死者に椿
聡子は祖父の訃報を受けた二日後、十一年ぶりに古里の地へと降り立った。聡子にとって、それは全く予想だにしなかった帰郷だった。
生前祖父が暮らしていた家に入り、一番はじめに聡子を迎えてくれたのは伯父だった。母の上の兄に当たる人物である。気の良さそうな面持ちは相変わらずだったが、伯父の頭はもうすっかり白くなっていた。
「よう来たね、さとちゃん」
伯父はそう言って、まず聡子を裏口から祖母の仏間に案内した。話によれば茶の間では丁度今親戚中が集まっていて、喧々囂々凄いことになっているのだという。
どんな類の話か薄々想像は付いたが、さして興味もなかったので、聡子は大人しく祖母の前で手を合わせ「ひさしぶり」と「ただいま」を告げた。
そんな聡子を、伯父は何も言わずにただじっと見つめていた。
「美紀ちゃんの結婚式以来だから、もう四年…五年ぶりかな。いや、随分とお姉さんっぽくなったね」
「そうですか?有難うございます」
座布団の上に腰を移して温かい日本茶を受け取ると、その湯飲みはかつて祖父が愛用していたものだということを思い出し、聡子は軽く目を細めた。
「それでどうだい、外国暮らしっていうのは。やっぱりこっちとはモノが違うから、色々大変だろう」
「一年目は、ええ、かなり戸惑いました。でも慣れてしまったらこっちよりずっと楽ですね。向こうは日本ほどキッチリしてないし、私の性格にはすごく合ってます」
ただ時々寂しくなりますけど、と付け加えると、伯父は柔らかく微笑んだ。
仏間の横引きの戸を開けると、心地良い風が吹き込んできた。先にある広い縁側から見える景色は、小学生の頃と何も変わっていなかった。
いや、何も変わっていない、というのは嘘だった。
何があるのだろう、遠くに広がる目新しい真っ赤な畑を眺めていると、聞きなれた声が飛び込んできた。
「聡子、来てるんだって?」
何処か不機嫌そうな声にむっと来て、聡子は少々ぶっきら棒に返した。
「居ちゃ悪いの?」
「喧嘩してる暇無い。はやく来な」
相変わらずの命令口調の姉に不平の一つも言ってやろうと振り返ると、聡子は毒気を抜かれて黙り込んだ。姉の様子が不機嫌と言うより、むしろ憔悴しているように見えたからだ。そこで聡子はさっき伯父が言っていた親戚会議と姉の性質思い出し、無意識に音の無い溜息を吐いていた。
姉に連れて行かれたのは、一番北の、一番日が当たらない部屋だった。薄暗く、少し肌寒いほどに涼しいその部屋の中央には、祖父の遺体が横たわっていた。
「これから火葬なの」
姉がぽつんと言った。「はやく来い」なんて言ったのは、その所為か。
指先で触れた祖父の頬は思ったよりもずっと冷たかったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。けれど代わりに、聡子の中に不思議な記憶が甦った。今まで思い出せなかった、覚えているはずの無い記憶だった。
まだ立つことすら覚束無かった頃、聡子は庭園に居た。幼い聡子は、祖父の腕に抱かれて、まだ花のつぼみも出来ない小さな木々の合間を散歩していた。『椿だ。椿のこっこだ』。祖父は、聡子に向けたのかは解らないが、ぽつんと言った。
たったそれだけの記憶だが、何故かそれは聡子の心にしっくりと絡みついた。
「さと、泣いてるの?」
姉に言われて、初めて自分が一筋涙を流していることに気が付いた。
聡子は指で目を擦り、呟いた。
「…ねえ、お姉ちゃん。じいちゃんってさ、お花好きだったっけ?」
「べつに、好きじゃなかったと思うけど」
「そうだよね」
聡子は口元を緩めると、静かに遺体の顔に乗っかった布を取った。病死したという祖父の死に顔は痩せこけ、決して鮮やかではなかったが、それでも醜くも見えなかった。何より、聡子の中にある今までぼやけていた祖父との思い出が、一気に鮮明になっていった。
「それとね、子供も嫌いだったんだって。ううん、違うな。もともと人との付き合いが苦手な人だった、って。だから、あたし達が街に引越ししてから何もやり取りがなくて、ずっと絶縁状態だったでしょ」
「聡子?」
「でも…せめて、アメリカ行く前ぐらいには一回会っとくんだったな」
どうしようもならない笑みが、段々と自嘲に変わっていった。聡子は布を戻すと立ち上がり、振り返ることも無く部屋を後にした。
火葬場には行かず、霊柩車を見送りもしなかった。
翌日、聡子はふらりと幼い頃のあの庭園に足を向けていた。昨日見た赤い畑の正体こそが、ここの椿達だったのだ。
聡子は、一通り庭園を散策すると、一際大きな椿の近くで蹲った。泣いていたわけではない。昨日あれから伯父に聞いたことを思い返していた。
『あの椿園はね、本当は母さん…君のおばあさんが作ったものなんだ。美紀ちゃんが生まれた時に東半分を。そしてさとちゃんが生まれた時には、西半分に椿を植えてね。
でも、さとちゃんが生まれて暫くして、母さんは亡くなってしまって。以来、ずっと荒れ放題になっていたんだ。父さんは、縁起が悪いって、椿は嫌いだったから世話しなかったんだよ。
でも、あの人は何故かある日突然打って変わったように椿の面倒を見るようにったんだ。そうだね、君たちが街に出て一年ぐらいしてからかな』
凪いだ風が吹き、ぽとりと、聡子の上に一輪の椿が落ちてきた。聡子はそれを両手で包むと、小さな生き物を抱くように、優しく握り締めた。
『言うんだよ。孫達が帰って来たら見せてやるんだ、って。信じられるかい?あの堅物で石頭の爺さんがだよ。毎日毎日、意気揚々とあのだだっ広い庭に出掛けていくんだ。幼稚園児よろしく鋏と如雨露持って。
それで入院することになってからも、ちょくちょく病院抜け出しては椿の世話をしていたものさ。止めろっていうのに聞かなくて、ついには病院の先生まで諦めさせたんだ。
…けどね、今思えばあんなに楽しそうな父さんは初めてだったんだよ』
そう、嬉しそうに寂しそうに語って、伯父は最後に「ありがとう」と締めくくった。
伯父が何を言いたいのかは、量りきることが出来なかったけれど、それは確かに聡子に響いていた。
だからこそ、聡子は此処に居た。仏壇とか納骨堂とか、そんな場所よりも、此処に居る方が祖父を傍に感じられる気がしたから。
「…ごめんね、じいちゃん」
答えの返ってこない呼びかけは、ただの言葉として空に消える。それでも、言わずにはいられなかった。
結局さいごまで会えないまま、別れてしまった。祖父はこんなに素晴らしいものを残してくれたのに、自分は、何も出来なかった。それがどうしても口惜しくて、歯がゆい。
――いや、違う。そうじゃない。
違う、と思った。
聡子が後悔している理由は、そんな綺麗でご大層なものじゃない。自分の情けなさゆえに、だった。聡子は忘れていたから。本当に。つい数日前、祖父が亡くなったという電話を受けるまで、聡子はその人の存在をまるで意識することが無かったのだ。
なのに祖父は、こんなにも美しく椿を咲かせて見せた。
喉と鼻の奥が熱くなった。眼が痛くなった。でも聡子は必死で堪えた。ここで泣いていい権利なんて自分にはないと思った。
気付けば、手の中にあった椿は花びらがぽろぽろと落ち、無惨な姿になっていた。
ああ、わたしはやっぱりこうなんだ。聡子は笑った。そして立ち上がった。もう、ここにいることに耐えられなかった。
けれども、庭園を出ようとした時、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。そこには誰もいなかった。だけれども、聡子はまた暫く立ち尽くしていた。
「…きれい」
視界と心を、一瞬で奪われた。その一面に広がる赤い椿は、綺麗だと思った。とてもとても、綺麗だった。
だからこそ、聡子はもっとちゃんとそれを見詰めなければいけない。そう思った。
それは、祖父の想いそのものだった。幼い聡子には解らなかった、愛情そのものだった。
あの人はあの椿達をここまで見事に育て上げ、そして、花が咲ききる春の初めにひっそりと亡くなっていった。
本当に、最後まで不器用な人。
「ありがとうね」
答えの返ってこない呼びかけは、ただの言葉として空に消える。それでも、言葉は自然と唇に乗った。
聡子は笑っていた。少しだけ、泣きながら。
仏壇には、春になれば椿の花が飾られる。