花影の人 後編
「信行殿……」
呟いたきり、帰蝶は絶句してしまった。
なぜここに信行が居るのか。
以前現れたときは、信長暗殺の疑惑にて詮議の為に呼び付けられていたのを、帰蝶は後になって知った。その時帰蝶はまさか、と言う思いを抱いたのだが、考えてみれば不思議ではない。
たぶん、信行の考えというよりは家臣たちに担がれているのだろう。信行は信長と同じ土田御前を母に持ちながら、まったく似ていなかった。
容姿も、背が高すぎるくらい高く、少し痩せすぎではないかと思われる筋肉質な信長の体型と、中肉中背の信行。キツイ目付きで人を寄せ付けない空気を纏っている信長。信行はもっと柔らかで、育ちの良さがにじみ出ている。
むしろ跡取りの鷹揚さが出ているのは信行の方だった。顔立ちは信長の方が土田御前に似て女顔だった。信長は色も白く、恐いほど綺麗な顔をしている。信行も同じように色白だが、作ったような信長の綺麗な顔立ちに比べれば、もう少し平凡で柔和な感じだった。
親しみやすさは断然、信行の方が勝っているだろう。その容姿と同じく性格も温和で、素直なものを帰蝶はいつも感じている。けして陰謀を張り巡らせるような種類の人間ではない。
ではなぜか、というと。間違いなくその守り役たちの浅慮なのだ。しかも背後には、母の土田御前までが女の短慮で思い違いをしている。
信長は信行を嫌ってはいない。むしろ利用されていることに胸を痛めているのを、帰蝶は感じていた。
その信行が……
「どうなされたのです?信行殿。うちの殿になにか……」
帰蝶が見咎めると、隠れるように立っていた信行がこちらに向かって歩いて来た。
奥には今、誰も居ない。
もとよりここには信長以外はあやめしか近寄らない場所だ。いまあやめは奥には居ない。
帰蝶は少々緊張した。
信行と何度も会っているが、二人きりで会うのはこれがはじめてだ。もちろん親密に言葉を交わしたことはない。
「殿は今、ここには居ないのですよ」
帰蝶は信長が居ないことを強調した。
ここへは信長の許可無しには誰も入れないことになっている。どうやってここへ来たのか知らないが、たとえ信行といえど例外はない。
しかもいまは帰蝶ひとりで、城主の奥方が居室で一人の時に無断で近づくなど常識はずれだ。
帰蝶は居住まいを正して背を伸ばした。凛としていると、武道をたしなむ帰蝶は隙がなくなる。だがそんな事には関係ないように、信行はどんどん近づいてくる。とうとう帰蝶の腕を掴むほどの距離に来た。
その不意に捕まれた腕を振り解こうとして帰蝶は失敗する。凄い力だった。しかもこの距離は夫婦でもないのに、非常識すぎる。
「義姉上……」
さっきと同じように呼びかけられて、帰蝶は背筋が寒くなる。まるで他になにもみえないような、思い詰めたような眼差しと冷たい声だった。
「なんです」
帰蝶も負けずに言い返した。なにかがおかしいが、気迫で負けるわけにはいかない。この均衡が崩れたらまずいことは薄々感じはじめていた。
「なぜ来たんです」
「…………」
帰蝶には問われた意味がわからない。
「兄上は変わってしまわれた。貴方が来たからだ」
帰蝶は信行を見つめ返した。信行は何を言いたいのだろうか。
「兄上は乱暴な人だったけれど、私たち兄弟には優しかったんだ。それが……変わってしまわれた。貴方が美濃から来て、貴方と貴方の実家にそそのかされてこの織田家を滅ぼそうとしている」
「なにを……」
帰蝶には信行が何を言っているのか、分からない。
「信行殿、なにか勘違いを……殿はそのような方ではありません」
「そうだ。兄はそんな人じゃない。貴方が来てから変わられてしまったんだ」
「ちがいますっ!なにか勘違いを…………」
「ではなぜ私を殺そうとなさるのだ」
「それは…………」
今ここで本人を目の前に、一言では言えない帰蝶だった。
信長を暗殺しようとした信行一派。元は家臣達の陰謀だった。だがそれに、信行可愛さに荷担した土田御前。
はじめ信行に他意はなかったとしても、その家臣たちを押さえられず、母親の思惑に乗り、利用された罪は重い。信長が怒るのも無理はない。
「殿は……信行殿を許したんです」
そう、あの信長が自分を殺そうとした人間を許したのだ。やはり、母親と弟を殺すことは出来ずに、一旦は許した。それなのにまだ家中の陰謀は収まらない。このままでは間違いなく信長は弟を殺さなくてはならなくなる。
「あなたの考えですか、義姉上」
「まさかっ、信行殿。何か考え違いをなさっています」
帰蝶は驚いた。どこでそのような考えに至ったのか。
「いいえ、違いません。 あなたが兄上を誑かしたのだ。 そうに決まっている」
そう言いながら襲いかかってきた信行を避ける暇はなかった。
「何を……」
押し倒されて押さえ込まれたところを、かろうじて信行の手から帰蝶は逃れた。見れば信行は刀を抜いている。
(拙いっ……)
帰蝶は部屋を見回したが、信長もいないこの部屋に太刀の類があろう筈もなく、多少腕に覚えのある帰蝶にも素手では躱しようがない。いきなり切りかかられてかろうじて躱したが、袖が切り裂かれた。
しかも逃げようとした身体にもう一度降りた刀が、着物のすそを縫い止めている。身動きできなくなった帰蝶は焦った。着物を切り裂いてでも逃げようとした帰蝶と、捕まえようとした信行が掴み掛かった時、帰蝶の着物の前が肌蹴てしまった。
「あっ」と叫んだのはどちらだったか。
驚いて信行が腕を放したのと、廊下の向こうから人の足音が聞こえてきたのはほとんど同時だった。
帰蝶はすばやく着物を引き寄せた。裾は信行の刀ごと取り残されて裂けてしまったが、胸元は掻き合わせて押さえた。
そこへ来たのはあやめと信長だった。物音と声で急ぎやってきたあやめの後ろにちょうど帰ったのか信長も続いている。
「姫さまっ!」
あやめの悲鳴と、
「ここで何をしているっ!」
信長の怒声が一緒に響いた。
その時、信長の後から藤吉郎も入ってきた。あやめは自分の身体で隠すように帰蝶の体を抱いた。帰蝶の方があやめよりもひとまわり体が大きかったが、他の人間からはほとんど隠れた。
「信行っ!」
当然、信長はこの部屋に来たときに帰蝶の様子は目に入っている。怒りは心頭に達していた。
「信行、なにをしていたのだっ!」
信長の怒りも届かないのか、信行は唖然としたまま帰蝶を見ていた。
(見られたっ)その様子に帰蝶は悟った。
とっさに腕で隠したが、あの様子だと直に肌蹴てしまった胸を見られたのだ。
だが信行も信じられないのだろう。問い掛けるような眼差しで、じっと帰蝶を見つめ続けている。帰蝶は蒼白になった。
ひとり信長だけが怒りの形相で立っていたが、帰蝶の着物の切れ端を貫いていた信行の刀を引き抜くと、信行に切りかかろうとした。
「殿、お止めくださいっ!」
後ろから抱き付いて止めたのは藤吉郎だった。信長の動作を、他人事のように見ていた信行が驚きもせずに呟いた。
「兄上……・そんなにこの人が大事なのですか」
「なに?」
「この人は斎藤家の人間ですよ」
「それがどうした」
「美濃は……・父上の代からずっと敵だったんだ」
「そんな事はわかっている」
「この人が、そんなに好きですか」
「なにが言いたいんだ、お前は」
「私たち織田の家族よりも、美濃から来たこの人の方が大事なのですか?」
座り込んだまま信長を見上げた信行は泣いていた。
「なにか勘違いをしていないか」
信長も事の成り行きに困惑している。信行の言動が良く分からなかった。
「母上やわたしより、この人がいいのですか」
信行の問い掛けに、
「信行、私がお前たちを嫌ったことなどない。むしろ私を嫌っていたのは母上の方だろう」
信長は刀を降ろして信行を見つめた。土田御前は信長が自分の実子であるにもかかわらず、乱暴者だと嫌っていた事は誰もが知っている。
「帰蝶も亡くなった美濃の舅どのも、大事に思っているがな。母上もお前も疎ましく思ったことなどない」
「嘘だ……・・」
信行は誰に言うでもなく呟いた。
「嘘ではない」
だが信行は納得していないようだった。
「この人は……いったい…………」
信行に見つめられて帰蝶は固まった。
帰蝶を見つめた視線をそのまま信長に当てて、信行がなにか言いたげな顔をした。何を言い出すのかと、帰蝶が緊張したその時、
「さ、信行様。あちらへ行きましょう」
先ほど信長を押さえていた藤吉郎が信行の側へ来ると、信行の腕を取って立ち上がらせた。藤吉郎はそのままなにか言いたげな信行を促し、腕を取って引きずるように行ってしまった。
「帰蝶、大丈夫か」
信長は裾も袖も千切れてしまった着物を見て、
「あやめ、帰蝶の着替えを…………」
そう告げた。
「はい…………」
安心したように帰蝶から離れてあやめが着替えを取りに行く。
「殿……」
帰蝶は不安げに信長を見た。
絶対に見られた。
帰蝶は確信していた。
「心配するな、それより怪我をしているぞ」
「え?」
言われて気づけば、腕からは出血していた。どうやら信行の刀の切っ先が触れていたらしい。気づく余裕もなかった。襲われたことよりも、気づかれたことに動揺している。
「大丈夫だ」
そんな帰蝶に信長はもう一度言った。
腕の傷がいえる頃、帰蝶は信行が処罰されたのを知った。
自分の罪を悔いて自害したと聞いたが、本当のところはわからない。あの後、監禁された信行の処遇を巡って、母親の土田御前は帰蝶のもとへもやってきた。
信行が帰蝶に対しても乱行を働いたことを聞いたらしい。頭を下げて必死に許しを請う土田御前に、信行のことを怒ってはいないことを告げながらも帰蝶は別の怒りを抱いていた。
なぜその半分も信長を受け入れてはくれないのか。もしも信長を嫡子だと認めてくれていれば、家臣たちも無謀な野望など抱くこともなかったのだ。
そして信行が利用されることもなかった。
帰蝶のことは問題ではない。
あのとき、すでに信行とその家臣、林佐渡守の弟、美作は二度目の信長暗殺を実行に移そうとしていた。
最初の企みの時は兄の林佐渡だけを処分して、信長は事を納めようとしたのに。その気持ちを無にして、愚かな家臣たちとそれに担がれた信行は再び事に及ぼうとした。
二度目はない。どんなに土田御前が懇願しようと、もう遅すぎる。
「なぜ…………」
帰蝶は唇を噛んだ。
帰蝶の実家はすでにない。兄義龍は帰蝶の幼い弟たちを殺し、父を攻め、母親もろとも殺した。帰蝶が愛した家族は今はすでに亡い。
そして嫁いだ織田家も……
ここでもしも信長が討たれることがあれば、織田家は崩壊する。信行では絶対に支えきれない。
最初、信行に付いていた佐久間大学や柴田権六などは途中でそれを見抜き、信長側に寝返った。信行はなぜ気づかなかったのか。
「私の……せい、なのか?」
帰蝶は思い返す。
兄を取られたと思ったのか。まさかそんな子供じみた軟弱さが信行にあったとは思えないが。
だが信行は信長を愛していたらしい。それが兄に対するものなのか。それとももっと違っていたのか、帰蝶にもわからない。
だが信行は信長という人間をよく知っていたのかもしれない。一度でも裏切ったらけして許してはもらえないと。もう二度と心から受け入れては貰えないのだと絶望したのかもしれない。
そして信行は帰蝶に対して抱いた疑問を、日の目に晒さずにあの世へ持って行ったらしい。なぜなのか。どちらの疑問も、もう信行に尋ねることはできないが。
「信行殿…………」
いまはもう花もない、庭の桜の大木の陰に、信行が居るような気がする。
哀しい思いで帰蝶はそこへ目を遣ったけれど夏の葉が生い茂ったその木は、大きな陰を作るだけだった。
-花影の人 終-
-綺譚メモ-
ここで土田御前が登場します。
信長、信行、お市などの生母です。どちらも自分の息子なのに乱暴だった信長を毛嫌いし、おとなしかった信行を溺愛していたようです。信行が事を起こし失敗したとき、彼女は信長に信行の命乞いをしたと言われています。
信長は母の願いを無下に出来ずに弟を助けました。家臣もそれへ連なり許されました。この一連の流れで柴田勝家は信長の度量を見抜き彼の方へ寝返ったようです。
信行は再び家臣にそそのかされて信長暗殺を試みますが、勝家の知らせで信長はこれを察知、信行は信長の家臣に殺されました。