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【二部 六章】 黒龍、貝殻の魔法、脱出

 夜ふけを過ぎたころだった。

 紫色の光が居室のほうでまたたき、足音が近づいてきた。

 ベッドの上で体を起こす。

「準備はできているな?」戸口に立った影が言う。

「すこし待ってください」ベッドから降りた。寝間着の上からケープをはおり、杖を握る。昨夜、監視魔法というものの存在を知った。万が一のことを考えて、ゲッセンバウムが現れるまではベッドのなかで待つことにしたのだ。

「一応訊くが、おまえ、アレフシスは使えないよな?」闇のなかで彼が言う。

「なんですか、それは?」

「姿を消す魔法だ。しかたがない、わしの手を握っていろ」影が腕を伸ばす。

 その手を取った。彼の手は肉厚で柔らかかった。

「ゲッセンバウムさん、体温が高いみたいですね」

「生まれつきだ。アレフシスは姿を隠すだけだ。音を立てないように注意しろ」彼が杖を持ちあげる。早口で呪文を唱えた。

 手を引かれて、寝室から居室へ向かった。これといった変化は感じられない。彼の影も見えている。「わたしたちには、もう魔法がかかっているんですか?」

「当然だ。手を離すなよ、姿が見えてしまうから」

 居室を突っきって、白い扉のまえに立った。

 ゲッセンバウムが呪文を唱え、紫色の光の筋を飛ばした。

「廊下は異常なしだ」言って、扉をあけた。

 彼につづいて戸口をくぐる。廊下の壁には、青白い明りがぽつぽつと灯っていた。

 ゲッセンバウムがそっと扉をしめる。

 ならんで歩いていく。廊下には絨毯が敷いてあり、足音はほとんど吸いこまれる。

 しばらく進んだところで、彼の手に力がこめられた。立ちどまったゲッセンバウムが、左手の壁へ向きなおる。

『スパシーヴォ』

 音もなく、目のまえの壁が横に滑りはじめる。せまい通路が現れた。天井が低く、左右の幅もせまい。床も壁も天井もごつごとした石がむきだしになっている。

 ゲッセンバウムが杖をわずかに傾げる。五、六本の紫色の筋が杖の先から飛びだし、壁にぶつかって反射しながら前方へ飛んでいく。

「この道にはだれもいない。監視魔法は無効化した」

 通路に足を踏みいれる。うしろを向いたゲッセンバウムがフォッテの知らない呪文を唱えた。壁が動きはじめ、もとの位置へもどり、あたりがまっ暗になった。

「こういう隠し通路が、城のあちこちにある。アリアに国を乗っとられた王が、それ以前に道楽で造ったものだよ」ゲッセンバウムが杖の先に火を灯す。「しばらく行くと階段がある。それを使って三階まで降りる。三階から一階へは別の隠し通路を使う」

 三階の廊下を歩いているときだった。曲がり角の手まえで、いきなり腕を引かれた。

 フォッテが壁に背をつけた途端、角の向こうから金属がこすれ合う音が聞こえてきた。

 姿を現したのは、初日に見かけた大男だ。巨大な斧を肩にかけている。今夜も鎧を着こみ、兜を装けている。そのうしろに四人、同じ格好の兵士がつづいた。

 息を潜めたフォッテのまえを、彼らが通りすぎていく。

 五人が角を曲がって姿を消すと、ふたたびゲッセンバウムの手に力がこめられた。

 一階へ降りる。

 幅の広い通路に出た途端、冷気が押しよせてきた。左右の壁ぎわで、列になった青白い明かりがちらついている。前方のずっと先のほうにも同じ明かりが見える。天井は暗くて見えない。半球形の帽子をかぶった男と歩いた通路のようだが、はっきりとはわからない。

「ここから先は、特に注意が必要だ」声をひそめてゲッセンバウムが言う。「蜘蛛の糸のようなものがあちこちに張ってある。わしの足の動きを注意して見ろ。同じように歩け」

 氷が張った湖面を踏むような足運びで、ゲッセンバウムが歩きだす。

 最初は右手へ。それからななめ左へ進み、壁ぎわへ。壁づたいに直進してから、ま横へ折れる。

「ゲッセンバウムさん――」彼の手を握り、足をとめる。「だれかに見られているような気がします。両がわからも、それに、天井からも」

 ゲッセンバウムはフォッテの手を軽く握りかえし、鼓舞するように小さく振った。「あとすこしで重圧から解放される。そういう状況は人を妙な気分にさせることがある。請けあうが、周囲にはだれもいない。糸以外の魔法も――」

 なにかが視界の上端をかすめた。

 とっさに見あげたが、暗くてよくわからない。虫だろうか。蛇が地を這う動きに似ていたような気がする。

「行くぞ。小瓶にポトカを詰めてきた。外に出てひと段落したら、乾杯しようじゃないか」

 唐突に頭上から光が射した。

「ん――」とゲッセンバウムがうなる。彼が頭上をふり仰ぐ。

 次にフォッテを襲ったのは、地響きだ。

 頭上から降ってきた巨大な生きものが床を踏み、前方に立ちはだかった。長い首をいきおいよく左右に振り、こちらへ顔を向ける。皮膚が岩のようにざらついている。胴体は二階建ての家屋と同じくらいで、尻尾と頭部をふくめた全長はその三倍はありそうだ。

「ゲッセンバウムさん、これは――」

 こちらを睨みつけていた生きものが、上あごを持ちあげた。四人乗りの馬車をひと飲みにできるほど口がひらき、ずらりとならんだ歯がのぞく。歯はつけ根が太くなっていて、先端が剣のように鋭い。その奥、のどに降りる手まえのあたりに、黒い火が現れて渦巻きはじめた。

「いかん!」

 腕を引っぱられて、床へ転がる。

『バルテモア!』

 ゲッセンバウムが唱えるのとほぼ同時に、獣の口から炎が放たれた。

 フォッテの眼前で、炎はなにかに堰きとめられたように向きを変えた。

 獣が口をとじた。首をかしげて鼻を鳴らし、視線を泳がせる。

「フォッテ、すまんな」耳もとでゲッセンバウムが言った。「これは黒龍という。見てのとおりの生きものだ。においでわれわれを察知したのだろうが、こいつが探査魔法をすり抜けられるという話は聞いたことがない。アリアがなにかしたのかもしれん」

 両前肢を突っぱるようにして、獣が上体をあげた。ほとんどま上から見おろされる形になる。

「いけない! 飛べ!」

 肩を押された。右手へ飛び、倒れこむ。低いうなり声が聞こえた。顔をあげる。

 黒龍と呼ばれた生きものが、右の前肢を振りあげるところだった。

 爪を伸ばした肢先が、薙ぐようにして横から飛んできた。

 今度はうしろに引かれた。背中から床に落ちる。

 肩をぶつけるようにして、ま横にゲッセンバウムが座りこんだ。両手で杖を握り、呪文を唱える。知らない言葉だったが、フォッテの耳には

『マエグス・マキナ』

 と聞こえた。

 なにかが足もとから生え出てきた。左右に広がり、カーテンをかけるようにフォッテの視界をさえぎる。フォッテとゲッセンバウムの周囲を、白い壁が包んでいた。ちょうど貝殻のなかにとじこめられたような感じで、上部は頭がつきそうだし、左右は手を伸ばせば触れられるほど近い。

「よく聞けよ、フォッテ」ひどい早口でゲッセンバウムが言った。片手に杖を抱え、片足を伸ばし、荒い息を吐いている。「これだけの騒ぎだ。すぐに兵士どもが集まるだろう。間の悪いことに、アリアもまだこの城にいたようだ」

 ずん、と地響きがして、周囲を包む殻がふるえた。

「わしが黒龍とアリアを引きとめておくから、おまえはひとりで脱出しろ」

「――どうやって?」

「途中までは、わしが魔法で運んでやる。ここから正面玄関までは二百歩ほどだ。馬鹿でかい扉があるが、おまえの腕では壊せないだろう。そのわきの壁をぶち抜け。ありったけの火を作って飛ばすんだ。こうなったらもう派手にやってかまわん」

 また地響きが起こった。周囲の殻がみしみしと鳴り、粉のようなものが落ちてくる。

「もう、さほど保たんな」ゲッセンバウムがひたいを拭う。彼は大量の汗をかいている。顔色も悪い。「外へ出たら左へ走れ。厩に角が生えた馬がいる。そいつにこう言え。『自分はゲッセンバウムの荷物である。東の樹海の主のもとへ送りとどけよ』」

 彼が話しているあいだも震動はつづいていた。殻のあちこちに亀裂が入り、いまにも割れてしまいそうだ。

「いいか、決してこのままゴドルフィンへもどるなよ。同じことのくり返しになるだけだからな。おまえは樹海の主に会う必要がある。そいつにこの紙を見せろ」

 くしゃくしゃに丸めた紙が、押しつけられた。

 ぱきぱきと殻が鳴る。蜘蛛の巣に似たひびが入った屋根が、下降してくる。

「一緒に逃げましょう。もうすぐ女王や魔法使いが集まってくるんでしょう?」

「アリアはもう、わしらのすぐ横に立っているよ」汗だくの顔をゆがませて、ゲッセンバウムが笑う。「わしが三つ数えたら両膝を抱えて球のように丸くなれ。そのあと自分で三つ数えてから、手足を広げて伸ばし、体の向きを調整しろ。着地するときは胸を張り、腹から降りるんだ。先に手をつくと骨を折るからな。ではいくぞ。いち、にぃ」

 あまりにも唐突だった。なにかを――質問を、お礼を、別れの言葉を――口にする暇はなかった。

「さん」

 視界がまわった。あわてて膝を抱える。

 宙に放りだされた。かなりの速度で進んでいる。

 なにかやわらかいものが背中にぶつかっていた。川で泳いでいるときに、流れに押される感触に似ている。

 背後から轟音が――おそらく黒龍があげるうなり声が――聞こえてくる。

 数えるのは忘れてしまったが、もういいだろう。

 体の外へ向かって、フォッテは腕と足を伸ばした。

 うつぶせの格好で飛んでいく。

 体のま下、腕を伸ばせば触れられるぐらいの距離に、床があった。

 顔をあげて進行方向をたしかめる。

 大きな扉が、どんどん近づいてくる。

 後方で異音が響いた。力まかせに紙を破るような音だ。

 ゲッセンバウムは無事だろうか。

 振りかえってたしかめたいが、体勢を崩して床に触れてしまいそうだ。

 わずかに速度が落ちてきた。体がゆるやかに下降して、ケープの裾が床をこする。

 背中を反らせた。

 みぞおちのあたりが床に触れる。

 背中を押していたなにかが、体と床のあいだに入りこんできた。

 背後では雷鳴が轟いている。

 それとは別の、大砲が暴発するような音がたてつづけに鳴った。

 ゲッセンバウムが反撃しているのか。それとも女王の部下の魔法使いたちが、よってたかって彼を責めたてているのか。

 床の上で体がとまった。腕を突いて立ちあがる。

 振りかえろうとしたところで、いやな気配を感じた。

 左右を、それから頭上をたしかめる。

「あ――」まともに言葉が出てこない。視界を埋めつくすほどの氷塊が、フォッテの頭上に浮かんでいた。瞬間的に、崖の上から眺めた光景が脳裡をよぎる。恐怖とおどろきで体が動かない。

 ごうごうと鳴りながら、光るものがいくつも飛んできた。

 氷塊の腹にぶつかった火の玉が、太い環に形を変えて氷を縛りつける。

 夕立のようないきおいで降りそそぐ水滴を浴びながら、フォッテは駆けた。

 ゲッセンバウムだ。彼が助けてくれた。女王や黒龍や他の魔法使いたちに囲まれているのに、こちらにも注意を払ってくれていた。しかし、そんなことができるものだろうか。疑ったこともあったが、彼は本当にすごい魔法使いなのだ。今度会ったら謝らなければ。きちんと敬称を付けて彼の名を呼ばなければ。これからは決して忘れずに――。

 背後から、体が浮きあがるほどの風が吹きつけてきた。一瞬身がまえたが、痛みはない。

 息をとめ、目をうすくひらき、扉に向かって駆けていく。

 そびえるような巨大な鉄の扉が、二十歩ほど先に見えていた。

 そのわきの壁に視線を据える。杖を頭上へかかげる。

 大きな火を――これまででもっとも大きくて猛々しい火を、フォッテは脳裡に描いた。中心から黒い火の帯がぶくぶくと噴きだしているような、赤黒い火の塊だ。

『ヘテロ!』

 杖を振りおろす。

 飛んでいく火の玉は想像よりずっと小さかったが、力強さに関しては望みどおりだったようだ。黒い火の玉が壁にぶつかる。煉瓦を焼き、溶かし、その身を沈みこませていく。

 壁から十五歩ほどのところでフォッテは足をとめた。これ以上は近づけない。ケープの袖で顔を覆っていても、頬や額に火傷を負ってしまいそうだ。

「小娘!」

 十五、六人の兵士がこちらへ駆けてくるが、まだ三十歩は離れている。そのうしろに、とんがり帽子をかぶった魔法使いらしき男がふたりいる。

 前方から風が吹きこんできた。

 そちらへ目をやる。

 壁を貫通した火の玉が、赤茶けた地面に沈みこんでいく。

 追っ手との距離をたしかめて、火を消した。

『ヘテロ』

 新たな火を作り、駆けてくる群れに向かって飛ばした。

 兵士たちが、左右に飛んで火を避ける。

 魔法使いのふたりは逃げなかった。二人同時に足をとめると、体の正面で杖をかまえた。どちらもひょろりと背が高くて、よく似た顔だちだ。

 彼らのまえで、フォッテの火が消えた。二本の杖が、こちらに向かって傾く。

「いい。どけ」

 はるか後方にいるはずなのに、女王の声はすぐ近くで――それこそ耳もとでささやかれたように聞こえた。

 ふたりの魔法使いが杖をおろす。左右に避けると、腰を折って頭を下げた。ふたりのあいだに、女王が立っていた。

 幾重にも墨を塗りこんだような瞳が、フォッテをとらえている。

 白銀の杖がちりちりと煌めいている。その杖が持ちあがった。

『ヘテロ!』

 とっさに火を飛ばした。焦ったせいか、火の玉は握り拳ほどの大きさだ。女王の胸もとへたどりつくまえにしぼんで消えた。

 白銀の杖の先から、青っぽい光がほとばしり出た。枝わかれして、四方から襲いかかってきた。

 とっさに床を転がってかわした。

 宙をはしりながら折れまがった光が、めまぐるしく軌道を変えながら飛んでくる。

 ――とてもかわしきれない。

 歯を食いしばったフォッテの眼前で、青っぽい光の筋が弾けた。立てつづけに破裂音をあげて消えていく。

「だれだか知らぬが、褒めてやる」女王が左へ向きなおる。「なかなか気配を消すのがうまい」だれもいない空間に向かって、青白い光が放射状に広がった。

 また、ゲッセンバウムに助けられた。そう考えながら、フォッテは駆けた。

 焼けこげがくすぶっている穴に足をかける。ぐずぐずしていると、彼の負担が増える。ひとりなら色々とやりようがあるはずだ。

 穴をくぐった。

 正面は広大な庭園だ。無数の外灯が整然とならんでいる。ずっと先に城壁がそびえ建っている。

 左右から、兵が駆けてきた。どちらも十人以上はいる。右手の集団のほうが近い。

「避けてください! 焼け死にますよ!」そう言ってから火を作り、右手に飛ばした。

 先頭を駆けていた兵士が、なにか叫んでたたらを踏む。

 その男に当たる寸前で火を消した。

 今度は左へ火の玉を飛ばす。奈落の街で腐屍者を相手にしたときの過ちをくり返さないよう、半身になって後方をたしかめながら左手へ進んでいく。

 前方から、馬のいななく声が聞こえてきた。いまだにつづく震動や音におびえているのか。

 煉瓦造りのしっかりとした家屋をふたつ素通りした。次に見えたのは、簡素な造りの木造の平屋だ。その戸口から、重なりあった馬の声が洩れている。

 戸のない戸口に飛びこんだ。明かりがわりの火を灯す。

 角の生えた馬は、厩の一番奥にいた。ほかの馬は仕切られたせまい場所にいるのに、その馬だけは放されている。

 馬の正面に立った。例の奇妙な瞳を見つめ、もはやる気持ちをおさえて語りかける。「わたしはゲッセンバウムさんの荷物です。東の森に連れていってください。樹海の主のもとへ。お願いします」

 馬が口を近づけてきた。湿った鼻先がフォッテのあごに触れる。数回鼻を鳴らしてから、

「キ・ト」と低い声で鳴いた。

「連れていってください。東の樹海まで」

「オ・リ」馬が前肢を折った。背中がフォッテの腰の高さになる。

 乗れ、ということだろうか。しかし手綱がない。鞍も見あたらない。裸の馬に乗るのはとても難しいと、革工房で働くチコリ爺さんが言っていた。振り落とされたら怪我では済まないかもしれない。

「ここに入った! 用心しろよ、火が飛んでくるかもしれん」だれかが外で怒鳴っている。

「オ・リ」とくり返す馬は、前肢を折った姿勢のままだ。

 馬の首に触れた。たてがみが綿毛のようにやわらかい。丹念にブラシをかけた髪のようだ。

「ク・ハ・オ・リ」わずかに焦れた様子で、馬がたてがみを揺らす。

 フォッテが背中にまたがると、馬はすぐに起きあがった。たてがみをつかんでもいやそうなそぶりを見せない。

 剣を抜いた兵士が五人、厩に飛びこんできた。

「どいてください。火をぶつけますよ!」

 飛びすさるようにして、五人が道をあける。

 馬は優雅な足どりで彼らのわきを通り、戸口をくぐった。

 左右に、それぞれ三十人前後の兵がいる。その後方から、さらに続々と集まってくる。

 馬が左手へ頭を向けた。

「待て!」槍の先が数本、こちらへ突きだされた。

 火を作って、威嚇した。

 兵士たちがわずかに退がる。七割が剣を、三割が槍をかまえている。

 馬が身ぶるいをした。右の前肢を持ちあげて、蹄を地面に打ちつけている。

「両方、殺せ!」人垣の向こうから、聞こえてきた。半球形の帽子をかぶった男の声だった。「女王のお許しが出た! 両方殺してかまわん! 逃がすな!」

 こちらを向いた槍の先が、ふたたびじりじりと迫ってきた。

 フォッテは杖を頭上にかまえた。仕方がない。火を飛ばす。しかしこれまで、生きている人を焼いたことはない。できるだろうか? それをしても、いいのだろうか?

 槍をかまえた男が、まえへ踏みこみながら杖を突きだした。

 反射的にフォッテが杖を振りおろした瞬間、馬の背中が沈みこんだ。

 あわてて火を消した。馬の首に腕をまわす。落ちたら大変なことになる。

 馬は空を駆けていた。すでに二階の屋根ぐらいの高さだ。小気味のいい音で蹄を鳴らして、さらに上方へ向かう。

 夜空にはほとんど雲がない。月は満月に近い形で、月の光だけでもそれなりに周囲がうかがえる。

 馬体が右手に傾いた。ぐるりと弧を描いて進路を変える。

 体を起こした。眼下に城の屋根が見えた。先端の尖った塔が五つか六つ突きだしている。山のように巨大な城の窓には、ちらほらと明かりが灯っていた。騒ぎで眼を覚ました人たちが様子をうかがっているのかもしれない。カティーナも起きているだろうか。窓ぎわから、月光を浴びて駆けるこの馬を眺めているだろうか。

 下方で人々の喚声が上がった。

 先ほどフォッテが壁にあけた穴から、黒龍が頭を出している。壁を壊しながら強引に外へ出た巨大な獣が、顔をあげた。長い首をうねうねと動かし、フォッテたちを威嚇するように吠えた。飛びあがり、左右に翼を広げて羽ばたくと、こちらへ向かって上昇してきた。

「オ・リ」馬が小さく鳴いた。

 その四肢の筋肉が張りつめたのを感じて、フォッテはあわてて馬の背に腹ばいになった。首に腕をまわし、片方の手首をもう一方の手でしっかりとつかむ。

 馬は上下に首を振ると、うしろ肢で宙を蹴った。

 放たれた矢を思わせる加速だった。とても眼をあけていられない。

 しばらくしてから、背後をたしかめた。黒龍が吐く炎が見えた。かなりうしろだ。とてもここまでは届かないだろう。

 流星のような鋭さで、馬はさらに駆けた。十数えるほど経ってから、速度をゆるめた。

 黒龍の炎はもう見えない。飼い主のところへもどったのだろう。

 馬は、軽やかに足を運んでいる。

 安堵したせいか、どっと疲れが押しよせてきた。杖を袖口に差しこみ、ケープのフードをかぶる。それでもまだ寒かった。

「ク・ハ」

 馬の背中に頬をあてて、フォッテは眼をとじた。休めるときに休んでおけと、ゲッセンバウムなら言うはずだ。この高さから落ちたらまちがいなく死んでしまうが、そうなるまえにこの馬がなんとかしてくれるはずだ。

 眠ろうとしたが、体に昂揚感が満ちていた。胸が動悸を打っている。

 下方を流れる景色を、しばらく眺めていた。

 カティーナのことを考えて、フォッテはすこしだけ泣いた。

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