【一章】 大きな荷を抱えた少女、喉笛蒐集家、あんずの飴
厚い雲に覆われて、月も星も見えない夜だった。
西街区と南街区を見てまわったあとで、ひと息いれることにした。
ニードルストリートの塀の上で体を休めていると、通りの向こうでちらりと明かりがまたたいた。
――青銅の騎士団か。
とっさに頭をよぎったが、明かりはひとつだけ。連中はいつでもふたり以上で行動する。ならば酔っぱらいか。それとも裏稼業の者か。どちらにせよこんな時間に街をうろつく輩など、ろくなもんじゃない。
姿が見えるようになるまでには、ずいぶん時間がかかった。
やってきたのは女――小柄なうえにやせている。連れはいない。木の幹に抱きつくような格好で、大きな荷を運んでいた。腰に巻いた縄を体のわきに垂らし、その先に角灯をくくりつけている。顔は荷に隠れてほとんど見えない。
ふいに女が立ちどまった。深いため息をつき、のけぞるようにして顔をこちらへまわす。
正気の沙汰じゃない、と思ったね。下方から照らされた顔は、どう見ても成人まえ――それどころか十二、三歳のものに見えた。小作りな鼻。広めのひたい。細いあご――両眼は眠そうに半ばとじられているが、それでも本来は大きくて愛らしいのだろうとわかる。疲れのせいか、それともまともに飯を食わせてもらっていないのか、暗がりでもはっきりとわかるほど頬がこけていた。
左右の肩に垂れかかる、いまにもほどけてしまいそうな三つ編みを見おろしつつ、子供は親を選べないと考えた。どんな理由があるにせよ、こんな時間に少女をひとりで出歩かせるなんて『おまえはもう帰ってこなくていい』と告げるようなものだ。他の街はともかく、このあたりではそういうことになる。
現にその晩、少女が向かう先にはひとつの災厄がとぐろを巻いて待ちかまえていた。
小休止のためにニードルストリートに降り立つ直前、ある男を見かけた。おれたちが〈喉笛蒐集家〉と呼んでいるその男は、ぴたりとした黒い服に身を包み、十字路の向こうがわにある小径の奥に立っていた。どんづまりの壁にひたいをつけていたから、きっと今夜もぶつぶつと、わけのわからないことをつぶやいているのだろう。くわしいことなど知りたくもないが、やつにとってはそれが狩りに出かけるまえの儀式のようなものらしかった。
少女が歩きだした。
手を伸ばせば届くほどの距離まで近づいてきたが、まったく心配はしていなかった。こちらが物音をたてないかぎり、見つかるはずがない。あたりは充分に暗いし、塀の上にまで気を配るやつは滅多にいない。それに頭上から垂れさがる楡の枝が、黒くて小さいおれの体を隠してくれている。
こういう場所を、おれはいくつも知っていた。身をひそめながら周囲をうかがうのに格好の場所ってことだ。石を投げてくる悪ガキどもや、もっとひどいことをしたがる鬱憤のたまった大人たちから避難するための場所と言ってもいい。もちろん猫にも気をくばる。あいつら、おれが視界に入ると本当に眼の色が変わるからな。
合間にたっぷりと空白をはさみこむ少女の足音を耳にしながら、おれはふたたび喉笛蒐集家に思いを巡らせた。おれが日に三度の巡回を日課にしているように、やつもほとんど毎晩、街をうろつく。出歩く時間と場所はまちまちだが、三日に一度はニードルストリートを通って街の中心部へ向かう。だからこの少女の喉ぼとけが、やつが愛蔵している品々とともに陳列棚に並ぶ可能性は充分にあった。
よろめくような足どりで、少女が通りすぎていく。しばらく行ってからふいに足をとめ、夜空をあおぐようにして深呼吸をした。荷は抱えたままだ。
つかのま逡巡したものの、結局おれは声をかけた。「やめときなよ、この道は」
背中を針で刺されたように、華奢な肩が持ちあがる。
「無事にうちに帰りたいなら、引きかえしたほうがいいよ」
「どこにいるの?」かすれた声でつぶやいた。肩ごしに振りかえっている。いきなり荷を投げすてて逃げだすようなことはなさそうだ。
「おれのことはいいよ。こんな時間にどこまで行くつもりだ?」
「――神父さまのおうちまで」
「明日にしな」
「だめだよ、仕事だから」声の方向から見当をつけたのだろう、彼女が顔をあげた。
「やめちまえ。こんな時間に出歩かなきゃいけないような仕事なんて――」
そこまで口にしたところで、頭上から月明かりが射しいってきた。いきなり過去の記憶がよみがえり、息苦しさをおぼえるほどだった。知ってのとおり、暗がりで下から照らされた顔は影が濃くなって別人のように見えてしまう。まさにこのときの彼女もそういう状態だったが、月光のおかげで表情がはっきりとわかるようになっていた。目のまえに立つ少女は以前おれが知りあった者とよく似ていた。
「すこしもどると、靴屋がある」やっとのことで言葉をついだ。「そのわきの小径に入るんだ。しばらく進んだらふたまたにわかれる。左へ進め。そのあと突きあたりを右に。三つにわかれたら、まん中だ。あとは道なりに行けば、神父の屋敷が建つ通りに出られる。遠まわりになるが、どうしてもって言うなら、そっちから行きなよ」
「なぜ?」
「この先に悪い大人がいるからだよ。あんたみたいなかわいいお嬢ちゃんは、さらわれちまう」
実際はもっとひどいことになるはずだったが、いたずらに怯えさせても仕方がない。
おれは右手へ――彼女が向かおうとしていた方向へ――視線を向けた。天からの贈りもののような月光が降り注ぐうす闇の中、動くものは見あたらない。こと喉笛蒐集家に関しては、足音はあてにならなかった。やつは若くて美しい女のひとり歩きを見かけると、顔つきも身ごなしも別人のようになる。背後から音もたてずに近づいていき、素早くまえにまわりこむと、ひと振りでそれは見事に喉をえぐりとる。襲われたほうは声をあげる暇もない。
「ありがとう――どこにいるのか、よくわからないけど」少女がこちらに背を向けた。
「そっちじゃない。来た道をもどるんだよ」そのときは、まだ平常心を保っていた。単純な聞きまちがえだと思ったのだ。しかしよろつきながらもさらに一歩、少女は歩を進めた。
「馬鹿、その先には殺人鬼がいる。殺されるぞ」
「いいよ」
「なんだって?」
「いいよ、殺されても」
唖然としたおれが見つめる中、彼女がさらに一歩、二歩と進んでいく。それに合わせて角灯の明かりが、赤児がいやいやをするように揺れうごく。
「おい――ちょっと待てよ」楡の枝が作る陰からおれは顔を出した。塀の上を踏んで、彼女のあとを追う。「待てったら!」
少女がこちらに顔を向けた。ぴたりと足がとまり、瞳が見ひらかれる。「あなたなの?」
「そうだよ」
「カラスなのに、言葉が話せるの?」
「見てのとおりだよ。だがお嬢ちゃんは、ちっともおどろかないな」
彼女が口の端をゆがめた。「びっくりしたよ。でもわたし、とても疲れているから。それに、ものすごく眠いの」
おれはさらに塀の上を進んだ。彼女がまた歩きはじめたからだ。跳びはねて着地するたびにちゃりちゃりと爪が鳴っている。好ましいことではない。通りは静まりかえっているし、その先にはやつがいる。
「おれの忠告を、冗談だと思っているのか?」
「そんなことないよ」
「じゃあ、とりあえずとまれよ。まったく、おまえの両親はなにを考えているんだ? こんな時間まで娘を働かせて――」
「やめて」このときばかりは瞳に強い光をたたえて、少女は言った。「お父さんとお母さんは悪くない。お父さんは死んじゃったし、お母さんは固まって動けないの」
それで合点がいった。現在のゴドルフィンでは『固くなる』とか『石化する』という言葉には、死病に罹患するのと同等の意味があった。
「ごめんなさい。いまのは忘れて。だれにも言っちゃいけないって、お母さんに言われていたんだった」
顔を背けた彼女が、また歩きだす。左耳と頬が、荷を包んでいる布に押しつけられている。寝がえりを打った拍子にまくらに顔をうずめるような格好だったが、当然ながらここは彼女の寝室ではないし、助けを呼んでもだれも来ない。さらに言えば、助けを呼ぶだけの猶予が彼女に与えられるとも思われなかった。
急激に月の光がかすれていき、闇が深くなる。彼女がさげている角灯の明かりだけが、光源のすべてだった。
「だれにも言わないよ。心配しなくていいんだ。知らないようだから教えてやるが、カラスってのは死と不吉の象徴なんだぞ」
「知ってるよ」
「それが、たとえば審問所へでも行って口をきいてみろ。こっちが捕まって焼かれちまう。カラスの肉はぱさついているから、丸焼きにして食ってもちっともうまくないんだけどな」
中心に洞があいたような声で、少女は短く笑った。「食べたくて焼くわけじゃないよ」
「まあな。でも鳥肉は貴重だから、あとでこっそり食うかもしれないぞ」
もうお愛想の微笑も浮かべなかった。冗談が下手なことを棚にあげるつもりはないが、そもそもこいつは笑いたいような気分ではないのだろう。お袋さんが石のように固くなったのなら、それも当然と言えた。
半年ほどまえから、体が石のように固くなる人々が現れはじめた。まず手足がしびれる。節々の痛みがひどくなる。翌朝は起きあがることができない。丸一日悪寒と苦痛にさいなまれ、三日目になると全身が石のように固く、冷たくなってしまう。舌やくちびるばかりでなく、心臓や眼球もだ。だから家族や医者には、患者に意識があるかどうかもわからない。
これだけでも充分に悪夢のようなできごとだが、石化した者の家族には追いうちをかけるように、別種の苦しみが待っている。青銅の騎士団がやってきて、石化した者だけでなくその家族も、審問所へ連れて行ってしまうのだ。
審問所は本来、魔法と魔法使いに関する調査を行う場所だ。取り調べは苛烈で、不具になる者や精神に異常をきたす者、命を落とす者が続出する。それがここ一ヶ月半ほどは、石化した者とその家族の収容所のようになっていた。石化がらみで連行されて、そののち放免された者をおれは知らない。石化した者はハンマーで砕かれ、その家族はこときれるまで拷問を受け、どちらも人知れず埋葬されているのではないかというもっぱらのうわさだった。
こんな無法がまかり通っているのは、西方の都に暮らす統治者が『石化現象には魔法使いが関わっている』と決めつけたせいだ。だれかがそう進言したのか、もしくはなにか企みがあるのか――おれには見当もつかないが、とにかくこういう触れが出た。
〈ゴドルフィンで魔法使いが石化の魔法を使った。石になった者たちは魔法使いか、それと関わりのある者たちである〉
さらに、
〈魔法使いたちは、各々自らにかけられた魔法に対処している。そのため発症する時期には差がある〉
などと強引な説明をして、人々に密告を推奨していた。まったく馬鹿げた話だが、街で暮らす者の中には、触れをそのまま信じこんでいる者もかなりの数いるようだった。
「つまらないことを言っちまったが、とにかくおれには安心して話していいんだってことを伝えたかったんだよ。それより、まずとまれ。そっちは危ないんだから」
少女は歩きつづけた。
「――お袋さんは、いま審問所か?」
「ううん。お医者さまを呼ぼうとしたら、だれにも言うなって。大変なことになるから、お母さんはひとりで森に行くからって」
賢明な判断だった。行方不明になれば、すくなくとも家族には累が及ばない。
「じゃあ、お嬢ちゃんは、いまは親戚の家にでもいるのかい?」
「お母さんとふたりだよ」
「お袋さんは森に行っちまったんじゃないのか?」
「わたしが連れて帰ってきたの。見つけたときには、もう石みたいになっていたけど」
荷車にでも載せて運んだのだろうか。こんな小柄な少女に、大人を抱きかかえて運べるとは思えなかった。「そういうことならお袋さんのためにも、いま死ぬわけにはいかないだろう? とにかく引きかえそうよ」
また、ため息――大の大人が一日の労働のあとに酒をあおりながらつくような、重苦しいため息だった。
「お母さんが石になって二ヶ月になるの。きっともう、もとにはもどらないよ」
おれは返事をしなかった。彼女の言葉の途中で、足をとめていた。首をまえに伸ばして、眼をこらす。彼女の声に混じって、右手の濃い闇の中から聞きなれた音が――燐寸を擦るときに似た、ごくかすかな音が聞こえた気がしたのだ。
「もう、疲れちゃった。みんなに嘘をつくのも、旦那さんから逃げるのも」
「これが最後だぞ。いますぐとまれ」声を殺して、そう言った。
ただごとでない気配を感じとったのか、少女はぴたりと足をとめた。
「こっちに来い。塀に背中をつけろ」
無言で彼女がやってくる。耳をすましたが、少女の息づかいと頭上を流れていく風の音しか聞こえない。まだすこし距離があるのだろうか。それとも空耳だったか。
「ゆっくり、角灯を持ちあげろ」そうささやいた。「のどを切りとられたくなかったら、絶対にそこから移動するなよ」
「――おどかすのはやめてよ」
橙色の明かりが上昇していく。それに合わせてじわじわと、光源のへりが前方へ伸びていく。少女が肩の高さまで角灯をあげた。
「右手を照らしてくれ。ゆっくりとな」
明かりが移動しはじめる。ほとんどま横へ腕をまわしたところで、ぼやけた光の輪郭が二本の足をとらえた。
いた。やはりやつだった。距離は大人の足で十歩ほど。腰を折ってまえかがみになっている。ひょろ長い腕を左右に垂らしている。右手に握っているナイフはすでに鞘から抜かれていた。やはり先ほど耳にしたのは、刃が鞘の内がわをこする音だったのだろう。やつが愛用しているのは、刃がうねうねとわん曲した奇妙な形状のナイフだ。鉤状になった刃の先端部分を使って、器用に女ののどをくり抜く。
「おれがやられたら、角灯と荷を捨てて街へ向かって走れよ」
喉笛蒐集家が品定めをするように眼を細めた。舌先が口の両端を順になぞり、だらりとま下に向かって伸びる。軽く手首をひねって、ナイフを持ちなおす。
やつがまっすぐに突っこんできた。
おれは塀のふちを蹴り、少女のまえに飛びだした。
翼を左右に広げる。
地面すれすれを滑空していく。
やつがおれを蹴りあげようとした。
その足をかいくぐり、急上昇――
喉笛蒐集家はのけぞりながら、ナイフを肩の高さにかかげた。
その刃の軌道を予測しながら、上向きに突っこんでいく。
ナイフ。
体をひねった。腹部のあたりにひやりと冷たい風が吹いた。
見当をつけたあたりにくちばしを突きたてる。
やつが、はっと息を飲んだ。
ぬるりとした温かいものに、おれのくちばしは埋もれていた。ひと呼吸の間を置いて、
「いいいいっ!」
くちばしを引きぬく。やつの悲鳴はある種の笛――戦場で命令を伝える際に使う笛の音によく似ていた。
叫び声を放ちつづけている口もとを、右足の爪でわしづかみにする。
身をひるがえして鼻面を蹴った直後、尾羽根の先に振動が生じた。
それぐらいならくれてやる、と羽ばたきながら考える。目玉ひとつと引きかえなら、尾羽根の先ぐらい安いものだ。
荷を抱えたまま立ちすくんでいる少女に向かって、おれは飛んだ。全身が痺れていた。とうの昔に忘れたはずの衝動が、この忌々しい、黒くて油っぽい羽に包まれた体を駆けめぐっている。
「走れ!」叫び、荷の上に舞いおりた。「まだ死んでもいいなんて抜かすなら、おまえの目玉も突っつくぞ!」
ひっとのどを鳴らして、少女が駆けだす。
跳ねあがる荷につかまったまま、背後をうかがった。
喉笛蒐集家は地面に膝をついていた。潰れたほうの眼に手をあてている。のこったほうの眼はこちらを向いていた。
その姿がしだいに遠ざかり、闇に溶けていく。
少女が靴屋のわきの小路に入るまで、おれは背後を見つめつづけていた。
「もういいぞ」突きあたりを右に折れたところで、声をかけた。「ここまでは追ってこられないはずだ」
小径に入ってからここまでに、左右に合わせて七つのわき道があった。道はゆるやかにカーブしているから、明かりが目印になることもない。
荷を足もとにおろした少女が、その場に崩れおちそうになった。膝がしらに手をあててこらえている。
「ありがとう、カラスさん」肩で息をしながら、絞りだすように言った。
「どういたしまして」
「あなた、強いのね。お名前はあるの?」
「名前ぐらいあるさ。ランドルフという」名乗ったのはずいぶん久しぶりだった。
「お名前も強そうだね。おとぎ話に出てくる騎士と一緒。そこから取ったの?」
「ちがうよ。お嬢ちゃんはなんていうんだ?」
少女が上体を起こした。「フォッテだよ。フォッテ・アインタルト」
聞いたことのない姓だった。内心ほっとしてうなずく。
しばらくしてから、彼女が言った。「三つにわかれたら、まん中を進んで、あとはずっと道なりに行けばいいんだよね?」
「神父の家のことを言ってるなら、そのとおりだよ」
「この道には、怖い人はいない?」
「受けあうことはできないが、そこそこ安全だろう」
「よかった」つぶやいて口の両端を持ちあげる。笑みというより痛みをこらえているような表情になった。「急いでいるから、そろそろ行くね。さっきは助けてくれて本当にありがとう」荷のまえでしゃがみこみ、両腕をまわして持ちあげる。じゃあね、と言って歩きだした。小石を踏んだ拍子に転びかけたが、なんとか踏みとどまる。
「なあ、フォッテ」おれは舗道を跳ねていき、彼女の横についた。「近道を教えてやるよ。迷路みたいに入りくんでいるが、半分ぐらいの道のりになる。口で説明してもおぼえられないだろうから、一緒に行ってやるよ」
「いいの?」
「お安いご用だよ」
そこからは、おれが先導する形で進んだ。勘ちがいしないでほしいんだが、本来のおれは慈善家でもおせっかい焼きでもない。だれでもこうやって助けたり、道案内を買ってでたりするわけじゃないんだ。正直に打ちあければ、これまで両手にあまるほど、喉笛蒐集家や他のいかれた連中が人を襲う場面に出くわしてきた。だが、一度だって今夜のようにしゃしゃり出たことはない。『この道はやめておけ』と暗がりから声をかけることはあっても、自分の身を危険にさらすようなまねは避けてきた。人と関わりあってもろくなことがない。それにこちらは鳥の身だ。今夜はたまたまうまくいったが、刃物を持った者と戦ってもまず勝ち目はない。人はカラスと至近距離で向きあうと、警戒したり怖がったりするだろう。だがそのときカラスのほうは、人以上に怯えているんだ。何羽ものカラスから直接聞いたからまちがいない。
では、なぜこの少女だけ助ける気になったのか。理由はいくつかあった。言葉を話すおれを見ても怯えなかった。知人に似ていたせいもある。しかし、なによりぴんとくるものがあった。『両親を悪く言うな』とにらまれたとき、こいつには魔法を使う才能があるかもしれないと思った。
その昔、何十という名うての魔法使いが一堂に会した場に立ちあったことがある。そのうちの何人かとは顔を突きあわせて話しこんだりもした。彼らは老若男女さまざまだったし、顔つきも服装もばらばらだったが、ひとつだけ共通点があった。抜きんでた腕を持つ魔法使いはひとりの例外もなく、一種独特な目つきをしていた。凪いだ海のように静かな瞳の奥に、ちらりと冷たい光が兆している。じっと見つめられていると心の奥底を読まれているような気分になったものだ。
フォッテのまなざしにも、同じ光が宿っているような気がした。彼女を見殺しにしなかった最大の理由はそれだ。とどのつまりは、おれの勝手な思惑のためだと言える。
「ねえ、あそこに人がいるみたい」彼女がささやいた。
人がひとりやっと通れるぐらいの路地におれたちは入っていた。五、六歩行くと、おれにも見えた。わら束を体に巻きつけた男が地面に横たわっている。顔を隠すように載せた帽子に見おぼえがあった。「気にしなくていい。マルム爺さんは気がやさしい。それに、この時間は酔っているからまず起きない」
「ふうん」
おれがいびきをかいている爺さんの腹を跳びこえると、フォッテも忍び足で近づいていきた。そっとまたいだが、荷があるから足どりが危なっかしい。「ひとりだったら、引きかえすところだったよ」
「そうかい。まだしばらくかかるぞ。疲れたら言ってくれ」先に立って歩いた。背後からフォッテの足音が聞こえる。角灯の明かりが、彼女が踏みだすたびに揺れている。
「しばらく道なりに進む。そういや、フォッテはどこに住んでいるんだ?」
「マクスラビの森の、すぐそば」
思わず振りかえった。「お袋さんが入っていったのは、マクスラビの森か?」
彼女がうなずく。
「おまえ、お袋さんを探しにいって、それで連れ帰ったんだよな?」
「広いから朝までかかったよ」
にわかには信じられなかった。西街区の外れにある広大な森には、おれだってよほどのことがないかぎり足を踏みいれたいとは思わない。
「怖くなかったのか?」
「もちろん怖かったよ。でも、お母さんのことがあったから」
「拳骨よりも大きな蜘蛛がいただろう?」
「いた。それに肘から手首くらいの長さのムカデも」
「赤黒くて、節のある足が左右に百本ぐらいずつ生えてて、それがうじゃうじゃ動いてるやつだろう?」言っているそばから悪寒が背中を這いあがっていく。「おお、気持が悪い」
フォッテがくすりと笑った。「あんなに強いのに、ランドルフさんは虫が怖いの?」
「気色悪いだろう、あいつら」
「鳥さんは、虫を食べるんじゃないの?」
「おれは果実や穀物や――人の食うようなものしか口にしないよ」
「ふうん、だからそんなに体が大きいのかな?」
「どうだろうな。さあ、この階段をのぼって壁の向こうへ行くぞ。足を踏みはずさないようにな」
壁を越えて、さらに進んだ。話題はフォッテの仕事に移っていた。二ヶ月ほどまえから革製品を作る工房で、丁稚のような仕事をしているそうだ。工房は店舗も併設していて、そちらで販売も行っている。
「そこの店主なんだな。おまえをこんな時間に使いにやっているのは」
「うん――」彼女の声がくぐもった。
振りかえって見あげると、表情も硬くなっている。両親の話をしているときとはまたちがった陰りがのぞいているようだった。「よかったら話してみなよ。神父の家まで、まだしばらくかかるから」
それからおれが耳にしたのは、率直に言って胸糞が悪くなるような話だった。
フォッテの親父さんが病で亡くなったあと、まずお袋さんが件の革工房で働きはじめた。なかなかの好条件で雇われたそうだが、おれに言わせれば店の主は最初から、助平ったらしい目でお袋さんを見ていたはずだ。しばらくすると飲みに行こうとしつこく誘ったり、酒瓶を携えて家まで押しかけるようになったという。
母娘にとっては迷惑なだけだったが、まともな給金で寡婦を雇う店は多くない。あまり邪険にするわけにもいかず、お袋さんはそいつの誘いをのらりくらりとかわしながら働きつづけた。
そしておよそ二ヶ月まえ、お袋さんの体に例の異変が生じた。もともと彼女は人づき合いが得意ではなかったようだ。ゴドルフィンには親戚も親しい知人もおらず、だれにも相談できないまま、フォッテはいきなりひとりで食いぶちを稼がなければならなくなった。通りに面した店を順番に訪ね歩き、雇ってもらえないかとたのみこみ、軒なみ断られたあとで、革工房へ行った。そしてお袋さんの穴を埋める形で働くことになった。
しばらくのあいだ、店主はフォッテを自分の娘のようにかわいがったのだという。しつこくお袋さんの病状を訊ねたそうだが、そのたびにフォッテは『母は寝ついてしまって当分だれにも会えそうにない』とこたえていた。
それが五日まえ――その日は週に一度の休日だった――日暮れになんのまえぶれもなく、店主がフォッテの家にやってきた。戸口に立ち『わざわざ来てやったのだから、挨拶ぐらいさせろ』としつこく言いつづけたそうだ。必死になってフォッテが追いかえすと、翌日からがらりと態度を変えた。思うに店主の頭には、以前から石化の件があったはずだ。その晩のフォッテの様子から確信を得たのか、今度は彼女にちょっかいを出すようになった。
職人たちが帰ったあと、ひとりで掃除をしているフォッテに『となりの部屋で湯浴みをしていけ』と命じる。強引に自宅へ連れ帰ろうとする。いやだと言ってフォッテが逃げると、今度は真夜中の使いを命じた。いや、正確には『自分の言うことを聞くか、使いに行くか、どちらか選べ』と詰めよったそうだ。
夜のひとり歩きを選ぶはずがないと、たかをくくっていたのだろう。当然ながらフォッテも、この街の夜道が危険極まりないことは知っていた。それでも店主の言いなりになるのがいやで、使いに出ることにしたのだという。真夜中の配達は今夜で三度目だということだった。
「悪いな。そいつをこっぴどく痛めつけてやりたいところだが、なにせおれはこのざまだから」
「そんなこと、しないでね」かすかに笑みをふくんだ声で彼女がつぶやく。「あの人になにかあったら、ご飯が食べられなくなっちゃうもの」
今度はおれがため息をつく番だった。「しかし、このままじゃ駄目だぞ。おまえも知っているかもしれないが、この街にはすくなくとも五人、さっきの黒ずくめの男のような殺人鬼がいる。こんな時間に出歩いていたら、そのうちまた出くわしちまうよ」
「でも、ほかに雇ってくれるところもないし、今日中に品物を持っていけって言われたら、断れないよ」
「あとで一緒に考えよう。ほら、その通りをわたれば神父の家はすぐそこだ」
広い通りに出た。このあたりには外灯がある。ざっとうかがったが人影はない。
おれたちは通りの向かいがわへわたった。
「どっちへ行けばいいの?」
「左へ進んで三軒目の、三角屋根のでかい屋敷だ」
ならんで歩いた。二軒分の地所を越えると、見あげるほど大きな鉄の門が見えてきた。真夜中だというのに片がわがあけはなたれている。
「なんだか怖いな」フォッテがつぶやいた。「ランドルフさん、一緒に行ってくれる?」
「いいとも」
敷地に入った。慎重な足どりでフォッテが石畳の上を進んでいく。両がわに、彼女の胸の高さまである植えこみがずっとつづいていた。
「広いんだね。それに大きくて、立派なお屋敷」
「そうだな」
前方に、屋敷の影が浮かびあがっていた。屋内から洩れる明かりはひとつもないが、外灯がいくつか灯っている。裕福な信者が住まいを提供したのだろう。ゴドルフィンに彼を派遣した教会本部が、これほどの住居を用意するとは思えない。
左右の植えこみがとぎれた。屋敷の正面にまわりこむ。両わきに四本ずつ石柱があり、中央の奥まったところに正面扉が見えた。
「そっちに隠れているからな」小声で告げて、左手の石柱の陰に身をひそめる。
「うん」フォッテが扉のまえに立つ。足もとに荷をおろした。片手を頭上に伸ばして叩き金をつかむ。硬質な音が、二度、三度と闇夜に響きわたった。
たっぷり五十数えるだけの時が過ぎた。帰ろうよと声をかけるつもりで柱の陰から顔を出したところで、錠をあける音が聞こえた。
扉がひらき、太い光の帯があふれ出る。
「どなた?」初老の男の声にはおぼえがあった。
「神父さま、こんな時間に申しわけありません」フォッテはいくぶん早口になっている。「ゲルツィオネの店の者です。ご注文の品をお持ちしました。もうおやすみでしたか?」
「まだ起きていたが。おまえ、ひとりで来たのかい?」
「はい、主人には昼まえにお持ちするようにと言われていたのですが、つい忘れてしまって――本日が期日だとうかがっていたので、ご迷惑だとも思いましたが、あわてて持ってまいりました。本当に申しわけありません」
何度か同じ科白を口にしてきたのだろう。よどみなくフォッテは言葉をついだ。こんな時間に客を叩き起こせば、叱りつけられることもあるはずだ。もしかしたらこの状況も、店主のいやがらせの一部なのかもしれない。
「これからは、夜中に出歩いてはいけないよ」多少面くらった様子ではあったが、神父はおだやかな口調でフォッテをさとした。「失敗することはだれにでもある。ゲルツィオネはやさしい男だ。きちんと謝ればきっと許してくれる。だから、いいかい、次からは必ず日中に品物を届けるようにしなさい」
「そうします。あの、ごめんなさい。運ぶときに転んでしまいました。品物を包んでいた布が汚れています。ここで包装を解いてからおわたししてもいいですか?」
「それぐらい、自分でやるよ」
「でも、品物にどこかまちがいがないか、一緒にたしかめていただきたいんです」
丸みを帯びた声で、神父が笑う。「気にしなくていい。これは革の高級品じゃない。布地のかばんなんだ。落としたって傷などつかないから、安心しなさい」
燭台をつかんだ神父がフォッテのわきに立つ。中肉中背の体は丈の長いローブで包まれている。柱に隠れて顔は見えないが、きっといまも微笑んでいるはずだ。その柔和な顔つきを、おれはありありと思い浮かべることができた。神父が信者たちのまえで語ったり、危篤におちいった者を訪ったり、教誨師として死刑囚のもとへ向かうところを目にする機会が、これまでに何度もあった。
「代金はいくらだい?」
フォッテが金額を口にすると、神父はちょっと待っていなさいと言って戸口をくぐった。すぐにもどってきて、フォッテに銭をわたす。「ちょうどあるはずだよ」
「たしかにいただきました。どうもありがとうございます」
「こちらこそ。革工房に布地のかばんを注文するなんて、申しわけなく思っているよ。しかしゲルツィオネは腕がいいからな。さて、おまえを家まで送っていこう。住まいはどこだい?」
「そんな――大丈夫です。ひとりで帰れます」あわてた口調でフォッテは言った。
「だめだよ。夜道は危険だ」
「わたしの家はすぐ近くなんです。だれも通らないような抜け道も知っています。駆け足で急いで帰りますから、どうかご心配なく」
ううんと神父がうなった。ややあってから「本当に大丈夫かい? おまえの言葉を信じていいのかい?」
「ご安心ください。道草なんかしませんから」
「わかった。じゃあ――」ローブの袖が持ちあがった。「手のひらをこちらへ」
おずおずとフォッテが右手を差しだす。
「ほら、これをあげよう。あんずの飴だよ。わたしのかばんを届けてくれたお礼だ」
「いいんですか?」彼女の声が跳ねあがる。茶や香辛料ほどではないが、甘いものも貴重だった。
「おいしいよ。気をつけてお帰り。そうだ、名はなんというんだい?」
明るい声でフォッテが名乗った。
「飴をなめたら、ちゃんと歯を磨くんだよ、フォッテ」
「そうします。どうもありがとうございます」
「おやすみ。そのうち、聖典の勉強会か説教会に顔を出しておくれ」
足もとを照らしていた光の帯がやせていく。扉がしまりきるまで、フォッテは身じろぎひとつしないで立っていた。
「帰ろうぜ」柱の陰から声をかけた。
彼女がこちらにやってくる。足どりが軽い。叱られずに済んだし、飴までもらった。
「よかったのか、神父に送ってもらわなくて」
あの神父なら、真夜中に通るべきでない道ぐらい心得ているはずだった。
「いいの。もうすこしランドルフさんとお話ができたらなって、思っていたから」
「ほう、うれしいことを言ってくれるじゃないか」
彼女がすぐわきまで来た。角灯の明かりがまぶしくて、おれは通りのほうへ顔を向けた。鳥という生きものは、ほとんど全方向が視野になっている。背後のわずかな部分だけが視界からはずれるんだ。ちなみにカラスも鳥だから夜目がきかないと考えるのはまちがいだ。暗い場所でも、人と同じぐらいは見えている。
「よかったら、家まで送ってやろうか。そうすりゃしばらくは話していられるよ」
「いいの?」
うなずきながら、おれは満ちたりた気分になっていた。カラスは忌まわしいものの象徴だ。疎まれることはあっても歓迎されることなどない。
「ありがとう。ねえ、わたしの肩に乗る?」
「なぜだ?」
「何度か足を気にしていたから。固い道を歩くと、爪が割れちゃうのかと思って」
「それはそのとおりだが、遠慮しておくよ。おれの爪は尖っているし、汚れもついているから。それにすこしぐらい割れたって、どうってことないんだ」
フォッテがその場にしゃがみこんだ。ひざを抱えてこちらをのぞきこむ。「ランドルフさん。迷惑だったらそう言ってほしいんだけど」
「なんだよ?」
「うちに帰るまで、あなたを抱えさせてほしいの」
「やめておきなよ。手と服が汚れちまうよ」
「そんなのいいよ、もう汚れているもの」
彼女の腕が伸びてきた。両がわからはさみこむように触れられた。
「ねえ、やっぱりいや?」
おれの体はひどくこわばっていた。昔から人に触れられるのは苦手だった。やめてくれという言葉がのどまで出かかったが、飲みこんだ。ある情景が頭をよぎったからだ。暗い部屋の床にフォッテが座りこんでいる。かたわらには冷たくなったお袋さんがいる。それこそ石像のようにぴくりとも動かない母に、フォッテは指先で触れる。返事はないと知りながら語りかける。おれが思い浮かべたのはそういう場面だった。
「こうしていれば、苦しくない?」彼女は片手をおれの腹の下に、もう一方の手を右翼に添えて立ちあがった。
彼女のみぞおちのあたりに、左肩が押しつけられた。ごわついた生地のシャツを通して、呼吸に合わせて上下する腹部の動きが伝わってくる。
「カラスの羽って、思っていたのとちがうね」
「そうかい?」
「手ざわりがいいよ」
「脂っぽいだろう? それにひどく臭うはずだ」
フォッテがかぶりを振った。「苦しくなったり、いやになったら、すぐに降ろすから。それまでこうしていてもいい?」
いいよとこたえたら、細い腕にわずかに力が入った。
「行こうか。マクスラビの森のそばってことは、おまえの住まいは西街区のはずれだな」
「うん」
通りに出て、右に折れ、来たときとは別の小路に入った。ゴドルフィンの道なら、路地裏から野良猫の通り道まで、ほとんどすべてをおれは把握している。暇にまかせておぼえていった。
「とうぶん道なりに進む。なあ、飴をもらえてよかったな」
砂糖は安くない。神父が自前で買いもとめたり、気軽に分け与えられるようなものではないはずだ。住まいと同じく、裕福な信者が寄進したのだろう。身よりのない子どもや貧しい者のために神父はあれこれと働いている。あの飴は本来、そういう者たちへの施しに使われているのかもしれない。菓子を食っても腹はふくれないが、一瞬の鮮やかな悦びは記憶にとどまる。場合によっては一日か二日、生きのびようとする気力が生まれることもあるだろう。
「大きなまん丸の飴だったよ」とフォッテが言った。
ごく細い小径を縫うように進んで、町はずれまで来た。遠慮しているのか、フォッテはおれのまえでは飴を口にふくもうとはしなかった。
まっ暗な林道に入る。フォッテは朝晩この道を通って、工房へ通っているそうだ。
「飴を舐めないのか? きっと疲れが吹き飛ぶぞ」
「いまはいいや。すぐに食べたら、もったいないもの」
「石かなにかで叩いて割れば、何度も味わえるよ」
彼女が笑った。「それは名案だね」
林を抜けた。街中とは異なる澄んだ風が吹きぬけていく。月を覆い隠していた雲はいつの間にかなくなり、満天の星空だった。
前方に草原が広がっている。その先に巨大な黒い塊があった。マクスラビの森だ。右手はなめらかに隆起と陥没をくりかえし、次第に高くなっている。砂丘を連想させるその影の連なりの奥に、空に向かってひょっこりと突きたつものがあった。
「あそこだよ」フォッテがそちらを指す。
彼女の家は森のすぐ手まえ、急勾配の丘の上にぽつんと建っていた。林道に入るまえに集落があったが、それが人家を目にした最後だ。これだけ隣家と離れていれば、お袋さんの異変を隠しとおすことも、できない相談ではなさそうだ。
「着いちゃった」急勾配の斜面のまえで、ようやくフォッテはおれを降ろした。
「いいところじゃないか」
「そう?」
「見とおしがいいし、風も吹きぬける。明日も朝から仕事かい?」
「うん。行かなきゃね」フォッテがスカートのポケットを探った。しゃがみこみ、右手をこちらに差しだす。炭かなにかで黒く染まった手のひらの上に、リボンの結び目のようなものが載っていた。球体の両わきに蝶の羽を思わせる三角形がついている。包装紙がねじれた部分だった。
「あげる。助けてもらったお礼」
「いいよ」
「もらってよ。ほかにはなにも思いつかないから」
「気持ちだけもらっておくよ。それにおれは、甘いものはそれほど好きじゃないんだ」
「食べなくたっていいの。きっとこれはね――」フォッテがふたつの三角をつまむ。包装紙から転がり出た飴を手のひらで受けると、もう一方の手で角灯の持ち手をつかんだ。「ほら、見て」
ガラスに似た質感の球体には、小さなひびや傷がいくつもついていた。蜜かなにかが入っているようで中心部は色が濃い。闇のなかで煌めく球体は、一瞬とはいえほかのすべての事柄を忘れられるほど美しかった。
「カラスさんって、光るものやきれいなものが好きなんでしょう?」
「きらいじゃないよ、たしかに」
「じゃあ、もらってよ。そのうち溶けちゃうかもしれないけど」
「本当にいいのか?」
にっこりとして、フォッテは深くうなずいた。彼女のまともな笑みを見たのは、そのときがはじめてだった。
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「うん」
差しだされた飴を、くちばしではさんだ。
「ねえ、大事にしてくれる?」
うなずいた。
「うれしい」フォッテが立ちあがる。「そろそろ帰るね。明日、寝坊したら大変だから」
こいつには、起こしてくれる者も朝食を作ってくれる者もいないのだと思った。
「おやすみなさい、ランドルフさん。今日はありがとう。とってもうれしかった。気をつけて帰ってね」こちらに背を向けると、フォッテは斜面をのぼりはじめた。両足を肩幅よりもひらき、しっかりと踏みしめる。一歩踏みだすたびに両腕が宙をかく。滑稽にも見えるその動作をくり返さなければならないほど斜面は急だった。
「おい、フォッテ」飴玉を足もとに置いて、おれは声をかけた。
立ちどまったフォッテが振りかえろうとして、その拍子にぐらりと体がうしろに揺れた。彼女がまえに手をついたのをたしかめてから、おれは言った。
「よかったら、明日も会わないか。おれの棲み家に招待するよ。同居人にも紹介したいし、おまえの仕事についても、いい案がないか一緒に考えてみよう」
つい先ほどまでは、そいつに話を通してから彼女を誘うつもりでいた。それが当然の順序というものだろう。しかしおれはこのまま彼女を帰すのが――なにひとつ希望を見いだせないまま、明かりの灯っていない家に帰すのが――急に忍びなくなってしまったんだ。
「同居人って、カラスさん?」斜面の途中で、彼女がこちらに向きなおる。
「人だよ。おれたちは変なところに住んでいるし、そいつは一風変わっている。だからおまえを困らせてしまうかもしれないが」
「会ってみたいな。それに行ってみたいよ、ランドルフさんのおうち」おどろくほど真剣な――そして慎重な口調でフォッテは言った。
「よし。仕事はいつごろ終わるんだ?」
「外に出られるのは、日暮れごろだと思う」
そこで思いあたった。「深夜の配達は?」
「昼間か、次の日に運ぶことにしてもらえるよう、お願いしてみる」
「じゃあ日が暮れるすこしまえから、店のまえにいるよ」彼女が働いている場所はすでに聞いていた。通りに面した部分が店舗、裏手が工房になっているという。「どうしても無理そうなら、また一緒に配達に行こう」
「ありがとう。楽しみだな」月明かりを浴びながら、フォッテは体を左右にひねった。はにかんだように笑い、もじもじと体を揺する。「ねえ、約束? 明日会うの」
「夕飯を一緒に食べようよ」
彼女が二度深くうなずいた。「おやすみなさい」先ほどよりもずっと張りのある声で言うと、こちらに背を向けて両腕を振り、斜面をのぼりはじめた。
家のまえまでたどりついた彼女の姿が見えなくなるまで、おれはその場に立っていた。 とざされた窓から細い線になった明かりが洩れだしてくる。
森のほうから、風が吹いてきた。
飴をくわえあげる。地を蹴って羽ばたいた。両翼が風をつかみ、あっという間に上空へ運ばれる。ぐるりと旋回して、ねぐらのほうへくちばしを向けた。
舌先で触れると、あんずの飴は甘ずっぱい、なつかしい味がした。