怖がるな
少し時間を戻して。
湯を張り終わって一度確認の為に扉から振り返ると、いかにも恐ろしげな大蛇の染付けが目に入り眉を顰める。
レイダならば必ず怖がるようなリアルさだった。
浴室から出ると、レイダは先ほどの椅子に座ったまま何かを考え込んでいる。
さっきの様子からすると緊張したままなのだろう。先ほどからかわれたばかりなのだから。
声をかけようと近づくが全く気付いた様子は無い。
「最悪…」
今にも死んでしまいそうな声に驚いて思わず訊ねる。
「何が最悪なんだ?」
「え」
今更目の前に自分がいる事に驚いて大きく見開かれる瞳。
「体調が悪いのか?」
屈みこんで顔色を確認すると、大丈夫や元気という返事をして立ち上がろうとするレイダに告げる。
「そうか、風呂の準備が出来た。使っていい、それから…蛇の絵があるから、気をつけるんだ」
「分かりました!」
勢いよく自分の横をすり抜けながら焦った様子で風呂に入る準備をしている。
避けられてる…?
「先に入りますね」
浴室に入っていくレイダを見ながら考える。
どうして自分が避けられるんだろうか。
先ほど自分を見上げたレイダの顔を思い出す。自分では分からない。そうなるとなんだか、残念な気持ちになる。
「――っ!」
レイダの悲鳴が聞こえて慌てて浴室の扉を開けた。したたかに腰を打ち付けてレイダが涙目で自分を見上げている。
どうやらケノワの助言は役に立たなかったようだ。
立ち上がらせると、レイダは恐る恐るといった顔で蛇の絵を見ている。その顔が先ほど自分に見せていた顔と同じに見えた。
少し燻る物を感じつつ、彼女が疑問を口にした蛇がかけてある理由を説明する。以前、この地域の士官が話していたことをそのまま告げた。
「そうなんですか…」
ただでさえ小柄なレイダがしゅんとして、顔を俯かせる。それはまるで自分に怯えているような気がして思わず手が出ていた。
怖がらせないように肩を掴み抱き寄せる。怯えた顔も緊張した顔も見たくない。
驚いて身を硬くしたレイダに囁くようにゆっくり言う。
「怖がるな」
一瞬レイダが緊張した後、力を抜いたのが分かりほっとする。
「はい…もう大丈夫です。布に絵が描いてあるだけですよね、ありがとうございます」
「…」
レイダの言葉にほとんど、いや全く意味が伝わっていなかった事にやるせなくなる。
ここで、この意味はな、と説明するわけにもいかず溜め息をついて浴室から出るしかない。
自分が充分人付き合いが苦手である事は自覚していた。
そして色恋について疎い事も。
日常生活の大体のことは諦めて受け流してきた。
けれど、まさかその自分がこんなにも身近な人に対して愕然とする事があるとは思わなかった。キフィに対してだったら悩みもせずに速攻で忘れ去れるのに…。
浴室から出てきたレイダと入れ違いで、ケノワは部屋から出るために扉に立つ。
「あの…」
温まったのか頬を上気させて、濡れた仔犬のようにレイダが自分を見る。
「疲れているだろう、先に寝てなさい。私は湯を頼んでくるから」
「あ…はい。分かりました」
レイダはこくんと頷く。
素直な様子にやっぱり良く分からなくなる。
受付から戻って来た時に顔に化粧水らしきものを付けていたレイダは、ケノワが浴室から出てくる頃にはベッドで丸くなっていた。
顔を覗き込んでも全く起きる気配が無く、相当疲れていたのだろう。
顔にかかる髪を取ってやる為に手を伸ばしかけて、そのあまりにも無防備な寝顔に思わず長い溜め息が漏れる。
念のため、と思いつつレイダに背を向けて隣のベッドに入ったケノワだった。