花影の人 中編
帰蝶は実家の家族をすべて失った。父と母、二人の弟。
残った実家は夫の敵となった義理の兄がいるのみ。
もう帰る家はないも同然。
おそらく帰蝶が男として育ったならば、弟たちと同様死んでいただろう。自分が女として尾張にいる理由を帰蝶はひとり家族を弔いながら考えていた。
自然と塞ぎ込む日も多くなった帰蝶を信長は度々外へ連れだしていた。
「今日は城下へ出てみないか」
人目のないところへ遠乗りに行くことはあったが、人混みへ出たことはまだなかった。なぜなら御台所が簡単に外へ出ることなど考えられない時代だったからだ。
信長は昔のような奇抜な格好はもう辞めたものの、たまに浪人のような風情でふらりと城下を見回ることが多かった。
「面白いものを見せてやる」
そう言って帰蝶を連れだした。
供は前田犬千代という子供の頃から信長に使えている小姓の若者ひとり。
信長には常に行動を共にする若武者が数人いた。特に犬千代はその中でも信長のお気に入りのひとりだった。帰蝶も女物の着物を脱いで、小姓姿になる。
昔は良くこんな格好で馬を走らせたが、輿入れしてからはさすがにそんなことはなかった。だが本来はこちらが本当の姿である。似合いすぎる格好に信長も満足げだった。
「いいのですか、殿」
「なんだ」
「犬千代殿も一緒なのですよ」
「かまわん、よけいな詮索はしない奴だ」
「ですが……」
確かによけいなことを煩く言わないところが信長に気に入られている犬千代だった。頭も良いので信長の機嫌を損ねるようなことは言わない。
帰蝶の姿を見て一瞬目を見張ったが、なにも言わずに黙ってあとに続いた。むしろ帰蝶の方が最初は居心地が悪くて困った。
それでも久しぶりの活気のある町には心が浮き立つ。美濃も父が自由に商人を出入りさせていたためににぎやかだったが、ここ尾張も相当なものだった。
にぎやかで市が盛んだと言うことは、人の出入りが多いと言うことである。もちろん物も豊富になって人の暮らしも豊かになるが、それ以上に情報が入りやすくなる。通信が何も発達していないこの時代、とにかく情報をもたらすのは人の口だった。
つまり人の出入りが多ければ多いほど、諸国の情報も入りやすい。信長が出歩くのは、自分の国を見て回ることよりも、この人の流れと情報を掴むことを主としていた。
帰蝶もそんな市を珍しげに眺めていたとき、
「お殿様、お久しぶりでございます」
信長をそう言って呼び止めた物売りがいた。信長は足を止めるとその物売りを眺めた。
「おまえか」
思い出した素振りに物売りは嬉しそうな表情をした。
「なんか面白い物があるか」
信長がそう言うと、
「美濃のお方は勢いに乗っていらっしゃるようです」
信長はじっと聞いている。すると、
「奥方様にこれはいかがでしょうか」
いきなり商売の話をし出した。
信長が睨んでいると物売りは帰蝶の方を見て、
「奥方様は傷心でいらっしゃるので、気晴らしをなさっているのでしょう」
帰蝶は思わず半歩下がる素振りをしてしまった。
(この男……)
「ご愁傷様でした。お父上はたいへん素晴らしい方でしたのに……」
その言葉を聞いて焦る帰蝶と、さすがに表情も変えずに睨む信長は
「まったく食えん男だな……気づいておったのか」
「へぇ、実は美濃の方にも良く行きましたので。奥方様はお国にいらっしゃる頃、よくお忍びでお出かけになっていましたよね。実は噂も出ていたんですよ。道三様にはお子がたくさんいらっしゃるのでいずれかのお子さまだろうと。ただ私はお城に顔を出させていただいたことがありましてね。そのときに姫様をお見かけしています。小姓姿でお出かけの姿を見たときに姫様だとすぐに気が付きました。さすがに尾張に来てからはお見かけしませんでしたが」
「当たり前だ、御台所がそうそう簡単に出歩けるか」
信長は隠すつもりがないらしくそう答えた。
「ですが、人目のないところにはお出かけなのでしょう」
油断のない顔をして男はそう呟く。信長が一瞬殺気立ったのがわかって帰蝶も強ばった。だが男は気づかない振りで、
「もちろん、そんなことをどこかでしゃべったりはしませんから」
のうのうとそんなことを言った。
「仕方がない、それを買おうか」
その信長の言葉に、
「はいはい」
と男は嬉しそうに答えて、
「他には……」と抜かりのない顔で言った。
この上何か売りつける気なのかと帰蝶が呆れたとき、
「尾張と美濃を一周してまいれ」
信長はそんなことを言った。
「またですか」
「いますぐだ。これからすぐに店を畳んで行け」
「なるほど……」
男は何を納得したのか頷いた。
「済んだらお城に伺ってもよろしいので」
「面白い話が土産ならば、城の中でお前の仕事もあるかもしれんぞ」
「それはありがたいです。是非お願いしたい」
「俺を喜ばせたらだぞ」
「もちろんわかっております」
「まだ俺は遠出をする気はないからな」
信長は意味不明なことを呟いた。
「それがよろしいかと、遠くよりもお近くがよろしいですよ」
その言葉に信長が反応する。
「近く……な」
「お気をつけて……お出掛けなさいませ」
真剣な表情の男に
「そうしよう」
信長もそう答えた。
帰蝶にはその会話の意味が分からない。しかし男はすでに店を畳んで支度を始めた。露天の店などあっという間になくなってしまった。
男は信長の近くに寄ると、
「私は必ずお役に立つ人間ですよ」
そう囁いて人混みに紛れていってしまった。
「殿……」
そのときずっと後ろに控えていた犬千代が、控えめに信長に声を掛ける。
「あのままでよろしいので?」
帰蝶はその言葉に緊張したが、
「いい。放って置け」
信長はあっさりそう言うと、男に押しつけられた櫛を帰蝶に渡した。
城に戻って。
「殿、あの者は?」
帰蝶もさすがに気になって信長に尋ねた。
「面白い男であろう?」
「面白いというか……」
帰蝶には面白いとまでは思えなかった。
「面白くないか?猿のような顔をして」
「殿っ」
信長は男の面構えを言ったらしい。確かに顔は面白い顔をしていた。
「油断のならない男です」
帰蝶はからかわれたのかと思い、そう言ったが、
「油断のならないところが面白いのだ」
信長はそう言う。
「どうなさるおつもりです」
「さぁ、どうするかな」
信長はそれ以上なにも言わなかったが、二ヶ月後─────帰蝶はとんでもない場所で男と出会う。信長に誘われて楓で遠乗りをしようとすると、楓を厩から出してきたのはなんとあの男であった。
「お前はっ」
思わず帰蝶が叫ぶと、
「奥方様、いまは馬番をしている木下藤吉郎と言います」
男は頭を下げた。
「なんと……」
呆れた帰蝶は、思わず後ろから来た信長を睨み付けていた。
「そう怒るな」
信長は帰蝶の機嫌を取るようにそう言った。あれから遠乗りに出ると、なぜか藤吉郎と名乗った男は付いてきた。
もちろん徒歩で。機嫌を悪くした帰蝶が信長に構わず先に走り出すと、追いかける信長に続いて男も走る。
しばらく走ったあとで帰蝶は足を緩めた。徒歩で付いてくる男をいつまでも走らせるほど、帰蝶は鬼ではない。だがいまだに機嫌は直らなかった。
「何をそんなに怒る」
信長は面白そうに帰蝶を見た。
「あのような者を簡単に、お側などに置いて」
帰蝶にも最近は織田家の中の不穏な空気が伝わってくる。
以前、信行が呼ばれた訳もいまは知っている。いまの信長はどちらを向いても敵だらけ。なのに得体の知れない者を側に置くなど信じられない。
「俺を信用していないのか」
馬から下りて歩き出した帰蝶の腕を掴んで信長が言う。珍しく強く乱暴に腕を捕まれて、帰蝶は信長を見上げる。
藤吉郎はよく心得ているのか、一定以上は二人に近寄らずに間隔を置いて付いてきた。二人の会話は聞こえないだろう。
「そうではありません」
帰蝶も負けずにきつい目で睨んだ。その表情を見て信長は表情を緩めた。相変わらず帰蝶はきつい性格をしていた。
負けていない。それが信長には面白い。
「あの者は……信用できるのですか?」
帰蝶が確認するように信長に問う。
「いったいなにを信用するのだ」
その問いかけに帰蝶は言葉を飲んだ。
「あの猿の人間性か?それとも俺への忠誠心か?そんなものが無意味なのはお前も承知しているだろう」
帰蝶に返す言葉はなかった。
親子兄弟でも裏切り、殺し合う戦国の世の中。夫婦であろうと信用は出来ないのが常。それを一家臣の信用をどうとか問いかけるのは、無意味で空しいことだ。
帰蝶の両親と弟たちは兄に殺された。兄に従ったのは、かつては父の配下だった家臣達だ。信長の背後では、譜代の家臣が実の弟信行を担ぎ出して、信長の暗殺を企んでいる。
「意味がない……ですね」
帰蝶は目線を落とした。
「だが信用できるものもある」
そんな帰蝶を見て信長は言った。
「少なくともあの男は使える。あの男の持っている情報は貴重だ。そしていまはその才能を俺のために使おうとしている。面白い男だな。諸国を回っていろんな国を見てきたんだそうだ。それで俺がいいと思ったんだそうだ」
帰蝶は信長のかなり後方で、片膝を付いたまま控えている猿に似た男を見た。
「面白いだろう。この俺を、俺の才能を見抜いたのだ。家中の者さえ馬鹿呼ばわりしていた俺をな……」
信長は面白そうに言った。
「帰蝶……この世に決まったものなど無い」
自虐的にそう切り出した信長を帰蝶は見つめる。
「なにが正しい。何を信用する。何を望む。この世に当たり前のものなど無い」
そう一息つくと、最後に言った。
「お前とこの俺が、なにより証明しているではないか」
帰蝶は穏やかな日差しの中、膝を崩し、縁の柱に凭れて庭を眺めていた。
城主の奥方としては行儀が悪いのかも知れないが、最近は奥に居るときは女で居ることに拘らなくなった。
この居室には基本的に信長と帰蝶夫婦の他にはあやめしか近寄らない。呼ばない限りは立ち入るなという信長の命令だった。それは帰蝶が一日中、緊張しなくてもいいようにと言う信長の配慮でもあった。
帰蝶はそれに甘えて、ここでは自由にしている。身につけているものはもちろん女物だが、ここでは言葉遣いも振る舞いもそれほど神経質にならなくていい。それは正直言ってかなり助かっている。
(私ははなにものなんだろう……)
いまだにそんな問いを自分に投げるときがある。
そのままでいいと言ってくれたのは信長だ。父道三は後悔もしていたようだった。だが間違いなく男として育っていたら、ここにこうしていなかったし、すでに生きてもいなかっただろう。
不思議な運命と縁。
『この世に決まったものなど無い』
あの日、帰蝶にそう言った信長の言葉は正しい。明日の自分さえわからないではないか。
あの日から帰蝶の藤吉郎に対する印象が変わった。胡散臭くて信用できなかったのだが、見方を変えれば、確かに面白い男だ。建前ばかりの家臣達よりもよほど頼りになるのかも知れない。
藤吉郎は諸国を回って、信長の気に入る話を仕入れたらしく、すぐに家臣になった。厩番をしていたかと思ったら、次には台所で勘定方をしていた。会うたびに少しずつ出世しているらしいのには笑える。
そしていまではたまに、この奥に来ることさえ許されている。信長が機嫌のいいときには、ここへ呼ばれていろいろな話をしていく。
諸国の話、城内の話。その中で帰蝶は意外にも、人の噂話に大事な真実が隠れていることを知る。情報というものがいかに大切か、信長と藤吉郎の話を横で聞いていて帰蝶は肌で感じていた。
藤吉郎は帰蝶の何かを感づいているかも知れない。帰蝶がそう思うのはやはり感だった。あの聡い男が信長と帰蝶の奇妙な関係に気づかないはずはない。
帰蝶と信長は夫婦としてはかなり変なはずだ。信長は政治的、軍事的な話を帰蝶の前で説明し、語る。
普通はあり得ない。
帰蝶も求められれば意見を言うし、信長がそれを参考にするときもある。他の家臣には見せられない光景だ。
だが猿は賢いらしく、余計な口は挟まない。それがまた信長に気に入られている所以だった。とりとめのない考えの中、帰蝶はふいにまたあの視線を感じる。そんなはずはないと思いつつ、いまは花のない桜の大木に目を遣る。
居ないはずの人間に帰蝶は驚いた。
「義姉上」
「信行殿……」
木の陰に佇む信長の弟、信行を見て帰蝶は絶句した。
-綺譚メモ-
猿……こと、木下藤吉郎は有名なので細かなことは書きませんが、彼も変わった人だったので信長が気に入ったのかも知れません。彼は諸国を回り自分の主人になるひとを探していたようです。道三の家臣になることも考えていたようですが、道三は蟄居してそのあと殺されてしまいました。
さて誰にしようかと思ったときに信長を見定めてみたいと思ったようです。
この辺りは帰蝶と同じ考えなので、帰蝶と猿は実は同じ思考ではないかと私は思っています。自分の妄想の中では信長の真の理解者、味方はこの二人です。
ですからこのお話はそういう前提で進むと思います。
他にも優秀な家臣や武士は居ますが、この作品の中では帰蝶と猿が信長の右腕左腕です。
猿は賢いので早々に帰蝶のことを見抜いたと思われます。ひょっとしたら美濃に居る頃にすでに見抜いていたのでは?と思います。そうなると信長よりも先ですね、出逢いもそうですし……と作品の流れの中でニヤニヤしてしまいました。