【二部 九章】 三つの禁呪、透明な箱、シュピールの望み
「きみは混乱していると言ったが――」口火を切ったのは、シュピールだった。「こちらに起こったことをわかりやすく説明するのは難しい。ひどく複雑なんだ。禁呪の魔導書を持つ魔法使いが三人集まり、闘ったわけだから」
「ちょっと待て。おれが訊いているのは、なぜ姫があんな借家にひとりでいるのかってことだ。最初にそれだけ話せ」
「わかった。必要なことだから先に伝えておくが、いまぼくの体には二重に呪いがかかっている。アリアが禁呪でかけた呪いと、ぼく自身が使った禁呪による呪いだ」
「それで?」
「ぼくは、自然には死ねない体になった。自害はできる。剣で斬られても死ぬはずだ。しかし、老衰はしない。病死することもない。おそらくきみもそうだろう」
「姫を追いだした理由は?」
シュピールが短く笑った。ほとんど擦過音だけで、笑い声というよりも咳きこんだような音だった。「ここにいてどうする。ぼくはもうひとつも魔法が使えない。アリアが使った禁呪のせいだと思う。そして、体中に激痛が走っている。こちらはぼくの禁呪の反動だ。そういう体質になってしまった。外気に触れただけで肌が溶ける。ほとんど起きていることができない。こうやって言葉を発するのも、ひどく億劫だ」
「だから?」
「なぜかアリアは、姫には呪いをかけなかった。そのほうが苦しむと思ったのかもしれない。姫は老いる。病にもなる。普通の、どこにでもいる人の体のままだ」
焦れったくなって、舌を鳴らした。「それがなぜ、姫を追いだす理由になる」
「彼女には、穏やかな暮らしを手に入れる機会がのこされている。身分を捨て、親の仇の記憶も封印し、ぼくらのような者との付きあいを完全に断ちきれば。こんな地中の陋屋で永遠に回復しない役立たずの世話をしている暇はない。街へ出て自らの生活を作りあげ、いい夫を探すべきだ。強く賢く生きていけば、あるいは人並みの人生を送ることができるかもしれない」
「姫はおまえに惚れていた。看病することを負担とは思わないだろう」
シュピールの顔に貼りついた馬鹿げた仮面が左右に揺れた。「だめだよ。ぼくは老いない。病で死ぬこともない。きみは、王姫が年老いてこの世に別れを告げるまで、ぼくの看病をすればいいと思うか?」
「そういうわけじゃないが」
「ならば早いほうがいい。彼女はまだ十八だ。若いほうが新しい環境に慣れやすいし、あの愛らしさだ。そのうち婚約を志願する者が殺到するだろう」
しばらくあれこれと考えた。「おまえにかかった呪いを解くことはできないのか?」
「無理だろう。禁呪だからね。禁呪を解く禁呪も、もしかしたら存在するかもしれないが、ぼくらは手詰まりだ」
「なぜ?」
「魔法使いは、この街に入ることができない。以前からここにいた魔法使いたちは、みなどこかへ飛ばされた。そういう願いを、禁呪に聞いてもらった」
意味がわからなかった。そう言うと、シュピールは小さくうなずいた。
「順を追って話そう。それが一番理解しやすいと思う」
「そうしてくれ。ただし、できるだけ短く、おれにも理解できるようにな」
「請けあうことはできないが。さて――まずぼくは、きみに謝らないといけない。北方の民の軍との戦闘中、いきなり透明な壁が消えただろう。大変な思いをしたはずだ。すまなかった」シュピールの仮面がまえに傾いた。
しかし、そんなことを責めるつもりはなかった。アリアの性根を見抜けなかったのは、おれも同様なのだ。「アリアが、いきなり魔法をとめたのか?」
「ああ。きみも知ってのとおり、あの壁はふたりがかりで作る。その手ごたえが、突然消えた。次の瞬間、左右から攻撃された。見るとゲッセンバウムとアリアが杖をかまえている。なにが起こったか悟るのに、しばらく時が必要だった」シュピールが息を吐く。「きみやカフ将軍のことを考える余裕はなかった。めまぐるしい攻防のなかで確信したのは、こちらの敗北はひるがえらない、ということだ。自軍六万は壊滅。国は彼らに乗っとられる」
「そのとおりになったはずだ。なにかうわさを聞いているか?」
「いや。ぼくは地上へ出られないし、あの国は遠く離れているからね」
それは身をもって味わった。思いかえすだけで気が遠くなるほどの道のりだった。
「話をもどす。しばらくふたりを相手に闘ったが、次第にこちらが押されはじめた。ゲッセンバウムはうわさ以上の腕まえだったよ。そしてアリアだ。おどろくべきことに、彼女はぼくと遜色ない魔法を繰りだしつづけた。あの瞬間まで彼女は本当の実力を隠し通してきたわけだ。それは賞賛に値する。恥を忍んで言うが、ぼくはまったく気づかなかった。きみは?」
頭をふった。「おまえにわからなけりゃ、おれにわかるわけがないよ」
「さらに彼女は、とっておきの切り札を隠し持っていた。禁呪の魔導書だ。いつどこで入手したのか、ぼくには見当もつかない」
「ゲッセンバウムは、アリアが北方の民の盟主になったと言っていた。あちらで見つけたのかもしれない」
「そうか。そういうことかもしれないと、ここに来てから考えはした。しかし、容易いことじゃないぞ。北方にも魔法使いはいるだろう。それ以外の強者も。アリアは毎日、ぼくが言いつけた修行をこなしていた。彼女の肉体と精神を限界すれすれまで酷使する厳しい修行だ。その合間に――たぶん夜遅く、みなが寝静まってからこっそりと――魔方陣を使って北方へ飛んだはずだ。いま振りかえれば、まれに彼女が眠そうにしているときがあった。体調がすぐれないという言葉を真に受けていたが」
「あいつがひとりで、北方の部族を制圧したって言うのか?」
「ゲッセンバウムが協力したのかもしれないけどね。あの男は気位が高いことで有名だ。禁呪の魔導書も持っているし、おいそれとだれかの下につくような男ではないが」
ため息が勝手に洩れでた。おれひとりでは、北方を統一することなどとてもできない。アリアが――あの娘がそれをやってのけたのか。「それでおまえは、城へ引き返したのか?」「王族の命が最優先だと思った。当然ふたりは追ってきた。なんとかするつもりだったが、王と王妃はぼくの目のまえで殺された。すまなかった」シュピールが、先ほどよりもずっと深く頭をさげる。
アリアの言葉が――自分もシュピールもとっくに気づいていた、という言葉が――脳裡をよぎった。
「姫だけはなんとか保護することができたが、ぼくは防戦一方だった。どうにかして彼らと離れる必要があった。どちらかひとりならやりようもあるからね。窓を破り、飛んで逃げた。あちこちに置いてある魔方陣を経由して、いまぼくらがいる場所のま上、槐の裏手へ出た」
「アリアは城にいながら、おまえがゴドルフィンへ逃げたことを知ったよ」
「だろうな。どうやら彼女は以前から、独自の魔法を開発していたようだ。その行為を、ぼくは固く禁じていたんだけどね。幼いころから面倒を見てきた。それで眼がくもった。まったく弁解のしようもない」シュピールが、また頭をさげる。
「もう謝らなくていい。しばらくしてから、アリアがやってきたんだろう? そのあとゲッセンバウムも現れたはずだ。おれが知っているのは、それだけだよ」
シュピールがうなずいた。呼吸が乱れている。会話をするだけでも体に負担がかかるのだと、先ほど言っていた。つらいのかもしれないが、仮面のせいで表情はうかがえない。
「まずアリアが現れた。決してこの機会を逃すまいという気迫で、彼女は向かってきたよ。こちらは姫を守りながらだ。どうしてもあと一歩踏みこめない。打開策を探しているあいだにゲッセンバウムが飛んできた。事前に打ち合わせをしていたんだろう。いきなり二度、三度と魔法を放ち、それからガタリ語で長い詠唱をはじめた。あきらかに禁呪を発動しようとしていた。まずいと思って攻撃したが、こちらの魔法はすべてアリアに防がれた。さらにアリアは、それまで見向きもしなかった姫を急に狙いはじめた。こちらは防御にまわるしかなくなった。アリアの目論見どおりだったと思う。十重二十重に策が練られていた」
苦しげな呼吸の合間に発せられる声はいつしか熱を帯び、シュピールらしからぬ早口になっていた。
「飛行呪文を使って姫とともにその場を離れようとしたが、アリアが許さなかった。彼女は舌を巻くほど適確に、いやらしい魔法を放ってくるんだ。なにも手を打てないまま時が過ぎていき、とうとうぼくと王姫はアリアの呪文に捕らえられ、足が地面からはなれなくなってしまった」
王姫とシュピールを放置して、アリアも詠唱をはじめたという。奔流のように繰りだされる韻を踏んだガタリ語を耳にして、即座にシュピールはそれが禁呪を発動するための呪文だと悟った。
「それでぼくも覚悟を決めた。急いでぼくが所有する禁呪の呪文を唱えはじめたんだ。ぼくが死ねば姫は用済みになる。王と王妃を手にかけたふたりだ、王姫を殺すことにためらいはないだろう。もしくはもっとひどい目にあうかもしれない。
ひとつところに集まった三人が、禁呪を使うために呪文を唱えていた。こんなことは聞いたことがない。空前であるし、絶後の珍事と言っていいだろう。ぼくは必死で呪文を唱えた。こちらはひとりだが、向こうはふたりだからね。なんとしてもいち早く呪文を終わらせたかったが、最初に詠唱を終えたのはアリアだった」
目のまえに座る男の姿を眺めれば、当然の流れと言えた。話の結末も見えているが、それでもやはり胸が痛んだ。
「背中に熱いものが押しつけられて、ぼくは地面に倒れこんだ。魔法を使う力が――ぼくが磨きつづけ、生きる糧とし、誇りの源にもなっていた力が、次第に体から洩れだしていくのがわかった。きみも同じ魔法をかけられたようだから、その感じはわかるだろう? すっと消えるわけじゃない。毛穴から噴きだす汗のように、じわじわと放出されていくんだ。あれはこたえた」
「おれの場合は、熱さどころじゃなかった。体が裂けるんじゃないかと思うほどの痛みだったよ」
「そうか。きみが奪われたのは、肉体そのものだからな。そういう形で体を奪うというのは、ある部分では手足を切り落すより残酷だな」
「最悪の刑罰だと、ゲッセンバウムが言っていたよ。しかし、いまはそっちの話だ。アリアの禁呪をくらったんだろう? そのあとどうなった。なにがあった?」まだシュピールの話はなかば過ぎといったところだろう。やつには二重の呪いがかけられているそうだし、この街には現在ひとりも魔法使いがいないとも言っていた。
「先ほども言ったとおり、ぼくの力は、いきなりすべてがかき消えたわけではなかった。倒れこんで地面にあごを打ちつけた直後、こちらの詠唱も完了した。ぼくの視線の先、首を伸ばせば触れられるほど近くに、奇妙な物体が現れていた。あれはなんだったんだろう? これまでお目にかかったことのないような不思議な形をしていたよ。透明なま四角の箱のなかに、ひとまわり小さな箱がおさまり、さらにそのなかに別の箱がおさまっていた。それぞれの角が結ばれて、上と下の面は台形の透明な板を貼りあわせたような形になっていた。興味があるなら今度図を書くが、とにかくぼくはその奇妙な箱に向かって、最初の願いを口にした。次の瞬間、ふたりは姿を消した」
「ちょっと待て。おまえは、いまも魔導書を持っているのか?」
「いや、どこかへ消えた」
「それならもう話せるわけだ。おまえが持っていた魔導書に記されていた魔法は、どんなものだったんだ?」
シュピールはそっと片手を持ちあげて、指を三本立てた。「願いごとを三つ叶えてくれる。代償は大きいが」
「禁呪で、アリアとゲッセンバウムを殺したのか?」
「いや、〈この街にいるすべての魔法使いを遠くへ飛ばしてくれ〉とたのんだ。禁呪は、直接生きものの命を奪うことができない。あれにはいくつもの制約があってね」
「それは以前聞いたよ。内容の口外は禁止。肌身離さず持っていなければならない。一度に一冊しか持てない。使えば見返りを求められる。そう言っていたな?」
「ほかにも色々とある。持ち主は毎日一度はあれをひらき、指先でなぞりながら文言をさらわなければならない。また、内容が重複する魔導書は存在しない。今回はこれが重要だった」
あいづちを打ちながら、あることについて考える。アリアはまだ生きている。ならば、そのうちまたここへやって来るだろう。もしくは、刺客を送りこむか。「殺せないなら、せめてふたりの魔法の力を奪ってくれとたのめばよかったんじゃないか?」
「口にはしなかったが、その願いも却下されただろう。アリアの禁呪と非常に似かよっているから。それにふたりの魔法の力を奪っても、結果は変わらないんだ。彼らが力を失ったことが露見するまでにはしばらく時がかかる。その間に北方の民に指示を出せばいい。王姫もぼくらも、刺客に殺される」
「それだけのことを、その瞬間に考えたのか?」
シュピールが吐息を洩らす。笑ったのかもしれないが、仮面のせいでわからない。「もちろんちがうよ。きみにも似たような経験はあるだろう。その場では、どうもこれはよくないなと、気配のようなものを感じるだけだ。いま話したことは、ここでひとりになってから考えた、まあ、あと知恵のようなものだ」
「ふたつ願いがのこっているな。なにをたのんだ?」
「この街――ゴドルフィンに結界を張ってもらった。強力な結界だ。具体的には、こうたのんだ。『魔法を使う者が決して出入りできず、消しさることもできない、強力無比な結界でこの街を覆ってくれ』」
「つまり、アリアやゲッセンバウムがここへやって来ることはないんだな?」
「ほかの魔法使いもね。敵も味方もすべてだ。ただし、魔法使い以外の者は出入りできる。そうでなければすぐに食料の奪いあいがはじまり、早晩この街は無法地帯になるだろう。そういう事態は避けたかった。それに、姫を街にとじこめたくなかった」
言われてみれば、それしか道はないように思われた。しかしおれひとりでは、とてもここまで考えられない。まるでおれたちが暮らしたあの国の国境付近のようだ。あちこちに罠が埋めこまれている。一歩踏みまちがえば、望まぬ結果が降りかかる。
「最後の願いは?」そう訊ねた。魔法とは縁のない刺客がやってくる怖れはあるが、口にはしなかった。当然シュピールも、そのことについては把握しているはずだ。
「まず、ぼくにかけられた禁呪を解くか、力の流出をとめるかしてくれ、とたのんでみた。その願いは却下された。奇妙な箱は直接ぼくの頭のなかに話しかけてきてね、『禁呪を解く禁呪は別に在る』と言われたよ」
「それで?」
「思案したあげく、この住まいを作ってもらうことにした。刺客を追いはらうしかけがあり、新鮮な空気を呼びこみ、夏は涼しく、冬は温かい――静かで安全な場所だ」
「なあ、それは姫のためだったんだろう?」
「そのときは。願いを三つ聞きいれてもらったら、見返りを差しださなければならない。なにを要求されるのか、この時点ではわからなかった。無事に済むとは思っていなかったが――」
目のまえの男を見つめた。たまに痙攣する指先。長いこと病に伏せっている者のような芯のない声。異様な仮面と馬鹿げた服。「なにを要求された?」
「ひとことで言えば、健康ということになるだろう」シュピールがつぶやく。「さっきも言ったが、ぼくの皮膚は、日射しを浴びただけで溶けはじめる。外気が肌に触れると、無数の針で刺されたような痛みがはしる。食事の最中は舌の上にナイフをあてられているような心地がするし、なにを食べても鉄の味しかしない。起きているだけでもひどく消耗する。ひどい気鬱がずっとつづいていて、自分の心に信用がおけない。手足の肉は削げ落ちて枯れ枝みたいだ。力が入らないから、歩こうとしてもまともに足を持ちあげられない」
「おい――」
「ランドルフ、後生だから、さっきみたいな大声は出さないでくれよ。音にも異常に敏感になってしまっている。光も、匂いも、水も、いまのぼくにとっては拷問道具だ。せめて身ぎれいにしていたいのだが、気づくとこの仮面をはりつけられ、服も替わっていた。この道化師のような服はどうやっても脱げない。一部が皮膚とくっついていて、姫があれこれ試したが、鋏やナイフでは切れないし、火で焙ってもだめだ。仮面も同様で、無理に取ろうとすれば、おそらく皮膚が剥がれてしまうだろう。こうやって話をしているだけで、息苦しさで意識が飛びそうになる」
やつの言葉を聞いているうちに、どんどん気分が落ちこんできた。いまやシュピールは、生まれたての赤児と同じくらい無力だ。いや、成長が見こめるぶん、赤児のほうがずっとましだろう。「もうかなり長いこと話しているが、大丈夫なのか?」
「もうすこししたら横になる。体のことは気にしなくていい。ぼくの体には、アリアの呪いもかかっているからね。老いず、死ねず、だ」
うなずいた。もう、ほとんど聞きたいことはのこっていなかった。すこし考えてから、おれは訊ねた。「姫は、ここにのこりたいと言っただろう?」
「やさしい人だからね。ぼくは彼女の顔を見るたびに、いますぐに出ていけと言いつづけた。それでも彼女は三十日間、それは甲斐甲斐しくぼくの世話をしてくれたよ。ねえランドルフ、ぼくはもう、それだけでいいんだ。その記憶があれば、ひとりで生きていける」
なにか口にしたかったが、うまく言葉にならなかった。
「ああ、忘れるところだった」シュピールが言った。「たのみがあるんだ」
「なんだ?」
「姫は自害した、ということにしてほしい。万が一きみがアリアの追っ手に捕まるようなことがあったら、そう言いはってもらいたいんだ」
「それはかまわないが――」
「ありがとう。もうひとつたのみたい。これ以降、二度と彼女に近づかないでほしい。彼女の子孫に対しても同様だ。彼女は平民になる。国同士の争いや魔法などとは無縁の、おだやかな暮らしを得るんだ。夫を見つけ、子供を作り、老いる。孫が生まれて、また喜びを得る。あの人には、そうやって平穏に暮らしてもらいたい」
軽々しく返事をすることはできなかった。シュピールの考えはあまりにも楽観的だ。彼女は生まれたときから王族なのだ。両親を目のまえで殺され、信頼していた者に隠れ家から追いだされ、見知らぬ街でひとりきりだ。そんな彼女が、市井の者として幸福な日々を送ることができるだろうか。どこかで足もとをすくわれて、ひどい汚泥にはまりこんでしまう可能性のほうがずっと高いように思われた。
「姫は、銭を持っているのか?」
「いくつか宝石を持っていた。すこしずつ質屋へ持っていき、銭に換えるように言ってある」
勝手のわからぬ店先で、困惑しながら宝石を差しだす姫の姿が浮かんだ。世間知らずの、身寄りのない娘だ。たちの悪い男に声をかけられ、問われるままに身のうえを語り、いいように利用される――そういうこともあるのではないか。
「なあ、まともな質屋を見つけるところまでは、おれが助けてやってもいいだろう?」
「だめだ。彼女がひとりでやるんだ。いざとなったらきみやぼくが助けてくれると考えているうちは、とてもひとり立ちなどできない。これから彼女はいろいろな目に遭うはずだ。心細さも悔しさも受けいれて、己の力で生きる場所を作りあげるべきだ。そうすればきっと、いつか誇りも手にはいる」
口にすべきことは、もう見あたらなかった。「わかったよ。二度と姫とは会わない。街中で見かけても声はかけないし、彼女が困っていても、助けない」
「そうしてくれると助かる」頭部をまえに倒した拍子に、空咳がはじまった。シュピールは背中を丸め、咳きこみながら切れ切れに言った。「では、きみともこれで今生の別れだ。どこかで静かに暮らすといい」
「刺客が、来るかもしれないから?」
「それだけじゃないよ。きみは無事にこの街へ入ることができた。出ていくこともできるだろう。このあたりの国ではカラスは不吉の象徴と思われている。街にいれば追われることもある。どこか遠くの山か森で、自由気ままに暮らすといい」テーブルに手をついて、シュピールが腰を浮かせる。体を支える両腕が、冗談かと思うほどふるえていた。
「名うての魔法使いを探すのも、いいかもしれない。〈禁呪を解く禁呪〉を操る魔法使いを見つければ、もとの姿にもどれるかもしれないしれないよ」
「あるのか、そういう禁呪が?」
「わからない。例の透明な箱が、そういう禁呪が在るようなことを言っていた。それだけだ」
羽ばたき、テーブルに飛び乗った。中央まで歩いていき、やつの顔を――仮面の奥からのぞく血走った目を――見つめた。「外へ行って、その禁呪が書かれた魔導書の持ち主を探してきてやる。おれだけだと時がから、おまえと親しくしていた魔法使いたちに助けを乞う。この街を覆う結界を解き、おまえとおれの呪いを解き、それからアリアを倒しにいこうじゃないか」
「いや、ぼくはもう――」
「気乗りがしないなら無理強いはしない。だが、おれは仇を討たなきゃならない。おれがこの世でただひとりと思いさだめた女は、アリアに殺されちまったんだからな」
シュピールが息を飲む。腕のふるえがとまっていた。王妃だった女に対する感情を、おれはいままで一度も口にしたことがなかった。
「姫のことはおまえの言うとおりにするが、それ以外は好きにやらせてもらう。アリアはおれたちが拾い、育てたんだ。ああいう風になった責任はおれにもある。落としまえはきっちりつけないといけない。三度三度、飯を食わせてきたおれが」
シュピールは返事をしなかった。うなりながら立ちあがり、椅子のわきに立ち、背もたれをつかんだ。ひどく痛むのか、頭部が小刻みに揺れている。馬鹿げた飾りの先で、鈴がしつこく鳴っていた。やつは首をすくめるようにして上体を縮め、老人のような動作で椅子のうしろへまわりこんだ。「すまないが、自室で休む」
「なにか言っていけよ、シュピール」
「――今後は、テーブルの上に乗るのはやめてくれ」ふらふらと手をあげて、戸口を指した。「こちらに細い通路がある。突きあたりはぼくの部屋だ。その手まえの部屋は空いている」
「使わせてもらうよ」
道化のような服に包まれた背中がこちらへ向く。シュピールがのろのろと歩きだす。その背中にみなぎり、本人の意思とは関係なく発散されていた熱量のようなものは、完全に消えうせていた。
「一年以内に、おまえをもとの姿にもどしてやる」丸まった背中に言った。
シュピールが戸口をくぐる。足の裏を地面にこすりつける音が、次第に遠ざかっていく。
テーブルを歩いていき、椅子の座面に降りた。足を折りまげ、下腹をつける。酔いつぶれた若い兵士のように全身を弛緩させた。今日まで野宿がつづいていた。力をふりしぼるようにして飛んできた。
――すこしだけここで休んでいこう。与えられた部屋で本格的に眠るのは、そのあとでいい。
睡魔の誘惑は抗いようもなく蠱惑的だった。
以降、途方もなく長い年月を過ごすことになる土中深くのせまい部屋で、おれは最初の眠りについた。




