扉
階段を上りながらケノワは一度自分の頬に何かを確かめるように触れた。
昔から喜怒哀楽の表現がとことん下手で、嬉しい時でさえほとんど笑顔を浮かべることができない。
しかし、人と言うのは怒り度合いが限度を越えるといつもと違う面が出てくるものだ。
それがケノワの場合は、いつもの反動のように最高の笑みを浮かべることが出来る。普段が無表情である分、穏やかに笑う彼は異様でしかない。
そんな彼の姿を見たことがあるのは一握りの人間、家族くらいだ。
比較的温厚な彼が怒りに飲まれることなど無く、ケノワ自身も今回のマリンダ達の前で微笑んで思い出した。怒りとは、こんなにも自分の中で煮えたぎるものかと。
「なぁ、ケノワ」
足早に進むケノワにキフィが無頓着に声をかける。それは先程見た光景を覚えている者にとっては背筋が凍りつくような事だ。勇気がいる。それを気にせずやる彼はそれなりの経験値をつんでいるのだろう。ライフはこっそり後ろで感心する。
「何です?」
ケノワは平然と振り返った。
その顔には先程まであった笑みがもう無くなっていていつもの顔に戻っていた。
「うげぇ、なんだよ~もういつもの鉄仮面じゃん。あの微笑のままレイダちゃんを迎えに行ってやれよ」
キフィがずばりと言うとケノワが足を止める。
「…これが、普通なのですが?」
キフィが不満げに腰に手を当てる。
「サービス精神が足りないんだな。あの顔が出来るのならば、女の子が怖がらないぜ?」
「…」
ライフにさえ分かるほど、ケノワの眉根が寄せられる。
「あ、それよりも。この扉の先にお姫様はいるからな」
キフィはちょうどケノワが立つ横にあった扉を指差した。
たぶん、元々このことを伝えるために呼び止めたのだろう。ケノワは短く溜め息をつく。
体の向きを変えて、扉を叩く。
「レイダ?」
返事が返ってこずに首を傾げる。
その時ガッシャン、と何かが割れる音が響く。
「あ! げっ、やば。ケノワ今すぐこの扉開けろっ」
後ろで急に騒がしくなったキフィに、ケノワとライフは途惑う。
「早くっ、俺サキヨミしたんだ。レイダちゃんが自分を傷付けるところ!」
ぎょっとして慌ててドアノブを回すが、鍵が掛けられているのか押しても引いても開かない。
三人で扉を押す体勢をとる。
「どうしてそれを先に言わない」
ケノワが言葉を漏らすとキフィが焦った顔で口を尖らす。
「しょうがないだろうっ、お前のあんな所見たら頭から飛び出してったんだよ」
口を動かしながらも扉を押すが嫌に頑丈で動かない。
「蹴破ろう!」
キフィが言うが早いか、ケノワが思いっきり扉の弱そうな所に狙いを定め蹴りつけていた。
ドゴッ、と言う音と共に見事に扉には穴が開いていた。そこを元に扉を蹴り開けた。
「…信じらんねぇ。どうなってんの、お前の補佐官」
「だって護衛だろ? 監視だろ? 一応あいつ、武術の試験をトップで出たらしいしさ」
二人の声を無視してケノワは部屋へ駆け込む。
彼女は、窓際の椅子の前にいた。
「来ないでっ…」
その姿は昨晩話した時とは、かけ離れた姿だった。
いつも動きやすい柔らかいワンピースを身に着けている彼女が、その性を曝け出すような体のラインが強調される艶めかしいドレスに身を包んでいる。
その上、その華奢な手のひらにはキラリと光を反射する刃物のようなものが見えた。それは震える手で手元へ突きつけられている。
「レイダ!」
ケノワが鋭く声を掛ける。
びくりとレイダの体が跳ねる。焦点が合っていない瞳をケノワに向ける。
「レイダ、そんなものを持って何をしている」
幾分和らげた声でレイダに諭すように告げる。
「…ケノワ様……?」
聞き慣れた声だと認識したのか、レイダの瞳に生気が戻り始める。
「そうだ、そんな物離しなさい」
「だ、ダメです…」
レイダは自分に向けたガラス片という刃物を放さない。
「何がダメだ?」
少しずつ刺激しないように近づきながら訊ねる。
「わ、私なんかが居ちゃダメなんです。故郷で、家では何も役に立たない子供で、本当に貧しいのに。妹の事を助けることもできない。
自分でここに来る事決めておきながら諦め悪くて…ここの人達に迷惑掛けちゃったし。嫌な思いさせて。でも、私はここで生きなきゃいけないって、それは、今の私には―…堪えられない。だから、ここで終りにするんです」
自分に言い聞かせるようにレイダは言った。
「そんな事はさせない。うちにいれば良い」
ケノワは少し歩を進める。レイダまであと二歩ほどしかない。近づいたケノワにはレイダの手のひらに滲む血が見えた。
「それこそ、ダメです。私は役立たず、ケノワ様の邪魔ばかりしてしまいます。いいんです、これで・・・」
レイダの手のひらに力が籠もり指先が震える。
静かにレイダの拳から緋色の滴が零れ落ちる。