【二部 十三章】 酒場、娼館の女主人、川沿いの庵
マルタイヤの丘で調練を行った日の夕方だったか。
いや、西国の軍を追い返した翌日だったかもしれない。
疲労のせいで、思考が濁っている。何度かこらえきれなくなって、叫びだしそうになった。もちろんやり過ごしたが。衝動にまかせて感情をほとばしらせるような真似をすれば、そのあとかならずなにかが荒む。それはよくないことだ。粛々とつとめを果たせばいい。兵士とはそういうものだ。階級によって、自らの頭を使う必要があるか、ただ上官の命令に沿えばいいか、というちがいはあるが。
――気にいらなければ上官の命令など無視すればいい。
どうでもいいようなことをつぶやきながら、ふたたびくちばしを突きあげる。
長いこと、ほとんどこれしかしていない。あとはひまわりの種と燻製にした肉片を食い、水を飲み、用を足して、短い休息をとるだけだ。
ぱさついた粉が、頭上から降り落ちてくる。目や鼻に入ってひどく不快だが、取りだしてもすぐにまた入る。きりがないから放っておいた。
――こういう時のそなえに、工夫のひとつでも凝らしておけ。
舌うちをくり返す。シュピールも、やつの願いを聞きいれたという奇妙な箱も、こういう事態について気を回しておくべきだ。
やつらがまぬけなせいで、こうしておれが尻ぬぐいをする羽目になる。こんなもの、敵前逃亡した一兵卒にでもやらせればいい。それなりに名の売れた剣士がやるようなことではない。
過去の記憶は、あいかわらず次から次へと浮かんでくる。おれの眠りを妨げる、異様に生々しい悪夢とおなじくらいの鮮やかさだ。
――やはりあれは、調練を終えた日の夜だったな。
確信めいたものを感じて、暗闇のなかでひとりうなずく。
しかし脳裡に浮かぶシュピールは、なぜかぼろ布のようなマントを肩にかけている。靴も汚れている。髪はぼさぼさだし、顔には煤のような汚れがこびりついている。
奇妙なことだった。あいつは昔から身なりに注意を払っていた。高価すぎず派手すぎない服をあつらえて、シャツはもちろん、上着も靴も毎日取りかえていた。
「ああ――」つい、声をあげて笑ってしまった。口中に侵入した粉が、舌と上あごに張りつく。唾液と一緒に吐き捨てながら、そうだそうだとうなずいた。あのときはおれもぼろぼろの服を着ていた。従者に命じて用意させた服だった。
当時は、シュピールとふたりで話す機会がほとんどなかった。民政を牛耳っていた大臣が失脚した。かなりの私財を不正に蓄えていたことが露見したのだ。がたがたになっていた民政を立てなおすために、シュピールは寝る間も惜しんで働いた。疲労の蓄積が顔にも声にも現れていて、王が心配していた。それでその日も、声をかけてみたのだった。
『どうせ飯は食うんだろう。たまには息抜きに街へ出て、場末の食堂で安くて味の濃いものでも食わないか。すこしは気晴らしをしないと保たないぞ』
そういう内容の手紙を、従者に持っていかせた。
シュピールの執務室のまえには昼夜問わず、指示を仰ぐために集まった者が長蛇の列をなしていた。足を運んだところで、長いあいだ待たされるのが常だった。
どうせ今回も『すまないが多忙につき』という、味も素っ気もない短い文面が返ってくるのだろう。そう思っていたが、従者が持ちかえった紙きれには、
『半刻後にそちらへ行く。庶民が着るような服を二着用意しておいてくれ。相談したいことがある。店は任せる。ついでに治安と風紀の乱れを調査したい』と書いてあった。
大急ぎで、ふたり分の服を用意させた。
シュピールは時間ぴったりにおれの部屋へ入ってきた。
「よう、ならんでいる連中はどうした?」
「いまから王と緊急の打ち合わせをしなければならない、と言って帰ってもらった。王にそう言えと命じられたんだ。一応事前に相談したんだが、『二刻は帰ってくるな』と言われたよ」
「ほう」
そういう気づかいは、できる男だった。ときには稚気をにじませることもあるが、自分も変装して一緒に行くなどと、無理を言うこともない。
ふたりとも、着古した服に着がえた。
炭を指でつぶして、顔に塗る。爪のあいだや首すじも汚して、その上から油を塗った。
シュピールは愛用の杖を左の袖口に差しこんだ。おれは剣を鞘ごと布で包んだ。
できれば魔法は使わせたくなかった。民のなかには魔法を怖れている者がいる。そのせいか、以前シュピールに関するいやなうわさが広まったことがあった。
日暮れまえに、城を出た。
貧しい者が多く暮らす地域へ向かい、道を行く男たちに声をかけて、安くてうまい飯を食わせる店を聞いた。仕事の途中だったのだろう、男たちはたいてい顔をしかめ、苛立ちの混じった目つきで、つっけんどんな言葉を返してきた。邪険に扱われることなど久しくなかったから、心が浮きたつほど愉快だった。
壁も机もべとついているし、酔った者同士がいさかいを起こすこともあるが、味と値段は抜群だという店に入った。
安酒で乾杯して、饅頭と肉の炒めもの、酢に漬けた果実をたのんだ。
「相談って、なんだ?」気になっていたので、最初に訊ねた。
「ぼくの暗殺を計画している者がいる。どうやら大臣も加わっているようだ」
「ふうん。だれかな。このまえと同じようにするか?」
「たのめるか」
うなずいた。魔法を使えば、だれもがシュピールがやったのかと考える。剣なら、だれもが使える。刃物の扱いに慣れていない者の仕業に見せかけることも容易だ。
料理が運ばれてきた。職人風の初老の男が言ったとおり、甘辛いたれをからめて、韮の茎とにんにくと一緒に炒めた豚肉が絶品だった。今度炊事係をここへやって、野営のときにでも作らせようと思った。
シュピールが肉を小皿によそった。二度目だった。
「その肉、おまえも好きか?」
「うまいよ」と言いながら、小さな肉片をフォークで口へ運ぶ。おれとちがって、シュピールは昔から食いかたが上品だった。
「もっと飲めよ」
「いや、酔うわけにはいかないから」
「いいだろう、たまには。喧嘩を吹っかけられたら、おれが引きうけてやるから」
忙しそうに立ち働いている無愛想な女に、酒を二杯たのんだ。
「おまえが飲めよ」とシュピール。
「たまには羽を伸ばせよ。こんな機会、めったにないだろう」杯にのこっていた酒をあおる。気分が軽くなるぐらいのところまでは、飲んでもいいだろう。シュピールほどではないが、おれも張りつめた日々がつづいていた。人の上に立てば、行動や決断のすべてが人目にさらされる。失敗は他人に降りかかる。おれの場合は、兵の命に関わる。シュピールのほうは、五万を超える民の暮らしに影響を及ぼす。
目のまえの男は、そんなものどこ吹く風という様子で日夜激務をこなしていたが、重圧を感じていないはずはなかった。
調理場のほうから、足早に女がやってきた。おれたちが向かいあって座る小さな机のわきに立つと、無言のまま杯をふたつ、叩きつけるように置いて去っていった。
つい、笑ってしまった。シュピールもにやけている。
杯をつかんで差しだした。「ほら、飲めよ」
「じゃあ、これだけ」シュピールが杯を取る。「もう、いらないからな」
「わかったよ。なあ、おぼえているか。たった六年まえだぞ、おれたちが出会ったのは」
「あのときもこういう酒場に行ったな。おまえの案内で。あそこもうまい料理を出した」
うなずいた。そのころのおれは、なにも手にしていなかった。腕力と剣の腕だけがたよりだったが、それが世のなかでどこまで通用するかわからなかった。
六年まえのある日、シュピールはいきなりおれの住まいへやって来た。名乗ったあとで、『自分はいま諸国漫遊をしている。腕が立つ者のうわさを耳にしたら、できるだけ会うようにしている』と言った。
『剣の腕まえには自信があるよ』とおれはこたえた。元々それなりの腕だったが、二年間、死にかけるほどの鍛錬をつづけていた。兵士になり、武功をあげて、一刻も早く将軍の地位まで駆けあがる。そのための準備だった。二年まえ、惚れた女が王に嫁いだ。没落した実家を再興するために、そいつはそいつで勝負に出たのだ。それで、おれは仕官する気になった。いざとなれば――他国が攻めこんできて、国が亡ぶかどうかという瀬戸際にでもなれば――女は二の次になる。そういうときが来たら、守ってやろうと思った。
あとひと月ほどしたら、入隊する予定だった。入隊したら、前線部隊を志願する。それが一番、武功をあげやすい。桁ちがいに腕がたてば、それぐらいの希望は聞きいれてもらえるのではないかと、当時のおれは考えていた。
シュピールのほうは、腕が立つ仲間を探している、ということだった。信用できる仲間がひとりかふたり、必要なのだと。
面白そうな男だったから、近所の酒場に連れていって、一緒に飯を食った。
三日つづけて夕方から酒を飲み、おれはシュピールと行動を共にすることに決めた。
根まわしや腹の探りあいが、おれは絶望的に苦手だった。突然やってきた優男は、そのあたりのことは自分に任せてくれていいと、うすい胸を叩いた。自分と合流すれば、一兵卒からはじめるより、三倍は早く目標を達せられる、とも言った。言動には才気がにじみ出していたし、下卑たまねをしそうにないのもよかった。
その時点では、シュピールは魔法を使うことを伏していた。『荒事は任せたい』と言うから、『こいつは腕っぷしに自信がないのだろう』と早合点をすることになった。やつが魔法使いだと――それもかなりの腕まえだと知ったのはおよそ三ヶ月後、南方の国を乗っとった魔法使いを討伐したときだ。霊獣退治に出かけたのは、それからさらに二ヶ月後のことだった。
ふたつの実績を手土産に、シュピールはこの国の王へ、直接仕官を願いでた。魔法を使って城に忍びこみ、王がひとりでいるときに声をかけたのだという。ふたりがどんな話をしたのか知らないが、翌日王はおれたちを迎えいれた。おれはいきなり千人を指揮する中隊長に抜擢された。シュピールはおれを補佐する下級軍師という立場だったが、一年後には国一番の軍略家として知られるようになっていた。三年が過ぎるころには、やつは軍事をほとんどしきっていた。おれは剣士として、他国にもそれなりに名が通るようになっていた。
「そろそろ行こうか」シュピールが空になった杯を置く。
杯ののこりを飲みほして、店を出た。
特にいかがわしい通りを歩いてみたい、とシュピールが言うので、遠まわりをして帰ることになった。
賭け場をのぞき、左右に娼館が建ちならぶ通りに入った。
肩をならべて歩いていたが、ちょくちょくシュピールが遅れた。袖をつかむ客引きの女たちに、いちいちていねいに断りを入れていたからだ。
将軍や大臣に対するときと変わらぬ口調でやさしく言いふくめられると、こちらが赤面するような言葉をまくしたてていた女たちが恥ずかしそうにうつむいて、シュピールが着ているぼろ布のような服をそっと放した。
「なぜ、ぼくにばかりしつこくするんだろう。同じような格好をしているのに」
たしかにおれに声をかける女は少なかった。誘いもひかえめで、袖がちぎれるほど引っぱる女などひとりもいなかった。
「なんとなく感じるんだろうよ、こいつはこういう場所に疎そうだし、気も弱そうだ、ちょろい客にちがいないとな」
シュピールが声をあげて笑う。前方の軒先に立っていた女がふたり、こちらへ顔を向けた。
「それはいい。城の者はみな、ぼくのまえに来るとひどく緊張してしまうんだ。王とフィドルオ将軍は例外だが」
ふたりの客引きが近づいてくる。どちらも派手な化粧をしているが、十四、五歳程度にしか見えない。
声をかけてきたふたりをやさしくをあしらってから、シュピールは言った。「ああいう幼い娘が、こういう場所で働いているんだな」
「もっと幼い娘もいるらしい。なあ、十六歳以下の娘を雇っている娼館は、罰することができるんだよな?」
「そういう取り決めはある。しかし実際には難しい。店の者を罰しようとすると、娘とその家族が、自分たちが年齢を詐称していたのだと役所に訴え出るんだ。身売りをするときに、そういう内容の約定を密かに結んでいるんだと思う」
「じゃあ、仕方がないと?」
「なんとかしなければいけない。しかしこの国はまだ未熟だ。正直なところ、細かいところまでは手が行きとどかないのが実情だ。町の者ひとりひとりの名前、年齢、職業だって六割ほどしか掴めていない。どうしても諸国との戦に銭と力が奪われる。これをなんとかした上で、税をきちんと徴収する仕組みを作りたい。豊かな者からさらに多く取ることになるが、彼らを納得させるのがむずかしい。やりすぎると国から出ていってしまうからね。まず治安、それから細かい法だ。不正を排除する仕組みも作らなければならない。あと五年はかかるだろうな」
「しばらくは堪え忍ぶしかないか。さっきの娘たちも」
「ああ」と、暗い声でシュピールは返事をした。
「しかし、この国の先行きは明るいと思うぞ」陽気な声を作って、おれは言った。「王はおまえを高く買っている。この国の戦は、もうおまえの策なしでは成りたたない。民政のほうもいずれそうなる。おまえのことを快く思っていない者もいるようだが、そいつらはおれが刈りとってやる」
「ありがたい。本当に助かっているよ。しかし、せっかくふたりで酒を飲んだんだ。城にもどるまでは、なにか楽しい話をしようじゃないか」
おれは、つい先日入隊した、三十人の新兵ことを話した。まだ乳臭さの抜けない餓鬼が数人いるが、そのうちのひとりは槍を達者に操る。トネリという名だった。三年もすればいい隊長になるかもしれない。
シュピールは、役人のなかで眼をつけている男の話をした。オウエンという名の男で、まだ二十歳そこそこの下級役人だが、ずいぶん頭が切れるそうだ。その頭のよさを自分のために使おうとしない不器用さがあるのだと、シュピールはうれしそうに言った。あと半年様子を見てから、要職に抜擢する予定だという。
「突きあたりで、左に折れる」前方を指して、そう言った。娼館の群れがそこで途切れる。道沿いにしばらく行けば、城の尖塔が見えてくるはずだった。
「また行こう。ひさしぶりにまともな食事をした気がする」シュピールが言った。
さらに二軒、娼館を通りすぎたところで、騒ぎが起こった。
右手の店の二階で、いきなり男が悲鳴をあげたのだ。
金属めいた響きの絶叫がつづくなか、小さな影が窓わくに足をかけ、宙へ飛びだした。
「この餓鬼!」二階で、男が怒鳴っていた。「おいっ! 若い衆!」
這いつくばるような格好で地べたに降り立ったのは、小柄な娘だった。だらりと垂れたドレスの胸もとを直そうともせずに、しゃがみこんだまま横を向き、「ぶっ!」と音を立ててなにかを吐き捨てた。
「おい、どうした?」
声をかけたが、娘は返事をしない。こちらを見つめたまま、棒きれのような足をのばして立ちあがる。顔つきは十二、三歳のものに見えた。流行病を疑いたくなるほど痩せている。
階段を駆けおりるあわただしい足音が聞こえ、目かくしのカーテンを跳ねあげて、若い男が三人飛びだしてきた。
娘が駆けだす。
となりの店の戸口から出てきた男が、両手を広げて娘のまえに立ちはだかる。
「おっと、すいませんね、お手数かけて」同業者に声をかけながら、三人が娘を取り囲む。「捕まえたか?」カーテンがめくれた。中年の男女が戸口から出てくる。
女は痩せぎすの中年増で、目つきが悪い。娼館の女主人らしかった。
男のほうは一目で客だとわかった。よく肥えた初老の男だ。ボタンのはずれた白いシャツがガウンのように肩にかかっている。むきだしの腹の下で、ベルトの金具がだらしなく垂れている。男は、泣くのを必死でこらえる幼児のような顔つきだった。片手でもう一方の拳を握っている。指に布をあてているが、かなりのいきおいで血が滴り落ちていた。
「いますぐ叩っ斬れ!」男が言った。「銭は払う。その娘を買いとるぶんだけ払う」
「お客さん、買いとるぶんっておっしゃいますけどね」中年増の女が言った。「それだけってわけにはいきませんよ。こんな場所で人なんか殺したら役人が来ちまう。袖の下がいりますよ。周りの店にもあいさつをしなきゃならないし」
「それならとっ捕まえて、なかで殺せ。それならいいだろうが」
口もとに笑みを浮かべたまま、女が蔑むような眼つきになる。「うちは内装に銭をかけてるんでね。それにうわさってのはすぐに広まる。人死にがあった店で遊びたがるお客さんはいませんよ」
「じゃあ、いい。役人のぶん、あいさつのぶん、両方わしが払う。だからいますぐその餓鬼を――」
痩せた娘は左右に頭を振って、じりじりと輪をせばめてくる男たちをうかがっていた。逃げだすつもりのようだが、よほど身のこなしが素早くないかぎり、どちらへ向かったところで捕らえられてしまうだろう。
「あの娘を連れて、裏に行きましょうよ。そこでまずは、じっくり話をしようじゃありませんか。なあ、アリア。あんたもきちんと謝りな。そうすりゃきっと、この旦那さんは許してくれるよ」
おれたちに聞かせるためだろう、わざとらしく声を張って、女主人が呼びかける。
「馬鹿を言うな。わしは指を噛み切られたんだぞ。この餓鬼は絶対に――」
娘が駆けだした。
右手にいた男が、踏みこみながら腕を伸ばす。娘の腰に腕をまわして押しとどめ、背後に回った。慣れた動作で羽交い締めにする。
娘はうなだれるように頭をまえに倒した。それから、跳ねるようにのけぞった。
鼻っ面を後頭部で打たれて、若い衆がうめく。
その手に、娘が口を寄せる。
かりっと音がした。
獣のような俊敏さで、娘が男から離れる。男の指から、血が噴きだしていた。
「ランドルフ――」
「ああ」
若い衆がふたり、同時に娘に殴りかかった。
そこで止めに入った。
娘の横っ面を殴りつけようとした男の拳を手のひらで受け、もうひとりの腕を払う。
「なんだ、おまえ!」ひとりが叫んだ。
もうひとりは、短刀を抜いた。
叫んだほうの男も腰のうしろに手をまわし、短い刃物を抜きとった。
ふたりとも、武術の心得はなさそうだ。しかし、場慣れはしている。瞬時に眼に冷たい光が宿った。表情も落ちついている。先ほど娘に手を噛まれた男だけ、荒事の経験が乏しいようだ。
「連れと一緒に、いますぐ消えろ」右手の男が、こちらに向けた刃先を小さく振る。
「ここであったことは、ぜんぶ芝居だよ」もうひとりが言った。こいつのほうが上背がある。殺した人数も多そうだ。「芝居だが、ふたりとも顔はおぼえたからね。もし今夜のことをだれかに話したら、かならず落としまえをつけに行くよ」
激しい息づかいが、背後から聞こえてくる。娘がおれのすぐうしろに立っていた。
賢いな、と思った。裏に連れていかれたら、まず殺される。自力では逃げられそうにない。突然割って入った男は、敵意を持っているわけではなさそうだ。そこまで考えて、おれのうしろで様子をうかがっている。
「ほら、早く娘をよこしな」落ちついているほうの男が、手まねきをする。
「動くなよ」背後の娘に言った。
「うん」と娘がこたえた。小石でものどに詰まっているような声だ。
手まねきをしていた男が、いきなり短刀を突きだしてきた。
その腹を蹴りつける。
娘の腕を引き、もう一方の男の刃をかわす。
向こうずねを、ブーツのつま先で蹴った。
男の動きがとまる。
みぞおちに膝を突きいれる。側頭部に肘を当てる。
右手の男が腰をあげた。
その頬を殴りつけた。顎の関節が砕ける感触が伝わってきた。
男が地面に崩れおちるのと同時に、かん高い笛の音が響きわたった。
見ると、さきほどの女が小さな木の筒をくわえている。
「この、田舎もん」腕ぐみをした女主人が、笑いかけてきた。「なにも知らないんだね。こんな場所でそんなまねをして。逃げたいなら逃げてもいいが、もうどっちの口にも人がまわっているよ。うちの若い者を走らせたし、他の店の者も集る」
左右から、ばたついた足音が近づいてくる。三十人、いや、四十人はいるようだ。娘が飛びおりた窓からは、矢がのぞいていた。となりの店の二階の窓わくからも、男が身を乗りだしている。
「こういうときはお互いさまだから、どの店の若い衆も仕事をうっちゃって飛んでくるのさ。腕に自信があるんだろうけど、こっちには飛び道具もあるからね。謝るならいまのうちだよ。それなりのものを差しだすって言うなら、許してやらないこともない」
一連の騒ぎがすでに耳に届いていたのだろう。短いあいだによくこれだけ、と思うほどの人数が通りを埋めていた。片がわに五十人。もう一方はさらに数が多そうだ。
殺せ殺せと、指を噛みちぎられた客がわめいている。手の甲を噛まれた若い衆も、それに同調している。
娘が、おれのわきに来た。
「とりあえず、その娘をわたしな」女主人が言った。「あんたの相談はあとまわしだ。お客さんを待たせるわけにはいかないから、うちにあがって待っていてもらう。今夜は帰れないから、そのつもりでね」
「ご主人――」殺気立った空気にそぐわない、穏やかな声だった。「その娘さんは、わたしたちが引きとります」
その場にいるすべての者が、シュピールに視線を向けた。
「馬鹿なことを」女主人が笑う。「あんたも、ちょっとどうかしているね」
「わたしの提案を、きちんと聞くことをお勧めしますよ。とても得ですから。あなたにとっても、そちらの怪我をしているお客さんにとってもね」
「逃げだしたりするなよ」ささやいた。息づかいから、娘が駆けだそうとしている気配が伝わってきていた。「じっとしていれば助かるんだから。動くなよ」
「まず身うけの銭」シュピールが女主人のまえに立つ。「ゴリオン金貨三枚で充分でしょう? 十年は遊んで暮らせるはずだ」
女主人が眼を見ひらく。さっと手を伸ばして金貨を取った。
「それと、あなたの指はわたしがつけてあげましょう。痛みは消えるし、指は動くようになる。迷惑料としてあなたにも金貨を一枚さしあげる。どうでしょう。それでこの場は納めませんか?」
客の男は、シュピールから女主人の手もとへ、それから自分の手の傷へと視線を移した。「そんなこと、できるわけない」
「ものは試しです。つけば儲けものでしょう? ただし急がないといけない。あまり時が過ぎると、指のほうが死んでしまう。あなたの指はどこです?」
女主人が短い嬌声をあげた。本物だよこれ、と口走っている。左右から男たちがのぞきこむ。
「その餓鬼が食いちぎって逃げたんだ。その辺に落ちているはずだ。探してくれ。わしの指、どこかその辺に――」
足を擦る音が聞こえてきた。用心棒や客引きが入り混じっているのだろうが、こういう場所で食い扶持を稼いでいる男たちだ。客の指が足もとに落ちていると言われれば、探そうとして当然なのだろう。だが――
「そんなわけ、ないだろう」おれは言った。「指を食いちぎられた部屋を探せ。そこに転がっているはずだ」
女主人に命じられて、若い衆が戸口へ消える。ややあって、窓枠から顔をのぞかせた。
「ありました。すぐにもどります!」
「ねえ、お兄さん」媚びを含んだ声で、女主人がシュピールに呼びかける。「ここまでやらせておいて、だめでしたじゃ済まないよ」
「そうですね。ああ、指はわたしが預かります」戸口から駆けだしてきた男を止めて、シュピールは指をつまみあげた。太い毛が生えた、爪の部分がやけに平たい指だった。
「手をこちらへ。傷口を見せてください。そう、動かないように」
客の男のわきから、女主人がのぞきこむ。
『フェリオス』
シュピールの指先からぼんやりとした乳白色の液体が滲みだしてきた。男の指の断面に、その液体が垂れ落ちる。傷口同士を触れあわせて位置を調整する。もう一度、同じ呪文を唱えた。黄色い光が男の手全体を包み、すぐに消えた。
「動かしてごらんなさい。痛みがあるなら、消してあげます」
客の男は口を半びらきにしたまま、己の手に帰ってきた指を動かした。
最初はゆっくりと小さく。次第に大きく、早く指が動く。
「ありがとう」指先に見入ったままつぶやいた。「助かったよ。銭はいらん。その娘のことも、もういい。早く家に帰りたい。ひどく疲れたんだよ。もう帰ってもかまわんか?」
「かまいませんよ。万が一、明日になって痛むようなら、城を訪ねてください。『昨夜のひとさし指の件で、魔法を使う医者に用がある』と言えば、通じるようにしておきます」
「うん」胸の高さにあげた手をもう一方の手で支え、しずかに歩きだす。
「遅くなってしまった。ぼくらも帰ろうよ、ランドルフ」
「この娘は?」
「ここには置いていけないだろう?」
うなずき、おれは娘の手を取った。彼女はびくっと身を硬くしてにらみつけてきたが、抗おうとはしなかった。
シュピールが先に立って歩きだす。男たちが左右によけた。
おれは娘と肩をならべて、シュピールのあとにつづいた。
「ちょっと待ちなよ。いまのは魔法だね?」女主人だった。「あんたたち、どこか別の国から来たんだろう。いいかい、ここでは魔法を使う者がいたら、かならず城へ報せることになっているんだ」
シュピールが足をとめた。
女主人が早口でつづけた。「報奨金が出るんだよ。それもかなりの額がね。これはわたしの勘だけど、あんたたちできれば魔法使いだってことを役人には知られたくないんじゃないのかい。どうだい、報奨金の三倍で。ここにいる全員の口どめ料だ。そう考えれば高くはないだろう。ここにいるみなの口が堅いのは、あたしが請けあうよ」
シュピールが振りかえった。口もとには微笑が浮かんでいるが、眼には常よりわずかに冷たい光がたたえられていた。「と言うとご主人、わたしはいくら払えばいいのでしょう?」
「そうさねえ、まあ、ゴリオン金貨五枚ってところだね。どうだい、手持ちはあるかい?」
「いいえ。それに高すぎる。おっしゃるとおり、魔法に関する報告をすれば報奨金が支払われますが、あなたが口にした額の百分の一に満たない。それに、魔法使いを排斥しようとしてのことではないのです。どこにどんな魔法使いがいるか、一応把握しておきたい。その程度のことでね。だから、どうぞ報告してください」
「いいのかい。あんたはさっきうちの客に、城に行けとか魔法を使う医者がどうとか言っていたが、あれははったりだろう? それもふくめて、あんたらふたりのことを城の連中に伝えるよ。知らないようだから教えてやるが、この国にはすご腕の魔法使いがいる。そいつが国を牛耳っている。王様だって言いなりさ。あんたなんかそいつにかかったら――」
「好きにしなよ」そう言った。指を噛みきられた男じゃないが、早くこの場から離れたかった。「小銭のために城まで出向くとも思えないが、もし行っても報奨金はもらえないぞ。おまえが脅している男が、この国の魔法に関する事柄の責任者だからな」
シュピールがこちらに背を向けた。
男たちが放つ好奇の視線を受けとめながら、歩いていく。
女主人は、もうなにも言わなかった。
「なあ、名はなんというんだ?」角を曲がったところで訊ねた。
手を離しても、娘は逃げようとしなかった。すこし離れて、おれの横を歩いている。
シュピールはおれたちのななめまえだ。歩調が常よりすこし遅い。
「アリア」娘が言った。やはり、小石をいくつかのどの奥に詰めたような声だった。
「そうか」女主人が呼んだのは本当の名だったんだな、と思った。「なぜ、あの男の指を噛みちぎったんだ?」
しばらくアリアは黙っていた。あごをあげ、月を見ながら、なにか思案している様子だった。
「おい、言いたくないなら――」
「あの客は、店できらわれている」突然、話しはじめた。視線は上へ向けたままだ。「女にとてもひどいことを言う。豚とか、淫売とか、生きている価値がないとか。こっちは仕事だから我慢するんだけど、その耐えている顔を見ると興奮するんだって。ずっとまえからわたしは、あいつは絶対にお断りだって店の者に言っていた。なにを言われても気にしない女もいる。そういうやつがあいつの相手をすればいいんだ。だけど今日はたまたま、そういう女が三人とも熱を出して寝ついていた。女将さんに、あいつはお得意だからってたのみこまれて、しかたがないから相手をした。すこしは我慢しようと思ったけど、やっぱり無理だったな」すらすらと、他人事のような口調でアリアは言った。
「なんだか嘘っぽいな。それで、指を噛みちぎったのか?」
「そうだよ。あんたこそどうしてわかった?」
「なにが?」
「あいつの指が、部屋にあるってことだよ。他のやつはそんな風に思っていなかった。どいつもこいつも足もとをきょろきょろ探して、顔をあげているやつはひとりもいなかった」
ちょっとしたおどろきだった。あの状況でそこまで観察していたのか。おれは前方を行く背中に眼をやった。シュピール歩調を変えずに、月を眺めながらぶらぶらと歩いている。その耳にも当然おれたちの会話は――この娘の話は聞こえているはずだった。
「あんな気色の悪いもの、いつまでもしゃぶっていられるわけがない」おれは言った。「ちょっとあごの力をゆるめるだけでいいんだ。だれだってそうするに決まっている」
娘が――アリアが笑った。紙をそっと破いたような笑い声だった。「あんたもあるんだね。指を噛みちぎったこと」
シュピールの歩調は変わらない。
「ある。餓鬼のころ、義父の指をな。乱暴な男でさんざん殴られた。おれは小さかったから、他に刃向かう術がなかった」
「爪の先は苦かったか?」
「なんだって?」
「苦いような、塩辛いような味がしなかったか? あいつのは爪はやけにしょっぱくて、吐きそうになったよ。それで窓枠のほうに向かいながら床に捨てたんだ。それでも口のなかが気持ち悪くて、しばらく唾を飲みこめなかった」
味はおぼえていない、とこたえた。
アリアがまた例の声で笑った。
半刻ほどで、町はずれにある川沿いの小さな庵についた。シュピールが考えごとをするときに使う場所だった。
「ここを使っていい。どこかへ行きたければ行ってもいいが、なかの物品は持ちださないでもらいたい。では、おやすみ。ランドルフ、ぼくらは帰ろう」
川を越えてから訊ねた。「いいのか、あそこには高価な物も置いてあるだろう」
「あの場で、品物を運びだすわけにはいかないよ。さすがに彼女も傷つく」
それはそうだが、アリアはほぼまちがいなく嘘つきだし、おれたちは赤の他人だ。こちらが城の関係者だということも知っている。今夜中に庵を出るはずだ。そしてもちろん、銭の種を見すごすようなまねはしない。
「明日になったら、壺も花瓶も、下手をしたら卓も椅子もなくなっているぞ」
「どうかな。ぼくは、彼女は出ていかないと思うけどね」
珍しく意見がわかれた。それで、賭けをすることになった。今度飯を食いに行ったとき、負けたほうが代金を払う。店は勝ったほうが選ぶ。そう取りきめた。
翌日の早朝、おれたちは連れだって庵を訪ねた。賭けはやつの勝ちだった。
ぼそぼそと感謝の言葉を口にしたアリアは、魔法を教えてくれとシュピールにたのんだ。無力で無学な自分が生きのびるためにはそれしかないと思う、と言って。
しばらく思案したのち、シュピールは試験をすると彼女に告げた。日暮れまでにひとつ、簡単な魔法を使えるようになったら合格、という条件だった。
正午になった時点で、アリアは手のひらから氷柱を生やせるようになっていた。
「これであたしはあんたの弟子だね」とアリアは抑揚の乏しい声で言った。
「そうだね」とシュピールはこたえた。
後日たしかめたところ、シュピールは試験は失敗に終わると踏んでいたそうだ。
杖もなし、実演もなし、口頭の説明のみでその日のうちに魔法を発動させるなど、まず不可能だという話だった。
「昔から、よく使われる手なんだよ」苦笑しつつシュピールは言った。「試験というのは弟子入り志願者を追いはらうための方便なんだ」
「じゃあ、アリアにはかなりの素質があるってことか?」
「うん。困ったものだ。未熟者のぼくに、あんなに幼い、しかもひどく口の悪い弟子ができてしまった」そう言うと、シュピールは照れくさそうに眼を伏せて笑った。




