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恋愛草紙綺譚  作者: 紫逢瑠依(しおうるい)
本編
4/10

尾張の鷹 後編

 あれから信長は時々、帰蝶を遠乗りに連れ出してくれた。

 どういうつもりなのかはわからないが、あれ以来、帰蝶の身の上や今後のことについて信長はなにも言わなかった。

 もっと不思議なのは帰蝶を毎晩抱いて眠ることだった。文字通り抱いているだけで、それ以上なにをするわけではない。いわば抱き枕状態なのだが、帰蝶には何とも言えない気分だった。

 家臣の手前は大変ありがたかったが、相変わらず信長が考えていることがわからない。そんなふうに時間だけが過ぎていった。

 信長が相手をしてくれない日は本当に暇だった。相変わらず城内をうろつけば、胡散くさげに織田の家臣から睨まれたし、一人で遠乗りなどもってのほかだった。帰蝶が一人で城の外へ出るなど許してもらえるはずがない。

 それは至極当然のことだったので、帰蝶はしいて不満は口にしなかった。敵の中にいるような感覚は知らずに神経をすり減らしているようだったが、そんなことははじめから承知の上だったので、今更である。

 皮肉なことに信長と居るときだけが、心が軽くなるときだった。

 ただ信長は実際には手を出してこないものの、隙があればすぐに帰蝶を脅すような真似をした。いきなり腕をつかまれたり、押し倒されたりしたことがある。

 だがそれだけで、それ以上のことはしない。しないのだが、帰蝶はそのたびに脅えてしまう。けして信長自身に怯えているのではなく、本能なのか身体の方が勝手に反応して逃げを打ってしまうのだ。

 以前本気でのしかかられた時の恐怖なのか。女のように脅える自分が嫌なのだがどうにも出来ない。どうやら信長はそんな帰蝶を面白がっているらしい。

 悪趣味なのだが、だからといって信長が嫌なのかというとそうではない。ある意味で信頼できると思っているし、男としても魅力のある人物だと思う。

(自分が女なら……)

 正直、複雑な育ちのせいで今までも男と女という自分の中途半端な立場に苦慮したことは何度かあったが、今回は帰蝶も行き止まりになってしまった。

 女なら諦めてこのまま信長に仕えることも出来る。けれど、どうあっても帰蝶は本当の意味で信長の妻にはなれない。

 ここ最近はそんな事ばかり考えている自分に気づく。女として育てられてもそれは見た目だけで、帰蝶は自分は男だと思っているし父も人目がないところでは女扱いはしなかった。だから帰蝶も女になりたいなどと思った事はない。

 けれど今の状態は辛いものがあった。美濃から来た、と言う以上に自分の居場所が見つけられない。

 家臣たちに白い目で見られても平気だが、自分が信長の妻にはなれないということがこの先の自分の居場所を奪っている気がするのだ。信長はいつまで帰蝶をこのままにしておく気なのだろう。

 ずっとこのまま、と言うわけにはいかない。その時になって帰蝶はどうすればいいのだろう。まさかここへ来てこんなことになるとは思っていなかったので、帰蝶は途方にくれる。

 信長も殺せない。美濃に逃げ帰ることも出来ない。そして自分を殺すことも出来ない。自分が用意してきた道はすべて絶たれてしまった。

 それを先回りして塞いでしまった信長はさすがというべきである。一緒に暮らせば暮らすほど、信長が只者ではないのは分かる。帰蝶には信長がなにを思って自分をこのままにしているのかわからなかった。


 そんなある日。

 相変わらず外へ出たままの信長から珍しく使いが来た。珍しいというか初めてのことだった。

 多分新しく拾った子供なのだろう。門番に通してもらうと帰蝶のもとへ来て

「信長様が待っているから、いつもの河原へ来て欲しい」

 そう言ってきた。

 珍しいこともあると思って暇を持て余していた帰蝶は身軽な格好になり、厩へ行った。厩番に楓を出して欲しいというと、酷く胡散臭げに見られた。

「わたしの一存では出来ません」

「信長様から使いが来たのです、それでも駄目ですか」

 今日は帰蝶も食い下がったのだが、

「ご家老様に聞いてきます」

 そう言って聞いてはもらえなかった。しばらく待たされた上に出てきた答えは

「やはり出来ません」

 帰蝶はため息を吐いて諦めた。

 仕方がない。おそらく反対に美濃であっても、敵から嫁いできた人間をひとりでふらふらさせないだろう。

 この時、聞きに行った相手が、信長の目付け役の平手政秀あたりならどうにかなったかもしれないが、家老の中にも帰蝶どころか信長にさえ反感を抱いているものが居る。

 自分の実家でも覚えがあるので帰蝶はその辺のことはいつも納得していたが、今日は信長からの命令といってもいい。だがそれを証明するものは居ない。先ほどの子供など、居たとしても信用はしてもらえないだろう。

 信長は怒るかもしれないが、ここは諦めるしかなかった。


 その夜。

 夕方というよりは暗くなって帰って来た信長はちらと帰蝶を見て何も言わなかった。夕食後、いつものように帰蝶の膝を枕にして横になり急に言い出すまでは。

「なぜ来なかった」

「すみません」

「謝れとは言ってない、理由を聞いている」

「行けなかったのです」

 帰蝶は事実だけを告げた。

 厩番や家老達のことを告げ口するつもりはない。それでなくとも帰蝶の立場は微妙だし、取りようによっては信長さえ織田家では微妙な立場なのだとここへ来てからの帰蝶は知った。

 無理に波風を立たせる必用はない。

 そんな帰蝶の詫びを信長がどう受け取ったかはわからない。いきなり腕をつかまれて引き寄せられたものだから、帰蝶は膝の上にある信長の顔を間近で覗き込むような格好になってしまった。

「理由を聞いたのだがな」

 時折見せる恐いくらいの冷たい目でじっと見詰められて帰蝶は凍った。

 信長は相手を時々こんな目でじっと見る。心の裏側まで見透かされそうな瞳で。

 家臣たちはこれが恐いというのだろうが、帰蝶が凍るのは信長自身が恐いというよりも、信長にこんな目をさせる現実の方だった。信長はけして冷たいだけの人間ではないのに、これが信長だと思い込んでいる人間のなんと多い事か。家臣もほとんどが信長は冷たい人間だと思っている。

 帰蝶はそのことを寂しいと感じていた。自分の想いが顔に表れていたかはわからない。

 帰蝶もただじっと信長を見詰めかえした。寝床に入ってから、信長はいつものように帰蝶を抱き寄せると急に妙な話をしだした。

「蝮のところに間者を送ってある」

「は……い?」

「お前のとこの家老の二人は俺の間者だ」

「え?」

 さすがの帰蝶もうろたえた。父は知っているのだろうか。

「教えてもよいぞ」

「は?」

「蝮に手紙でも書いて知らせてやれ、お前の手柄にしてもよい」

「なぜそんな事を……」

 帰蝶は信長がなにを考えているのか分からなかった。帰蝶が尋ねても信長はそれ以上は答えなかった。

 それでも帰蝶は父に手紙は書かなかった。

 だいいち、信長の話が本当か分からないし、本当だとしても帰蝶が実家に出した手紙がそのまま父に秘密を知らせるとは思えない。

 織田の家中がそこまで間抜けとは思えないし、万が一信長の言う通り美濃の家老が織田に寝返っていたとしても、それなら父道三が気づかない筈がないと思う。また本当に気づかないのなら父もただの人になったと言うわけだ。

 帰蝶は父に対しては絶対の信頼を置いている。まったく心配をしていないといったら嘘になるが、その信頼がぐらつくことはない。

 むしろ帰蝶にはなぜ信長がそのような話をしたのか、その方が気になって仕方なかった。

 しかし、一週間ほど経って……

 美濃の家老が二人、父道三によって切り捨てられたという知らせが届いた。その知らせが信長と帰蝶、二人のもとへ届いた時に信長はちらっと帰蝶を見た。帰蝶はひとことも何も言わなかった。

 知らせに信長も「そうか」と言っただけだった。

 帰蝶は信長にどう思われているのか気になった。自分は何も言っていない。けれど言葉に出してそれを言うことなど不要に思えた。

 信じてくれているなら何も言わなくとも信じてくれる人だった。

 だがもし……疑われたなら。

 信長に言い訳は通じない。裏切りは絶対に許さない人間だった。

 帰蝶の言い分は問題ではなく。信長が帰蝶という人間をどう思っているのか、それだけだった。

 二人きりになった後、だが信長はこう言った。

「どうやら蝮に知らせた人間が居るらしい」

 帰蝶は目の前が真っ暗になった。

 織田の家中でもその話は広まった。

 ただでさえ居心地の悪かった帰蝶はさらに白い目で見られた。やはり帰蝶が知らせたと思われているらしい。単純に考えればそういう時の為に敵に嫁ぐ意味もあるわけで、そう考えるのは自然の成り行きでもあった。だからそれ自体は仕方ないと思うのだが。

 今回の帰蝶の憂鬱は信長が自らその話を帰蝶に持ち掛けたことである。普通は帰蝶が探るなり、偶然つかんだ情報を実家へ送るのなら分かるが、信長は自らその話を帰蝶に持ち掛けて、実家へ知らせろとまで言ったのだ。

 その真意がわからなかった。帰蝶が悩むのはその一点だけ。あとは平気だと思ったのだが、侍女たちでなく家老同士の話まで聞こえてしまった時にはさすがに気が重くなった。

「殿は帰蝶様にいいように扱われているのではあるまいな」

「なにしろ女とは言ってもあの蝮の娘だからなぁ」

「うつけだと世間に公表するようでは困ったものだ」

「まさかご寝所でいろいろ聞き出されているのでは」

「まさか」

「わからんぞ」

「たしかに、困ったものだ」

 侍女が無責任に話す噂話とはわけが違う。

 家老たちにそこまで下世話な噂を立てられて、しかも信長を無能呼ばわりするとは何事なのか。

 帰蝶は腹が立ってさすがに一言言い返したかったのだが、立ち聞きした気まずさと、なにより寝所で信長から聞かされてしまったのは確かなのだ。そのことに関しては言い返せないことに気づきやめた。

 尾張へ来てはじめて悔しいと思った。なにを言われても言い返さなかったし、反論もしてこなかった。陰でいろいろ言われてきたことも知っているが、聞かなかったことにしてきた。

 けれど自分のせいで信長までが悪く言われる。いよいよ自分の存在があやふやになってきた。災いを蒔くだけの存在ならば居ない方がいい。

 帰蝶は自室に篭ってじっと考えていた。

「どうしたのだ」

 夜になって口数が少ない帰蝶に信長が尋ねたが、帰蝶は何も言わなかった。帰蝶の方もなぜ信長は自分に何も言わないのかと思う。こういうことになって、城中の噂も知っているだろうに。やはり我慢しきれずに帰蝶の方から問い掛けた。

「なぜ責めないのです」

「知らせたのか」

「いいえ」

「ならいいではないか」

「信じて下さるのですか」

 だがその問いに信長は答えてはくれなかった。

 不意に胸の内が冷たくなる。やはり信じては下さらない。

 絶望的な気分になった。

 だがそんな帰蝶の疑問が解ける日が来た。

 ある日。

 たまたまだったのだが珍しく昼間から大人しく城に居た信長が家老達と言い合っている場面に遭遇した。柱の陰から盗み聞きするような形になってしまったが、帰蝶のことを信長に諫言する家老達に対して信長は

「なぜそのようなことを言う。帰蝶は俺の妻だぞ!敵に内通しているなどということがある訳がない。帰蝶を悪し様に言うことは俺に対する暴言だぞ!」

 そしてそのあと、帰蝶に馬を出さなかった厩番を辞めさせてしまったのである。

「俺の命令が聞けないならいらん」

 そう言って。

 帰蝶は自分のせいでそんな事になったことを申し訳なく思い、信長にとりなしたのだが

「俺がお前に自由に馬に乗って良いといったことは知っていたはずなのに、家老達に確認を取るなどもっての外ではないか。あいつの主人は誰だ」

 確かにそうなのだが、

「勝手にそんな事をしたのだから、本来なら切って捨てても文句は言えまい。だがそんな事をしたらお前が気に病むと思ったから暇を出すだけにしたのだ」

 文句があるか、と言わんばかりに言われれば帰蝶には何も言えなかった。

「では、わたくしのことを信用してくれるのですか?」

 帰蝶の勇気を出した問いかけに、

「勘違いするではないぞ、帰蝶」

 例の恐いくらいの眼差しで睨まれ

「今回のことはお前がやっていないと言った。俺はお前が嘘をついていないことくらい見抜ける。だからくだらないことで騒ぐ家臣たちを怒ったまでだ」

「では」

「今回のことは信じる。だがお前自身を信用しているわけではない。それはお前だけでなく誰でも同じだ。人の心は分からぬ。自分のことも分からぬのに、他人の言葉など信用できるか」

 それはずいぶん寂しい言葉だと思いながら、帰蝶はどこかで納得していた。

そうなのかもしれない。約束事や言葉などこの時代にどれだけの価値があろうか。明日は親子兄弟でも殺しあうかもしれないのに。

「帰蝶」

 いきなり抱きすくめられて唇をふさがれた。不意のことでなにが起こったのかわからない帰蝶はされるままだった。

「とのっ!」

 赤くなり抗議すると、

「帰蝶……裏切るなよ」

 熱い眼差しで見つめられた。

「はい」

「俺は一度でも裏切った奴を許すほど心は広くない。俺のそばに居たかったら裏切るな」

「置いて下さるのですか」

「お前が望むならな」

「このまま居てもいいのですか、わたくしは男ですが」

「別に問題はなかろう」

 どういう意味なのか分からなかった。

 この時代男色も珍しくはないが、正妻が男というのは差し障りがある。第一子供が産めないではないか。世継ぎはどうするのだ。

「ですが」

「ごちゃごちゃ言うな。世継ぎなら他の女にも産める」

 帰蝶が傷つくことをあっさりと言ってのける。

「不満なのか」

「いいえ、そんな……」

「ばか者、不満だと顔に書いてあるわ」

 信長は笑い、帰蝶は赤くなった。

「くだらないことを考えなくともよい、お前にはお前の役目がある」

 怪訝な顔をした帰蝶に、

「お転婆な御台所は子を産む代わりに俺と一緒に戦に出ればよいわ」

 帰蝶はあっと驚いた。もちろん冗談であろう。

 けれど信長は帰蝶に、自分の居場所を与えてくれるつもりなのが分かったのだ。おそらくこのところ帰蝶が悩んでいたことなどお見通しだったのだ。

 帰蝶には帰蝶の役割があると。帰蝶のやり方で信長を支えればいいとそう言ってくれたのだ。思わず涙が零れた。

 そんな帰蝶に

「蝮の子は蝮だ。いずれ噛まれるやも知れぬ。だがそれもいいさ。面白いではないか。近くに危ないものを置いておくという緊張感もな」

 先ほどは裏切るなと言っておきながらその言い草である。

「との、わたしは……」

「別に刃向かってもよいのだ。お前がやられるか、俺がやられるか。強いものが残るだけだ。この世の中はな」

 この人はすごく寂しい人なのではないかと、この時帰蝶は思った。

「信長さま……」

 改めてかしこまって帰蝶は頭を下げ言った。

「どうぞ末永く宜しくお願いいたします」

 初めて信長に伝えた言葉は帰蝶の本心だった。

 信長がどう思おうと、この先帰蝶が信長を裏切ることはない。たとえ信長が死ぬ時までそれに気づかなかったとしても、いまこの時に帰蝶の気持ちは決まってしまった。

「お前と過ごす時間は面白いだろうなぁ」

 それが信長の答えだった。

 西日の差す部屋で帰蝶は信長の正室として生涯を終わることを決意した。




   -尾張の鷹 終-





-綺譚メモ-


エピソ-ドに出た、美濃側の重臣が寝返った云々のお話ですが、各資料や小説などを読みますと、そう言うことがあったらしい……という事が書いてあります。

もちろん事実は定かではありませんが、小説などではやはり美濃の方が実家に知らせたらしいなどという展開が多いですね。

ドラマティックに言うと、その事実を信長が庇ったために、美濃の方はえらく感動して信長に付いていく決心をしたとか言う展開が非常に多いです。

事実はどうなのでしょうね?事実は小説より奇なり。私はこの言葉が結構好きなんですけど、あんがい事実は他のところにあるかも?などと思い、今回のような展開で書いてみました。

まだまだこの二人、スタートに立ったばかりではありますが、愛情と言うよりは信頼と言うもので結ばれた二人が幸せであったと願いたいです。

私が大好きな信長公は本当は孤独な人であったと思ってしまうので、寂しくないように同士(帰蝶)は欲しいかな?なんて思いながら書きました。


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