【十四章】 眼球、ケープ、空の渦
「どこだ、ここは?」
飛び起きた。待ち望んだ声だった。ランドルフが横たわるテーブルへ駆けよる。片頬をつけたまま、彼がこちらを見つめている。
「傷はどう? 痛む?」
「いや。なんだか体が浮いているみたいだ。ここは?」
「パウロさんの家だよ。さっきまでチャレキっていう葉っぱを焚いていたの。ふわふわするのは、そのせいだと思う」
「やあ、気がつきましたか」パウロがカウンターから出てきた。
ランドルフが頭部を、それから体を持ちあげる。「ひさしぶりだな、パウロ」
「本当にね」まだら模様をゆがませて、パウロが笑う。「お元気でしたか?」
「見てのとおりだよ」と、張りのない声でランドルフがこたえる。
「シュピールさんも、ご無事だそうで」
「相変わらず、もぐらみたいな暮らしをしているよ」
「フォッテさんから聞きました。わたしの薬でも治せなかったんですね」
木戸が鳴った。
「ロンユエさん――」パウロが身がまえるように片足を引く。
大きな獣は無言のまま近づいてきた。
「ありがとうございました」フォッテは言った。酒場へ帰りついたときも、ロンユエは木戸のわきに座っていた。もうすこしいてやるからなかで休めと言ってくれた。
「おまえの言うとおりだった。さっき腐屍者が通りかかったが、じっとしていたらそのまま向こうに行っちまった」
「そうですか。よかった」
ロンユエがちらりとランドルフを見た。なにも言わずにきびすを返し、戸口へ向かう。
「待ってください」革袋を取り、なかを探った。
「なんだ?」
小ぶりなガラス瓶を取りだす。葉と種の礼としてパウロから受けとった瓶は、握ると手のなかに隠れてしまうほど小さい。ふたをあけ、とろみのある透明な液体を手のひらで受ける。
「ちょっと、フォッテさん」パウロが声をかけてきた。
ロンユエは怪訝そうな顔つきでフォッテの手もとを見つめていた。フォッテが腕を伸ばすと、さっと身をひいた。
「やめておけ。それはおまえが思っているより、ずっと貴重な代物だ」
「でもロンユエさんは、ずっとここにいてくれたでしょう?」かがみこんで背中に触れた。
かさぶたのざらつきに、ついで裂傷のふちに指を這わせる。ひとさし指が第二関節まで埋もれてしまうほど傷が深い。
「やっぱり、しみますか?」
ロンユエの背中は木の幹のように固くなっていた。薬を手のひらに垂らす。背中の傷に順番に塗りこんでいく。わき腹や首すじの裂けめにも、指を這わせた。
「それで、おまえ――」妙に力の無い声で、ロンユエは言った。「おれになにをさせようってんだ?」
「なにかしてもらおうなんて、思っていませんよ」瓶を逆さにする。もうぽつぽつと滴が垂れるだけだ。瓶の内がわにこびりついた粘液を指の側面ですくい取る。うしろ肢をそっとつかんで薬を伸ばす。思いのほかロンユエの足首は細い。ふと、あることを思いだした。
「そうだ、気が向いたらトルソーさんの家を訪ねてもらえませんか。あの人、ずっとひとりでいるんです。いまは素敵なドレスを着ています」
返事はなかった。
「これで終わりです。楽になると、いいんですけど」
ロンユエが頭をめぐらせる。フォッテとは視線を合わさずに、酒場の奥のほうへ鼻先を向けた。「パウロ、こいつにもうひと瓶、おまえの薬をわけてやれ」
「え? いや、それはちょっと――」
「いいからくれてやれ。あとでひとつ、なんでもおまえのたのみをきいてやるから」
「いや、困りましたね。なんでもって言われてもね。わかっているでしょう? いくらロンユエさんでも、わたしの一番の望みは叶えられませんよ」
不機嫌そうにロンユエがうなった。「いいから、さっさと持ってこい」
「――ごめんだね!」突然口調を変えてパウロは言いはなった。あごを引き、その先端を首もとに押しつけて、獣をにらんでいる。「おどかしたって無駄ですよ。こう見えても逃げ足だけは早いんだ。あなたが毛の房一本でも動かしたらわたしは姿を消します。あの薬は秘密の場所に保管してあるから、どこをどれだけ探しても絶対に見つかりませんよ」
「なんでもと言っただろう。例外はない」
「無理だ!」パウロの顔が赤く染まった。左右の拳を上下に振って、彼はつづけた。「わたしはこの街から出たい。ロンユエさんにだってそれは叶えられないでしょうが。いいですか、わたしはわたしがあげたい人にだけ、自慢の薬をわけるんだ。おどされてほいほいわたすぐらいなら、とっくの昔にあの女にやっていますよ!」
しんとあたりが静まりかえった。
小さく舌を鳴らして、ロンユエがそっぽを向く。
「すいませんね、フォッテさん」眼で獣を追いながらパウロが言う。「わたしはあなたが好きですよ。でもあの薬は、本当に作るのが大変でね。三ヶ月まえから、わたしは薬草しか口にしません。焚き火でこの体を焙って、たっぷりと脂汗をかくんです。その汗にシメクリの種をすりつぶした粉を加えて――ちょっとロンユエさん、どうしたんですか?」
ロンユエが、右の前肢をあげていた。肢の先に長い爪が一本だけ伸び出ている。
「あっ!」パウロが声をあげた。
フォッテは声も出せなかった。
ロンユエの爪が半ばまで、彼の右眼に刺しこまれていた。
その爪が引きぬかれる。湿った音を立てて、眼球が眼窩から出てきた。
「おまえにやる」ロンユエがこちらに前肢を伸ばした。爪の先に、眼球が串刺しになっている。「パウロ、こいつを入れる瓶かなにかを、持ってこい」
駆けていくパウロの足音を、フォッテはぼんやりと聞いていた。正面に立つロンユエは、右眼をぴたりととじている。怒っているようには見えない。哀しそうにも見えない。彼がなにを考えているのか、さっぱりわからなかった。
「お待たせしました!」パウロがもどってきた。円筒形の広口瓶をロンユエの胸もとへ差しだす。りんごをふたつ、縦に重ねて入れられるぐらいの大きさだ。「塩水と一緒に、砕いたトトクの実とわたしの薬も入れておきましたからね。いや、見なおしましたよロンユエさん。さすが奈落の街の王様だ」
「うるさい」瓶の口にロンユエが眼球を差しいれる。内壁にあてて爪を引きぬくと、落下した目玉が透明な液体にあたって沈んでいった。
「長かったなあ――」パウロが瓶にふたをあてて、留め具をかける。厚い布で瓶全体を包み、紐を巻きつけていく。紐の両端を結び、布が固定されていることをたしかめると、両手で持ちあげた。「はい、フォッテさん」
「そんな――受けとれません、わたし」
「だめだよ、フォッテ」やさしい口調で、ランドルフが言った。「それは受けとらなきゃいけない」
「いらねえなら、食っちまうが」ロンユエが瓶に鼻先を近づける。
「だめだめ!」あわてた様子でパウロが瓶を抱えこむ。「フォッテさん、お願いします。もらってくださいよ。わたしの一生がかかっているんですから。ね?」
「みんなどうしたの? わけがわからないよ。ロンユエさん、なぜこんなことを?」
「あのねぇフォッテさん、これは」
「おまえは余計なことを言うな」
パウロが手振りでわかったと示す。しばらくは神妙な顔つきだったが、そのうちおさえてもおさえきれないといった様子で、口もとにじわじわと笑みが浮かんできた。「さあ、フォッテさん」
手を伸ばす。受けとらなければ、ロンユエを傷つけてしまうような気がした。広口瓶はずしりと重かった。革袋におさめると、パウロが歓声をあげた。
「やっとだ! やっとわたしにも運がまわってきた!」言いながら、彼は泣きだしてしまった。「長かったなあ。本当に長かった――」
「うるさい」のこったほうの眼で、ロンユエがパウロをにらみつける。「さっさと薬を用意しろ」
「へえへえ、もう、よろこんで」
カウンターの奥へ消えたパウロがもどってくる。一度は断ったが、どうしてもと言うので小瓶を受けとった。
その様子を見ていたロンユエが、戸口へ鼻先を向けた。なにも言わずに歩きだす。
「これ、どうすればいいんですか?」彼の背中に訊ねた。
「シュピールに訊け。パウロ、勝手にべらべらしゃべるなよ」鼻先で戸を押しあけて、出て行ってしまった。
「ランドルフ、これはどういうことなの?」
「あいつは、シュピールに訊けと言っただろう。そうしてやりなよ」
そう言われると、もう訊ねようがなかった。
夕食を一緒にどうだとパウロに誘われたが、断った。早くもどってシュピールを安心させたかった。帰り支度はすぐに済んだ。最低でも十日は安静にするようにとパウロが言うので、ランドルフは革袋のなかだ。壊れた角灯は、処分してもらうことになった。
「では」戸口の先までついてきたパウロが、片手をあげた。笑みを浮かべる彼の顔を、頭上の角灯の明かりが照らしている。
「パウロさん、いろいろありがとうございました」
「こちらこそ。それよりフォッテさん」きょろきょろとあたりを見まわしてから、パウロは声をひそめて言った。「例のもの、大切にしてくださいね。もし瓶が割れたら、できるだけ早く防腐溶液に浸してください。作りかたはシュピールさんに訊くといい。彼なら知っているはずだ」
そうする、とこたえた。別れを告げて歩きだす。
街の出口につづく大通りに出た。途中で二度コウモリに襲われたが、あわてずに対処することができた。腐屍者の姿は見かけなかった。
「ランドルフ、トルソーさんにあいさつをしたいんだけど、いい?」
「ああ」袋の口にあごを載せたまま、彼がこたえた。
ガラスの破片を踏みしめて、彼女の家の玄関口に立つ。「ごめんください。トルソーさん、フォッテです」
「入っておいでよ」家の奥から彼女の声が聞こえてきた。「火はつけたままでいいからね」
玄関口をくぐり、左手の部屋へ入った。トルソーは先ほどと同じ場所に、同じ格好で立っていた。
「あんた、えらいものをもらったね」興奮ぎみに彼女が言う。「ロンユエの目玉のことだよ。どういう風の吹きまわしか知らないが、さっきあいつがここに来たんだ。眼をどうしたんだって訊いたら、あんたにくれてやったって言うじゃないか。おどろいたね」
「わたしもおどろきました。それに、まだわからないんです。ロンユエさんがなぜあんなことをしたのか」
ふうん、とトルソーがうなった。「あいつはなにも言わなかったのかい?」
「わたしのお師匠さんに訊けって。それしか」
「そうかい、それならわたしも余計なことは口にしないでおこう。あいつを怒らせたくないし、それにこのドレスも褒めてくれたしね」
浮き浮きした声でトルソーが言うので、ついフォッテも笑ってしまった。
「トルソーさん、わたしたち、元の世界へ帰ります。ランドルフの傷はパウロさんに治療してもらえました。トルソーさんがあの針をくれたおかげです」
「いいんだよ、そんなこと。それより左の隅にある椅子を見てごらん」
そちらへ杖を向ける。なにかが座面に載っていた。
「あんたにあげるよ。気に入るといいんだけど」
「なんですか、これ?」ロンユエの件があった直後だから、つい身がまえてしまう。
「ケープだよ。肩の部分がしっかりしている。それを着れば、あんたの相棒が肩にとまれるだろう?」
「いいんですか、こんなものをいただいて」こちらに来てから、ものをもらってばかりいる。奈落の街では、こうやってものをあげたりもらったりすることが普通なのだろうか。
「気にしなくていい。ずっと屋根裏部屋にしまったままだったんだ。もしかしたらあんたが顔を出すかもしれないと思って、さっきロンユエに運んでもらったのさ。着てみなよ」
ランドルフに声をかけて、革袋を裁縫台の上に置いた。
「よく、あいつにそんなことをたのんだな」袋から這いだしたランドルフが、呆れたような声で言う。「まったく、怖れ知らずもいいところだ」
「しばらくぶつぶつ文句を言っていたけど、あのお嬢ちゃんにやるんだって言ったら黙って取りに行ってくれたよ」
ケープは、しっとりとした手ざわりだった。羽織るとななめになった肩あてのような部分が、肩口から二の腕の途中までを覆った。
トルソーの言うとおり、首もとから肩までの部分が固くてしっかりしている。背中がわはマントのようになっていて、腰の下まで布が垂れている。まえのほうは左右の肋骨を覆うような形だ。まえもうしろも布が二重になっていて、少しぐらい雨に降られても体が濡れずに済みそうだ
「その紐を、胸のあたりで結ぶんだよ」
腕のつけ根のわきに、紐が縫いつけられていた。先端にふわふわした綿毛のような飾りがついている。紐を結んで垂らす。杖を取り、明かりがわりの火を灯す。
「いいじゃないか。思ったとおりぴったりだ」満足そうにトルソーが言う。
「おい、ちょっとそこに乗っけてくれよ」ランドルフが背のびをした。
「大丈夫?」
「もちろんだよ」
両手で抱きあげた。彼がフォッテの肩に飛びうつる。
「いっぱしの魔女みたいだよ」と言って、トルソーが短く笑った。「杖は持っているし、肩にはしゃべるカラスがとまっている。そのうえそんなにかわいい真紅のケープを着てさ」
「ありがとう、トルソーさん」おさがりとはいえ、新しい服なんて久しぶりだ。
「礼を言うのはこっちのほうだよ。このドレスを着て、あたしゃ心が弾んでるんだ」
うなずいた。ケープの胸の部分を撫でる。「すごく肌ざわりがいいです。大事にします」
「ああ。気をつけてお帰り」
また来ますから、という言葉をフォッテは飲みこんだ。「お元気で、トルソーさん」
「そっちもね。魔法の修行、がんばりなよ」トルソーも、またおいでとは言わなかった。
朽ちかけた二本の木のあいだを通り、街の外へ出た。
土がむき出しの細い道を歩いていく。
「すまないが、すこし眠る。やけに眠いんだ」革袋からくぐもった声が聞こえた。ランドルフはトルソーの家を出たところで、そちらへ移っていた。
「たくさん寝てよ。まだチャレキの葉が効いているのかもしれないよ」
「ああ。なにかあったら、すぐに起こすんだぞ」
そうする、とこたえた。
暗い道を、ひたすら歩きつづけた。
空には大きな渦が浮かんでいる。あそこから慈悲深き夜の女王がのぞくことがあると、ゲッセンバウムが教えてくれた。はるか昔、彼は女王に呪いをかけられてこの世界に堕とされたと言っていた。彼の口ぶりからすると、ロンユエやパウロやトルソーも同じ目に遭ったようだ。
――彼らは、いつまであの街で暮らすことになるんだろう。
それを考えると気持が沈んだが、ひとりだけ例外がいることを思いだした。ゲッセンバウムは、間もなくもとの世界へもどると宣言した。それも、女王に降伏して。
――あちらへ帰ったら、最初にそのことをシュピールに伝えなければ。
ずっと遠くに、試しの門が見えていた。
フォッテはすこし足を早めた。
以上で第一部終了です。
三月中に第二部を公開する予定です。
第二部で、いったん物語が終わります。




