蝶と葡萄と木苺(下)
どうしようかと考えていたレイダの顔にぱっと明るさが戻る。
「あ!」
急に叫んだ事でケノワが手を止めてレイダを見るが先は続かない。
黙り込んだレイダをよそにケノワはとりあえず葡萄の皮をむいておくこと優先して作業する。
「私、作りたいものがあります」
一瞬無表情がさらに固まったが、ケノワは息を吐いて促す。
「何を?」
「私にも一つだけ作れるお菓子があるんです」
ちょっと自慢げに言われた言葉にどう反応したものかケノワは逡巡する。
ケノワの杞憂の理由は十分にお互い分かる。
今まで散々失敗してきたレイダだからだ。
「だ、ダメですか…?」
生でも食べれるこの食材を生かすも殺すも今ここはケノワの判断に任せられる。
「本当に、作れるのか?」
苦渋の選択をしたケノワの声にレイダが大きく頷く。
「はい、ちゃんとつくれます」
ケノワは更に訊ねたい本当か? という言葉を飲み込んだ。
「じゃあ、ケノワ様はお部屋でお仕事でもしてください」
レイダはそういうなりケノワを部屋へ追い払った。
当然キッチンの崩壊を防ぐために見張ろうとしていたケノワは抵抗しようとしたが、勢いに負けて持ち帰っていた仕事に取り掛かった。
レイダはケノワが大人しく部屋に入ったのを見てにっこりと微笑んだ。
これだけは自信があるのだ。
両親だって食べてくれていたのだから、大丈夫。
彼がむいてくれた葡萄と木苺をボールに移して砂糖をたっぷりまぶした。とりあえず、半分は生で食べた方がいいというケノワの意見を尊重して使うのは半分だ。
少し時間を置いて水分が出たところへレモンの汁を入れる。
全てに馴染ませてそれを鍋に移して火に掛けた。
きっとケノワが居たら頬を引き攣らせていただろう。
一人で火を扱わせるなんて…と。
でも、大丈夫だ。
あとは色味を見ながらそっと材料を混ぜ込むだけなのだから。
仕事に区切りをつけて自室の扉を開けた。
数時間経っていて既に深夜。
レイダから結局、声を掛けられる事は無く実際に『お菓子』が出来たのかは不明だ。
部屋から出てリビングに入るとソファに丸くなって寝ているレイダを見つける。
「レイダ、起きなさい」
昼は暖かくても夜は冷えるものだ。こんな所に寝ていたら風邪でも引きかねない。
揺すり起こすと目を擦りながら顔を上げる。
「ケノワ様…? …あっ! もう何が作ってあるのか見ちゃいました?!」
眠る前の記憶が一気に覚醒させたのか声を上げる。
「? まだ見てないが。失敗でもしたのか?」
「失礼ですね。ちゃんと作りましたよ」
拗ねて唇を尖らせると、レイダは起き上がってキッチンへ向かう。
「もう出来ていると思います」
レイダが、トレイに載せてリビングに持ってきたのはグラスだった。
ガラスで出来たそれには綺麗な色味、赤い粒と薄緑の粒が浮かんでいた。
「ぶどうと木苺のゼリーです。明日まで冷やして朝からたべてくださいね」
それは、以前の失敗作からすると信じられないほどの繊細さを持つ食べ物で、簡単に出来るものと分かりつつも感心する。
「綺麗にできてるな」
「ありがとうございます」
一つ手にとってグラスと中身を眺める。
この家には最低限の食器しかない。
レイダが住み始めても元々家族が利用する時用に揃えていたもので十分だった。
そのためレイダが作ったゼリーは、本当ならばこういった菓子に合う器に入れるべきなのだろう。
そこで、思い出す。
レイダが夕方真剣に眺めていた蝶がついた器。
帰りがけにあまりにもじっと見つめる姿につい声をかけてしまった。彼女にとってはそれほど思い入れのあるものだったのだろう。
「あの器は…買わないのか?」
「え?」
急な言葉とケノワの確かめるような目線にぶつかる。
レイダは首をゆっくり横に振った。
「いいえ、ただ眺めているのが楽しかっただけですから」
「そうか」
いいのか? と無言で訊ねられた気がしてレイダは微笑む。
「既に大切な蝶は手元にありますから。それにもう蝶がなくても大丈夫なんですよ」
そっと夕方会った時のように胸元に手をやる。
「…蝶になにかあるのか?」
ただ、思ったことをケノワは訊ねただけだったがレイダは目に見えて動揺する。
じっとケノワの顔を見つめるその瞳に何かを訴えるようなものを感じて、考えるがわからない。訴えたいものは“なんでわからないんだろう”というものが多く含まれていた。
半分泣きそうな顔でケノワから視線を外すとレイダは、俯いた。
ケノワはどういう地雷を踏んだのか分からずに反応を待つしかない。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、レイダだった。
「ケノワ様、私は蝶が大好きなんです。
それと、アネモネという花も。両方ともとても大切な思い出と想いがあります。それはケノワ様がいてくれたからあるものなんです」
明るいしっかり口調で真っ直ぐに自分を捕らえるレイダ。
「私が?」
身に覚えがないケノワは思わず聞き返す。
「はい。ケノワ様が覚えてくれていなくても、今ここで一緒にいられる事がとても大切なことです。私は、ケノワ様の事を本当に大好きですから」
レイダと出会ったばかりの頃に告げられた言葉、それはケノワも忘れたわけじゃない。
しかし、真剣に向き合ってこなかった。
それはレイダがその告白に対しての回答を要求してくる事が無かった為で、彼女は辛抱強く我慢していた事もあるだろう。
改めて自分に向けられた思いにケノワは自分の甘さを感じた。
「ありがとう」
今、自分が返せる精一杯の言葉にレイダは、切なそうに微笑んで頷いた。
「…どういたしまして」
二人はグラスを再びキッチンの冷所へ戻して、それぞれ自室へ戻った。