苦しい理由
ケノワの出て行った部屋にはマノンの呼吸する音だけがした。
彼の出て行った扉を見るのをやめて妹に向き直る。じっとマノンの寝顔をみつめた。最後に見た時よりも身長が伸び、顔色が良く見える。
それだけの時間が、経ったのだ。
どうしてこんなことが起こるのだろう。
故郷の事を考えると胸が苦しくなる。
本当に呼吸が苦しくなって、レイダはリビングに出た。
ケノワはこうなる事を予想していたのだろうか。マノンは薬を飲んでいるのでしばらく起きない事はわかっている。
ソファに座り思う。
自分がもう一生行くことはないと思った場所でマノンは育ったのだ。
彼女はきっと何も知らない。だからこそ切ない。
じっとしているのは落ち着かなかったが、何もする気にならずに座り込む。
「思い出したくない…」
呟いたけれども、記憶は蘇るこれまでレイダを何度も苦しめてきた時のように。
――――過去
レイダが17歳でマノンが9歳になった年、これまで病弱ではあったが何とか家で療養していたマノンが家族の介護ではどうにもならないところまできてしまった。
重い肺の病気で運動などをすると呼吸困難などを起こしてしまう難病だった。
庭師の仕事をしていた祖父が亡くなり、大工をしていた父親の仕事だけでは収入は足りず、母親もマノンに付きっきりになった時レイダは必死で働いた。
ヤサのルンデの町は豊かすぎるわけでもなく貧しくもないそんな町では同じ年頃の女の子はみんな洋裁や花嫁修業という名目で上級学校へ通っていた。
それを横目にレイダがしていたことは、農家の手伝い、王都や近隣都市へ出荷する花の園で花の世話やごみの回収、食堂での給仕に雑用、朝早くから夜中まで身を粉にして働いたのだ。
レイダのようなやせっぽちの娘になかなか身入りのよい仕事などなかった。
それでもマノンの治療費はかさみ続けた。
一体どこからどこへお金が流れていくのか不思議でたまらなかった。
けれどマノンが助かるならいいと思っていた。
「え? どういうことですか?」
その日も穀物の収穫の日雇いの仕事をしてくたくたになって家に帰った。
そうしたら、あまり得意ではない親戚の男が家に来ていた。
とてもそんな気分じゃなかったけれど、両親が彼からたくさん借金をしているのを知っていたから挨拶をした。
そこで言われたのだ。
「だからさ、レイダが王都に来て働けばいいんだよ。俺がいい仕事紹介してやるよ。前払いでいくらか入るし、実際の給料もいい」
「でも…私、そんな器量持ってない」
薄暗い台所に居たのは両親と男だったが、自分の顔を見ているのはその男だけだった。
「大丈夫だって、ヤサの子だって十分やっていける仕事さ。契約した期間真面目に働くだけだ」
「…」
両親に助けを求めたいけれど、二人とも目を合わせてもくれなかった。俯く二人に自分がどう判断すればいいのかわからない。
「それに、今回のマノンの手術費用はとてもじゃないけど俺が簡単に貸せる額じゃない。紹介する仕事は払いがいいから治療費分前借りもできるだろうよ。治療費を家族のために稼ぐのも娘の大切な役割なんじゃないのか?」
「…お母さん、どういうこと? マノンまた手術が必要になったの?」
レイダは治療費を稼ぐ事ばかりしていたので、マノンの詳しい治療方針や費用がなかなかわからなかったのだ。
特に最近はマノンのところにお見舞いにもいけないくらい忙しい。
父だってほとんど寝てないだろう。
この男がここに居る理由は両親がお金を借りるために呼んだのだということなのだろう。
「マノンはもう歩くこともさせてあげられないんだよ。症状が重くなっていくばかりだから、手術をして少しでも良くさせた方がいいってお医者様が言うんだ。でも、これまでの治療費でもうちは精一杯なのよ」
この前まで笑って少しでも歩けていた妹がもう歩けないという事実に衝撃を受ける。
「歩けないって…その手術費そんなに高いの?」
「最低でも20ヴォルドはするそうだ」
父がつらそうな顔で告げる。
20ヴォルドという高額な値段にレイダも愕然とする。
今だってひと月5ヴォルドもする治療費を必死で稼いでいるのにそれに加えてなんてとても準備できないだろう。知らず涙が浮かぶのを感じた。
なんて酷い世の中なのだろうか。
貧しいとはこれほど苦しんでなお、苦痛を受ける物なのか。小さな妹は貧しさのなかお金という命の天秤にかけられている。
きっと私たち家族がそのお金の重しを載せることができなかったら、彼女はあっさりと天秤から振り落とされていくのだ。
「酷い…」
悔しくなり呟くと、男が肩に手を置く。振り払いたかったがそれもできない。
「だからだ。言ってるだろう、良い仕事を紹介するって。今の事情説明して手術費は前払いでもらえるようにしてやるから、な?」
笑顔の男に嫌悪感を抱いたが、もうどうすることもできないところまで我が家が来ていることをしってしまった。
「…本当に私でも出来る仕事なの?」
「ああ、もちろんさ。お前みたいに良く働く真面目な子は大歓迎だろうな」
だから、両親はそうやって話を進め出した私に引きとめる言葉もなかったのだろう。
数日もすると親戚の男はもう一人初老の男を連れてきた。
その人は驚くことにスーツケースに大量のお金…私たち家族が喉から手が出るほど欲しかった20ヴォルドを持ってきた。
両親はしきりに頭を下げ、大事そうにスーツケースを抱えた。
そんな二人とは対照的に私は身の回りの物を入れた小さな手提げをその初老の男に渡して馬車に乗った。
大した言葉も貰わず私は町を離れた。
馬鹿みたいに初老の男に礼を言ったりして。
でも、王都についてすぐその彼に言われたのだ。
『こんなはした金でヤサの娘を娼館に売る両親が居るとは驚きだな』
私のような初心な子供は知らなくても、きっと両親は知っていた。
あの親戚の男が言う王都で働くとはどういうことか、別れの言葉さえなかった両親はお金と引き換えに私を売ったのだ。
そう、
私はあの時誓ったのだ。
自身が決めた事には従うしかない、けれど私を売った家族には絶対もう会ったりしないと。故郷などとヤサを懐かしむことをしないと。
全部何もかも捨てて、生きていくのだと誓ったのだ。
誓いを揺るがすもの。
レイダが売れられることになった根本的なもの――妹のマノン――がここにいる。
そして、手術したはずなのに治っていない彼女の様子に動揺せざる負えない。
「あのお金はちゃんと、マノンに使われたの…?」
どうなのだろうか。使われたから、あの薬で発作が抑えられるまでになったのか、それとも…使われずに完治していないのか。
ずしりと重たい言い知れない不安が押し寄せてくる。




