桜散る宵 前編
帰蝶が信長に嫁いで一年が経った。
尾張での生活にも慣れて来たこの頃。帰蝶にも深刻な織田の家中の状態と信長の微妙な立場がかなり分かってきた。
そんなある日。
信長の父、信秀が死んだ。倒れてからあっという間の死であった。
信秀の葬儀は那古野城に近い寺で行われた。
信秀はもともと尾張を治めていた斯波氏の家老を勤めていた織田家の、そのまた家来筋にあたり、低い地位にあったものが僅かの間に主家の織田家を凌ぎ、斯波氏さえも退けて尾張の半国を手に入れた猛将であった。
合戦上手で才知もあり隣国の斎藤道三、つまり帰蝶の父とは戦を常に交えていたが、帰蝶を信長の嫁に貰ってからは、とりあえず友好を保っていた。やっと安定したかに見えた矢先の病死である。
主君が急死をすれば、いつ攻め入られるかわからない。織田家の場合は信秀が死ねば、今まで押さえられてきた主君筋の織田一族もいつ攻めてくるかわからない状態だった。
けれど葬儀は行わなければならない。そして信秀が死んだとあれば、その後を継ぐのは嫡男の信長であるはずだった。
新しい当主の信長を喪主に、重臣の林佐渡守通勝、平手政信らが手配をして四百人ほどの僧侶が寺の本堂を埋めた。
当然ながら本堂には次男の勘十郎信行が家臣の柴田権六[のちの勝家]、佐久間大学らと威儀を正し、折り目正しく貴公子然として座っていた。
正室、土田御前との間には二人の男子だが、戦歴も華やかなら『英雄、色を好む』を地で行った信秀には庶子が他にもたくさんいた。
女性陣は正室の土田御前に娘の市姫、そして帰蝶が当然連なった。
しかし─────
いくら読経が進んでも肝心の信長は現れない。帰蝶は内心気は気ではなかった。
信長は今朝になると何を思ったか鷹狩に行くといって、いつもと変わらず朝早くに出かけてしまった。帰蝶が止める暇もなく、自分が喪主を勤める父親の葬儀の日だというのに。そしていまだに帰らない。
読経は続いていた。が、しばらくすると主僧が言った。
「ご焼香を……」
にわかに周りが騒がしくなる。
なにしろ喪主の信長が居ない。喪主が焼香をしなければなにも始まらなかった。
「平手殿」
咎めるように佐渡守が問い掛けた。ことの不始末は守り役である平手の失態でもあった。
むろん、朝からずっと家臣たちに行方を探させているが、どこを捜しても見つからないのだった。不在の信長に代わって、重臣たちの咎める目は平手に注がれる。
「平手殿」
それを見て帰蝶も落着かない。出来れば自分が立って探しに行きたいが、嫡男の正室である帰蝶までがそんな勝手は許されない。
(殿……)
目を閉じて思わず祈ってしまった。
「若殿がお見えになりました」
家来の声にはっと目を開けると本堂の入り口から信長がやってきた。折りしも季節柄、満開の桜が舞っていた。
その桜の花の下をくぐるように現れた信長の姿を見てほっとした帰蝶は、次の瞬間悲鳴を上げそうになって思わず口元を押さえた。
「殿……!」
信長はこの葬儀の式に、いつもと変わらない格好でやってきたのである。例の野山を駆け回る時に着ている、というか、いつも信長が着ているあの妙な格好である。
礼装どころか、刀は妙に長く腰に付けてはいるが、袴ははいていない。着物の胸ははだけたままで、荒縄で結んであった。髪は例のごとく茶筅と呼ばれる無造作な結い方で天を向いている。
いっしょに暮らして一年も経てば、帰蝶も信長のこの奇妙な格好に慣れた。しかし今日は仮にも父親の葬儀で、自分は喪主なのだ。信長が現れたことにほっとした空気は、一瞬にして怒号に包まれた。口も利けないほど唖然とした平手は別にして佐渡守などは
「と、殿は乱心召されたのか」と平手に詰め寄った。他の家臣たちも似たようなもので、本堂の中は騒ぎになりだした。
すると、
「退け!」
遮るように立っていた佐渡守を押しのけると、その格好のまま祭壇の前に信長は来た。とにかく、焼香の一番目は喪主である。
だが信長は焼香箱の中からいきなり香を鷲づかみにすると、
「喝!」
そう言って、香を位牌に向かって投げつけた。
その声の鋭さに、騒然となっていた本堂が一瞬のうちにしんと静まり返った。
ただ僧侶の読経の声だけが響く中、
「帰るぞ!」
そう言っていきなり帰蝶の腕をつかむと信長は本堂を後にした。帰蝶の背中で再び本堂が騒がしくなるのが分かった。
帰蝶はといえば、まだ焼香もしていない。けれど帰蝶は逆らわなかった。
帰蝶には見えたのだ。
香を投げる直前、位牌を睨み付けた信長の唇が『父上』と呟いたのを。
そしていま帰蝶の腕をつかんで前をゆく信長の背中が泣いているのが帰蝶には分かっていた。
河原には強い風が吹いていて、土手で咲く桜の木が花びらを散らしていた。
信長は川面を見詰めたまま動かない。見つめているというよりは睨んでいるようだった。
帰蝶は信長の背中を見つめて佇んでいた。
強引に葬儀の場所から連れ出されたあと、馬の背に一緒に乗せられてここまで来たが、それ以来信長は一言も口を利いていない。
何も言わない背中が何よりも信長の気持ちを伝えているようで、帰蝶は苦しかった。それでも帰蝶は黙ったままそこに立ち続けた。
まだ肌寒い風に身体が冷えてしまった頃、信長はやっと身動きをした。帰蝶に近づくと、自分の重ねて羽織っていたぼろぼろの衣を一枚脱ぎ、帰蝶の肩に掛ける。
その衣は暖かく、微かに信長の匂いがした。
「との…?」
帰蝶が問いかけると、信長はなにも言わずに帰蝶を抱え上げ、また馬に乗り城へ戻った。
城に着いた頃にはすでに日が沈みかけていた。奥へはいると、城の中は大騒ぎだった。
それはそうであろう。嫡男夫婦が、葬儀をすっぽかしたのだ。
前代未聞である。迎えにでたあやめが程々困ったように見えた。
「姫さま……」
あやめはいまだに美濃にいるときと同じように『姫さま』と呼ぶ。まずいのではないかと帰蝶は思ったのだが、信長が許したのだった。
時々信長の考えていることがわからない。だが信長のそういうところに、元々頭のきれる帰蝶は惹かれるのかもしれない。とにかく信長という男は見た目や最初の印象だけでは量れない男なのだ。
奥へ入るとそこには守り役の平手政秀が待ち構えていた。心なし顔色が悪い。無理もないと帰蝶は思い、平手に同情した。
「なんだ爺、わざわざ待っていたのか」
「若殿……いえもうあなた様は家督を継がれたら……」
「そうは簡単にいくかな?」
平手の言葉を信長は遮って尋ねる。
「勘十郎の一派が黙っていまい?」
「そ、それは……」
平手が口篭もると、
「まぁよい、そんな事はどうでもいい、信行が何をしようと俺はかまわんよ」
本心から信長が言っていることは帰蝶にも分かった。いま、信秀に死なれ、織田家は崩壊寸前だった。本家の織田家もこの隙を突いてくることは間違いないし、信秀の跡目争いが起きることは必須だった。
帰蝶は葬儀の場で目にした勘十郎信行の貴公子然とした立ち居振舞いを思い出す。
「分かっていらっしゃるならどうか、今までのことは改めて……」
平手の小言もなぜか弱々しかった。
葬儀のことだけでも心労が重なっていただろうに、そこへ来てこの信長の所業である。
信長と帰蝶が消えたあと、平手が集まっていた皆からどんな責めを受けたのかを想像すると帰蝶は胸が痛かった。
「平手殿、本当に申し訳ありません。でも殿には殿のお考えがあってのこと。殿のことを信じて辛抱してくださいませんか」
謝るはずのない信長に代わって帰蝶は平手に頭を下げた。平手の心情は察するが、悲しいかな平手には信長の心のうちは見えていないようだった。
平手はうな垂れたまま帰っていった。その小さく見える背中を見送って帰蝶は切なくなる。平手は唯一の信長の味方だというのに。
(平手殿のでさえ、殿の真意は見えていない……)
夕餉のあとも信長は黙ったままだった。
帰蝶も黙ったままそこに居た。尋ねたいことは山ほどあったが、今は聞く時ではないかも知れないと思った。
「帰蝶」
「はい」
沈黙を破ったのは信長の方だった。
「俺が親父に死なれて、今どんな気持ちなのか分かるか」
いきなりそう帰蝶に問い掛けてきた。
「殿は……悔しいのでしょう」
帰蝶の答えに信長が意外な顔をする。
「どうしてそう思う?」
信長の顔に帰蝶もやっと心が緩んだ。
「ひとつには時期が悪すぎます。殿の準備がまだ整っていない。もう少し時間が欲しかった。これが多分一番の理由」
「ほう?」
信長が面白そうに帰蝶を見た。
「お前が俺の計略を読んでいると言うのか」
その言葉に帰蝶は笑顔を返した。
「私は女ではない、殿がそう言いました。私の役目は殿と一緒に戦う戦友です。少しは殿の考えていることも分かっているつもりですが」
帰蝶は信長と二人きりの時しか見せない顔と言葉で答えた。
美濃に居る頃、父親の前でしか男の言葉と表情は見せなかった。だがここへ来て信長に正体がばれた時、信長は父道三にしか見せなかったそのありのままの姿で居ることを望んだ。
女なら他にいくらでも居ると言われた帰蝶も腹を括った。自分が信長に対して女である必用はない。二人きりのときは言葉も態度も本来の自分に戻っていた。もちろんこれを知るのは信長とあやめの二人だけだったが。
信長はそんな帰蝶を面白そうに見て、
「なら他の理由は?」
そう尋ねた。
帰蝶はその言葉に表情を曇らせて、
「あんな死に方をなされた父上に対して無念なのでしょ?」
そう答えた。
信長は黙っていた。まだまだ元気に戦に出られた年齢で、女と酒に体を壊し、死を早めたのは明らかだった。
帰蝶も早死にした信秀を哀れむ反面、恨みがましくも思ってしまう。
(殿が可哀想。これからのことを思うと)
信秀の死を一番惜しんでいたのは、たぶんこの信長だ。自分の父の力も偉大さも充分わかっている。
だからこそ父の存命中にあんな無鉄砲なことが出来たのだ。信秀あってこその自分だと自覚していた筈だった。
だがこうなると信長の計画は狂ってきたに違いない。
(どうなさるおつもりなのか)
帰蝶の言葉に虚を衝かれたような信長だったが、しばらく考えた後で
「で?おまえはこの俺がこの後どうすると思う?」
いつもの鋭い眼差しで尋ねた。
「なにもしない」
「なんだと?」
「何もしません」
「なぜだ」
信長は面白そうに笑っている。その顔につられたように帰蝶も笑顔になりいたずらな表情を浮かべ、
「だって、敵ばかりだから」
深刻なことを何でもないように答えた。
「殿はこれからあちこちの敵に目を配り、どこが先に仕掛けてくるのか見極めなきゃならない。来るのは今川か、それとも織田か……それとも……」
「それとも?」
益々信長は面白そうな顔をする。
「美濃の道三か」
帰蝶は自分の父親の名を上げた。
当然である、この好機を父道三が見逃すはずはなかった。
「さすがだな、といって誉めてやりたいが、いまひとつ甘いな」
「え?」
言い終えた信長は帰蝶を自分の懐に抱き寄せた。驚いただけではない意味で鼓動が跳ねるのを帰蝶は感じた。
信長の胸の中は昼間と同じ、温もりと匂いがした。帰蝶に妙な安心感を与える物だった。
「帰蝶、お前の答えはよく出来ている。たぶん家中でお前以上の答えを出せる奴も俺のことを理解する奴も居まい」
信長は嬉しそうに笑った。
「だが、あと一歩だな。詰めが甘いぞ。俺は攻めてくる敵を待ったりはしない。こちらから仕掛けるのみだ」
「ですが、との……」
そんな信長の性格は百も承知の帰蝶だった。
けれど今は時期が悪すぎる。体制も整っていない信長が周りの強敵に対して何が出来るというのだ。
「そうだ、お前が思っているようにちょっと頭の働く奴なら俺が今どうすべきか知っているさ」
「だから、ですか?」
「そうだ、裏を掻くには一番いいだろう?」
「だが、危険すぎるっ」
帰蝶は信長の腕の中で抗議した。ひとつ間違えば文字どおり命取りだった。
「そんな危険な賭けをあなたにさせられない」
「帰蝶、俺に付いてきたいか」
「もちろんです」
「だったら常識は捨てろ」
「でも」
「誰でも考えることでは好機は掴めない、人と同じでは生き残れない、凡人は罪だと思え」
「わかってます、わかってる……けど」
帰蝶はなおも食い下がった。不安げな帰蝶を見下ろして信長はなおも言った。
「俺は天下を取る、それに付いてくる気なら、帰蝶……」
信長に言われ、帰蝶は見つめかえした。
「帰蝶、俺に付いてくるなら、腹を括れ。尋常な死に方は出来んかもしれん」
帰蝶はじっと見つめかえしたまま動かなかった。動けなかったのだ。体中に熱いものが走った。
信長はいま、なんと言った?
「帰蝶?」
信長はいつになく優しい表情をしていた。きつい言葉とは裏腹に帰蝶を優しく見つめていた。
「一緒に来るか?」
「はいっ」
言葉を返したとたんに、いっそう強く抱きしめられた。身体が折れるかと思うほど。
そのまま信長は動かなかった。
「との?」
帰蝶の問い掛けに、
「しばらく……このままいさせてくれ」
信長の言葉にさっきとは違う意味で熱いものが帰蝶の胸に溢れる。こんな信長の真意をいったい誰が知っているというのか。
そもそも本当の信長を知るものなど、どこに居るというのか。死んだ信秀は分かっていたのだろうか。自分の息子の偉大さを。
平手はいつか分かってくれるだろうか。誰にも理解されない信長が憐れだった。帰蝶はこんなに綺麗で哀しい人を他に知らなかった。
「私を……」
「なんだ」
「私をいつでも一番側に置いてくれますか?いつでもあなたの側に、どんな時も」
「お前がそうしたいならな」
帰蝶にも確実に分かっていることがある。信長はけして嘘を付かない人だった。
帰蝶の危惧した通りに時代の動きは早かった。
信秀の法要を済ませていくその間も、織田家に人質としてきていた松平竹千代[後の徳川家康]が今川に戻って行った。
やはり織田の小競り合いを見ていた今川義元が好機とばかりに、織田の領地に攻め入ってきたのだ。信長の腹違いの兄が今川の人質となり、竹千代と交換ということになった。
その時信長は弟の信行のこともあり、身動きが出来ない状態で、弟のように可愛がっていた竹千代を手放すしかなかった。
美濃の道三も着実にその領地を広げ、次は信長の居る尾張をどうするつもりなのか?と言うところまで来ていた。
「帰蝶、蝮はどうするつもりかな?」
「さぁ、どうなのでしょう」
「お前も蝮と同じで食えんな」
信長は機嫌がよさそうに笑う。
「あの父の考えてることは、私にも分かりませんよ」
だが帰蝶はそう言いながら、最近は父への便りに必ず信長のこを書いて誉めちぎっている。惚気と取られてもいい。先のことはわからないが、できればやはり父と信長が争うようなことは避けて欲しいと思うのが本音である。万が一の覚悟は出来てはいるが。
そんな事を考えている時にあやめがあわてた様子でやってきて
「殿さま、平手様がお見えに……」
「爺か?」
「いえそれが……」
あやめが答えぬうちに
「失礼、申し上げますっ!」
あわただしく入ってきたのは平手の三男、甚左衛門だった。
「なにごとだ」
「殿っ、申し上げます……父、政秀が……自害いたしましたっ!」
「なにっ!?」
父親の死の知らせにも動揺を見せなかった信長が、慌てて立ち上がり腰が抜けたように据わり込んだ。
「まさか」
信じられれぬように呟く信長を、帰蝶もその死を信じられないように見つめた
-綺譚メモ-
信秀はなかなか豪胆な人であったようです。
しかし、諸説はあるものの四十ちょっとで亡くなってしまった。そしてこれも事実らしいが二十数人の子供…つまりそれくらい女に忙しかったらしく、早死にもそのせいと言われている。
一説には腹上死説もあるくらいで、女とやってる時に卒中を起こしたとか、逸話もそれなり。
武人としては'尾張の虎'と言われたくらいだし、その父(信長の祖父)が土台は築いたらしいが、一代であれだけの領地を手に入れるということは、信長ほどではないにしろ、かなり優秀な戦国武人だったに違いないと思います。
だから早すぎる死は信長にとってはとてもショックで、男としてもその死を惜しんだのではないでしょうかね。
母に疎まれて育った信長には父だけだった、と言う見方もあります。信秀は当然、信長の日常や所行は知っていたはずなのに最後まで廃嫡にせず、しかも自分の懐刀の平手を守り役に付けていたところを見ると、やはり信長に対して感じるもの、もしくは何かを見抜いていたのかも知れません。
祖父、父と優秀さに磨きをかけて、そしてその子信長は歴史に名を残す人物となるのですね。