第28話 形が違えば
男は立腹していた。
「ったく食堂のおばさん、マスクくらい着けてから厨房に立ってくれよ。ここが病院だってもっと理解してくれ」
悪態をつきながら、リノリウム仕様の廊下をコツコツと進む。
潔癖症まがいであるこの男にとって、マスクを着けないという不衛生極まりない行動は許せなかった。
悪態をつきながら、リノリウムの廊下をパタパタと進む。
不機嫌なせいなのかそれともいつも通りなのか、足音が人一倍うるさい。
「すみません、静かに歩いてくれませんか」
対向のポニーテール看護婦が、嫌悪感まるだしの表情と棘のある声音で注意した。
「すみません、失礼しました。以後気を付けます」
男は即座に悪びれるような神妙な笑顔で会釈をした。
「あと黒い服もやめてください、不謹慎です」
そそくさと立ち去ろうとする男の背中を看護婦の忠告が捕まえる。
「すみませえん、分かりました」
男はまたしても、まるで用意していたかのようなスムーズさで頭を下げた。
未だ迷惑面を崩さない看護婦を背にし、男はある一つの部屋へと赴いた。
その部屋は、病室だというのにネームプレートに名前が記入されていない。
普通なら、名前の表記されていない病室は空室扱いとなっている。
だが、その部屋には一人の患者がいた。
ではなぜ名前が表記されていないのか。
現実的な理由を挙げるとすれば、患者の実名が分からないというのが妥当だろう。
そして、この病室の患者はまさにそれだった。
「さて、鬼のお出ましとなるか、蛇のお出ましとなるか」
男は白紙のネームプレートから目を離すと、病室の扉を開けた。
ーーー
診察をしていた医者の後ろに設置されている病室の入り口が開いた。
医者は脈を測るために触れていた俺の腕から手を離し立ち上がると、病室に入ってきた黒スーツをピシッと着付けたの男へ向き返る。
「これはマルティさん」
「ああいえ、ステファン先生、お構いなく続けてください」
男は医者に座るよう促すと、腕を組んで壁に寄りかかった。
初めて見たな、長髪だ。
しかも黒髪。しかも一つ結び。
おまけに鼻が高いし顎もシュッとしていて、清潔感を漂わせている。
細身の長身でボサッとしてない黒髪長髪を後ろで束ねた一つ結び男。
コイツ、出来るタイプだな。
「彼は怪しい人じゃないから、そんな警戒しなくていいよ」
白髪の年老いた医者は、俺の脈を測りながら穏やかに言った。
物珍しいから見てただけでけなんだけど。
起きたばかりの俺をさせたいのか、このじいさん医者は逐一俺の目を見てにこやかに微笑んでいる。
皺だらけの手は、俺の冷えた指先を包み込み温もりを伝えてくれる。
今ままで何人もの患者をこうやって診察してきたんだろうな。
医者の過去を思い起こさせるほど、この手には貫禄がある。
なんかもう、あふれ出るいい人オーラが凄いもん。
「うん、脈も正常だね。体に異常は見つからなかったよ。ただ、もう少し詳しく調べたいから、あと何回か検診を受けてもらうよ」
「あ、はい」
医者は首に掛けていた聴診器を脇にある棚の上におき、そのまま棚の上でカルテに診断結果を記入している。
「それじゃあ僕の役目はここまでだね。あとは彼とお話しして貰うよ」
彼というのは、黒スーツのことだろう。
「佳楠君、君はいま混乱してると思うけど、落ち着いて大丈夫だよ。彼はいい人だから。家事も完璧にこすし、周りを気遣うことも出来る。きっと君と真摯に向き合ってくれると思うよ」
そんなダイレクトマーケティングばりに推されてもなんと言えば良いのやら。
あいまいな返事で誤魔化すと、医者はうんと言って席を立った。
「それじゃあマルティさん、彼に特筆するような異常は見受けられませんでしたでした。言語はリトワ語で通じますので、後はよろしくお願いします」
「任せてください」
医者はカルテを持って病室を出て行くと、入れ替わるように黒髪がベッドに腰掛ける俺の前に座った。
「さて、何から話そうか」
男は両膝の間で手を組みながら、前屈みになった。
「俺の名前はセラント・マルティネス。マルティと呼んでくれ。君の名前を聞いてもいいかな?」
「あ、はい。小峰佳楠です」
「小峰佳楠、佳楠君だね。どう言う字を書くのかな?」
「字、ですか。えーと小峰は、小さいの小に、峰、えー峰は、山の頂上とか丘とかの峰で小峰ですね。佳楠は、あー、佳だから、けい、よし、よしはる、いやよしはるは違うな」
良い例えが思いつかん。
「あー、人偏に土二つで佳ですね」
空中に指で文字を書きながら説明する。
「ふんふん」
マルティは肘を股に置き握り拳を顎に当てるという、考える人ポーズをしながら相づちを打つ。
「あ、分かりました?」
「あぁうん、分かってるよ。人偏に土を立てに二つだよね。佳太とかに使われてるかな」
「そうそれです。えーと楠は……」
楠? 楠って何だ?
くすのき、じゃ伝わらないだろうし、うーん。
「楠は木偏に南で楠です。あんまり見ない漢字ですね、分かりますか?」「分かるよ、くすのきって字だよね」
「はいそれです」
なんだ、くすのきで通じたのか。
「小さい峰に佳楠、良い名前だね」
そうか?
「はあ、ありがとうございます」
「それじゃあ佳楠君、寝起きだしお腹すいてるでしょ。詳しい話は食事をしながらにしようか」
「あ、はい」
飯ってさっきの医者が、看護婦さんにに持って来させるよう言ってたけど……。
変に口出ししないほうがいいかな。
俺のせいですれ違いとか生まれても嫌だし。
「じゃあ食事を持ってくるから、ちょっと待ってて」
事情を知らないであろうマルティが病室を出て行った。
なんかあの人の喋り方っていうか接し方って言うか、女を堕とそうとしている男みたいで気持ち悪い。
ずっとにやけてるんだけど、本物の優しさに触れてしまった直後だから胡散臭さしか感じられない。
絶対に裏がある、きっと狙ってるよ俺のこと。
残念だが、俺にはそっちの毛が産毛ほどにも生えていないことを分かってもらいたい。
「お待たせ、持ってきたよ」
しょうもない妄想をしてたら、マルティがお盆を持って病室に入ってきた。
早っ! 帰ってくるの早すぎだろファミコンかよ。まだ一分も経ってないぞ。
なに? もしかして食堂って出たら直ぐにあるの?
扉開けばいつでも飯にありつける部屋なのここ?
「いやー、ステファン先生が料理を運ぶように言いつけてたみたい。さすがだよ」
「はあ」
何がさすがなんだろうか。
要するにさっき医者から頼まれてた看護婦が、すぐそこまで持ってきてくれてたってことなのかな。
「足を入れて貰ってもいいかな」
言われたとおり足を布団に潜り込ませると、ベッドの下の方に置かれていた足がローラーになっている机を目の前まで移動させてくれた。
なんて言うんだろうこれ?
机に置かれたお盆の上には、穴が多くカサカサした黒パン一枚と丸く小さなふかし芋が四個、それとこれは鮭のムニエルかな、とこの赤いのは……トマトスープ、だよな?
あと水が一杯隅に置かれている。
ヘルシーというよりも質素。全部が少量。
病院食感がすごいのなんの。
「食べてどうぞ」
「じゃあ、いただきます」
まずはスープを一口。
スプーンから口の中に流し込み、舌の上で味を吟味する。
……うん、すっぱい。
思ってたよりもトマトの酸味が強い。
基本的に野菜とか果物って調理されるの嫌なんだよな、特に熱せられたりとか。
そのままの方が全然おいしい。
「どう? 口に合う?」
「えぇ、まぁ……」
嘘をつけないという素晴らしい性格のせいで、はっきりと言うことが出来ない。
素晴らしい自分が憎い。
返答に詰まっていると、マルティは可笑しそうに笑った。
「無理して食べなくても良いよ」
「無理なんかは……」
「いやいいって無理しなくて、ここの食事がおいしくないのは周知の事実だから」
それはそれで悲しいな。
でも病院の食事に期待してる人なんていないだろうし、そんなもんか。
「取りあえず全部に手をつけてみます」
「そうだね、物は試しだ。やってみるといい」
トマトスープに浸かっていたスプーンを取り出し口の中でトマトの味を落としてから、メインディッシュであろう鮭を一口サイズの切れ込みを入れと、身が消しかすのようにボロボロと崩れた。
ムニエル、ムニエルだよなこれ?
なんでこんな堅くなってんの。
油使ってないのか?
早くも慣れない感触に不安を覚えつつ、大きな一切れを口に運ぶ。
パッサパサの身は唾液と混じると、ゴムのような弾力となり歯に抵抗する。
「どう?」
「味がないです」
ガムを噛んでいたのかと錯覚に陥るくらい味がしない。
何これ、栄養あんの?
「はははっ、それは残念だね」
なんだよ、はははって、ぎこちなさ過ぎるだろ。
会話の手探り感がハンパないな。俺もだけど。
「パンも食べてみな。ひどい食感だよ」
オススメしない物を勧めるなんて、あんたの方がよっぽどひどいよ。
このパンなんて見るからにまずそうじゃん。
断食を極めた人みたいな見た目してるよ。
「遠慮しておきます。俺、パンにはうるさいんです」
「パンが好きなの?」
「まずいのが嫌いなんです」
「はははっ、じゃあ食べないのが吉だね」
「……食べたら危地に立ちそうですもんね」
マルティの目を見てしたり顔で言い返す。
「ぷっ」
するとマルティは、即座に吹き出た笑い声を片手で口を押さえて顔を逸らした。
今までの愛想笑い違う、本当の笑い。
「ふふ、そうだね。そうなったら立つ瀬がなくなるね」
「くふっ」
「ふふっ」
返してきやがった。
意味があってるわけでもないのに、二人のすすり笑いが満ちる。
「ふふ……ふぅ~」
マルティが元の姿勢に戻る。
「佳楠、佳楠って呼んでも良いか?」
「別に良いですけど」
「じゃあ佳楠。佳楠は、あー……難しいな」
マルティは手を組み替えながら、何かを言いよどんでいる。
「食べながらでいいんだけどさ」
「何を食べればいいんですか?」
おちょくるように質問すると、マルティは一瞬吹き出してから、
「目の前にある美食だ」
と返答。
「俺みたいな庶民の舌には、高級料理は合わないんですよ」
俺はまたしても重ねていく。
「それは残念だな」
だがマルティは、一言笑いながらそう言うと、この会話に区切りをつけたのか、息をつきながら脇に視線を逸らした。
「それじゃあ、食べながらじゃなくて良いから、質問に答えてくれ」
質問されるのは構わないが、質問したいのは俺も同じだ。
「俺も訊きたいことがあります。さっきの医者は全然教えてくれなかったので」
マルティが、指を絡めるようにしていた手の組み方から、ごまをするような手の組み方へ変えた。
「分かった、じゃあこうしよう。俺の質問に一つ答えれば、君が二つ質問していい。どう?」
これは好条件。
相手が意見を変える前に乗っとけ。
「分かりました。それで行きましょう」
これが俺とマルティの、最初の出会いだった。
一度は使いたい『リノリウム』
というわけで第三章の始まりです。