【二部 十四章 一】 ねじれた顔、革の締具、おぞましい形状の器具
その部屋には、チーズと鉄さびを混ぜたようなにおいがこもっていた。
蝋燭の火が正面の煉瓦の壁を照らしている。部屋はそれほど広くないようだ。光量が足りず、周囲は影が濃い。壁のあちこちになにかの道具らしきものがかかっているが、よく見えない。
フォッテは大ぶりな椅子に足を投げだす格好で座らされていた。胴体と手足と首が革製の締具で固定されていて、ほとんど身動きが取れない。
目を動かして、肩と腕をたしかめる。ミルヴァートンの矢は消えていて、包帯が巻かれていた。
『肉よ、われとそなたの願いは同じ。いますぐこの裂け目をふさげ。フェリオス』
小声で唱えた。わずかに痛みがひく程度の効果しかない。杖はないし、両腕とも手の甲が上を向く形で締めつけられている。傷口に触れることも、指先できちんと指すこともできなかった。
「お、お、起きたな」背後で男の声がした。「お、おまえ、魔女なんだってな」
まえかがみになったままの小柄な人影がフォッテのわきを通る。まっ黒な布地が、肩から下をすっぽりと包んでいる。男は正面の壁ぎわまで行くと、蝋燭が刺さった燭台をつかみ取った。
照らし出された男の顔を眼にして、思わずフォッテはおどろきの声を洩らした。
「あぁぁああ。お、おいら、傷ついちまうな」
男の顔はひどく崩れていた。兇暴な獣に顔面をわしづかみにされて、力まかせにねじきられてしまったかのようだ。左目が頬わきにある。口の端が右耳のつけ根に達している。その口もとから、前歯が二本ななめにのぞいている。
「あ、朝まではふたりっきりだぞ」先端が鉤状になった金具を男が顔のまえでかまえる。「当分、口を割るなよ。おまえのか、か、体に、たっぷり聞きたいんだから」
『ディアンジェロ』
気をそらす魔法を唱えたが、男は平然としていた。杖がないからか、眠るどころか意識がそれた様子もない。
「あなたは、審問官ですか?」
「そんな立派なものじゃない」男が近づいてきた。
右手のひとさし指を反らせて、なんとか爪の先を上に向ける。
『ヘテロ』
狙いどおり、瓜と同じぐらいの大きさの火が現れた。
「ひっ!」と声をあげて男があとじさる。
信じられない思いで、フォッテは左右に視線をはしらせた。壁にかかったさまざまな器具が、闇に浮かびあがっている。天井から垂れた太い鎖。円筒形の入れものから突きだしている剣の柄。三角形の台座。棘が突きだしている鉄球。球根に似た形状の金具。平たい洗面器のようなもの。鞭には鋲がたっぷりと打ちつけられている。左手の机のうえには小さな器具がならんでいた。鋏や針や釘や鏝や鉋と一緒に、刃が歪曲したナイフも見えた。喉笛蒐集家が持っていたものとよく似ている。
「いますぐこれを解いてください」腕に力を入れて、拘束具を揺らす。
男が頭を振る。
「わたしは、もっと大きな火も作れますよ。このままだと、あなたを焼くことになります。それより、わたしを逃がしたほうがいいでしょう?」
「やってみなよ」男が踏みだしてきた。
フォッテはいったん火を消した。ふたまわり大きい火の玉を思いえがく。
『ヘテロ!』
「おっ!」後退した男が壁に背中をぶつけた。片腕が横に伸びている。鎖をつかんでいる。
指を振って、火を飛ばそうとした。
きしむような音がして、視界の右すみに黒い影が映りこみ、あたりがまっ暗になった。
指先で、痛みが燃えあがった。
まぶたをひらく。
例の男がフォッテのすぐわきに立っていた。どうやら意識を失っていたようだ。それほど長い時間ではないようだが、はっきりしたことはわからない。
「ほら――」顔中をゆがませて、男は鋏に似た形状の金具をフォッテの鼻先に近づけた。その先端に、蝋燭の火が寄ってくる。
「おまえのつ、つ、爪だよ。桜の花びらみたいな、かわいい形をしているな」
『肉よ、われとそなたの願いは同じ。いますぐこの裂け目をふさげ。フェリオス』
指先の痛みが、いくらかましになった。
爪を剥がされた。それだけで済んでよかったのだと、自分に言いきかせる。たとえばあの金具で指を潰されていたら、とてもフォッテの魔法では治しきれない。
男が燭台を机に置く。金具の先の小さなかけらをつまんだ。「これは、お、おいらがもらう。ずっとずっと大事にしてやるよ」男は剥がれた爪を口にふくんだ。
フォッテはひたすら治療魔法を唱えつづけていた。右側頭部のにぶい痛み。指先の刺すような痛み。それに矢の傷もまだ癒えていない。
刃の部分が歪曲しているナイフをつかみあげて、男がこちらへ向きなおる。「次は耳かな。舌もいいな」
『バルテモア』
男が動きをとめる。「おお、通せんぼされているみたいだ。これも魔法か?」
「そうです。わたしを解放しないと、大変なことになりますよ」
短い両腕を左右に広げて男が笑う。「いいんだよ。もっともっときつい魔法を、おいらにかけてくれ。顔がこんな風になるぐらいのやつをな」
見えない楯に男が顔を押しつける。空いているほうの腕が肩ごしに背中へ伸びた。黒い布でできたフードを引きあげてすっぽりとかぶる。
「お、おいらのお袋はなにも言わなかったが」拷問官が見つめてきた。「おいらがこんな顔になっちまったのは、おふくろがだれかに呪いをかけられたせいじゃないかと思うんだよ。あるんだろう、そういう魔法が。ほら、やってみなよ。魔法をかけてみろ。それでおいらを殺せ。殺せ! 殺せ!」
悲鳴のような男の声が、せまい部屋を駆けめぐる。
拷問官は壁ぞいに後退していき、フォッテの正面にまわった。
ナイフが飛んできた。
楯で防ぐ。
矢が、飛んできた。
それも防いだ。この男が疲れはてるまで呪文を唱えつづけるのだと自分に言いきかせる。
次に拷問官が手にしたのは鞭だった。動きが複雑で、とてもすべては防ぎきれない。
治療魔法を素早く唱える。
気をそらす魔法を試したが、やはり効果はない。
それから、延々と攻防がつづいた。拷問官は一度も仲間を呼ぼうとしなかった。それがいつものやり方なのか、もしくは人手が足りないのか、それともこの男を助けようとする者がいないのか。フォッテには知りようもなかった。
次第に男の動作に疲れが見えはじめたが、疲労が蓄積しているのはフォッテも同様だった。ふいに視界が暗くなる。楽になりたいという考えが頭をよぎる。魔法を使いすぎていた。リョカのもとで修行をしていたときも、これほど立てつづけに呪文を唱えたことはない。
男が弓と矢へ腕を伸ばした。
火の玉を作り、指を振って飛ばした。
拷問官は落ちついた動作で火を避けた。壁ぎわを歩いていき、天井から垂れる鎖に手を伸ばす。
火を消して、右手に楯を作った。
鎖で吊された鉄板が、振り子の動きで飛んでくる。
楯にぶつかった鉄板がはね上がる。さらに数回ぶつかって、静止する。
男が鎖を引く。その動きに合わせて、鉄の板がゆっくりとあがっていく。鉄板の攻撃は、もう五度目だった。
急いで治療魔法を唱える。肩の傷に治療を施しながら、あることを思いついた。
矢が飛んできた。
前方に楯を作る。
舌打ちをした男が、弓を放り捨てる。
フォッテは左の指先に火を作った。
横に指を振る。火がふらふらと宙を泳ぐ。
「なにをしている!」
左の二の腕に痛みが走った。拷問官が鞭をかまえている。
火の玉はまだ足のあいだだ。消すわけにはいかない。だから楯は作れない。
この男はフォッテを痛めつけたいはずだ、と考える。朝まで拷問をしたいのだ。だからいきなり殺されることはない。いまはただ、痛みに耐えればいい。
鞭が飛んできた。左の肩が痺れる。わずかに遅れて痛みがやって来る。
火はもう、フォッテの右腕のま上まで来ている。ケープとシャツの袖が焼けているが、そのまま時が過ぎるのを待つ。
突風のような音を立てて飛んできた鞭が、フォッテの右頬を叩いた。視界がぼやけて、音が遠ざかる。
「ああ! ああ!」男が声を張りあげていた。「お嬢ちゃん、大変だぞ。かわいいほっぺの肉が、べろっと剥がれちまったぞ!」
歯を噛みしめて意識が飛びそうになるのをこらえた。
火を消す。右腕をひねりながら持ちあげる。腕を締めつけていた拘束具が半分以上溶けていた。すき間を作って、腕を引き抜く。
「おっ!」男が鞭を投げ捨てて、ナイフを取った。
『ヘテロ』
火を飛ばして威嚇してから、順に拘束具を溶かしていく。
椅子から降りた。袖口をたしかめる。やはり杖はない。
「に、に、逃がさねえぞ!」男は奥の壁に背中をつけていた。片手に鞭、片手にナイフを持っている。
「わたしの杖は、どこですか?」
「知らねえよ。お嬢ちゃんはここで朝まで過ごすんだ。そのかわいいお目々も舌も膝こぞうの肉も、ぜんぶおいらのもんだ!」
頬に触れた。男の言うとおり、肉がはがれている。垂れた肉をそっと傷にあてる。男の様子をうかがいながら治療魔法を唱えた。指先で触れているぶん、先ほどよりもずっとよく効いた。
「それ、傷を治してるのか?」男が鞭を振る。
軌道を予測して、楯で防ぐ。
治療魔法を三度くりかえすと、ほとんど痛みが消えた。傷あとがのこるかもしれないが、いまはこれ以上のことはできないし、先に片づけなければいけないことがあった。
『ヘテロ』
幼児の背丈ぐらいの火を作り、踏みだした。「いままで、あなたはどれぐらいの人に、拷問をしたんですか?」
ひひっと小男が声をあげる。
「本当に、死にたいんですか?」
男が剣を振りあげた。
『バルテモア』
ななめに楯をかまえて、剣をやり過ごす。
『ヘテロ』
男の足もとへ指を向けた。
「おおっ!」と声を洩らして、男が床に倒れこむ。
肉の焦げるにおいが充満する部屋を、フォッテは丹念に調べていった。おぞましい形をした金属の道具は無数にあるが、杖は見あたらない。
「短い、牛乳のような色の杖なんです。どこかで見ませんでしたか?」
ひたいを床に押しあてた拷問官は、うめくばかりで返事をしない。右の太ももの肉が溶けて、ちらりと骨がのぞいている。
「教えてくれたら、治療をします。痛みがなくなるはずです」
男が顔をあげた。ひたいからあごの先へ大量の汗が流れおちていく。顔中に浮かぶ深いしわに汗がたまり、火を受けて煌めいている。ぶるぶると震えているくちびるがめくれ上がった。「殺せよ、お嬢ちゃん」
フォッテは右手の扉へ顔を向けた。この男に訊いても無駄だろう。扉のまえに立つ。男の様子をたしかめながら、指先を錠の部分にあてる。
『行く手を阻むものよ、道をあけよ。スパシーヴォ』
こういう状況だからだろうか。一度でうまくいく気がした。錠が鳴り、指に振動が伝わってきた。
鉄の扉を押しあける。すぐ先が行きどまりの壁だ。左手も壁。右手に石の階段があった。十五段ほどだろうか。女王の部屋とよく似た造りだ。ま上へ視線を向けると、四角く切りとられた天井が見えた。
足音を立てないように注意しながら階段をあがっていく。のこり八段ほどになったところで、フォッテの視点が階上の床の高さを越えた。前方に扉が見える。まだ脱出するわけにはいかない。だれかを捕まえて母の居場所を訊きださなければ――。
階段を上がっていく。のこり四段になったときだった。背後で、硬貨をすりあわせるような音がした。
「動くなよ」カーストンの声だった。「首すじに剣の先をあてている。ちょっとでも動いたら、首をはねなきゃならない」
動けなかった。相手はこういうことに慣れている。フォッテが魔法を使うことも知っている。動いた瞬間、うしろから斬られてしまう。
「ゆっくり、あがってきな」
言われたとおりにした。階上の床を踏む。
カーストンがわきへ来た。「おい、地下の様子を見てこい」
返事をした若い兵士が、階段を駆けおりていく。すぐに声がした。「足を負傷しています。焼かれたようで、骨が見えている部分もあります。医者を――」
「あとでいい。こっちへ来い。先にこいつを運ぼう」
兵士が階段をあがってくる。カーストンの指示でフォッテの手を取り、背中がわへ持っていく。交差させた左右の手首を、縄で縛って固定した。
「さあ、歩きな。下手なまねはするなよ。お互いのためにな」背後でカーストンが言った。




