冷たい手を
仕事が終わり重い気持ちのままケノワは大通りを歩いていた。なんとなく、そのまま家に帰る気にならなかった。
「ここらか」
以前レイダを送った通りに足が向いていた。
彼女が今にも出てきそうだが、この通りに花屋はない。繁華街の裏路地だ。
まあ皆、住むのはこちらになるのだろうが。
一度通りを抜け、また往復するように歩き出す。
自分が何をしたいかわからない。意外にも人通りは多い。何やら小さい看板がかかる店が並んでいる。
扉によくわからない絵が描いてある店の前に差し掛かったとき、急にその扉が開いた。小さな身体が飛び出してきて雑踏に紛れる。
「待て! お前がどこに逃げようが逃げ切れるはず無いだろう!」
大声で叫びながら大男が先に現れた人を追いかけ始めた。
いきなりの展開に少々驚きながらもケノワはまた歩き始めた。
ここでは皆こういう風に生活しているのだろうか?
すっかり暗くなった家の前の通りを歩く。
すこし、冷えてきているようで肌寒い。結局夕刻を無駄に過ごしてしまった。
遠目からアパートメントの前に誰か座り込んでいるのが見える。小柄で子供が迷子になってしまったようだ。
「どうした…」
座り込むひとへの言葉は途切れた。
「ケノワ様…?」
今にも泣きそうなくせに甘い声で自分の名前を呼ぶ。
「レイダ」
肩を震わせて、レイダはケノワを見上げる。いつも着ているふわふわのワンピースではなく、身体の線が見えるようなぴったりした肩だしのドレスでレイダは寒さに耐えていた。
「なぜ、そんな薄着で・・・」
自分の上着をレイダに掛けてやりながらケノワは彼女の目の下に青あざがあるのを見つける。
頬に触れると驚くほど冷たい。
「怪我しているな。家まで送るから、立ちなさい」
「嫌です」
震える声でレイダは即答した。
「嫌です。帰れないです、私逃げてきたんです」
「逃げるってなにからだ?」
「私、本当は…花屋なんかじゃないです。家にお金なくて私、売られてしまって。今日から本当の仕事が始まるはずだったんです。でも、でも…」
声が上手く出ないのかレイダの口がパクパクする。
「いい。レイダもういい」
「だ…め。私、ケノワ様が好きです。だから、怖くて。ずっとなんて言わない。一回だけでいい…」
喉が大きく動く。
「私を抱いてください」
泣きそうな顔で必死に言われた事に、しばしケノワは呆然とする。
「貴方は、何を言っているか分かっているのか?」
「わかっています。でも…!!」
ケノワはレイダの身体を支えるようにして立たせる。
「これから私の部屋に連れて行くが」
「覚悟はできています」
「…違う。私にそんなつもりは無い。こんな所で問答していても身体は冷えるばかりでいけない」
「いいんです。ケノワ様、ねっ? 抱いてください」
「・・・」
ケノワは何も言う気になれずに、レイダを部屋へ連れて行くため階段を上りはじめる。
玄関からリビングへ連れて来るとケノワは告げる。
「…レイダ、身体が冷たくなっているから湯を浴びてきなさい」
「そしたら、私を…」
期待に満ちた瞳で見られてケノワは即答する。
「その気は無い」
「…でも」
「いいから」
食い下がろうとしたレイダはケノワの顔を見てやめた。
ケノワがあまりにも、怒りを面に出していたから。
レイダが部屋から浴室に消えるのを見送り、ケノワはソファに腰掛け深くため息をついた。
何故こうなるのだ?
昨日の今日でこの展開は何なのだ?
レイダの行動が読めない。
突然現れて、自分を抱けなどとあまりにも突飛で、理解できない。
しかし、彼女が今から晒されるという状況下に自分は到底返す気にはなれなかった。つまり、ここに居させることになる。
「…解らない」
ケノワは考える事をやめた。
とりあえず今夜はここで匿おう。
そう決めた所でレイダが浴室から出てくる。
「ケノワ様…」
今度こそケノワは絶句した。
レイダは服を着る事をせずにタオル一枚で出てきたのだ。
おずおずとケノワに近づいてくる。硬直していたケノワは急に立ち上がると、レイダを冷ややかに見下ろした。
「妹の服を貸す、好きに使って構わないからあの部屋へ今すぐ消えてくれ」
指差された部屋の扉とケノワを交互に見てレイダは部屋へ入っていった。
「一体…どうすれば」
ケノワ本当に頭を抱えた。
自分がどうすべきなのか、気持ちの整理がつかない。
夜中、唐突に目が覚めた。
最初は隙間風と思った。しかし、誰かがすすり泣いているようだ。混乱した頭で、寝室から出た。薄暗い中人影を見つけそこで家にレイダを置いていた事を思い出す。
レイダは、ソファに膝を抱えて座っていた。ケノワの気配に気づき顔を上げる。
「ケノワ…さま」
怯えた声にケノワは苛立ちを覚えた。
ランプを灯すと涙に濡れた顔が浮かび上がる。鼻の頭が赤い。
「何を…」
「ごめんなさい! 私、朝から帰りますから、もう迷惑な事したりしないですから…嫌いにならないで…」
レイダの瞳から大粒の涙がこぼれる。
何度もごめんなさいと繰り返し呟くレイダの頬の滴をケノワは無意識にぬぐってやっていた。
驚きに目を見開くレイダをよそに、ケノワは妹たちに昔やってあげたように腕の中に抱きしめていた。
初めて彼女にこんな事をした気がするのに懐かしい感じがする。それは妹たちに彼女が似ているからかもしれないし、彼女から故郷の匂いがしたからかもしれない。
「っ…ケノワさま?」
涙も驚きで止まったようでケノワの肩に回った顔を必死で動かす。
ふとケノワの腕がはずれて、両頬に手のひらが触れる。額にコツンとケノワの額が重なる。
「ここに、居ていい。ただし、変なことを言わない事」
「は…い」
耳元で囁かれた言葉にレイダは、必死で嗚咽を抑えて答える。