交錯
真実を知ったのは何時だっただろう。
私たちの出会いから今日までをいくら詳細に見つめ返してみても、きっと明確な線引きなどできないのだろう。
三人が一緒に過ごす中で、そうかもしれない、いや違うかもしれない、を繰り返し、今だって本当のことを確認したことはない。
だけどそれは、真実だと信じている。
だからといって、私はサダから離れようとは思わない。彼が私を不要だと思う時が来るまで、一緒に居るつもりだ。そんな時が来るとは、想像しただけで手足が痺れてしまいそうだけれど。
私の中で決めた覚悟は、きっとサダにも、そして高明にも伝わっている。だから…それまではきっと、三人一緒だ。
開け放たれた窓辺からは、寒いくらいの強い風が吹き込んできて、レースのカーテンを大きく揺らしている。
ベッドの中にいると、そんな風が気持ち良く感じるのだろう…、サダは布団に丸まったまま、全く目を覚まそうとしない。サラサラと茶色い髪の毛を靡かせて、聞こえないぐらいの小さな寝息を立てて。
しっかりと閉じられた瞼の下からは、長い睫毛が相変わらず目立つ。
(羨ましい)
女の子のような、中世的な顔立ち。綺麗だと誰からも持て囃される容姿。それを今だけは、私が独占できる。
ゆっくりとベッドの淵に腰かけて、少しだけマットを軋ませてみた。僅かに音を立てて、布団が揺れる。それでも起きない彼の頬に、私は人差し指を突き刺した。
ぷにっ。
「んっ…??」
ピクリと動いて、ゆっくりと瞼が開く。その瞳がぼんやりと宙を彷徨い、私の姿を捉えるまで、暫くの時間があった。
「華…?」
「そだよ…。サダ、もうお昼」
ふわふわぁと大きく口を開けて、サダは思い切り欠伸をした。いつでもマイペースな彼は、ようやくノソノソと上体を起き上がらせたのだが、それでも目を細くしたままで、再び眠り込んでしまいそうだ。
「サダ」
「ん」
「今日、高明7時くらいに来るって」
ほんの少し。
サダの瞼が開いた気がした。けれどそれは直ぐにまた先程と同じ大きさに戻ってしまう。
「ん」
「夕方迎えに行くから、高明とお酒とかおつまみ買って帰るけど、何か欲しいものある?」
「何で。俺も一緒に行くよ」
「明日のレポートまだ書いてないんでしょ。大人しくやっときなさいって」
「…そうだった」
はあ~、と大きく溜息をついて、そのまま布団に倒れこむ。そんなサダに、コラッと頭を叩くと、今度こそ彼は起き上がって、黙って洗面所に向かうのだった。
ぐしゃぐしゃにされたままの布団。こっちの方が溜息つきたいぐらいだ。
朝食兼お昼ご飯に簡単な親子丼を作ると、サダはひたすら黙々とご飯を口に運んでいた。どうやらお腹が空いていたらしい。
彼はあまり表情に出ないので、何を考えているのか分からないと言われることが多いようだ。けれど親しく付き合ってみると、その逆で全く分かり易い奴である。楽しければケラケラ笑っているし、疲れていたりお腹が減っていたら大人しくなり、機嫌が悪ければただ黙っている。そうしたサインが出たら、こちらはそれに合わせて態度を変えればよい。
結構、正直な性格。本人は無意識かもしれないが。
「はあ、美味しかった」
丼を空にして、サダは満足そうだ。
「そりゃ良かった」
まだご飯が半分ぐらい残っている私は、もぐもぐと口を動かすことに専念する。
「ねー華」
「うん」
「そろそろ、三カ月だね」
思わず、箸を持つ手が止まった。
サダの顔を覗き見ると、先程と何ら変わらぬ様子で、お茶を啜っている。
…唐突すぎるのだ、サダの話は。
「付き合って?」
「…他に何かあるの?」
逆に聞き返されてしまった。そんなこと分かっているけど、恥ずかしいから聞いただけだ。それぐらい分かってくれてもいいのに…、なんて愚痴は、彼に言っても仕方のないこと。
「ないです」
「どうしようか。折角だしどこか行く?」
「ほんと!いいねそれ!」
思わぬ提案に、テンションが上がる。私たちが付き合って三か月目の記念日は、一週間後に控えていた。これまで一か月目も二か月目も、いつもなあなあで過ごしてきていただけに、途端に楽しみになってきた。
「華はどこ行きたい?」
「うーんハワイ?」
「…やっぱ行くの止める」
「ウソだってば!サダはどこがいい?」
「そうだなぁ…、俺もふと思いついただけだから、これってとこがあるわけじゃないけど…」
そう言ってサダは携帯を取り出して、何やら検索し始めた。
「へー、今って伊勢神宮とか出雲大社とか、人気なんだって」
「あぁ、女子の間でしょ、ソレ。サダそんなん興味あるの」
「ないけど…だって書いてんだもん」
「他には?」
「ディズニーランド、学生キャンペーン…」
「だから興味あるの?それ」
「……」
困った顔をして、サダは携帯をテーブルに放り投げてしまった。
「高明、詳しそうじゃない?そういうの」
「ああ…、あいつね。今日来るなら、聞いてみようか」
サダはもう自分で考えることを諦めてしまったらしく、それきりぼんやりとテレビを見始めた。確かに、私たち二人で考えても良い案は思いつきそうにない。企画やらセッティングやらといった面倒くさい役は、高明に任せるに限るのだ。
まあ、今回は高明には関係のないことなのだけれど。
今日はサダと二人で下手に出て交渉してみようか。
「じゃ、高明迎えに行ってくるよ」
「はーい、気を付けてな」
「ちゃんとレポート書きなさいよー」
分かってるって!とウンザリした声を遮って、私はサダの部屋を出た。付き合い出して、私は度々サダの部屋に入り浸っている。それ以前から行くことはあったが、その度に部屋が散らかっていく一方なので、単純に心配になってしまうのだ。
案の定、私が居ないときはろくにご飯も食べず、掃除もしていない。
私は彼女というより、母親のような位置づけの気がする。
車で高明の住むマンションまで行くと、丁度ロビーから背の高い男が出てくるところだった。短く刈り上げた髪、筋肉質な体、誰が見てもスポーツをやっている奴だと見て取れる。
「高明!」
窓を開けて声を掛けると、高明は手を上げてこちらにやって来た。
「悪いな」
「いいって」
助手席に乗ったものの、彼には少し窮屈そうで、足の置き場に戸惑っている。
「相変わらず狭いな、お前の車」
「乗せてもらう奴の台詞?それ」
「わりーわりー」
とりあえず謝りはするものの、いつも言う文句だ。今日は飲むからって、わざわざ足になって迎えに来てやっているのに、何だかもう当たり前のことのようになってしまっている。
「ていうか久しぶりだね、三人で飲むの」
「そうか?先々週ぶり…ぐらいじゃね?」
「去年は毎週飲んでたでしょ」
「まー確かに。おかげで金がない」
高明の言うことは最もで、私たちのようなダラけた学生には飲み代の出費はかなり大きなものだった。そうと分かっていながらも、大学生になりたてだった私たちは飽きもせず居酒屋を回っていた。
今思えば、かなりバカなことをしていたような気がする。
「最近どう。サダとは」
「どうって何よ」
「そのまんまだよ。…上手くやってんのか?」
「…うん」
何とでも答えられる問いだ。付き合っている人がいる相手に、とりあえず尋ねておこうというような質問。軽く返しておけばいいだけのものなのに、高明が相手だとそんなもの通用しない。
「へえ。相変わらずか」
言葉の意味を察して、高明はそう呟いた。
私とサダ、そして高明は、大学に入学した当初からの知り合いだ。偶然入学後のオリエンテーションで一緒になり、仲良くなった。気づけば一緒に居ることが多くなり、プライベートでもよく飲みに行くようになった。
そんな中、私は自然とサダに惹かれていった。サダはその容姿から女の子たちに大人気だったため、私が出る幕など無いと思っていた…のだが、ある日突然、サダに告白されたのだ。本当に突然。正直信じられなかったけれど、それよりも嬉しさの方が勝って…私とサダは付き合うようになった。
それからは何となく三人でいる時間は減ったが、今でもこうして集まったりして関係は続いている。ただ少しだけ、いや、大半の部分で、私たちの関係は変わってしまった。見かけには分からないだけで。
「ただいまーっ」
夜ご飯とお酒、そしてお菓子やら何やら要らないものも大量に買い込んで部屋に戻ると、サダがパソコンを開いたままテレビを眺めていた。
「おかえり。ああ、高明も」
「お前レポート終わったのかよ」
「今終わったよ。さーっご飯ご飯!」
途端に元気になるサダ。私たちが買ってきたものを物色しながら、お腹減ったーなどと呟いている。
高明がお好み焼きが食べたい、と言い出したので、急遽ホットプレートを取り出して作ることになった。お好み焼き粉とキャベツ、山芋、豚肉など簡単な材料で手早く作る。ひっくり返すのは勿論、言い出しっぺの高明だ。
「行くぞー、せーのっ」
勢いよく宙を舞うお好み焼き。綺麗に着地して、美味しそうな焦げ目を見せている。
「流石!筋肉だけはある」
「どういう意味だよ」
筋肉関係ねーよ、などと高明がブツブツ呟いているうちに、お好み焼きはいい感じに焼けて、食べ頃の時間になった。
ビールをグラスに注ぎ、高明が声を上げる。
「んじゃ、乾杯!!」
「「かんぱーい!!」」
グラスが空になるのは早かった。私も酒が弱いわけではないけれど、二人のペースが速すぎるのだ。三人で飲むと、上には上がいるのだな、と実感させられる。
お好み焼きをつまみながら、お互いの近況の話になった。
私たちは同じ大学で同じ学部なのだけれど、二回生になると必修科目も減って、三人が教室で揃うことは滅多に無くなってしまった。どちらか一方と、ということはあるけれど、こうやってわざわざ集まろうとしなければ三人ゆっくり話ができないのだ。
「俺、また英語の単位落としそう」
少しだけトロンとした目で、サダが呟いた。それに対し、高明が直ぐに眉を吊り上げる。
「はあ?あんなん出席さえすればいいだけじゃん」
「それが難しい」
また、はあ?と高明は声を上げる。彼は見かけによらず、しっかり者だ。普段は部活で野球に勤しんでいるが、試験前はしっかり勉強をして、きちんと単位も取る。それに対してサダの方は、気が向けば授業を受け、それ以外はバイトに行くか遊びに行くか、かなり自由な奴だった。おっとりした性格とはいえ、こんなところまでのんびりしなくてもいいのに、と突っ込みたくなる。
「華がちゃんと連れて行けよ」
「そうしたいんだけど…、私も授業があるし、ずっとサダを見てられないのよ」
「…ほんと、手のかかる奴」
呆れたように吐き出して、高明はビールを飲み干した。いつの間にか、ビールは空き缶ばかりになっている。
「焼酎開けようぜ」
「そっちはどうなんだよ、高明」
少しムッとした様子で、サダが睨み返した。彼のグラスの中身もまた、綺麗に飲み干されている。
「どうって?」
「なんか、告白されたって言ってただろ、この前。バイトの後輩の」
「あ、私も聞きたいなーそれ」
以前三人で飲んだ時に、高明からそんな話を聞いた。興味無いなんて言いながら、満更でも無さそうな表情をしていたので、もしかしたらもしかしている、かもしれない。
私とサダの面白そうな視線に、高明はああー、と眉間に皺を寄せて、盛大に首を振った。
「お前らが期待するような話なんてねーって!」
「何でよ?いい子なんでしょ?」
「まあ、そうだけどさ。いい子だからって、好きになんねーだろ。急に」
カランッ。
グラスの中の氷が溶けて、妙に大きな音を立てた。透明の液体、水みたいだけれど、アルコールが混ざっていて、本当は危ない。見せかけの涼しさで理性を惑わす。
何だか私たちみたいだ、なんて、詩人みたいなことを考えた。
「付き合ってみなきゃ分からないかも」
「俺、今、彼女とか要らないんだよ、ホント。だから悪いけどって、断ったんだ」
「ふーん…」
気の無さそうな、サダの返事。高明の台詞から、その話題なんてどうでも良くなったのだろう。
本当に分かり易い。
「ああ、そうだ、高明。今度、華と旅行に行こうと思ってんだけど、どこかいい所ある?」
「旅行?」
説明を求めるように高明が私に視線を投げかけた。サダはいつも言葉が足りないから、それを補うのが私の役目なのだ。
「来週、三か月記念日なの。だからどっか行こうかって、サダが言ってくれて」
「へえ~~~、珍しいこともあるもんだな」
高明が笑いながら皮肉を言った。そう言いたくなる気持ちも、分からなくもない…。サダが自分から何かをしようなんて言い出すことは、殆ど無いことだから。
「…悪いか」
「いや、悪くねー。でも、そうか、旅行か…」
視線を宙に彷徨わせながら、高明は何かを考えていた。その間にサダは床に寝転がって、どんどん眠たそうな顔つきになっていく。
これは、寝るな。
焼酎も入って、ペースも早い分、酔うのも早い。サダは酒が弱いわけではないが、時と場合による。高明がいると、酔いやすい気がする。
「もう夏だし、海とかいいんじゃねえの。鎌倉の辺りとか。落ち着いてるし、丁度いいかもな」
「なるほど。高明はよく行くの?」
「まあ、近場だしな。俺は結構好きだけど」
「へえ~。…だって、サダ!」
「ん~…」
そう声を掛けて隣を見ると、サダの目は完璧に塞がってしまっていた。自分から話を振ったくせに、よくもまぁこんな直ぐに眠りにつけるものだ。
近場にあったひざ掛けを手繰り寄せ、軽く体にかけると、どんどん気持ち良さそうに縮こまっていく。
「そろそろ、俺も帰るわ」
「えっ、」
ソファから立ち上がって、唐突に高明が部屋を出ていった。足早なその姿を、私も玄関まで追いかける。
「もう帰るの?」
「ああ。俺も明日、バイトだし」
「そっか、帰り気を付けてね、送れなくてごめん」
「いーって、じゃな」
じゃあね、と言おうとして上げた右腕が、急に掴まれた。
「ていうか、華も来れば?」
「え?」
「サダ、寝てるじゃん。俺の部屋来ればいいのに」
からかっているのか、本気なのかよく分からない瞳。
「行かないよ」
私がそう返すと、高明はフッと笑って手を離した。
「そう。来たくなったら、いつでも来いよ」
そう言い捨てて、玄関の扉を出ていく。目の前が急にバタン、と閉ざされて、何だか置いて行かれたような気持ちになった。可笑しなことだ。断ったのは私の方なのに。
そのまま部屋に戻ると、サダは変わらず小さな寝息を立てている。今起こすのは可哀想だけれど、せめてベッドで寝かせたくて、軽くサダの肩を叩いた。
「サダ」
「…ん」
「ベッド行こう?」
「…ん」
ゆっくりと上体を起き上がらせて、そのまま部屋の奥まで運ぶ。ベッドの傍まで来ると、サダは大人しくマットに座って、私の手を掴んだ。
「華」
私を見上げる二つの瞳。色素の薄い茶色の玉が、私の姿を映し出している。
その瞳がゆっくりと私に近づいて来て、鼻が触れ合った。赤くて、熱い。
柔らかな唇が私のそれを包んだかと思うと、強引に押し入ってくる。いつもそうだ、サダはそうやって私に口づける。酔っているから、ではない。きっと覚悟を、決めているだけ。
私はサダにされるがまま、彼の唇と掌の感触を味わった。ドクドクと心臓が高鳴ってきて、ばれてしまうのではないかと思うほどだ。
「はぁっ」
ベッドに押し倒されて、上着を脱がされた。仰向けになると、サダの虚ろな視線がよく見えてしまって怖くなる。だから目を閉じて、サダの唇を感じ取ることにする。
長い口づけをした後、サダはそのまま私の隣に寝っ転がって、荒い息を立てた。そうしてそのまま静かになって、もしかして寝てしまったかな、と私がぼんやり考えだした頃、隣から小さな声が聞こえた。
「…高明」
どうやら本当に眠ってしまったらしい。
私はサダを起こさないように、そして彼の涙に気づかないように、そっとベッドから抜け出した。
身支度を整えて、静かに部屋を出る。
携帯を取り出して、私はいつもの番号に電話を掛けた。
タクシーに乗っている間は、何だかボーっとして何も考えられなかった。
運転手は時々クラクションを鳴らしながら、危険な夜の道を縫って行く。昼間に見えるその場所とは、全くの別物のようなネオン。心がざわざわと騒めき出すのを手伝うかのように、私の感覚に刺激を与えてくる。
目を閉じると、またいつもの暗闇が私を襲う。
・
・
・
月の光。サダの白い肌が青白く光って、美しさを際立たせている。まるでマネキンのようなきめ細かさに、思わず見入ってしまう。
そんな彼が、私の上に覆いかぶさったまま、震えている。
「ごめん…、華」
絞り出したような声が、耳元で微かに聞こえた。
「…サダ」
「華…ごめん、俺…、」
彼の背中に手を回すと、サダは必死に俯いて私から顔を背けようとした。それでも私が思い切りサダを抱きしめると、彼は崩れ落ちるように私に寄り掛かった。
「華がどうとか、そういうんじゃなくてっ…、」
「うん」
「俺がそういう病気とか、そういうの、でもなくて。でも」
「うん」
「できないんだ…、俺」
「…うん」
脱ぎ散らかされた衣服が、取り残されたように寂しげに映っていた。
期待、していなかったといえば嘘になる。けれど私の心の中では、どこか(やっぱりね)なんて他人事のような感情があった。それは、自分を納得させるための文句であっただけなのだけれど。
「華のこと…好きなはずなのに…」
「うん」
「なのに…、俺、可笑しいんだ、最近。自分でも、分からなくて。華のこと好きだから、すげえ、抱きたいんだ、けど…」
「サダ、もういいから」
「良くないよ、…なんで」
「私は、大丈夫だから」
それでも、サダと一緒にいるから。
嗚咽を漏らすサダの声が、ずっと耳に焼き付いている。あれからもう、サダはあんな風に泣いたりしたことはないけれど、彼自身はきっと深く気にしている筈だ。だから私も敢えて、何ともない風を装っている。
同じベッドには入るけれど、彼は私に触れようとしない。
それは、仕方のないことなのだろう。
チャイムを押すと、直ぐに扉が開き、高明が顔を覗かせた。
「やっぱり来たな」
「…うん」
高明は何も言わずに私を部屋に招き入れ、コーヒーを淹れてくれた。部屋の中には勉強用のデスクが置かれてあって、そこには大量のテキストが山積みにされている。
何気なくパラパラと捲ってみると、そこは力強い字で沢山のメモ書きが埋められていた。
「勝手に人のもの見るな」
コーヒーカップを両手に抱えて、キッチンから高明がやって来る。怒ってはいるが、ただの照れ隠しだろう。彼は自分の努力を人に見られるのが嫌いなのだ。
「偉いね、試験勉強」
「別に、大したことしてねーよ」
ソファに座って、私たちはコーヒーを飲んだ。静かな部屋、テレビも何もつけていないから、静けさが妙に耳につく。
「華」
「ん?」
「お前、大丈夫なの?」
「何が」
「何がじゃねーよ」
高明の真剣な口調は、彼が本気で私と向き合おうとしているからだ。そうなると、私は彼から逃げたくなる。高明が言おうとしていることなんて、私だって嫌でも分かっているのだ。
「サダと一緒に居るのが、辛いんだろうが」
「違うよ」
「じゃあ何で俺の所来るんだよ」
「……」
私には、自分からサダのもとを離れていく選択肢など持ち合わせてはいない。別れてしまうことのほうが辛いことだ。サダに抱かれなかったって…それがサダと別れる理由にはならない。
「寂しいからだろ」
「違うってば」
「じゃなきゃ俺に抱かれたりしねーだろ!」
鋭い視線。高明は、私とサダの間に体の関係が無いことを知っている。詳しい事情までは話していないけれど、高明は私がそのことに不満を持っているのだと感じている。
そこからだった、私と高明の関係が始まったのは。
一体どうしてそうなったのか、明確な理由なんてないのだろう。ただ流れでそうなったのだから。お互いの真意は違えど、心の何処かでそうしたいと思っていた。
高明は私のことが好きらしい…。
『華がサダと付き合って幸せになるなら、それでいいと思ってたけど。実際は満足できてねーみたいだし。ならそこんとこは俺が埋め合わせすればいいじゃん?別にそれ以上の関係なんて求めたりしねーから、安心してよ』
サダはサダで、私に告白してきた時、こんなことを言っていた。
『俺、高明が華に近づくのが、ずっと嫌でさ。いつか、あいつに華を取られるんじゃないかって、嫉妬してたんだ。だから…華、俺と付き合ってよ』
皆が皆、自分の都合の良いように解釈している。そしてようやく、この危うい関係が保たれている。
私が高明と寝るのは、寂しいからでも満足できないからでも無い。
高明にサダを取られるのが嫌なのだ。
私の感情は、サダを一番に動いている。苦しみや葛藤から少しでもサダを救えるのなら、私は自分を犠牲にしてもいいと思えるのだ。
初めは本当に、サダは高明に嫉妬しているんだと思っていた。
私と高明が二人で居ると、いつも機嫌悪く入ってくるのだ。
『あの店美味しいって評判だから行ってみる?』
なんて話をしていたら、
『なんで二人だけで行くの?』
と拗ねた表情で尋ねてくる。
『高明、華を独り占めすんなよ』
そんな言葉を聞けば、胸の奥底で何かを期待してしまっても許されるのではないだろうか。だけど、私たちはいつも三人一緒だったから、誰かと誰かがくっついて…という風にこの関係を崩すことなどなかなか出来ないのだろう…と、私は感じていた。
それが、サダが私に告白した日から変わった。
なぜサダは、突然そんなことを言ったのだろう…。
心当たりといえば、その頃サダが高明に素っ気ない態度を取っていた時期だった、ということだろうか。高明自身は何故そんな態度を取られていたのか、よく分からなかったらしい。その後二人の関係は元の通りに戻ってしまったから、結局何が理由だったのかは分からずじまいだったのだが。
今になって私が思うに、サダは高明に対する自分の感情から逃げるために、私に告白したのではないだろうか。
サダは高明に嫉妬していたのではなく、私に対して嫉妬していたのだと思う。
つまり、彼が想う相手は私なんかではなく、高明なのだ。
その証拠に、サダが気に入らないのは高明が女の子と楽しそうにすることだった。そうして決まって、『あんな女のどこがいいのか』と不機嫌になる。そのくせ、私が高明以外の男の子と仲良くしていても、何も言うことはない。
サダの高明を見る目…途中から変わったのを覚えている。
憧れと恐れが入り混じった、葛藤を持った瞳。
自身の感情に気づいたとき、彼はどんなに苦悩したのだろうか。彼自身もきっと気がついていなかったのだと思う。私と高明の姿を目撃した時の複雑な思いを、私に対する好意による嫉妬だと感じていたはずだ。けれど、それが高明に対するものだと気づいた時。サダはそれを信じたくなかったのだろう。だから高明を避けて、私に対する愛情だと思い込もうとした。だから、私に告白した。
結局今でも、サダは自分の感情に正直になれずにいる。そのために私を抱くことができないし、かといって私と別れることもできない。けれど私は、それでも良いと思ってサダと一緒に居るのだ。
そして高明。高明はサダの気持ちに気づいているのかいないのか。聞いたことはないけれど、曖昧にも感じ取っているのではないかと思う。だからこそ、高明はどうにもならない私たちの間に入って、私に近づく口実を作っている。私はというと、それを良いことにサダに内緒で高明と寝ている。唯一の、私の抵抗。下らない行為でしかないけれど、少しでもサダと長く居たいから…高明の目が私に向くようにと願っている。
午前七時半。
高明と過ごした後、サダの部屋へと戻る。もう蒸し暑い熱気に包まれたこの部屋は、残されたままのビールの空き缶が乱雑に纏められている。その中で、すうすうと寝息を立てながら、ぐっすりと眠っている男がいる。
「おはよう」
返事など返ってくるわけがないのに、私は小さく声を掛けた。
案の定、サダは黙ったままである。
キッチンで冷蔵庫からペットボトルを取り出してグラスに水をついでいると、ギシッとベッドが軋む音がした。反射的に顔を覗かせると、そこには寝ぼけ眼のサダがこちらへ視線を向けている。
「華…起きてたの」
起きたてのサダは、いつも掠れ声だ。
「うん」
「…そ」
グラスを持ってベッドの淵まで行くと、サダが手を伸ばしてきた。
「どうぞ」
「ありがと…」
サダは少しだけ上体を起き上がらせて、手渡されたグラスに口づけた。ごくりと、喉の奥へと水が流れ落ちる音が聞こえた。
「ね、華」
「ん?」
「来週、鎌倉行こうね…」
穏やかに微笑んで、サダは再び布団の中に潜り込んだ。何だかんだで昨日の話を聞いていたんだな、と思わず笑ってしまった。
そして、きちんと高明の案を採用している。
やっぱりサダは分かり易い奴だ。
「そうだね」
布団を掛け直しながら、私も微笑んだ。
私たち三人の想いは、交わったまま決して一つになることはないのだろう。
だからこそ私たちは今、こうやって繋がることしかできない。危うい状態のまま、一体どこまでいくのか見当もつかない。
けれどきっと、サダが私を手放した時――それは、サダが自分の想いに正直になれた時か、それともそうなれないまま、ただ壊れてしまった時なのか、それは分からないが――全ては終わってしまうのだろう。そうなれば、私はサダと一緒には居られないし、高明との関係を続ける必要も無くなる。三人が一緒に居る意味など無くなってしまう。
だから、それまでは。
このバランスを崩すことなく、私たちは奇妙な関係を続けていくのだろう。