蝶と優しい時間
ちょうど賑わいを見せ始めた大通りを抜けて、ケノワとレイダはアパートメントへ戻ってきた。
昨晩、何もかもに絶望してここを飛び出したのに、すぐに戻ってくるとは思わなかった。
それも、心は絶望する前よりも数段軽くなっている。短い間に自分の中がここまで変化するとは、その不思議さにレイダはくすりと笑みを漏らす。ちょうど玄関に入ったところで、ケノワがレイダを振り返る。
「どうした?」
「いいえ、幸せだなって」
ケノワに見上げて微笑むと体を引き寄せられる。
エレノアに抱きしめてもらった時も嬉しかったが、ケノワのそれは優しくレイダを包みほっとさせる。
こめかみに口づけを落とされ、顔を上げると唇が深く重なる。今までで一番甘く感じたそれはレイダの中で絡み溶け合い、じわじわと熱と幸福感がこみ上げて来る。ずっとこのままでいたいと思わせるほどに。
きゅるるるる―っ
その小さな音に二人は唇を離す。
「あ、あのっ」
レイダのただでさえ赤みがかっていた頬は真っ赤になり、恥ずかしさにケノワから目をそらした。せっかくのムードが自己主張の強すぎるお腹のせいでぶち壊しだ。なんでこんな時に…とレイダは自己嫌悪に陥る。
「くくっ」
珍しく笑いを漏らすと、ケノワはレイダの頭を撫でて優しく告げる。
「そういえば朝から何も食べてなかったな、何かありあわせで作ろう」
ケノワはあっさりとレイダから離れてキッチンへと足を向ける。
「あの、待って下さい」
自分から遠くなるぬくもりに思わずケノワの上着を掴む。そこで、はじめて思い当たった。
「なんだ?」
「…あの……今みたいにまた抱きしめてくれますか…?」
何だか自分が凄く恥ずかしい事を言ってる気がしてレイダは口ごもる。エレノアが言っていた意味がやっと分かった気がしたのだ。こうやって抱きしめてもらって口づけしてもらう本当の意味。
一瞬驚いた顔をしたケノワは、少し微笑んでレイダにまた向き直り軽く触れるだけの口づけを落とす。
「言われなくても」
軽いそれだけでレイダの顔には笑みがいっぱいなった。本当に胸が喜びでいっぱいなのだ。
ケノワは本当にありあわせで窓際に植えていたハーブとハムでおいしそうなパスタをテーブルに出した。
レイダだと一時間かかるところが彼の手にかかれば15分ほどで完成するそれに感心せざるえない。
「いただきます」
香ばしい匂いにレイダは嬉しそうにパスタを口に運ぶ。口の中に広がるハムの旨味とハーブの出す香りの豊かさにレイダは夢中で食べた。
自分のためにこうして作ってくれるケノワは世界一だと思う。食べ終わった所で、ちらりと彼の方へ目を向けると思いがけずケノワは自分を見ていた。
「…どうか、されました?」
フォークを皿において訊ねる。特にケノワは険しい顔をしているわけではなく、いつもより穏やかな雰囲気を漂わせている。
ケノワの長い指先が伸びてきて口元を拭われる。子供みたいに何か口元についていたのかと赤くなる。
「別に、答えたくなかったら構わないんだが…」
ケノワの話はどうも今の口元のものとは違うと察して目線で促す。
「…十年前に私は、レイダに会っているのか?」
先ほどノーマが言った言葉をケノワが覚えていた事に驚いてレイダは目を見開く。いつか訊ねられるような気がしていたが、今がその時なのだと認識する。
レイダにとってこれは否定されてしまったら全てが崩れ去ってしまうような気がしてずっと告げられなかったものだ。
レイダが思わず胸元を握り締めて息をつめたのを見止めてケノワが目を細める。
「人の顔をよく覚えない私が悪いのだが、こういう風に気になった事を直に訊ねるのもこれからは必要かとおもって」
何も本当の事を教えてもらえないと泣いたレイダへのケノワの思いをつげると、レイダは暫く躊躇った後で握り締めていた手を緩める。首の後ろへと手をまわすと細いチェーンのネックレスを引き出し外した。
恐る恐るとレイダは外したチェーンごとケノワに差し出した。その指先はどんなに意識しても小さく震えるといった感じだ。
「覚えてますか…?」
レイダの言葉にケノワは真剣な顔でレイダからネックレスを受け取るとその先についていた小さな石を見つめる。
石だと認識して見ていたが、触った感じでは貝殻に彫刻が施されておりそれは蝶の形をしていた。
親指の先ほどしかないその小さなペンダントトップに首を傾げたケノワに、レイダの顔が落胆するのが視界の端に映る。
そのとき唐突に頭の片隅に隠れていた記憶が転がりでる。
この白い飾りは確か本当に十年ほど前、幼年学校のバザーで無理矢理押し付けられた飾りではないか? では、これを自分はどうしただろうか? 妹達にでも渡すつもりで休みに実家に持ち帰って―…
「あの時…」
レイダが少し顔を上げた。
その顔に今にも泣きそうな顔で蝶を捕まえようとしたと告げていた幼い顔とが重なる。自分は蝶を捕りそこなったレイダに蝶の形をしたこれを渡したのだ。
「あの…蝶が好きなレイダか」
初めて王都でレイダと会った時にどこかで見た事があると思ったのは、なんと十年以上前に会ったからだとは思いもしなかった。
驚く自分にレイダは半分泣きそうな顔で頷いた。
「嬉しいです。覚えてくれていましたね、それは私のケノワ様からもらった一番最初の宝物なんです」
その手に蝶を返すと大切そうに手に包み込む。
「…あの日からケノワ様のことずっと好きだったんです」
照れくさそうにレイダは告白する。その顔を愛おしいと思いながらも訊ねる。
「少ししか会った事は無かったと思うが…」
「はい。それでも、私は憧れてたんです……ちょっと怖いですよねぇ」
レイダはくすりと笑って首にネックレスを戻した。いつもよりも素直に饒舌なレイダは続ける。
「ケノワ様と王都で会ってからは、ただの憧れの好きじゃなくなったんです。ケノワ様と一緒に暮らしてもっともっと好きなって、私を好きになって欲しいって思ってました…」
「それは―…叶ったか?」
レイダはキョトンとして自分を見つめた後、頷く。
「はい。でも、もっともっとケノワ様を知りたいです。少しずつ教えてもらえますか?」
「そうだな、私も教えてもらおう」
意外にも自分はレイダの事は知らない。少しずつお互いの事をこれ以上に知っていくのは良いことかもしれない。
そっと二人微笑み合う。
「まずは、レイダがどうしてあの屋敷に居たかだな―…」
この日は夜遅くまでレイダに質問攻めされたケノワが根を上げるまで会話が続いた。
数週間後、ケノワの妹ノーマとマム=レム王国第二王子のオーウェンの婚約が発表された。
号外の新聞を読んでいたエレノアが顔を上げて、レイダを見る。
「レイダちゃん、あなたたちこそ先に結婚すべきじゃないの?」
少し首を傾げたレイダは微笑む。あの日以来レイダは少し女の目をするようになった。
大人の関係ではないようだけれど…それが悲しいような、嬉しいような…。
「いいえ、まだ結婚は早いと思います」
「そんな事言ってるとあいついつまでもしてくれないよ?」
あの鈍感男だ、絶対タイミングを逃すと厄介になる。
「大丈夫です。したくなったら私からお願いしますから」
たくましく告げたレイダにエレノアは彼女が強くなった事に気付く。以前のように不安に揺れていない。
「だったら、安心ね」
「はい!」
にっこりと笑ったレイダは、手にしていたアネモネの入った鉢を店の外に出しに行く。
その姿はキラキラと光っていた。まるで朝日に照らされ咲き誇る野花のように。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
3章は終わりです。
これから少し、レイダの過去のお話を更新予定なのでお読みいただけたら嬉しいです。
…ちなみにそれ以降のお話のストックがないため、更新速度はカタツムリ並みに遅くなると思います。