶対とは言えません。でも、他にできることはないから」

 老婆がうなずく。「それにしても、ここにいないとなると、お嬢ちゃんのお母さんはどこへ連れていかれたんだろうね。もしかしたらあたしの孫と息子夫婦も、もう審問所にはいないのかもしれないね」

「三階は、ふたつの房以外は空でした」

「そうかい」

 脳裡に兆した不吉な予感を押しのける。

「孫が助かるなら、死んでもいいよ。なんでもくれてやる」

 ひとりごとのような老婆の言葉を耳にして、思いあたった。ここにいるのは全員、石化した人々の家族だ。

「お婆さん、お孫さんたちが石になるまえに、変わったことはありませんでしたか?」

「さあ――」遠い目をして老婆はしばらく宙を見つめていた。「たしか、その日は市場へ行ったはずだ。果物と木のおもちゃを買った。あの子は父さんと母さんのあいだに立って、手をつないで歩いていた。そりゃもう元気いっぱいでね。あたしはちょっと遅れてついていったんだ。三人がならんで歩く姿をずっと見ていたくてね」

「他には、なにかおかしいことはありませんでしたか? 変な人を見たとか」

「これといって変わったことはなかったよ。その日の夜から三人とも具合が悪くなった。あたしは先に寝ていたんだけど、起こされてね。足が痛いって、孫は泣いていたよ」

 なぜ老婆だけ石化しなかったのだろう。この房にいる人々もそうだ。家族には異変が起こったのに、無事な人もいる。

「市場で、なにかいつもとちがうものを買いませんでしたか?」

 老婆が頭を振る。

 だめか、と思いながらも食いさがった。「市場に行ったあとは、なにをしました?」

「孫とぬり絵をしていたよ。すぐに飽きちゃったから、一緒に積み木をして遊んだ。息子は――あの子の父さんは、休日だっていうのに仕事をはじめた。楽器をなおす職人なんだよ。嫁は洗濯を済ませてから、繕いものをしていたね」

「市場には、何時ごろ行きましたか?」

「午前中だよ。休日は朝早くに教会へ行って、帰りに市場を見てまわるのさ。いつもそうしていた」

「教会へ?」

 老婆が笑顔を見せた。「あたしはあの神父さまが好きだよ。あの人のお話を聞いてお祈りをすると、心がすっとするんだよ。孫も教会に行くのは好きさ。このまえは飴玉をもらって喜んでいた。甘くて酸っぱくて、おいしいってね」

「知ってるよ、その飴」少女が口をはさんだ。彼女はフォッテの腕を取り、体をぴったり寄せている。「わたしも神父さまにもらったよ。でも、転んだときに落としちゃった。もったいないから洗って食べようと思ったんだけど、猫がくわえて持っていっちゃったの」

「ビー玉みたいな、きれいな飴でしょう?」少年が言う。「ぼくのお姉ちゃんももらった。半分こしてってたのんだのに、お姉ちゃんはひとりで食べちゃったんだ」

「それ、うちの娘も舐めていたぞ」鉄格子のほうから声があがる。「家のまえで遊んでいたら神父に話しかけられて、飴をもらったんだと。たしかその日の夜からだよ、あいつの具合が悪くなったのは」

 牢内がざわつきはじめた。人々のつぶやきが、いくつも同時に聞こえてくる。

「うちもだよ」と、おかみさん風の女性が言う。

「おれの息子もうれしそうに舐めていた。甘くてうまいって」

「わたしの娘も――」

「あんずの飴だろ?」

「あの飴、きれいだったなあ」少女がにっこりと笑った。「お日様に向けるときらきら光ってね、まんなかになにか入っててね、それがすごくきれいなの」

「甘いのが入ってるんだよ」少年が言う。「そういう飴があるんだよ。ねえ、魔女のお姉ちゃん」

「うん、あるね」ひどく息苦しいのは、魔法を使いすぎたことばかりが原因ではないようだ。フォッテも神父に飴をもらった。ランドルフと出会った夜だ。助けてくれたお礼にと、彼に飴をあげた。カラスは壜の破片のような光るものを好むと聞いたことがあったからだ。あの晩、角灯の明かりを受けて、あめは宝石のように光っていた。なかにシロップかあんのようなものが封じこめられていた――。

「大事なことなんです。ぜひ教えてください」立ちあがり、そう言った。房内のほとんどすべての人がこちらを見つめている。「神父様に飴をもらった人は、手をあげていただけませんか? みなさんだけでなく、ご家族がもらった場合も手をあげてほしいんです」

 十六人だった。実際はもっと多いだろう。家族から飴のことを聞かされなかった人がいるはずだ。フォッテにいい感情を持っていない人もいる。

「ありがとうございます。みなさんのなかで、神父様にもらった飴を食べた人はいますか?」

 全員、手をおろす。みな押しだまっている。複雑な――というより責めるような視線を向けてくる者が数人いた。

「みなさんのご家族のなかで、飴を舐めて、石にならなかった人はいますか?」

「あんた――」老婆がフォッテのスカートを引っぱった。「だめだよ、あんた。あんないい人を疑ったりしちゃ、バチがあたるよ」

 七、八人がうなずく。女性が多い。

「あの神父様はね、身寄りの無い老人やひどい病にかかった者のところに、たのまれなくても訪ねていくんだ。ありがたいお話をしてくださるし、週に三度の炊きだしは、あたしが知るかぎりいっぺんだって休んだことはない。ほかにもたくさんの善行をしているよ。隠れて施すから、知られていないだけだ。説教会に出れば、きっとあんたにもわかるよ」

 フォッテは老婆にうなずいてみせた。彼女と議論をするつもりはない。顔をあげてみなに礼を言い、腰をおろした。膝を抱える。少女が腕を伸ばしてきた。その手を握り、考えを巡らせた。

 神父の善行については、フォッテも知っている。だがその善行に、別の目的があるとは考えられないか。ランドルフの調査によると、石化した人々の八割以上が若い娘と子どもだという。そういう者を探し歩き、ひとりのときを見はからって飴をわたす。神父に声をかけられて怖がる者はいない。しばらく話したあとで飴を勧められれば、あの夜のフォッテおなじく、だれもがありがたく受けとるのではないか。その飴のなかに特殊な毒物が――人の体をじわじわと石にしてしまうような毒物が入っていたとしたら。

 あり得るような気がした。

 しかし、まだわからないことがある。街の人々を石にしているのが神父だとして、どうしてそんな真似をするのか。

「なあ、あんたたち」モースが鉄格子ごしに呼びかけた。「あんたたちも血眼になって石化の原因を探っているんだろう。一度神父を調べてみたらどうだ。もしかしたら魔法は関係ないかもしれないぞ。いや、実は神父が魔法使いっていうことも、あるかもしれないが」

 フォッテのかたわらで老婆がうめく。兵士たちはモースの言葉を黙殺した。無表情な顔つきは崩れず、内心をはかることもできない。

「すいません、すこし休みます」床に横になる。まともに魔法が使えるところまで回復しておきたかった。いつまた拷問が再開するかわからない。

「ねえ、一緒に寝てもいい?」少女がささやいた。

「いいよ」

 少年と少女が、両わきに寝そべる。

 ――火焙りか。串刺しか。斬首か。

 明日か明後日――それほど日を置かずにフォッテの処刑が行われるはずだ。青銅の騎士団のまえで、何度も魔法を使った。拷問官の足を焼いた。無事で済むわけがない。

 恐怖と焦りが涌きあがる。胸が動悸を打ちはじめる。

 ――いけない。休まなければ。

 意識的に腹部を上下させる。

 まぶたの裏に、例の拷問官の顔が浮かんできた。殺せ殺せと叫ぶ声が、頭のなかで鳴っている。

 それでも、疲れきっていたせいだろうか。しばらくするとまどろみがやってきた。

 深いところへ果てしなく沈みこんでいくような感覚に、フォッテは身を委ねた。

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