坂原悟、決意の変貌
同居からしばらくしたある日、出掛けたサユリが中々帰ってこない事を案じた坂原だったが……
「遅いなぁ…あいつ」
坂原は、買い物に行ったまま帰ってこないサユリを家で待っていた。
「…それにしても、今日はやけに落ち着きがないなぁ、こいつ等」
坂原がペットたちを見てそう言ってしまうのも無理はない。
猫のオレンジは何か危険を知らせるかのように鳴きわめいていたし、バシリスクの会川の暴れようは硝子ケースならぶち破っても可笑しくないほど。
番のプレーリードッグは忙しなく動き回り、オウム二羽も激しく鳴き、激しく羽ばたいていた。
魚の動きも泳ぐと言うより暴れているようで、じっとしている事の多いロラカリアすら泳ぎ回っている。
蟲や蛸やカニの動きにも落ち着きはなく、謎の生物・カサヤシロに至っては昭和のB級SFホラーコメディのノリだった。
「まさかお前等、サユリに何かあったって事を言いたいのか?」
坂原がそう言った瞬間、ペットたちの動きが一斉に止まった。
「判ったよ…サユリ探して来る…」
○○○○
坂原が道を歩いていると、目の前にいきなり現れた者が居た。野村である。
「お前、野村?」
「如何にも。さて、いきなりだが単刀直入に言おう」
「何だ?」
「あの女が、連れ去られた」
「何?連れ去られた!?誰にだ?何処にいる?」
「連れ去ったのは坊主と、奴に買われた悪党共だ。近頃多忙で坊主に付いてやれなかったのだが、その挙げ句この様よ。
すまぬがこの後も急ぎの用があるのでな。儂は加勢してやれぬが、健闘を祈る」
「……あぁ。お前もな」
消えるようにして立ち去った野村を見送った坂原は、再び歩き出す。
しかし、野村が再び現れて付け足した。
「言い忘れたが、女の連れ去られた場所は町はずれにある廃ホテル『ゴールデンラグーン』だ」
そう言って、野村は姿を消した。
「(…ゴールデンラグーンか…急ごう!)」
◇◇◇◇
「へっへっへ…タマんねぇや…」
尾潮は、鉄柱に縛り付けたサユリを見つつ下劣な笑みを浮かべた。
「オイ、学徒ォ。俺達ャそんな女ァどうでも良いがよ、ギャラはきっちり払ってくれんだろうな?」
大柄な男が言う。野村の言っていた、尾潮に買われた悪党のリーダーである。
「心配すんなよ。野村の野郎に伝言を頼んである。それにまんんまと乗せられでもして、あの野郎が来りゃあ作戦大成功って事でボコって殺っちまえば良いし、もし来なけりゃコイツを目も当てらんねー姿にしてやるだけだ、
ギャラなんてその後たんまり払ってやっからよ、ゾクが一々細けぇ事女みてぇにn気にすんなってんだよ」
「勝算はあんのかヨ?相手はその野村も逃げ出したんだろ?」
「ヘッ!あんな美ビリの言うことなんぞ信じられっかよ!大体なァ、俺にゃ秘策があんだよ秘策が!」
そう言って尾潮が取り出したのは、白い樹脂の塊と、数本の注射器だった。
「何でェ?そのオモチャとシャブが秘策だってのか?冗談はその頭だけにしとけって前に言ったよなァ?」
「バァロウ!コイツはオモチャじゃねぇー。モノホンの拳銃でェ。金属探知器もすり抜けられんだヨ!で、こっちの中身もシャブじゃなくてな、何とびっくり青酸カリよ!それも飲んで死ぬ量の二倍入ってんだ」
「ほーお。だがそいつをどーやって奴にブチ込む?俺等に持たそーってんじゃ無ぇだろうな?」
「バカ言え。どつき合いの問屋にんなコトさせねーヨ。コイツを見やがれゴリラ野郎」
尾潮が取り出したのは、小さなバズーカの様な細い筒状の物体。
「コイツで注射器を撃つ!二、三発もありゃあの野郎も死ぬだろ」
と、その時である。
「サユリーッ!」
「お、まんまと来やがったぜ・バカな野郎だ…。
おーし手前等ァ!マト自らのお出ましだ!思う存ッッッッッ分に相手してやれ!」
『オォォォォォォォォォッ!』
個性豊かな悪党共が坂原目掛けて向かう中、坂原自身は思っていた。
(あの日、古藤は言った…)
―その夢は君が何かを決意するまで定期的に君の眠りを邪魔しに来る。
(そして、こうも言った…)
―君が見たその夢というのはね、言うなれば君の罪悪感が形を成したものだよ。
(俺の罪悪感…それは、結果として美雪を自殺に追い遣って、間接的に殺してしまったことだ…)
坂原は思う。嘗ての過ちを、繰り返してはならないと。
(美雪を忘れた訳じゃない…。でも、今俺が何より大切にしたいのは…あいつだ…)
奥の方には、縛られ、口に布を噛まされているサユリの姿があった。
(待ってろサユリ…今行くぞ…)
坂原は堅き『決意』の元、全身に力を込めた。
その瞬間、途轍もなく大きな力の波動が巻き起こり、悪党共は勢い良く吹き飛ばされる。
しかしそれでも悪党達は、坂原へ向かう。
そして彼の姿を見た一人が、叫ぶ。
「んなっ、何だありゃあッ!」
そして坂原の姿を眼にした悪党達の動きが、一時止まる。
面食らったのも無理はない。
坂原の姿は最早、人ではなかったのだから。
その顔は、まるで日本猫のよう。
しかし、耳は長毛の犬に似る。
更に頭には、恐らく骨で出来ているであろう黒い鶏冠がある。
口を開けば深海魚の如し牙と、蛇の舌。
両腕は巨大な猛禽の脚。
身体の殆どを白い毛に覆われながら、尾は強靱で細長く、黒光りする鱗に覆われている。
その姿、まさに怪物。まさに化け物。
世界に存在するあらゆる捕食者の形質を受け継ぎ、彼は自らが描くようなシュールな怪物へと姿を変えていた。
その姿に、悪党達は最初気圧される。
しかし、リーダーの一声で一斉に向かう。
だが、彼らの坂原を攻撃するどころか、自ら彼に触れることすら叶わなかった。
あるものは殴られ、あるもの捌けられ、あるものは投げられ、踏まれ、尾の餌食となる者も居た。
しかし、彼らは重傷こそ負ったが死にはしなかった。
それは、坂原が未だ人間であるという証拠であり、力を使うことに僅かなおそれを抱いていると言うことでもあった。
そして遂に、残るは尾潮学徒只一人となった。
「クソッ!このっ!んにゃろうっ!」
尾潮はプラスチック・ハンドガンで坂原を射殺しようとするが、腕の角質層がそれを良しとしない。
弾薬が尽きると、今度は注射器を乱射。これは二本ほど突き刺さったが、当然意味はない。
「糞ッ!何でだ?何で死なねぇんだ!?」
青酸カリ。
この名を聞けば誰もが猛毒を思い浮かべるだろうが、実際は違う。
先ず、最低致死量二百ミリグラムという値。
これは一見少量に見えるが、TTXやリシンに比べ圧倒的に多い。
耳かき山盛り一杯が大体二十ミリグラムなので、およそ十杯分となる。
次に、反応性の高さとそれによる変成のしやすさ。
青酸カリは大気中の二酸化炭素にすら反応し、毒性の弱い炭酸カリウムに姿を変えてしまう。
更に言ってしまうと、青酸カリを幾ら注射したとしても、それで死ぬことは有り得ないのである。
こういう訳だから、尾潮に坂原を殺すことはどのみち出来なかったのである。
「クソッ…畜生ォォォォォォォッ!」
尾潮は逃げ出した。
一方の坂原は、動ける敵がいないのを確認すると人の姿に戻り、安心した途端地面に倒れ込んだ。サユリはそれを見て、無言の侭涙を流す。
すると、見計らっていたかのように物陰から一人の男が現れ、こう言った。
「全く…若ェ奴ァ何時まで経っても世話が焼けらァ…。おい姉ちゃん、何柄にもなく泣いてんだ?
言っとくがコイツは死んじゃいねーぞ?待ってろよ…今助けてやっからな…」
言わずと知れた手塚である。
○○○○
「っはァハはぁ…何で俺が…何で俺がこんな目にっ…」
逃げ出した尾潮は、自宅に向かっていた。
「早く…親父の所へ…あいつを処分させねぇと…」
走り続ける尾潮だったが、いきなり力を出し過ぎた所為で直ぐに息が上がってしまう。ひとまず町中のベンチに腰掛けて休むことにしたが、先程から彼の身体には寒気が絶えないでいる。
そうかと思えば、いきなり全身が熱くなり始め、まるで巨大な鍋の中で煮られているような気分になり始める。
そして追い打ちを掛けるように、激しい頭痛と吐き気が彼を襲い、尾潮の苦しみが限界に達したとき、
彼は、倒れた。
尾潮は善良な市民の通報により駆けつけた救急車で最寄りの病院へ運ばれたが、倒れた時点で既に死亡していたことが判明。
死因はMDMAの上げ底に使われていたPMAによる中毒死であったという。
そう、以前解説した「MDMAとPMA」のもたらす災いによって、尾潮の命は絶たれたのである。
PMA含有量が10ミリグラムを超えたMDMAを摂取した中毒者には、中枢神経の動きを狂わせるという副作用が襲い掛かる。
具体的に言えば、中毒者の体温調節がきかなくなり、急な悪寒を覚えたり、熱中症に近い状態に陥ったり、絶え間ない頭痛と吐き気に苦しめられた挙げ句、高確率で死に至るのだという。
現に多くの麻薬中毒者には、こういった上げ底に使われた不純物の中毒症状によって苦しみ、死に至る者が多いという。無論、天然麻薬も同様である。
ここまで読んでおいて、まだ麻薬を魅力的だと思っている読者が居ない事を作者は信じたい。
◇◇◇◇
あの後、手塚に助けられた坂原とサユリは、店主から正式に店を引き継ぎ、大勢のペット達と共に同居を続けている。
また、坂原は、美雪の分まで生きるためにと、画家として再びやり直そうと個展の開催を計画。現在出展用の作品を鋭意制作中である。
二人の様子を知る手塚は、二人についてこう語る。
―あの二人は今年中に結婚するだろう。夫婦仲も円満で、墓穴まで一緒だろうよ。
―あんな二人だから、子供の将来も安心だ。
―勿論、式のスピーチは是が非でも俺がやるよ。あいつら、どっちも身寄りが無いらしいからな。
また、尾潮に買われていた悪党達は皆『娑婆が怖くて仕方ない』との思いから自主。現在服役中とのことである。
息子の正体と死を知らされた勇司は、子育ても満足に出来ない自分が極道としてこれ以上生きていくのは無理だと考え、尾潮組を部下達に託して組織を去った。
しかし、組員達は、勇司無しでは極道として生きては生けないと判断し、最終的に組みそのものが消滅するという形に落ち着いた。
ちなみに、あの謎の男・野村の行方は、勇司引退以降何者も知りようが無いという。




