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【二部 三章】 来訪者、三つの道、ちり紙

「わしだ」と言って、その男は戸口をくぐった。

 暗褐色の杖の先をこちらへ向けたまま、片手を背後にまわして扉をしめる。血色の悪い顔を不機嫌そうにゆがめて、胸を張った。「しけたところに住んでいるな」

 黒い革靴が、嫌味なほどに磨きこまれている。光沢のある黒い上着はいかにも仕立てがよさそうだ。シャツはまっ白で、しわひとつない。太い首に派手なタイを巻いていて、金の鎖を胸から垂らしている。まるで王族が催す晩餐会にでもおもむくような格好だった。

「三百年ぶりだな、シュピール。なんだ、その馬鹿げた仮面は。そっちのカラスは――たしかランドルフといったな?」

 おれはわずかにあごを上げた。望まぬ来訪者を見つめながら、こんなやつに、と思った。三百年も耐えつづけた挙げ句、こんなやつに殺されるのか、と。

「あなたでしたか、ゲッセンバウム」シュピールが言った。

「わしの名を呼ぶときは『大魔法使いの』という敬称をつけろ」

 ふふん、とやさしい感じでシュピールが鼻を鳴らす。

 ゲッセンバウムはあごをひき、紫色のくちびるを突きだした。なにか口にしかけたが相手がどういう者か再考したのか、出かかった言葉を飲みこんで横を向いた。「まあいい。いまは時が惜しい。あの娘はどこだ?」

「フォッテなら、ここにはいないよ」

 なぜか一瞬だけ、小男は菓子を取りあげられた幼児のような顔つきになった。

「ゲッセンバウム、あなたはアリアに降伏したのですか?」

「そう、仕方のないことだった。屈辱的だったが、拘束具も受けいれた」

 シュピールがうなずく。飾りが揺れて鈴が鳴る。「しかし、あなたも以前は五本の指に入ると言われた、大魔法使いだ」シュピールは〈大〉という部分に力をこめて言った。「まさか、あんな幼い少女を手にかけることはないでしょうね?」

「当然だ」

「だれに、どんな命令をされても?」

「このわしを見くびるなよ」

「よろしい」つぶやいたシュピールが、手袋に包まれた両手をテーブルの上で重ねる。

 ゲッセンバウムは空いているほうの手をズボンのポケットへ突っこみ、ちり紙を取りだした。おれとシュピールへ交互に視線を向けつつ、広げた紙を鼻梁にかぶせるようにあてるといきおいよくはなをかんだ。

「なんだかこの部屋は、鼻がむずむずするな」そう言って、丸めた紙を床に落とした。

「おい、拾えよこの野郎」

「うるさい。こんな場所、なにを捨ててもかまうもんか」またちり紙を取りだす。洟をかんでいるあいだもわきにはさんだ杖の先はこちらを向いていて、なにかあれば即座に魔法を発動する用意があるのだと暗に示しているようだった。

「ゲッセンバウム、眼の色が以前とちがうようですが」シュピールが言った。

「よく覚えているな。だが、いまはおまえらの話だ。これから三つの道を提示する。そのなかからひとつ選べ。拒否する権利はない」

「それはアリアが――」

「質問する権利もない。ひとつ、慈悲深き夜の女王に降伏する。拘束具を体内に埋めこむことが条件だ。拘束具を受け入れた者を、女王はいつでも指さきひとつで殺すことができる。拘禁世界へ送ることもできる。どんなに離れた場所にいても避けることはできない」

 肉厚の手がちり紙を握る。落下した紙が、床にあたってわずかに跳ねた。ゲッセンバウムは左手の甲をこちらに向けて、二本の指を突き立てた。

「ふたつ、ここでもぐらになる。出入り口はすべてふさぐ。地上からは掘り返せないようにする。あの娘――フォッテといったな。あいつはおまえらが生き埋めになったと思うだろう。ここに備蓄された食料がなくなれば、実際にそうなる」

「そんなまどろっこしいことを、アリアがおまえに命じたっていうのか?」

「黙れカラス。今度わしの話をさえぎったら、即座に焼いて猫に食わせるぞ」おれをにらみつけたまま、ゲッセンバウムは片手をズボンのポケットにねじこんだ。

「みっつ。おまえらふたりでフォッテを殺せ」

 空しい笑いがこみあげてきた。あまりにも馬鹿げている。この体になってから、おれは異様に鮮明な夢を見るようになった。もしやこれも夢ではないかと、つい疑いたくなる。

「以上だ。九つ数えるあいだ、待ってやる。ふたりで決めろ」そう言うと、ゲッセンバウムは三度つづけてくしゃみをした。またしてもちり紙を取りだし、無遠慮に洟をかみ、性こりも無くごみを床に捨てる。

「おまえ、いい加減にしろよ」

「うるさい。それにしてもひどいな、ここは。鼻水がとまらん」いきおいよくすすりあげる。今度は上着の胸ポケットから紙を取りだした。両手でつまんで広げたが、これまでとはすこし様子がちがった。

 紙があごの高さに来たところで、ゲッセンバウムは左右の手首を交差させた。ちり紙の裏面がこちらを向き、数行の文字が一瞬だけのぞいた。

「ほこりのせいかな。それともかびが浮遊しているのか。まったく冗談じゃない」盛大な音を立てて洟をかんだ。丸めた紙が床に落ちる。「よし、もう九つは過ぎたな。どれにする?」

「生き埋めを選んだ場合、だれが穴をふさぐことになりますか?」

「いますぐわしが執りおこなう。取引や説得は無駄だ」

「その眼――」シュピールが腕を伸ばした。ふるえる指でゲッセンバウムの顔を指す。「アリアになにかされたのですか?」

 しかめっ面になって、ゲッセンバウムは舌を鳴らした。細めた眼は茶色で、おれにはどこにでもある普通の色にしか見えなかった。

「いやなこと訊くやつだな。だがまあ、おまえと口を利くのもこれが最後だ。特別に教えてやろう。現在わしの目玉には、特殊な技がかけられている。魔法ではない。おまえは知らないだろうが、外法という。わしが見ている光景を遠く離れた場所へ飛ばす。音も送る。おどろくだろう?」

「つまりそれは――」シュピールが一瞬言いよどむ。「いまどこかでアリアが、ぼくらを見ているということですか?」

「さあな。暇と興味があれば観るかもな。そのどちらも彼女にはないと思うが。知っているか、女王の軍はいまや三十万人規模だ。いまもふたつ戦を抱えているし、彼女を快く思わない者も皆無ではない。気を配らなければならないことが、いくらでもある」

「暇はともかく、興味はあるんだろうな」息を吐きながら、シュピールが椅子にもたれかかる。「ひと思いにぼくたちを殺さないところを見ると」

 ゲッセンバウムが小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたが、おれは特になにも感じなかった。こいつにはわからないだろうな、と思っただけだ。

 シュピールとおれは、その件について何度も話しあってきた。強力な結界に囲まれているとはいえ、その気になればアリアはいつでもおれたちを殺すことができる。魔法とは縁のない兵士を二百人ほど、密かにゴドルフィンへ送りこめばいい。それだけで片はつく。枝垂れ槐の裏手はアリアとゲッセンバウムにとってもいわくのある場所だ。たやすく土中の住まいは見つかるだろう――この場所に住みついた当時、おれたちはそう結論づけた。今日にも討伐隊がやって来るはずだと、毎日待ちかまえながら過ごしたものだ。

「言われてみれば、そうかもな」ゲッセンバウムがつぶやいた。「わしやロンユエとは、明らかにあつかいがちがう。それはそうと、息の詰まりそうなこの部屋に立って、わしはある思いを抱いたよ。聞きたいか?」

 まったく興味はなかった。そう言おうと思ったが、ゲッセンバウムはおれたちの返事を待たずに勝手に話しはじめた。

「ガラスの容器に土を入れて、蟻を数十匹放りこみ、ふたをする。そうすれば巣を作る様子や日々の暮らしをのぞくことができる。逃げだす心配もない。おまえらは、そうやって子供に飼われている蟻にそっくりだよ」

 シュピールが小さく笑う。「ぼくたちには餌をくれる飼い主はいないけどね。ゲッセンバウム、穴をふさいで帰りたまえ。きみの新しい御主人様によろしく」

「やはり、それを選んだか」言いながら、半身になった。顔が映るほど磨きこまれた靴の先が、拍子を取るように動いている。「あの娘が、悲しむな」

「仕方がない。早く済ませて、帰るといい」

「ああ、ああ、そうさせてもらうとも」ゲッセンバウムが戸口のすぐ手まえまでさがる。両手で杖を握り、早口で呪文を唱えはじめる。やつが口をとじるのとほぼ同時に、帳の向こうからくぐもった音が聞こえてきた。だれかの胸に耳をあて、鼓動をたしかめているときのような音だった。

「出入り可能な穴はふたつだな。小さいほうは、いまふさいだ。では」うしろ手で把手をつかみ、扉をあけた。体の正面をこちらへ向けたまま戸口をくぐる。「地上にもどったらこの穴もふさぐ。完全にな。シュピール、おまえとは今日をふくめて二度しか会わなかった。どちらのときもわしがおまえに引導を渡す役回りだったが、こうなってみればもうすこし、魔法の話などしてみたかったような気もするぞ」

「さようなら、ゲッセンバウム」シュピールが片手を胸の高さにあげる。もう限界が近いのだろう、極寒の地に裸で放りだされた者のように、腕がふるえている。

 扉がしまった。ややあって、手のひらで太ももを叩くような音が聞こえてきた。

「粘り気のある土砂が、上から注ぎこまれているらしい」シュピールが言った。「ランドルフ、無駄骨になるかもしれないが、戸棚の品をぼくの部屋へ運んでくれないか。大切なものだけでいい」

 場合が場合だったから、四つだけ選んだ。ロンユエの眼球をおさめた広口瓶、パウロの薬が入った小瓶、翡翠の首かざり、フォッテにもらった飴だ。

 それらの品をシュピールが革袋へ入れる。

 肩にかける部分を首に引っかけて、おれは帳をくぐった。「シュピール、通路は無事だ」帳ごしに声をかける。おれ専用の出入り口からは、土砂は流れこんできていない。

 袋をおろして居室にもどった。

 シュピールは右手の壁ぎわに立っていた。戸棚を両手でつかんで腰を落とし、引きはじめる。壁とのあいだにすき間ができるとそこへ入りこみ、肩をあてて腰を落とし、片足を後方へ伸ばし、渾身の力で押しはじめた。

 うめき声をあげるシュピールから視線をはずす。力仕事に関しては、おれはまるで役に立たない。それに、他にやるべきことがあった。

 粘ついた液体がこびりついた紙をくわえる。テーブルにあがり、丸まった紙を足でおさえた。

「ああ――」棚の側面に体をこすりつけるようにして、シュピールが床にしゃがみこむ。扉は完全に覆われていた。やつがそれほどの重労働をやりきったことはおどろきだが、棚で戸口をふさぐだけで、泥が入りこんでくるのを防げるだろうか。

 視線を足もとへもどす。慎重に紙をひらいていった。

 シュピールがくぐもった声でうめいている。床に転がり、胎児のように背中を丸める姿が、視界の端に映っている。だがあいつを労うのも、水と食料の備蓄をたしかめるのも、ろうそくの焔を消して回るのもあとまわしだ。

 ゲッセンバウムの鼻水が足についたが、そのときはまったく気にならなかった。

 走りがきの文字は三行――湿った紙の上でインクがわずかににじんでいる。

 シュピールにも聞こえるようにと、おれは声に出してその文章を読みあげはじめた。

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