どうして?
目の前の手が止まるのを見てケノワは首を傾げる。
自分より珍しく遅く帰ってきたレイダは、いつもの様な笑顔を浮かべる事無くケノワが準備していた夕食の席に着いた。
残業で疲れているのだろうか? そういったものとも違うように見えるが、とにかく夕食を食べる手は止まりがちである事には変わりは無い。
いつものペースで食べていたケノワが食べ終わった時、レイダは無表情でスープを見つめていた。
「体調が悪いのか?」
「え」
上げられた顔が強張る。
「悪く、ないです」
「どうしたんだ? 疲れてるのか」
「違います」
レイダは頑なに首を横に振る。
「だったら、何があったんだ」
そういった途端レイダの顔が歪む。さっと俯いてしまったが、その表情に何かがある事は間違いなかった。
「レイダ」
「・・・どうして?」
擦れた小さな声が耳に届く。
何が? と訊ねると勢いよく顔を上げたレイダが早口で答える。
「ケノワ様は王女様との結婚の話があるんですよね。どうして言ってくれなかったんですか?」
「それは、そんな話を受けるつもりなど無かったから…」
「そんなのっ!」
言葉の途中でレイダが立ち上がり声を上げる。
「受けるつもりが無いからって、私には教えてくれないんですか! それって私がその程度の価値の人間だから?」
「そんな事は…」
「そうに決まってます! ケノワ様がそういう風にしか見てくれないから、私がロッド様にケノワ様と王女様の結婚を勧めるように頼まれるんです…」
「ロッドがレイダに…? どうして」
思いにもよらない名前が出てきて驚いて訊ねるとレイダの声に湿り気が混じる。
「…今日、お迎えが来てリュウ家のお屋敷に行ってきたんです。その時・・・ロッド様は、ケノワ様が私と結婚は・・・・・考えてない、からって・・」
嗚咽と共にレイダの瞳からは大きな涙の粒が零れ落ちる。
「っ…ケノワ様にとって、私の事なんか・・・どうでも・・・いいことなんです。だから、ロッド様に言わせるんです」
「そんなことは無い」
「だったらどうして・・私に一番に話してくれないんですか? 私なら騙せるって誤魔化せるって思ったんですか?」
「違う」
ケノワは立ち上がり興奮するレイダを落ち着かせようと近づくが、レイダは体を引く。
「ケノワ様は分かってない・・・私がどんなに切なかったか、悲しかったかなんて・・・凄く惨めで・・・っ」
急に身を翻すと、レイダはケノワをすり抜けて玄関に向かって走り出す。
「待て」
「嫌っ、触らないでくださいっ!」
追いかけてレイダの腕を掴もうとした所で振り払われる。レイダを掴みそこなった指の先で扉が勢いよく閉まった。
「どうしてこうなる…」
拒絶された手を見つめて小さく呟く。
ケノワは片手を額に当てて大きく息を吐く。
ロッドがまさか自分ではなくレイダを呼び出すとは思ってもみなかった。散々彼に宛てた書簡は無視されていたのに関わらず彼女にいくとは。
けれどこれは全て分かりきっていたことなのかもしれない。だからこそ、ケノワに対して近しい者たちが警告をし続けていた。リーガルもキフィも同じように見通す事が出来るからこそ早く彼女に伝えるようにと。
レイダの出て行った玄関で考え込んだケノワは、ハッと顔を上げる。
「まずい」
そのままケノワは扉を開けて外へでる。
どうして自分はこうも鈍感なのだろうか? こんな夜にレイダのような女の子が出歩いていいものじゃない。危険だとわかっていなくてはいけないのに自分はすぐに気付かないのだ。苛立ちを覚えながらアパートメントの階段を駆け下りた。
当然レイダの姿は見当たらず、どこへ行ってしまったのかなどわからない。
「…エレノアのところか?」
レイダの知り合いなど限られているはずだ。
一番親しいのはやはりエレノアだろう。
まだ人通りの多い大通りを抜けてエレノアの店へ向かう。その間にレイダと同じような赤毛探したが見当たらなかった。
エレノアの花屋の前で立ち止まり店の中をのぞくがそこは真っ暗で誰もいないと気配で分かるだけだった。ケノワが知っているのはエレノアの店であって住居ではないのだ。今この時間には既に住まいに帰ってしまっているのだろう。二階にも部屋があるようだが、そこにも人が居る様子は無い。
「どこに…」
レイダからエレノアの家がどこにあるのかなど聞いた事が無い。
レイダの泣き顔が浮かんで止まっていた足を動かし始める。もし、エレノアのところにもレイダが行っていなかった場合、どんな危険があるか分からない。
王都の町を走る。
数ヶ月前レイダの為に小雨の中走った事を思い出させる。
あの時自分は、レイダが家にいる事の大切さを実感したのだ。レイダに居て欲しいそう思ったからこそ彼女を迎えに行った、そうだったはずだ。
それなのに自分はレイダが求めるただ起きている事実を話すと言う事さえ上手くできない。
性格で片付ける事は簡単かもしれないが、習慣に近い悪癖なのかもしれない。昔から自分のことに対してあまり興味を持ってこなかった。それは面倒なことから逃げる為に事実から顔を背けた結果だ。
だからこそ今、レイダにあんな顔をさせてしまうのだろう。
数時間考えられる場所を確認して回ったが、どこにもレイダは見当たらない。
町は既に明かりは落ち、街灯の明かりを頼りに歩く。
時刻は深夜を回り人通りも皆無に等しい。
もしかしたら、レイダは灯台下暗しで部屋に居るのではないか? 思いつき、一度自宅へ戻ってみようと考えた。
しかし足を向けた直後に、レイダがこのままずっと自分のところに戻ってこないという、相反したことを想像し絶句する。
レイダに置いていかれる事への胸が締め付けられるような苦しさに、それが切なさだと気付く。あのいつも自分を信じきった顔で微笑む顔も、遠慮がちに手を繋ぐぬくもりも全てが無くなってしまうのだと、それがどんなに苦しいものでもどかしいものか今更、分かる。
「切ない、か…」
ケノワは苦い顔で呟く。
レイダも先ほど泣きながらそう言った。
きっとこんな感情さえも彼女しか自分には与えないだろう。誰かを愛おしいと思ったり、居なくなる事に寂しさや切なさを覚える事などこれまで無かった。
どこまでも愚かだと自嘲するしかない。