花影の人 前編
聖徳寺の会見後、道三はこう言ったという。
「わが子達はいずれ、婿殿の門に馬を繋ぐであろう」
あの一時の邂逅で道三は信長という人物を見抜き、自分の誉れにしたという。そんな道三はもちろん帰蝶の元にも手紙を送った。
「思うとおり、好きに生きなさい」
その言葉は帰蝶を勇気づけた。けれどその一方で帰蝶の実家、斉藤家は暗雲に包まれていた。帰蝶は父道三の身を案じながらも、どうにも出来ずに尾張で暮らしていた。
「お前の父は俺が助ける」
信長もあの会見以来、道三の信望者になったらしく、そう言ってくれるのは嬉しかったが。そして最近の帰蝶にはもうひとつ憂うことがあった。
人の噂はお節介な人間によってもたらせることも多い。悪意を持って囁くもの。無責任に触れ回るもの。さも親切にわざわざ耳に入れていくもの。
そして帰蝶は何度でも自分の中途半端な立場を思い知らされるのであった。
覚悟が足りなかったのかも知れない。あれだけのことを言ってくれた信長を信じていないわけではない。そして……女のように弱いわけでもないはずなのに。
『生駒の方』と呼ばれる女性の存在に最初に気づいたのはこのころ。実際はそのような女性の影は感じてはいたのだが、具体的な形で知ったのはこのころだった。正確には生駒の方と、信長の関係は帰蝶の輿入れ前からだった。
生駒氏と信長の生母の土田御前は縁戚関係にある。その関係で『生駒屋敷』と呼ばれるその館に信長は幼い頃から出入りしていた。野駆けに行って、そのまま駆け込む信長の世話をしていた生駒家の当主の妹で、夫を亡くし出戻っていた『吉乃』という女性と出会ったのだった。
五歳ほど年上のこの女性との関係を信長はずっと続けていた。そこには仕方のない理由がある。なぜなら帰蝶には子供が産めない。
この時代、子供が産めないと言うのは致命的なことだった。帰蝶が女であっても、いや……女だったらなおさら追いつめられたかも知れない。
子供は戦国の世を渡って行くには、絶対に必要不可欠なものだった。出来なければ仕方ないではすまされない。だからこの時代の男達は、妻に子供があっても外にも作る。何十人でも、居ればいるほど必要な、それほど重大なアイテムだったと言っていい。
そう思えば、むしろ帰蝶を男と知っていながら正妻の座に置いておく信長という人間は不思議という他はない。衆道は責められるべきことではないが、世継ぎが居ないのは一大事なのだから、男と知った時点でも帰蝶を正妻からはずさない信長は他の覚悟もしたはずである。
そして帰蝶もその時点で覚悟をさせられた。
『子を産む女は他にいる』
はっきりとそう言われた、あの日の胸の痛みを忘れてはいない。けれど、いくら嘆いても帰蝶が子を産めるわけでもなく、よく考えれば女になりたいなどとも思っていない。
けれど、これは理屈ではない。
信長を愛しているのだ。
他の女も愛しているかも知れない、ましてやいずれ子供も産まれ、親子で笑い会うのかも知れないと思っただけで食事も喉を通らなくなる。
(人とは弱いものだな)帰蝶は誰にも言えない思いを押し込めた。信長には口が裂けても言えない。この件に触れれば、あれほど信長が帰蝶に対して見せてくれた気持ちを疑うことになる。そんな真似は出来ないと、帰蝶はなお頑なになった
◇―――――◇
時は飛んでその数年後。
帰蝶はいきなり赤ん坊を抱いた信長に、度肝を抜かれることになる。
しかもその赤ん坊を帰蝶に押しつけて、
「きょうからこれがお前と俺の子供だ。嫡子だからな。養育はお前に任せた。いい子に育ててやって欲しい」
「ちょ……ちょっと、殿。どういうことですかっ」
「だからいま言ったであろう。お前の子だ」
「私は男ですっ」
そのときの帰蝶は少々気が動転していた。
長い年月、側室の存在に気をもんでいたが、じっさいに風の便りに聞く以外には帰蝶にとっては実体のないものであった。信長は忙しく、飛び回ることも多くて城にいないことも多い。その合間に女の所にも通っているのだろうが、その点は気配りがいいのか、それとも帰蝶が鈍感なのか、その存在を誇示されることはなかった。
だからある意味、これは青天の霹靂である。しかも男の自分に子育てしろと言うのか。他の女が産んだ子供を。さすがの帰蝶も目の前が赤く染まる思いがした。
「はて……」
信長は家臣には見せない、そらっ惚けた顔をたまに帰蝶に見せる。その表情のまま、
「お前は俺の正室ではなかったのか。男とか、女とか、そう言う前に同志ではなかったのか」
「それはわかっておりますっ」
「だったら」
きつい目で信長に睨まれて、帰蝶はたじろぐ。
「お前も蝮の子供ならこの意味が分かるであろう?お前はどういう目的で最初にここへ来たのだ。俺にもそう言う子供が必要だとは思わないのか」
「ぁ……」
帰蝶は意味を悟って言葉も出ない。
「帰蝶」
信長は帰蝶の目の前にしゃがみこみ、
「俺はお前に育てて欲しい。俺を誰よりも理解するお前の手で、俺の子供を養育して欲しいのだ。この子がいつか俺の跡を継げるかどうかはお前の腕次第だ」
「殿……」
帰蝶は腕を差し出し、赤ん坊を受け取ると胸に抱いた。自分が赤ん坊を腕に抱く日が来るなどと想像したことはない。だが柔らかく無心な様子は自分の子でなくともかわいらしかった。
「引き受けてくれるな」
「はい」
頷く帰蝶に満足そうに目をやりながら、信長は部屋を出て行きかけて振り返った。
「それからな……」
「はい」
「その子の母親もお前に任せるから、お前がいいように教育してくれ」
「え?」
聞き返したときは信長の姿はすでになかった。
「と……の」
帰蝶は呆れて、手の中で無心に眠る赤ん坊を見下ろす。
「やられた……」
信長は帰蝶をまんまとその気にさせて、自分の尻拭いまでさせる気なのだ。じっさい……これ以降も信長はあちこちに子供を作ることになる。
「殿がいちばん子供です」
面倒なことをいっさい帰蝶に押しつける信長は、帰蝶にとっていちばん手の掛かる子供になったのは言うまでもない。
─────そして、それより少し時間は遡る。
信長と帰蝶の父道三が無事会見を終えた後、三年ほどは帰蝶にとっても信長にとっても肉親の憎愛を断ち切らなければならない、慟哭の日々であった。
信長と会見をした道三はその後、息子義龍に家督を譲り隠居した。家督を譲ったと言えば聞こえはいいが、帰蝶とは腹違いのこの兄はずっと父を憎んでいた。父道三が自分の本当の父ではなく主殺しの犯人で、自分はその主筋の子供ではないかとずっと疑っていたのだ。
帰蝶は本当のところは知らない。兄弟と言っても兄とはほとんど口を利いたこともないし、父にその真実を問うたこともなかった。
もっとも事実であってもこの時代、たとえ親兄弟でも殺し合う時代だと言うのに、主殺しなどで騒ぐほどのことでもなかった。
だが兄にとっては違ったのだろう。もちろん兄が父の子でないのなら、敵だというのも頷けるが。
その兄はとうとう父を追い出したらしい。あの父がなぜ素直にそれに従ってしまったのかは帰蝶には疑問だったが。帰蝶はその知らせを信長から聞いたときに念を押された。
「覚悟は必要かもしれんぞ……」
それは父道三が死ぬかも知れないと言う信長の考えだった。
戦国の世は食うか食われるか。主従であろうと、親子兄弟であろうと、強いものが勝つ。弱いものは去って行かねばならない。
帰蝶もその習いは身に染みていた。覚悟を決めた帰蝶はそれでも神仏に祈るくらいしかできない。
父の元には母もいる。弟もいた。自分が男のままなら一緒に闘ったのかも知れない。それが何をどう間違えてしまったのか。
信長の元に来たことを悔やんではいないが、それでも父の元に行けない自分を歯がゆく思っていた。
帰蝶に出来ることは本当に少ない。
そんな帰蝶を見て、
「お前の父は、俺が必ず助ける」
信長は力強く、そう言ってくれたが。今度は信長が無茶をしないかと心配になる。どちらにしても祈ることしかできないのだと、帰蝶は自分に言い聞かせるしかなかった。
その朝もひとり、実家と信長の無事を願っていた帰蝶はふと視線を感じた。武家に生まれたものとして、人の気配には敏感である。庭先の茂みに立つ影を見て、帰蝶は記憶を呼び起こす。
「信行さま?」
微かに捕らえた影は信長の弟、信行らしかった。末森の城主になっている信行がなぜここ清洲にいるのかわからなかったが、間違いはないと思った。
その夜、帰蝶は信長に尋ねた。
「信行が?」
「はい、間違いないと思うのですが……」
その日見かけた人影のことを話すと信長は、
「お前の姿でものぞきに来たのではないのか?」
笑いながらそう言って驚きもしない。
「冗談は止めて下さい!それより信行さまはこちらにいらしているのですか?」
「あぁ、ちょっとな。聞きたいことがあって呼び出した。すぐに帰ると思うが」
「そうなのですか」
帰蝶は疑問に思うことがいくつかあったのだが、聞かずにおいた。まだこのときの帰蝶は、織田家の中で陰謀が形になっていることに気づいてはいなかった。
翌朝、珍しく信長と共にゆっくり過ごしていると、また気配を感じた。目線をやると隠れることもせずに木の陰からこちらを見ている信行と目があった。
(恐い目……)
帰蝶はそのときそう思った。
それがどうしてなのかと言うことを考えもしなかったのだが。
「殿……」
小声で囁くと、信長はとうに気づいていたらしく、
「ほうっておけ」
そう言って、不意に帰蝶を抱き寄せた。
「殿!ふざけないでくださいっ」
予想外のその行動に帰蝶は信長を睨み付けた。
「恐いなぁ……帰蝶。この信長を睨むのはお前くらいだぞ」
呆れた信長の声に、
「殿がふざけるからですっ」
そのまま帰蝶はつんと横を向いた。
夜ならともかく、朝の光の中で、しかも信行が見ているかも知れないのに。そう思うと、信長の悪ふざけも許せない。
気づけば、信行の影はなかった。
「なぜ、信行さまはあんな所から……」
用があるなら来ればいいのに。そう疑問に思う帰蝶に、
「だから信行は美しいお前を盗み見に来たんだよ。唯一、この信長が頭の上がらない綺麗な妻の顔をな……」
信長はそう呟く。
「殿、お世辞はけっこうです」
「相変わらず、きついなぁお前は」
それでも信長は満足そうに帰蝶を見て微笑んでいた。
それからしばらくして。
信長の元に父道三から遺言状が届いた。そこには『美濃は娘婿、織田信長に譲る』と書いてあった。
この時代、そんな遺言状などなんの効力も持たない。実力のあるもの、力のあるものが奪い取るだけの世界。そんな中生き抜いている父道三と信長が、意味がないと承知の上で差し出し、受け取った遺言。
その理由を考えて帰蝶は涙が止まらない。
父は唯一、自分の跡を継げるものは信長しかいないと認め、信長もそんな道三を尊敬し、意思を尊重してくれた。
他の武将が聞いたら笑うかも知れない、それでもいい。父と信長は男として、優れた武将としてお互いを認め合ったのだ。
そしてその数ヶ月後。
父道三は兄義龍に破れ亡くなった。母と弟も亡くなり、母の実家、明智家も崩壊した。従兄弟の明智光秀はこのとき行方不明になった。
「すまなかったな」
信長が間に合わなかったことを悔いて詫びてくれたが、帰蝶は首を振った。
「いいえ、父はそんなことを望んではいませんでした」
父道三は、信長に前もって深追いはするなと釘を差していた。必ず道三を助けに信長が来ることを知っていて、『形だけでよいのだ、世間向けに義理を果たせばそれでいい。損をすることはない』
美濃攻めは信長にとっては時期尚早とみて、形だけ進軍すればよいぞと使いをよこしていた。絶対に深追いはならぬ、時代を読め、とくれぐれも申し伝えていた。
だが信長は引き下がるような男ではない。もちろん道三を助けるつもりで出兵したのだが、やはり戦は不利で道三を助けるあと一歩と言うところで引き下がった。
道三討ち死に。
そう聞いては最早、進軍の意味はなかった。人間として、男として惚れたからどうしても助けたかった。そして帰蝶の父だから助けたかった。
信長の中には理由はいくつもあった。だが叶わなかった。無理を承知で挙兵したが、やはりいまの美濃勢には叶わない。信長は自分の非力さを嘆いたが仕方がない。
帰蝶は泣きながら言った。
「殿……このご恩は一生忘れません」
織田の領内でさえいまは大事なときに、危険を承知で挙兵してくれた信長に感謝以外のなにものも帰蝶には浮かばなかった。元々父が助かるとは思っていない。
「老兵は去るのみ……」
父ならば、必ずそう言ったに違いない。
新しい時代を信長に託したのだと帰蝶にはわかる。美濃まで出かけてくれた、それだけで嬉しかった。
『残った家臣は婿に付くが良い。義龍についても良いが、息子はいずれ婿殿に滅ぼされる身』
父道三はそうも言い残したという。帰蝶はその言葉を聞いて、自分の父と信長を誰に恥じることなく、胸を張れると思った。
父の意志を継ぐのは信長。帰蝶の中でも京の都が少し近づいた日でもあった。
-綺譚メモ-
勘十郎信行という名で語られることが多いのですが、実際の系図にはその名がないようです。信勝等ほかの名で記されているのですが、なぜ信行の方が有名なのか不思議です。
ここでは信行と書きますが、彼は信長と同じ生母を持つ兄弟です。
突拍子もなかった信長とは違い彼は折り目正しい青年で紳士だったようです。一族の間の細かな[大きな?]諍いなどもあり、家臣の中には彼こそが織田の跡継ぎにふさわしいと思うものも多かったようです。
中でも林兄弟と柴田勝家が有名です。しかし彼らの策謀は一旦崩壊します。
信長が家臣に見くびられたのは道三の存在が影響しています。道三がいる間、彼に気に入られた信長をどうこうできなかったのですが、道三が亡くなったために彼らは事を起こしました。けれど信長はうつけではなく、彼らの思うように殺すことは出来なかったのです。