美濃の蝶
初出:2002年
その日、帰蝶は自分の結婚相手をはじめて見ることになった。
この時代、話だけが先を行き本人たちが対面するのが結婚式当日などということは常識だった。そして結婚が政略結婚などという生易しいものではなく、ひょっとしたら生きるか死ぬかの大博打の時代でもあった。
なぜなら実家の事情を背負い、敵方に嫁ぐ花嫁というのもまた当たり前だったから。昨日の敵は今日の縁戚であり、親兄弟が明日は敵になる世の中である。
だからこの時代の女は強い。
男もそうだが、女もけして人形のようにあちこち勝手に送られるだけではなく、嫁ぎ先を探るスパイであり、調停役の外交官であり、場合によっては自分の夫を殺すかもしれない暗殺者でもありえる。
たとえ実家の都合で勝手に嫁がされた身であろうとも、ぼんやりしていたら自分の身が危ないのだ。
この時代、男も女も凡庸であること自体が罪だった。
そして帰蝶の目の前の男。果たしてどちらなのか?
世間一般では「うつけ」と言われている。だが帰蝶はそれだけではないことを知っているし、実家の父も同じだった。
この結婚話が来た時に、父はいい顔をしなかった。父が帰蝶を溺愛していたということもあるが、帰蝶には秘密があったからだ。
だが帰蝶は自分の命と引き換えになるかもしれないこの危険な行為を自分から引き受けた。
ひとつは誰よりも愛している父の為。そして何よりも帰蝶自身がこの男に非常に興味があったからだ。
自分で確かめたい。
その強い思いだけでここまでやってきてしまった。
来てしまったが……
「どうしよ……」
帰蝶はさすがに思案した。
なんとかなるといつもの無鉄砲さでいたのだが、これは何とかならないかもしれない。
「姫さま、どうなされます?」
子供の頃から唯一のお守り役の侍女あやめが、ため息を吐く。
帰蝶の側でずっと居るだけあって、女にしておくのはもったいないような頭脳と性格なのだがさすがに困っているようだ。
「夜ならなんとか誤魔化せると思ったんだけどな」
帰蝶はこの城に長居をするつもりはなかった。
輿入れは口実で、あの男のことが分かればさっさと実家へ引き上げるつもりだった。
だからあの男と夫婦になるつもりはない。何とか一週間ほど誤魔化せればどうにかなると踏んでいた。
体調が悪いと言って床を一緒にしなければいいし、暗がりなら少々は身体の秘密は誤魔化せるとも高を括っていた。何しろ触らせなければいいのだから。
それなのに、どういう番狂わせか相手に見られてしまったのだ。
だいたいまだ祝言もあげていないのに、湯浴みを覗くとはどういう事なのか。周りのものが止めるのも聞かずに
「どうせ夫婦なのだからいいじゃないか」といきなり戸を開けたのだ。
衝立てがあったので周りのものからは見えなかったが、長身のあの男の視線の先にははっきりと帰蝶の裸が見えたはずなのだ。
その瞬間、帰蝶は騒ぎになり命を落とすことも覚悟した。
なぜなら帰蝶は『男』だからだ。
なのにあの男は何もなかったように
「すまん」と踵を返して去ってしまった。
急いで湯殿を出たものの、帰蝶の方が面食らってしまった。
「わからなかったのではありませんか?」
実家でさえ事情を知るものは数少ない。そのうちの一人であるあやめが呟く。
「そうかな、そんなことないだろ?だって……」
それならなぜあの時あの男は出ていってしまったのか。でもそれを言うならなぜなにも言わなかったのか。
「やっぱり良く分からん男だよな」
あやめに婚礼の支度をさせながら帰蝶は呟いた。
帰蝶は美濃の国に生まれた。
父は国を治めている斎藤道三。
若い頃からの傍若無人さで「蝮」と渾名される食えない男だった。
母は明智家の姫で小見の方と呼ばれている。
道三はその出世物語が尽きないほどの立身出世の男だ。
ただし、悪名高き─────
だが帰蝶はこの父が好きだった。世間が言うほど冷酷な男ではない。確かにいろいろやってきたのかもしれないが、この時代、それはむしろ当然のことだった。
道三は時代を見る力があり、人を見る目がある。母にも帰蝶にも優しかったし、無理を言うようなことはしなかった。
だが、他の兄たちには違ったようだ。帰蝶には兄が数多く居る。これもまた当然のことながら、腹違いの兄弟たちだ。
その兄たちと父はうまくいっていなかった。特に嫡男の義龍とは犬猿の仲で油断できない関係にあった。
そんな事があった事情で、道三が寵愛する小見の方から帰蝶が生まれた時に、父道三が一計を案じ帰蝶を女として育てるといいだしたのだ。
もちろん小見の方は反対したが、命を狙われるよりはましだろうという道三の言葉に負けたのだった。
その時道三には予感があったのかもしれない。
小見の方に似た綺麗な面差し以上に、将来とんでもなく利発に育つであろう帰蝶の未来が。
「この子を跡取りにしたい」その思いは最初から道三の胸のうちにあった。
だが義龍との確執は酷くなるばかりで、いまさら男であることを公表して帰蝶を跡取りにするなど事情が許さなかった。
そんな中で持ち上がった縁談だった。
もちろん家中にも、近隣諸国にも帰蝶は美しい『姫』だと知れ渡っている。断る理由もないまま迷っている道三に、帰蝶は今回の計画を告げた。
以前から父、道三はこの尾張の跡取りをたいそう気にしていた。世間で言う、ほんとうに「うつけ」なのかと。だが確かめる手だてはない。
そのことを知っていた帰蝶が今回の計画を持ち掛けたのだ。一応反対した道三も、帰蝶の度胸のよさと頭の良さ。そして武道の心得の確かなことを知っているので、帰蝶に任せてみることにした。
ばれたらばれた時のこと。
今まで表立って何もやらせたことはないが、帰蝶の才覚を試すにもよい機会だった。
そこは「蝮」、利用できるものはたとえ一番愛している娘?であろうと利用できるものは利用する。そういう事情があって帰蝶は今ここに居る。
あやめが支度してくれた婚礼の衣装も調い、帰蝶は祝言に向かった。生まれた時から女の格好には慣れているが、これはさすがに重かった。いつもより更に仕立ての良い生地に豪奢な飾り。
さすがに尾張の跡取りに美濃の姫が嫁ぐとあって支度もすごかった。
「父上もこんなにしなくても、どうせすぐに帰るんだから」
とんでもないことを呟きながら帰蝶は大広間に向かった。
美濃の父が気合を入れているのと同様、こちらも跡取りの祝言である。迎える支度も同じく気合いが入っており、なんだか気疲れする帰蝶であった。
さすがに長旅だったし、緊張もしている。おしとやかに見せている外面と違って、太刀も振れれば乗馬もできる。
姫としての生活とは別に、男としての修行も密かに積んでいる。だが体力だけがいまいちなのだ。十四歳のこの歳で、やはり少女にしか見えない小柄な身体は問題だ。
病弱というほどではなかったが、丈夫というほどでもなく。男の姿でいたのならやはり少々物足りなかったかもしれないという容姿だ。
むしろ小柄だということと、飛び抜けた美貌は『姫』という仮の姿を怪しませることはなかった。けれど祝言の後半は疲れも手伝って少々苦痛になり、どうしようかと思った時に婿どのはやってくれた。
「えぇい、めんどうくさい!! いつまでやってるつもりだ。もういいから引き上げるぞ!」
噂どおりの傍若無人さで、ずらっと並んだ家臣や近隣の客たちを置いたまま、帰蝶の手を取りさっさと広間を出てゆく。
「ぁ、殿っ!」
さすがの帰蝶もそう声をかけたきり、引きずられるままに寝所まで戻ってきてしまった。
(どうしようか)
帰蝶は先の展開も考えぬままに思わぬ展開になったことに面食らう。まだしばらく宴は続くはずだったのだが。だがしかし、少々気分の悪くなった体にはありがたかったけれど。
(どーすんだよ)
再び自分に問う。先に裸も見られてしまったことだし、ここは腹を括るしかないかもしれない。
帰蝶はそっと胸元に隠した懐剣を確かめた。美濃を出る時に父から渡されたものだった。いまの自分を守るものはこんな小さな剣しかなかった。
はたして目の前の男がこんなものでやられるかはわからないが、今更どうにもならない。駄目なら捕まる前に自害をするまでだった。
一瞬の緊張が帰蝶を包んだ。その身を引き締める。その時…
「今日はもう休んだ方がいいぞ」
思いもかけない言葉が男からかけられた。
「は?」
言葉のままに理解できなくて、帰蝶は少々間抜けな声を出してしまった。
「疲れてるだろう?風呂で見かけた時から顔色が良くなかったぞ」
「ぁ……」
驚いたまま言葉がでない。あの一瞬の邂逅で帰蝶の体調まで見抜いたというのか。
「まったく、年寄りどもはそういう気遣いもできんから困るよなぁ。お前もこれからは遠慮などせずに具合が悪い時はそう言うのだぞ」
「ぁ、はい」
答えながら帰蝶は抜け目なく男を観察した。本心なのか?本当にただ心配してくれているのか、それとも油断させているのか。
「おいっ!」
思わず返事をしそうになったが、呼ばれたのはどうやらこの寝所に詰めている侍女や家来らしい。
「はい」
かしこまった侍女に
「もうここはいいから、全員下がれ!」と告げた。
「ですが……」
続き部屋や廊下に侍女や家来が控えているのは普通のことだ。次の間で警護する為だった。交代で寝ずの番をする。
「お前達が居たら、帰蝶がゆっくり眠れないじゃないか。いいから下がれ!」
大きな声で怒鳴られて、みないっせいに去ってゆく。
「帰蝶さま…?」
あやめだけがどうしたものかと心配げに帰蝶に問う。
「おまえは?」
信長に問われてあやめが緊張したのが分かる。
「あやめです、里から連れてきました」
慌てて帰蝶が代わりに答えた。
「あやめ、あなたももう良いから下がりなさい」
「いいのですか?」
不安そうなあやめに
「大丈夫ですよ」と答えてやった。
本当はあやめも離れたくないだろうが、信長が家来達を皆下がらせたのにあやめ一人を側に置くわけにはいかなかった。
「安心しろ、べつに取って食ったりはしない」
物騒な台詞をはいた主人を不安そうに見ながら、あやめも去っていった。広い寝所で二人きりになってしまった。再び緊張が走ったが、それを躱すように
「もう寝ろ」と再び言われた。今度は返事をするまもなく、
「俺も今日はもう休む」
そう言って、帰蝶の寝る場所なのか布団の大部分を明け渡し、自分は寝床からはみ出るようにごろんと横になる。
「ぁ、殿さま……風邪を引きます」
まだ寒い季節である。慌てて呼びかける帰蝶を尻目に、しかしすでに男は夢の中だった。
「なんという」
あれほどの緊張に拍子抜けになりながらも、帰蝶はありがたく休むことにした。せっかく男がくれた休息だった。騙すも戦うもどうやら勝負は明日以降に持ち越したようだった。
そういう点は帰蝶も心臓が強い。重かった花嫁用の白い打掛を脱ぐと、背中を向けている男の背に掛けてやった。
「おやすみなさい」
そうやって尾張の国の第一歩、長い一日が終わった。
あくる朝─────
帰蝶が目を覚ますと自分の隣には誰も居なかった。
『信長』この尾張の跡取りで、世間では「うつけもの」呼ばわりされている男。だが昨夜の彼は優しかったと思う。
果たして世間で言うことが本当なのか、帰蝶はここ数日で何とか答えを出さなければいけない。
朝の支度をしに、あやめが来た。
「姫さま、大丈夫でした?」
心配そうなあやめに
「うん、あのまま寝ちゃったしね。話もしなかった」
「まぁ……」
あやめもきょとんとしている。予想外の展開である。
「いったい……やはり噂どおりなんでしょうか?」
「ん?どうだかね」
「大丈夫なんですか?」
「わかんない……けど」
「けど?」
「なんだか面白くなってきた」
「まぁ、姫さま」
あやめが呆れた声を出した。だが帰蝶の突拍子もなさには慣れている。その生まれからして。
「殿さまはどちらに?」
「さぁ、起きた時はもう居なかったから。たぶん……」
よく晴れた空を見上げながら帰蝶が呟いた言葉にあやめはもう尋ねなかった。帰蝶になにか思うところがあるらしいことが察せられたからだった。
信長はその日の夕刻、戻ってきた。
昨日は婚礼ということもあって至極まともな格好をしていたが、今日は噂に聞く奇妙な出で立ち。
それでも湯浴みは済ませたらしく小綺麗だった。ちょうど夕餉の支度が整ったところだった。あやめが給仕をして部屋の隅まで下がると、信長がどっかりと腰を下ろして尋ねる。
「俺が帰ってこなかったら、夕餉はお前ひとりだな」
「そうですね」
まさかいくら半身のように過ごしても、あやめと食事をするわけにはいかない。すこし考えるように腕組みをした信長を見て帰蝶は告げた。
「殿、朝はお早いようですが、夜くらいは一緒に食事をしていただけると嬉しく思いますが」
「うん、そうだな」
そう言ってさっさと食事をはじめた男を見て帰蝶はどことなく可愛いと思ってしまった。一緒に食べたいといったのは、まんざらお世辞ではない。
夜くらい帰ってきてもらわないと一日中顔を合わせる暇がなく、男の観察もできないのだ。これではいつまでたっても信長の真実が分からない。
食事の後、何も話すでもなくごろごろと寝転んだままの信長に
「殿、眠るのでしたら床の方へ。風邪を引いてしまいます」
眠ってしまったと思い帰蝶が覗き込むように言うと、強い双眸が見返してきた。
「お前はあの蝮の娘だよな」
何を言いたいのかもわからなかったが、ここで負けるわけにはいかなかったので同じように強い瞳を据えたまま帰蝶も「はい」と答えた。
なにが言いたいのか。
女かと確かめて問うているのか帰蝶にも分かりかねた。
「蝮の娘はやはり蝮だよな」
わけのわからないことを言ってその強い眼差しを閉じた。
「ぁ、お床に…」
慌てて帰蝶が言うと
「ここでいい」
そう言ってまた床から少し離れたところで寝てしまう。
昨日と同じく帰蝶は自分の打掛をかけてやりながら思案した。もしかして、自分が男だとやはり分かっているからこうやって距離を置くのか?
でも知っているなら黙っていることはない。問い詰めるなり、裸にするなりすればいいのだ。騙されたのだから切り捨てるのも簡単だろう。何も言わないということはやはり気づかないのか?ならなぜ距離を置く?自分のことが気に入らないのか?
そう考えが及んだ時に、なぜだかむっとしている自分に帰蝶は気づいた。今の状態は喜ぶべきことだった。わからないのなら上等ではないか。わからないという自信があったからこそ、帰蝶はここへやってきたのだ。
自分の思うつぼなのに、なぜだか信長に無視されているようで腹が立つ。姿形が美しいという評判通りな男の顔をもう一度ちらっと見やり、少々乱暴に帰蝶も床へ入った。女の振りをすることがどうでもよくなったような気持ちになる。
だが、床へ入ったとたんに反省した。自分の感情など二の次だった。自分の立場と目的をよく自覚しなければならないと、自分で自分を諌めて眠りに就いた。
朝目覚めると、やはり信長はもういなかった。
「まったく……」
帰蝶はため息をついた。
けして朝寝坊をしているわけではないし、眠っていても目聡い方だと思うのに信長はいつも知らない間にいなくなる。
全く不思議な男だった。気配を消すにも限度がある。
「やはり、ただものじゃないな」
これは考え直さないといけないかも知れない。
この分だと、まだしばらく信長の本性はわかりそうにないし、この行動だとそう簡単に帰蝶が信長を討てるとは思えない。
少々武道の心得がある帰蝶だからわかる。あの男はそう簡単にはどうにかなるものではない。噂を鵜呑みにしない方が良さそうだった。
「それにしても」
今日も一日どうやって過ごそうかと思う。
結婚をした正妻といえど、帰蝶はあの蝮の娘だ。勝手に城の中をふらふらしたら、家臣達になにを言われるかわからない。
しかしこの部屋で毎日じっとしているのも苦痛だった。あやめしか相手がいないし、そうかといって他の侍女達がどこで耳をそばだてているのかわからない中であやめと話せる内容などたかが知れている。
すぐに話題もつき退屈になる。
「姫さま、庭でも歩かれたらいかがです?前庭なら咎められないでしょうから」
「そうだな」
生返事をしながら、そのあとは?明日は?と考えてしまう。まさかこんなに窮屈だとは思わなかった。
美濃の城では父が好きにさせてくれていたから、武道の稽古もすれば、馬に乗って遠乗りもした。いくらでもお転婆が出来たのだ。もちろん身近な家来達しか知らないことだが。
仕方なくあやめを供に庭へ出ようとしたら、どかどかと床を踏みならす音がする。
それが誰かは一目瞭然だった。出かけるときは猫より静かに出てゆくのに、帰るときはいつも騒々しかった。
「帰蝶、帰蝶」
そう呼びながら廊下を歩く声に
「はい、ここにおりますが……」
帰蝶が答えると、
「おまえ、馬は乗れるな」
「は……い?」
「連れていってやるから、一緒に来い!」
帰蝶の返事もそこそこに、着替える間も十分に与えず引きずられるように外へ連れ出される。
「うちの中で足が速くておとなしそうなのを選んでおいてやったから」
そう言ったのはどうやら駿馬の綺麗な姿をしたこの馬のことらしい。
「『楓』というのだ、雌だがいい馬だぞ。おまえにやる」
「わたしに……ですか?」
「そうだ、いつでも好きなときに乗っていいぞ。ただし当分は俺と一緒だ。何かあたっら困るからな」
一瞬見透かされたのかと、ドキンとして返事が遅れた。
「気に入らぬのか?」
「いえ、いいのですか?」
「なにがだ」
「これに乗って私が逃げたらどうするのです」
挑戦的に言い放った帰蝶に信長は微かに笑った。
(馬鹿にされ……た?)
「帰れるわけがないさ」
(やっぱり!)
カッとなって言い返そうかと思ったら、すっと抱き上げられた。
「あ、」
思う間に馬の背に乗せられた。そして信長も自分の馬にまたがると
「行くぞ!」
そういってあっという間に走り出す。帰蝶は何かを問う暇もなく後を追うしかなかった。
『楓』は足が速くいい馬だったが、前をゆく信長の馬はその比ではなかった。それとも乗り手が上手だからか。帰蝶は女を装うことも忘れて全力で追いかけた。
気がつけば川の向こうに美濃の国境が見えるところまで来ていた。供もいない。いつも信長は自分の信頼の置ける若いものだけを必ず連れているはずなのに。
「ついてこられたみたいだな」
「と……の……」
帰蝶はついてこられたものの、息が上がって思うように話せなかった。信長の方はさすがと言うか、何でもない顔をしている。
「さすがだな、蝮の娘は」
馬鹿にしているのか、感心しているのか、相変わらずその本意はわからない。
「なぜ私をここへ?」
一番疑問に思っていたことを尋ねる。
「退屈していたのであろう?」
何でもないことのように言う言葉に目を瞠った。完全に無視されているのかと思ったらそうではなかったらしい。
「ここにくれば美濃が見えるぞ」
何気ない言葉にはっとした。だが意地っ張りの帰蝶は強い目で見つめて言い返した。
「私が逃げるとは思わないのですか」
「なにもしないうちにか?」
ふふんと、鼻を鳴らすような調子で信長が答えた。
「なにをっ」
「寝首をかきに来たのだろう?蝮の娘は」
そこまで言われてはごまかす言葉もなかった。
ただ負けずに睨み返す。
「まぁ、出来るものならやってみるんだな。それで逃げ切れたのならこの国も大したことはない」
その言葉を聞いて帰蝶は不思議な気持ちになる。たしか美濃の父も似たようなことを言っていた。
『帰蝶が信長を倒せるようならそれだけの男。反対に帰蝶がやられるならそれまでのこと』
「いいのですか?」
挑むように言った帰蝶に
「だからやってみればいいと言ってる」
まるで天気の話でもするような、あくまでも相手にされていない様子に帰蝶は腹が立った。自分は女ではない。その気になれば自分にだって。
そう気負った瞬間に、
「寂しくなったらくればいい、俺で良ければつき合うが」
さりげなく言われて不意に込み上げるものがあった。それをぐっと押さえて帰蝶ははっきりと答えた。
「ありがとうございます」
けして寂しいわけではない。自分は無理矢理来させられたわけでもないし、しっかりした目標もある。
それにまだこちらへ来て三日なのだ。寂しいわけがない。なのに心が騒ぐのはなぜだろう?そしてそうやって帰蝶を気遣うような素振りを見せる美しい男の横顔がもっと寂しげなのは。
帰蝶は美濃にいる頃、よくあの川向こうへ来ていたのだ。自分の父が宿敵にしている、織田家の領地。自分の正体が知れていないのをいいことに、帰蝶はよく美濃の中で馬を走らせた。
その中でもここへはなぜか引き寄せられた。そして向こうから見ていたのだ。尾張のうつけと呼ばれていた男が、やはりよくこのあたりにいる姿を。
信じられないような奇妙な格好をしているからすぐにわかってしまった。
けれどその面は整っていて綺麗な男だった。知性も感じた。だから不思議でならなかったのだ。そして確かめたいと、ずっと思っていた。いつかきっとそばで見てみたいと。
それがまさかここで並んでこの景色を見ることになろうとは。
「美濃へ帰りたいか?」
「いいえ」
尋ねてくれた言葉へそれでもはっきりと否定する。帰りたくても帰れないではないか。今のままでは帰ることは出来ない。逃げ出すなんて絶対に嫌だった。
そのとき、不意に自分たちの間を突き抜けるように吹いた強い風に帰蝶は不安になった。いったい自分は何者なのだろう。女なのか、男なのかも定かでないような自分。
それまで大して疑問にも思っていなかったことが、急に重くのしかかる。自分はどこへ行こうとしているのか。
「わたくしはずっと殿のそばにおります」
自分を誤魔化すため、そしてなによりも信長を騙すための『嘘』を言ったつもりの帰蝶は、それが信長に対する誓いの言葉になると、そのときは夢にも思わなかった。
天文十八年(一五四九年)、時代の嵐は二人を飲み込むためにすぐそこまで来ていた。
―美濃の蝶 終―
綺譚メモ帳
今回は帰蝶の結婚の経緯を……
信長と帰蝶は一歳違いで14歳と15歳で結婚したと言われています。当時、美濃と尾張は何度も戦を重ねて和平のためにこの婚儀が計画されました。このころ信長はまだ家督を継いでいません。
このすぐあとに父親が死に、あの有名な父の位牌に灰を投げつけるっていう出来事があるんですが、父親は領地を広げたものの勇者色を好む?と言う具合で信長に言わせると戦より女っていう晩年だったようで、信長にはそれが歯がゆかったようです。
もちろん信長はあの有名な「うつけ」という能なしのふりをして、自分の将来に備えて情報集めやら人選やらをしていたのですが、その信長の人となりを疑問に思った美濃の斉藤道三は娘の帰蝶が嫁入りするときに「もし本当に能なしなら殺してしまえ」と言って懐剣を渡したという逸話が。
そのときの帰蝶の答えが「でももし尾張の殿を好きになってしまったらこの剣は父上を刺すかも知れません」と言うもので、それを聞いてさすがの蝮も「いいだろう」と笑ったとか。
その帰蝶がけっきょく信長を愛したことを知り、信長のことも相当な男だと認めるという物語やドラマがよくあります。
もちろんそこにはあの有名な婿と舅との対面シーンがあるのですが。
ちなみに帰蝶というのは幼名のようで、「濃姫」というのは信長に嫁いだあとに「美濃の姫」と言うことでこう呼ばれたようです。作者は「濃姫」の呼び方の方が好きなのですが、この話の中では一応「男」と言う設定のために「姫」はどうかと思い、帰蝶にしました。