【二部 二章】 奇妙な瞳の馬、カティーナ、謁見
袖口から、杖を引きぬいた。
――たしか、パン屋のわきだった。
蹄の音を意識しながら、フォッテは考えた。
ランドルフと首飾りをお金に換える話をした。そのあと市場へ行った。パンをかごに入れ、お釣りをしまい、しばらく歩いたところで小径に引きこまれた。声をあげようとしたら口を押さえられた。それから先のことはおぼえていない。
がたつく車輪の震動が、ふたりがけの長いすの座面から伝わってくる。
今日まで一度も乗ったことはないが、きっとここは馬車のなかだ。車内はせまい。大人ならふたり乗りこむのがやっとだろう。
杖をにぎりなおす。ランドルフから預かった硬貨の入った袋はポケットに入っている。買い物かごは見あたらない。
右手へ腕を伸ばした。湿ったような質感のカーテンをめくると、強烈な光が射しこんできた。窓ははめ殺しになっている。そのわきに小ぶりな戸口がある。把手を握ってみたが、動かない。
――解錠呪文を使うべきだろうか。
あらためて窓の外へ目を向ける。妙な景色だった。地面のあたりにもやが漂っている。まっ青な空が車体のすぐわきまで来ていて、建物も木々も人も、あるべきものがひとつも見あたらない。遮蔽物がないからか、やけに陽光がまぶしい。
ふいに下方のもやがとぎれた。ぼんやりとした緑色の塊がのぞく。
「あっ!」思わず声に出していた。たぶんここは空の上だ。白いもやは雲だ。この馬車は空を飛んでいる。
前方から指を鳴らすような音が聞こえた。板の一部が横にすべり、天井に近いあたりに横長の口ができた。
「起きたね」知らない男の声だった。御者席に座っているのだろう。連絡用の口は小さくて、男の眼と鼻のあたりしか見えない。
「――あなたは、だれですか?」
返事はなかった。病気にかかっているのだろうか、白眼の部分が黄土色に濁っている。肌も灰色に近い。
「おとなしくしていなさい。もう、四半刻もかからない」
板がすべり、男の顔を隠す。
背もたれに寄りかかる。いまは待つしかない。戸をあけたところで逃げ場がないのだ。四半刻経てばなにかが起こる。おそらくどこかへ着くのだろう。その時が勝負だ。
杖を撫でながら気持を落ちつかせようとした。しかし、うまくいかない。次々と疑問が浮かんでくる。
――あの男は何者だろう。この馬車はどこへ向かっているのだろう。ここはゴドルフィンの上空だろうか。
正面の板ががたついた。わずかなすき間から、男が言った。
「そろそろ着くぞ。怪我をするといけない。足を伸ばして、踏んばっていなさい」
ややあって、沈みこむような感覚に襲われた。
波打つような感じで車体が持ちあがる。沈みこみ、また持ちあがる。
しばらくその状態がつづいていたが、唐突に窓の外の雲がかき消えて、赤茶けた色の大地と小指の先ほどの大きさの建物の群れがのぞいた。
蹄の音が変わった。先ほどまでは軽快な四つの音の連なりだったが、いまは棍棒で布を叩くような鈍い音だ。
車体が跳ねあがり、体が宙に浮く。椅子に腰を打ちつけた。向かいの壁と床の境目に足を突いて踏んばる。片手で窓枠をつかみ、もう一方の手を座面に突く。外を眺める余裕もない。
ひときわ大きな衝撃に突きあげられたのを境に、静けさがやってきた。
煉瓦造りの灰色の壁が、窓の向こうに見えている。
『ヘテロ』
椅子から立ちあがり、呪文を唱えた。馬車が地面に降り立ったこの瞬間、行動を起こすべきだった。解錠魔法は失敗する気がした。壁を焼くつもりで、もっとも得意な魔法の呪文を唱えた。だが、火は現れなかった。
もう一度唱えたが、やはり駄目だ。
『火の精よ、ここへ寄り集まれ。ヘテロ』
呪文をすべて唱えてみたが、変化はない。
拳を振りあげる。三度つづけて窓ガラスを叩いた。フォッテの力ではとても割れそうにない。反対の壁ぎわまでさがり、肩からぶつかっていく。はね返されたところで、窓の向こうに男が立った。痛みをこらえるように口を引きむすび、眼を細めている。黒いガウンが膝の下まで垂れている。ズボンもシャツも、つばの広い半球形の帽子もまっ黒だ。
窓ガラス越しに、焦げ茶色の短い杖が差しむけられた。
片腕を伸ばした姿勢のまま、男が馬車のすぐわきへ来る。黄土色の眼。灰色の肌――先ほどの男だ。痩せすぎているせいで、顔全体の骨の形が浮きあがって見える。
把手がまわり、わずかに扉がひらく。刃物のように冷えきった風が吹きこんできた。
扉がさらにひらいていく。男の杖はフォッテのひたいを指したままだ。
「いい子だ」男が言った。「杖をしまって、馬車から降りなさい」
すこし考えてから、フォッテは杖を袖口に差しいれた。向き合っただけではっきりとわかった。この男は魔法使いだ。しかもフォッテよりずっと腕が立つ。火の魔法が使えなかったのも、男がなにかしたからかもしれない。
大地を踏みしめる。霜柱の感触があった。吐いた息が固形物のようにくっきりと顔の横に浮かぶ。草木が凍るのではないかと思うほどの冷気で、すぐに指先がしびれはじめた。
「先に立って歩きなさい。馬車の向こうへ。そのまま壁のまえまで行く」
背中を押された。馬車のわきを歩いていく。
御者台のまえにつながれた馬は、一頭だけだった。まっ白な馬で、お尻のあたりが大きく張りだしているが、胴体は細い。その頭部に、視線が吸いよせられた。弓なりに反った青白い角が、馬のひたいから突きだしている。三つ編みを強引にねじったような形をしている。
「キ・ト」
人の言葉に近い音で、馬が鳴いた。
「あなた、話せるの?」
馬が首を振る。直毛のたてがみが揺れてかすみのように光った。こちらへ向けられた瞳は緑色だ。
フォッテは馬に顔を寄せた。目の錯覚ではなかった。緑色の瞳のなかで、いくつもの微少な泡が下方から上方へ向かって浮きあがっていく。ちょうど泉の底からわき水と一緒に放出された泡が、水面へ向かって昇っていくような感じだ。
「さあ」背後で男が言った。
霜柱を踏みしめて進んだ。前方にそびえる壁は、試しの門が現世に出現したのではないかと思うほど巨大だ。
その壁のすぐまえまで行った。男の指示で右手に折れる。壁ぞいに歩いていく。
「そこでとまりなさい」
鉄扉に向きなおる。
フォッテのわきに立った男が、扉を軽く叩いた。
重そうな扉がこちらに向かってひらきはじめる。
「お帰りなさいませ」鎧をまとった大男が、戸口の向こうに立っていた。大人の男の二倍ほどの背丈だ。巨大な斧の刃先を地面に突いて、杖のようにして持っている。
「これがフォッテだ。顔をおぼえておけ」
肩を押されて、戸口をくぐる。
青い光が見えた。常軌を逸した広さの屋内は底冷えがして外よりも寒いくらいだった。
ケープのフードをかぶる。背後で扉がしまる音がした。
「急ぎなさい」男が言った。
足を運びながら、左右へ視線をはしらせる。通路は、ゴドルフィンの西街区にある大通りよりも広い。ずっと先までまっすぐに伸びているが、暗くて先のほうはよく見えない。天井も同様で、どれほど高いのかわからない。
壁ぎわには、外灯のような形の照明が立ちならんでいた。火も入っているが、青っぽい色のガラスの風よけにさえぎられて、明かりが抑えられている。
「右手へ」
通路を横切っていく。壁にくぼみがあり、そこに台座が据えてあった。台の上には人型の石像が載っている。
「ここから行く」男が杖で石像を指す。フォッテの肩をつかみ、短い呪文を唱えた。
きしむような音とともに、石像が台座もろとも下降しはじめた。みるみるうちに床の下へ沈みこんで、見えなくなった。石像が背にしていた壁には、縦長の穴があいていた。
そこをくぐると、長方形の部屋に出た。奥のほうに円柱が立っている。柱からま横に突きだした暗い色の石板が、螺旋を描きながら上方へつづいている。
「あれであがる」男が言った。「おまえにあてがわれた部屋は五階だ。すばらしい部屋だが、くつろいでいる暇は無いぞ。まずは湯浴みだ。それから身じたくをしてもらう。慈悲深き夜の女王のお目にかかるんだ、念入りに体と髪を洗いなさい」
思わず振りかえった。
黒い杖の先が、ぴたりとフォッテの眉間を指している。
「慈悲深き夜の女王に会う?」
「そうだ。来賓用の上等な客室を使っていいことになっている」
「ここは、女王の城ですか?」
「そのひとつだ。さあ、急げ」
五階まであがり、四度角を曲がった。動揺していたせいで、曲がった場所の観察を怠ってしまった。
絨毯が敷かれた広い廊下を歩いていくと、正面に白い大きな扉が見えてきた。
扉のまえに、女の人が立っている。黒っぽい服の上に白いエプロンを着けている。頭にも白いレースのついた髪どめが見える。
フォッテと男が近づいていっても、彼女は顔を上げなかった。左右の足をぴたりととじてまっすぐに立ち、両手を体の正面で重ねている。あごを引き、視線を落としたまま、身じろぎひとつしない。
「フォッテだ。あとは任せたぞ」
女の人がお辞儀をした。長いまつげが、大きな瞳にかかっている。
きれいな人だな、と思った。フォッテより十歳ぐらいは年上のようだ。彼女も黒い帽子をかぶった男に負けないぐらい顔色が悪い。腕も首も細くて、病人のように頬がこけている。
「カティーナと申します、フォッテ様」眼を伏せたまま、彼女が言った。「お支度のお手伝いをいたします」
「急げよ。いつお呼びがかかるかわからん」
「はい」カティーナが白い扉をあけた。「どうぞ、フォッテ様。湯浴みの準備ができています」
フォッテが躊躇していると、
「なあ、娘よ」と男が声をかけてきた。「これはおまえのためでもある。女王はおまえとの面会をご所望だ。今日か明日にはお声がかかると思え。そして、いいか、女王は匂いや音にとても敏感だ。ご機嫌を損ねないよう、いますぐ仕度にとりかかりなさい」
「女王は、この城にいるんですか?」
うなずいた男が、濁った目でフォッテを見おろした。「余計な手間をかけさせるなよ。少女が苦しむところなど、できれば眼にしたくないからな。カティーナ、フォッテを浴室へ連れていけ。仕度は手早く、入念にな」
「はい」
男が背中を向けた。来た道をもどって行く。
「さあフォッテ様、なかへどうぞ。浴室へご案内します」
いま逃げだすべきだろうか――戸口のまえで考えた。フォッテが駆けだせば、カティーナは人を呼ぶだろう。通ってきた道は石像がふさいでいるはずだし、鉄扉のまえには巨体の兵士が立っている。それにもっと大きな問題がある。なんとか外へ出られたとして、それからどうすればいい。
「フォッテ様、お早く。力ずくというのは好みません」
戸口をくぐった。その部屋は、少なくともランドルフと一緒に食事をとった居室の十倍以上の広さがあった。白を基調とした部屋のあちこちに、金色の装飾が施されている。清潔で、静かで――そしてこれがなによりありがたかったのだが――暖かい部屋だった。
革張りの大きなソファが七つか八つ、長方形のテーブルを囲んでいる。そのわきに暖炉があり、積みあげられた薪の中心でいきおいよく火が燃えていた。ソファの下から暖炉までの床は、毛の長い絨毯が埋めている。
「こちらへ」扉をしめたカティーナが、奥へ向かう。左隅の戸口の先が浴室だった。そちらもおどろくほど広くて、壁も床も天井もまっ白だ。奥の壁の手まえに、ナマズの背中を連想させる巨大な浴槽が据えてあり、盛大に湯気が立ちのぼっている。どこまでも清潔で、そのうえ上品で、おそらく贅をこらした造りだった。
「失礼します」カティーナがてきぱきとした手つきでフォッテの服を取っていく。裸になり、彼女に手を引かれて浴槽のわきに立った。陶器でできた座面の高い椅子に腰をおろす。
背後にまわったカティーナが、手桶ですくった湯をフォッテの背中へそっとかけはじめる。湯はぬるめで、とろみがあるようだった。
カティーナがたっぷりと泡をたてた布で、フォッテの体を洗いはじめる。
「自分でやりますから」ふりかえったが、
「これが仕事ですから」と静かな、しかし断固たる口調で言われた。
彼女の態度も言葉と同様だった。控えめだが有無を言わさぬ感じで、なすがままにフォッテは体と髪を洗われた。
浴槽につかる。やはり湯にはとろみがあり、全身にぷちぷちと泡だつような感触があった。特殊な岩塩と砂漠の砂、それに十六種類の香草が混ぜてあるのだとカティーナが教えてくれた。
たっぷりと汗をかいてから、ふたたび髪と体を洗われた。
浴室から出た。ぶ厚いのにまったく重さが感じられない布をガウンのように羽織ると、大量の汗が瞬時に吸いとられた。頭にも、同じ布を巻きつけられた。
カティーナがどこからか、彼女の体が隠れるほど大きな葉を持ってきた。その葉でフォッテをあおぎはじめる。
完全に汗がひいてから、寝台のようなものにうつぶせになった。背中一面に香油を塗られた。首すじや腰やふくらはぎを、カティーナの指が押してくる。痛みを感じる寸前の力加減で全身をもみほぐされる。
汗と香油を流して、浴室を出た。
居室には、すでに服が用意されていた。光沢のある濃紺のドレスは裏地も滑らかで、身にまとうと体の深いところから、それまで経験したことのない喜びがわきあがった。ぼうっとした頭で、わたしはなにか大切なことを忘れている、とフォッテは思った。
「わたしの服は、どこですか?」
カティーナが抱えてもどった服を、奪いとるように受けとる。きちんと畳まれた衣服を指先で探ると、まっすぐに伸びた棒状のものに指先がかかった。胸を撫でおろしながら、杖を抜きとる。ドレスの袖口へ差しこみ、紐の環を手首に通す。
「履いてみてください」しゃがみこんだカティーナが、フォッテの足もとに靴を置いた。表面に群青色の塗料が塗られた、ま新しい革の靴だった。足の甲を覆う部分が、なめらかな曲線を描いている。
「さあ」カティーナが靴の前後に手を添える。
右足を滑りこませた。思わずため息が洩れるほどやわらかい革が、足を包みこんでくる。両足にその靴を履くと、体が軽くなったような心地がした。
「お水は、そこにございます」テーブルに載っている瓶をカティーナが指した。瓶のわきに、伏せておいた磁器の杯がならんでいる。「他に、飲みものご要望はありますか?」
「いいえ。ちょうどお水が飲みたいと思っていました。のどが渇いて――」
うなずいたカティーナが瓶のほうへ歩いていく。杯に水を注いで、持ってきてくれた。
両手で包んだ杯を、ま上から見おろす。透明な液体の表面が、杯の七分目あたりのところでかすかに揺れていた。飲まないほうがいいのではないか――そう思ったが、喉はひどく渇いている。
杯をくちびるにあてる。すこしだけ口にふくんだ。かすかに舌を刺すものを感じて、あわてて床に吐きだした。「カティーナさん! これ――」
「失礼しました」彼女はゆっくりとお辞儀をした。「柑橘類の果汁が、ごく少量混ぜてあります。この国ではこれが普通なのですが、フォッテ様には先に申しあげておくべきでした」
ふたたびお辞儀をすると、カティーナは浴室へ消えた。布を持ってもどってくると、膝をついて濡れた床を拭きはじめた。
彼女の背中を見おろしながら、フォッテは自分の体の変化に意識を向けていた。舌先や指が痺れることはない。吐き気がこみあげてくることもない。
「おかしなものは入っていません。ご希望でしたら、わたしが口をつけてもよろしいのですが」手を動かしながら、カティーナが言う。視線は床に向けたままだ。
「大丈夫です。ごめんなさい、床を汚してしまって」
「お気になさらず」
杯に口をつけた。水がのどを滑り落ちていく。たくさん汗をかいたからか、やけにおいしく感じた。
二杯目は自分で注いだ。のどが鳴らして飲んだ。体の内がわに大きな穴があいたようで、いくらでも飲めてしまう。
三杯目になって、ようやく味わうことができた。「とてもおいしいです。わたしが住んでいる街の水とは、全然ちがいます」
「それは特別な水です。北方から取りよせた氷の中心をくり抜いて、溶かした水だそうです」
「手間がかかっているんですね」
「その氷を運ぶためだけに、作られた部隊があります」カティーナはまだ床を拭いている。磨きこむように力をこめて、布を動かしていた。
「カティーナさんの故郷は、このあたりですか?」
なにか彼女から引きだせる情報はないか――そう考えた末の質問だった。フォッテはこの城のことをなにも知らない。逃げるためには、城の内部と、周辺の情報が必要だ。
自然な会話から探りだせたらと思ったが、返事はなかった。
「わたしは空を飛ぶ馬車でここへ来ました。カティーナさんは乗ったことがありますか?」
質問を変えたが、彼女は無言のままだ。
「緑色の眼をした、角の生えた馬を見ました。ご存じですか?」
やはり無言。あきらめずに、ふたたび質問を変えた。
「慈悲深き夜の女王は、どんな人ですか?」
カティーナの腕がとまった。「お名前の通りのおかたです。お髪を整えましょう」
髪に油を染みこませては布でもみほぐす作業を、彼女は何度もくり返した。
髪の手いれが済むと、部屋を点検してまわった。すみずみまで調べたあとで、彼女は白い扉を背にして立った。
「となりの部屋にさがっております。ご用の際は呼び鈴を鳴らしてください。それと、差し出がましいことを申しあげますが――」そこでいったん、口をとじた。
「なんでしょう?」
「この部屋からは決して出ないでください」ささやくような小さな声だった。それに、別人のような早口だ。「出ようとすればかならず知られます。それから先ほどのような質問は、二度と口になさらないように。耳というものは、どこにあるかわかりませんから」
「カティーナさん、わたしは――」
彼女は小さく頭を振って、フォッテの言葉を封じた。
お辞儀をして扉をあけると、廊下へ出てしまった。「失礼します」
扉がしまる。錠のかかる音が聞こえた。
杯を持ったまま、フォッテはソファに腰かけた。突然竜巻に飲みこまれたような感じで、自分が置かれている状況に心が追いつかない。
水を飲んでから、部屋中を見てまわった。すべての窓に、格子がはめられていた。
半球形の黒い帽子をかぶった男がやってきたのは、陽が半分ほど地平線の向こうに沈んだころだった。
「来なさい。女王がお呼びだ」
うなずき、戸口に向かった。鼓動が胸を打っている。
「歩くときは、足音を立てないように。大きな声もいけない」
返事をして、戸口をくぐった。
来たときとは別の階段で一階までおりる。一階は体の芯まで凍りつくような寒さだ。
かなりの距離を歩いた。北街区の墓場の入口から、枝垂れ槐のまえまで行くぐらいの道のりはあったと思う。
「そこへ入って、まわりこむ」男が左手の壁を指さした。洞窟の入口のような裂け目を通り、左手へ向かう。しかし、すぐ先が行きどまりになっている。
「そこを降りる」
壁のすぐ手まえの床がくり抜かれて、階段になっていた。
青白い明かりが、下方にちらりと見えた。
「先に行け」
幅のせまい階段を、降りていく。これ以上ないほど明かりを抑えた角灯が、正面の壁から突きだす台に据えられている。
十二段で、階段は終わった。正面は行きどまりだが右手に通路があり、その先にぶ厚い布地で覆われた扉が見えた。扉のわきの壁に、獅子の頭部をかたどった石像が浮きあがっている。獅子は上下の歯で鉄の環を噛みしめていた。
「女王はお優しいかただが――」横に立った男がつぶやいた。「決して己の立場を忘れるなよ」
男が腕を伸ばし、獅子のひたいに手のひらをあてた。獅子の口が上下にひらく。鉄の環をつかんだ男が、ゆっくりと後方へ引いた。
五つ数えるくらいの間があった。
扉がこちらへ向かってひらきはじめる。男と一緒にすこし退がり、扉をやりすごした。
「わたしはここまでだ。粗相のないように」
背中を押された。しかし、足が石像のように固まって動かない。
戸口の先はせまい通路だ。左手からぼんやりとした明かりが洩れている。そちらが広くなっているのだろう。
また背中を押された。心の底からさっきの部屋へ――いや、できることならゴドルフィンの地下の部屋へ――もどりたいと思った。
「早くしなさい。女王はご多忙の身だ」
今度は肩を強く押された。よろめいて、一歩踏みだす。背後で扉がしまった。とっさにふりかえり、把手をつかむ。氷のように冷たい金属製の把手が、手のひらに貼りついた。握りこんで動かそうとしたが、びくともしない。手を離すこともできない。
「こちらへ」
背後から聞こえたのは、少女のような高い声だった。
把手の温度が急に変わり、手のひらが離れた。
「フォッテ、こちらへ」
袖口から杖を引きぬく。扉を背にして立った。胸をよぎったのはゲッセンバウムの言葉だ。女王はシュピールやロンユエに呪いをかけた。奈落の街の生きものを、おぞましい性質に作りかえた。彼はそう言っていた。
「三度は言わん」
体の正面に杖をかまえて、通路を進んだ。
左手に折れて最初におどろいたのは、その部屋があまりにもせまいことだった。
天井は低く、奥行きはフォッテの寝室と変わらない。横長の簡素な木製の机が、奥のほうに据えてある。奥の壁を背にした女性が、テーブル向かってなにか書きつけている。
正面の壁に燭台がふたつ。窓はない。壁も床も煉瓦で覆われている。テーブルの脇に白い杖が立てかけられていた。ほかには物がない。
ただ、その杖は目を引いた。全長はフォッテのあごのあたり。わずかに反った木に小さなもの――ガラスの破片か、もしかしたら宝石かもしれない――がびっしりと埋めこまれている。それが角灯の光を受けて、ちらちらと煌めいている。
「ほう」とその人は小さく息を吐いた。羽ペンを置いて顔を上げる。「よく来たな、フォッテ」
伝説めいた逸話で語られるとおり、慈悲深き夜の女王は少女のような顔立ちをしていた。なにも知らずに街で出会ったら、同い年か年下だと思うだろう。身につけている衣服はごく平凡な紺色のワンピースで、装飾品はひとつも見あたらない。
「奈落の街では、よくやった」彼女が言った。化粧気のない顔は愛らしいと言ってもいいほど整っているが、仮面のように表情が抜けおちている。声にはほとんど抑揚がない。
「ロンユエの目玉は、大切にしているか?」
「はい」墨で塗りつぶしたような瞳から、眼をそらす。彼女と視線を合わせているのが、ひどく負担だった。
「杖をかまえろ」
すこし躊躇したが、言われたとおりにした。
「火を、作ってみろ」
「大きさは――」
「最大限の」
彼女がいなくなれば、シュピールたちは自由になれるかもれしない――杖と机もろとも、目のまえの小柄な女性を焼きつくすだけの火を、フォッテは脳裡に思い描いた。
『ヘテロ』
女王は指先ひとつ動かさなかった。声もあげなかった。いつのまにか彼女の右肩の先に、黒い小さな球体が浮かんでいた。フォッテの杖の先に浮かぶ火を、その球体がするすると吸いこんでいる。
「もういいぞ」
フォッテが火を消すと、黒い球も消えた。
いまのはあなたの魔法ですか、と訊ねかけたが、思いとどまった。その質問がいかにも愚かで、無駄なものに思えたからだ。
女王は宙に視線を向けていた。フォッテの眼には見えない羽虫でも追っているような様子だった。
「おまえ、いまからわたしの弟子になれ」一切の温度を感じさせない声で女王は言った。
「え?」と、つい聞きかえしてしまった。あわててつけ加える。「ごめんなさい、お断りします。わたしはシュピールさんの弟子ですから」
「あいつは、魔法が使えない。そんな男のもとにいても、意味がないだろう」
あなたがそうしたんでしょう、という言葉を抑えこみ、フォッテは言った。「ひとつ、うかがってもよろしいですか?」
女王がうなずく。
「わたしが暮らす街には、魔法使いをはじき飛ばす結界が張ってあるはずです。なぜわたしは、結界を越えられたのでしょう?」
「外法を使った」宙を見つめたまま彼女がこたえる。
「それはなんですか?」
「そのうち、教えてやる」
「――けっこうです。いまは魔法で精一杯ですから。それに必要があれば、シュピールさんが教えてくれるはずです」
女王の右手の中指が、肘おきの上を軽く撫でた。
「うしろの壁を見ろ」
ふり向いた。半透明の石板らしきものが、壁から盛りあがってくる。壁いっぱいの大きさだ。
押しつぶされるかもしれない、という恐怖に襲われた。杖をかまえた直後、板の表面に見おぼえのある情景が浮かびあがった。
枝垂れ槐が、大写しになっている。見まちがえるはずがない。北街区の墓場の奥に立つ、首くくりの木と呼ばれている老木だ。
半透明の板に映しだされた絵が動きだす。うねる幹がどんどん大きくなり、表面のざらつきがわかるほど近づいた。槐のすぐまえに、フォッテ自身が立っているような気分になった。
絵がさらに動く。槐のわきを進んで、草の壁のまえに来た。二本の腕が伸びて草をかきわける。毎日フォッテが見ている光景とまったく同じだ。
だれかが草のなかを進む。草が刈りとられた場所に出る。石板に映る光景がなめらかに動いた。だれかの足もとが見えている。ひとまとまりになった縄ばしごが映っている。しかし、例の穴が見えない。穴があるはずの場所には赤茶けた土が盛りあがっている。
――穴を隠す板の上に、土を盛ったのだろうか。いや、そんなことをしてもなんの意味もないだろう。では――。
それがどういうことなのか気づいて、フォッテはひどく混乱した。
「女王、ランドルフとシュピールさんはどうしているか、知っていますか?」
「生き埋めだろうな」
呼吸がうまくできない。怒りと恐怖と、それとは別のわけのわからない感情が体内を駆けめぐっている。「あなたがやらせたんですか?」
「穴を埋めたのは、街の者だ。もとのおまえの雇い主が煽動したと聞いている」
ゲルツィオネ――彼はフォッテを好ましく思っていない。買いものの帰りにあとをつけられたのだろうか。墓地を歩くときは周囲をたしかめるようにしていたが、ここ最近は葬列と行きあう機会が増えた。そのなかに彼がいたのかもしれない。考えてみれば、奈落の街から帰ってきたあとは、最初のころほど神経質に人目を気にしなくなっていた。
「五人がかりで、石の陰にある小さな穴も埋めたそうだ」彼女が言った。
「なぜ、そんなことを?」
「おまえが暮らす国は、魔法使いを迫害しているのだろう?」
すがるような気持で、フォッテはふたりが危機を回避した可能性について考えた。ランドルフだけならなんとかなるかもしれない。しかし彼がシュピールを見捨てて逃げる、ということがあり得るだろうか。
「この世界は、過酷だぞ」女王が言った。「無力なままでは、いいようにされるだけだ。囚人や奴隷と変わらない」
返事をする気力もなかった。自分のせいでふたりが生き埋めになった――その思いだけが体内で渦巻いている。
いつのまにか、女王が目のまえに立っていた。彼女の手が伸びてきても、フォッテは動かなかった。動いたところで、なにも変わらない。唯一まともに使える火の魔法も通用しないのだ。
首もとにひやりとした感触をおぼえた瞬間、視界がまっ白に染まった。
「見ろ」
切りたった崖の上に、フォッテはいた。すぐ横に女王が立っている。フォッテよりも背が低い。
「顔を上げて、見ろ」
白銀の杖が、前方を指した。大空と大地が、どこまでも広がっている。夕暮れだったはずなのに、太陽が頭上に浮かんでいる。まっ青な空に入道雲がいくつも盛りあがり、くっきりとした輪郭を形づくっている。
足下から、歓声に似た声が聞こえてきた。フォッテと女王が立つ崖を背にして、大軍が左右に広がっている。両端が前方に突きだしていて、弓なりになっている。
その向かいに、別の大軍がいた。こちらは扇形の陣形を取っている。数は同じぐらいに見えるが、あまりに兵が多すぎて、どれぐらいの規模の戦なのかよくわからない。
「手まえの青い旗を掲げているのが、わたしの軍だ。相手はカナンの軍」
「ここはどこですか?」
「西方のカナンの領地だ。フォッテ、おまえにひとつ、本物の魔法を見せてやる」
白い杖がわずかに持ちあがる。女王がフォッテの知らない呪文を唱えた。
『アルン・デモン・サハト』
空に現れた巨大な塊を、フォッテは信じられない思いで見あげた。まちがいなくフォッテの家が建つ丘よりも大きい。陽射しを受けてきらきらとガラスのように輝いているその物体は、どうやら氷の塊のようだ。
「無力だと、こういう目にも遭う」
氷塊が、いきなり落下した。
下方で轟音が響きわたり、地面がかすかに揺れた。三つ数えるぐらいの間を置いて、ほこりっぽい風とともに兵士たちの叫び声がわきあがってきた。
「ちゃんと見ておけ」
扇形の左のほうに、赤黒い染みができていた。
女王がまた呪文を唱える。今度はふたつ、氷塊が浮かんだ。小さな黒い点に見える人々はさざなみのようにうごめいたが、落下する小山のような氷塊を避けるだけの時はなかった。
「死者は、合わせて一万八千というところだろう」静かな声で女王が言う。「一割削った程度だが、恐怖は全体に伝播する。相手方にはこういうことをする者がいる。いまにも次の氷が降ってくるかもしれない。そう思えば腰が退ける」
肩に手が置かれた。
気づくと、もとの暗くてせまい部屋に立っていた。
女王はテーブルの向こうで、肘かけ椅子に小さな体をゆだねている。
「力があれば、得られるものがある」彼女が言った。「なんだかわかるか?」
頭を振った。
「城。うまい食べもの。仕立てのいい服。贅をこらした品々。雑務を代わってこなす者。そういうものはもちろん手に入るが、それよりずっと価値があるものが得られる。なんだと思う?」
「わかりません」
「安全だよ。おまえが大切に思う者の安全だ。母はまだ森にいるな?」
一瞬、頭がまっ白になった。
「わたしなら、おまえの母をもとにもどしてやることもできる」
奇妙なことに、最初に脳裡に浮かんだのはランドルフの姿だった。それを追うようにして、いくつもの思考が頭をよぎっては消えた。やっとのことで――うしろめたさを感じながらも――フォッテは訊ねた。「本当ですか?」
「魔法では無理だろうが、外法でな。おまえは、魔法とともに外法も学べ」
どう返事をしていいかわからなかった。黙っていると、女王がふたたび口をひらいた。「おまえが望むなら、母の部屋も用意してやる。返事は明朝、聞かせてもらう」
彼女の指が、肘おきの上でかすかに動いた。
「今日はもう帰れ」
例の黒ずくめの男が現れた。女王の部屋を出て、階段をのぼる。
先ほどの部屋では、カティーナが待っていた。
ひどい顔色だ、と彼女に言われた。また風呂に入り、頭頂部から足の先までもみほぐされ、香油を塗られた。体と骨が溶けてしまうような心地よさだった。先ほど目にした戦場が、夢で見た光景のように遠く感じられた。
腰のあたりがゆったりとした服に着がえた。そよ風のように軽やかな生地だった。
しばらくすると、夕食が運ばれてきた。同時に三人の、楽器を抱えた女性もやってきた。彼女たちはフォッテに断りを入れて隣室へ入ると、ひかえめな音で乳の河を思わせるゆるやかな旋律を奏ではじめた。
カティーナの給仕で、料理を食べた。ほんの二口か三口で食べきれる量の料理が、傷ひとつないまっ白な大きい皿に、美しく盛られていた。
茹でた野菜を食べ、冷たいスープを飲み、白身魚を蒸した料理を食べた。魚には緑色のソースがすこしだけかかっていて、舌に載せると甘みと酸味が同時に広がった。
ひとかけらだけ、パンも食べた。まだ温かくて、指でちぎると甘い香りが立ちのぼった。
カティーナが、子羊の肉だと言って皿を置く。血のような赤黒いソースと一緒に口に運ぶと、喜びでふるえた口中に唾液が満ちた。
耳には弦の音が届いている。あんな風に楽器が弾けたらいいだろうなと思いながら、信じられないほど柔らかい肉をナイフで切りわけた。
牛乳で作ったという冷たくて甘い菓子をスプーンですくいながら考えた。母にもこういう思いをさせたい。一緒においしい料理を食べる。ゆっくり風呂につかる。体に香油を塗ってもらい、たっぷりともみほぐしてもらう。身につけるのは心地よい服だ。窓の外には静けさが満ちている。このあたりは寒いが暖炉はあるし、あの風呂に入れば体の芯まで温まる。これ以上の幸せがこの世にあるだろうか。
食事を終えて、お茶を飲んだ。
寝間着に着がえて、居室の奥にある寝室へ向かう。右手に窓がある。蔦をかたどった鉄格子のあいだから、星が見えた。
大きなベッドに潜りこむ。ベッドのわきの台には燭台が置いてあり、そこにカティーナが明かりを灯してくれる。瓶と杯も持ってきてくれた。最後に彼女はカーテンをしめた。
「おやすみなさいませ」
全身が、浮きあがるような心地よさに包まれていた。今日はひどく疲れた。明日は――と考えかけたところで、フォッテは眠りに落ちた。




