蝶と葡萄と木苺(上)
それは、帰り道だった。
今住んでいる自宅と働いている場所はそんなに遠くない。
大きな軍の前の通りと、それに並行する通りそこを垂直に横切る通りでレイダは働いている。
日が暮れ始めた頃、いつも通りに店を後にして通りを歩く。
いつもなら早足に大好きなケノワが居る家に向かうのだが、今日は少し違った。
雨季に入っている事で傘が行き交う中をレイダは慎重に歩いていた。
帰りしなエレノアが多く買いすぎた果物を分けてくれたのだ。
それはレイダが見たことも無い果物でどの部分が食べられるのか想像がつかなかった。エレノアはお菓子にするとおいしいと教えてくれたけれど、料理がとことんダメなレイダには到底おいしいものに出来そうになかった。
「ケノワ様ならできるかなぁ」
料理の基本を教えてくれているケノワだが、彼が器用にお菓子まで作る事が出来るとは思えなかった。
もらった果物の強度が分からずレイダは慎重に歩いていた。
何度も立ち止まって手元を確認していたレイダは、偶々横に目線を移した。
人の邪魔にならないように道の端に寄っていたので何かの店の前だった。
そこはガラス張りのショーウィンドウで覗き込むことが出来る。
そして、レイダの目が一点に引きつけられた。
ガラスに擦り寄るような形でレイダはそれを見つめた。
「…蝶」
ガラスの先にあるのは、蝶の装飾が付いた綺麗な器だった。
透明なその器には色が少しだけ差し込んでいる。
「綺麗…」
レイダはじっとそれを見つめた。
蝶が今この器に降り立ったばかりのような精巧さに魅せられた。
そして自然とレイダの袋を持っていた手は握り締められたまま胸元の前に寄せられる。
その仕草は何か大切な信仰を持つ敬虔な信者のようなものだった。
実際にレイダにとっては蝶という生き物は他の生き物の何倍も意味があるモノだった。
その蝶が綺麗な硝子になり永遠のものとして目の前にある。
手元にあったらどんなに素敵だろう。
けれど、見るからに高級感がある店だった。
器の横にひっそりと掲げられている値札は10000スラン、つまり1ヴォルドもするのだ。自分の給料の実に三分の一もする。とてもじゃないけれど手に入れられない。
「そんなに欲しいのか」
不意に背後から声を掛けられて、レイダは振り向いた。
「ケノワ様…」
思わず空を見上げる。
傘の端から見えた空は既に暮れており自分が相当長い間この場所に居た事を示していた。彼も仕事帰りに通りがかったのだろう。手には二人分の食材を買い込んだ袋を手にしている。
「私だってよく分かりましたね」
思ったことをそのまま告げると、ケノワはたいした事でもないように首を振った。
そっとレイダの隣りに立ったケノワは彼女がそうしていたようにガラスの中を覗き込んだ。
「何を見ていたんだ」
レイダは告げるかどうか悩んだが、口を開いた。
「…あの蝶のついた器です。まるで本物のようで綺麗だなって」
目線を移して眺める。
「確かに珍しい品だな」
ケノワがそう答えつつも最後に価値は良く分からないが、と呟いた言葉もちゃんと聞こえた。
レイダも分かっている、自分はきっと蝶だからこんなに興味を示しているだけだと。
「ケノワ様、帰りましょう」
口元に笑みを浮かべて促すとケノワは頷いて二人家路に向かい始めた。
二人がちょうどアパートメントにたどり着いたタイミングで、小雨が大降りに変わった。
窓を打ち付ける大粒の雨の音をBGMに夕食をとり終わった所でいつもならしばらくソファでぼんやり休んでいるレイダがテーブルから立ち上がる。
そのまま自室として使っている部屋へ入り袋を手にして出てきた。
「ケノワ様、今日エレノアさんにこれをいただいたんです」
そういって差し出したそれをケノワは眺める。
レイダの指はおそるおそる袋から取り出していく。
それは、レイダの両手いっぱいに乗る。
細い枝のような蔓の支えを元に紫色の小さな粒をたわわにそれぞれ実らせていた。ぷりぷりと二十、三十と小指ほどある実はレイダからするとなんなのかが分からない。
「あの…これってなんですか?」
実は名前もまだ知らなかった。
エレノアは皆が共通で知っている果物として「コレあげるね」と自分に手渡してきたのだ。
あまりにも知っていて当然そうな顔だった為、聞くタイミングをなくした。
「葡萄」
「ぶどう…?」
短く答えてくれたケノワの言葉を繰り返す。
「ぶどうはどうやって食べるものなんですか?」
「洗って皮をむくと食べられる」
ケノワは馬鹿にも呆れもせずに答えてくれたが、皮ってどの部分だろうと首を傾げているとケノワも立ち上がりレイダの手から一房葡萄を取る。
水道へそのまま持っていくと水でケノワが葡萄の実を洗っていく。
ぽん、と一つ水の勢いで枝から弾けとんだ丸い実にレイダは目をむく。
「け、ケノワ様取れちゃいましたよ?!」
「問題ない。そのまま皮むいて食べていい」
認識としては全部がくっついていて一つの果物と思っていたレイダは思わず手にしていた丸い実を見つめる。
「これの皮ですか…」
「取ってやる」
途方にくれた顔をしていたのだろうケノワが葡萄の本体を台の皿に載せて手を差し出す。素直に渡すとケノワが枝が付いていた部分に器用に切れ目をつけてするりと薄い皮をむきレイダに差し出す。
「中は白いんですね」
紫色の皮の中から少し透明で緑がかった実が出てきて感心する。
初めて食べるそれにわくわくしながら口に含む。ほんのり甘い果汁が広がり思わず顔が緩むのを感じた。
「中に種がある」
そういわれたタイミングで歯がコリッと小さな粒を捉えた。苦味が広がって、慌てて口の中から種を取り出した。うん、凄くおいしかった。
視線を感じて見上げると、目線で感想を聞かれていると分かり頷く。
「おいしいです」
「そうか」
彼は言いつつ貯蔵庫の扉を開けると、何かを引っ張り出した。
「これもある」
それはレイダも知っている果物だった。
小さな頃、祖父がよく森に花の採取に行ったついでに摘んできてくれたもの。
「木苺ですね! 買ってくださったんですか?」
勢いで訊ねる。
だって、ケノワは自分ひとりのために果物、それも木苺などを買う性格じゃないのだから。
「安かったからな」
「嬉しいです」
嬉しくて微笑んだが、ケノワは少し微妙そうな顔になる。何か、気に入らない事があったのだろうか?
「この両方を食べきるのは大変だな」
言われて、双方を見ると確かに二人分には多すぎる。食べきる前にどちらか腐らせてしまいそうだ。
「…そうですね…」