笑う男
ケノワは瞼を閉じてじっと待っていた。
ホールの一番いい場所で微動だにしない。
マリンダが許可したのだから自分がここいる事を周りの者は邪魔できない。
静かだったホールがざわめく。
ゆっくりと目を向けると使用人について男が歩いてくるのが見えた。
服装は上等な生地を使っているのが分かる。年齢はケノワの一番上の兄と同じくらいだろうか。
マリンダが見計らったように二階から降りてきた。
「お待ちしておりましたわ。クロックラン様」
「あぁ、だが、私も待たされたぞ」
羽織っていた上着を使用人に渡しながら、クロックランといわれた男は、マリンダに答える。濃い茶色の髪と訛りから南部の出身と言うことが窺えた。
「本当に申し訳ございませんでしたわ。ですが、今日はお望みの娘は、きちんと、準備しております」
多くを含んだ言葉が耳につきケノワは、僅かに眉を顰める。
「それと今日は、会わせたい男がいるのです」
ちらりとマリンダの目がケノワを捕らえる。
「ほう、会わせたい娘ではなく?」
「えぇ、そちらにいる男」
マリンダが仕草でクロックランを促す。
クロックランはケノワを一瞥すると、落胆した様子で訊ねた。
「誰だ?」
紹介したい、その言葉に彼はきっと自分の好みの美男子を想像したのだろう。
ケノワの顔かたちは、端整なつくりをしているが、彼の好みでは無かった。そして表情の無い顔が嫌味だ。
「この男があの娘を唆し、隠していた張本人ですの」
マリンダは楽しむようにゆっくり告げた。
クロックランは、一度は通り過ぎたケノワの顔を再び見た。
「その横暴さだけでも許されない事、しかし、更に娘を買い取ると…」
「なんだと?」
クロックランはケノワのほうへ体の向きを変えて近づいてくる。
「あの娘を買い取るだと? お前のような若造が?」
ケノワは正装に近い格好をしていても、値段をかけた無駄に野暮ったい、貴族然とした物ではない。それを見抜いて彼は鼻息荒く吐き捨てた。
「そのつもりだ」
短く、それも“貴族らしさ”を前面にだしたクロックランに、彼は怖じ気もせず答える。
「この娼館からあの娘を買い取れると思っているのか?」
「彼女は私が保護する。体を売る、と言われるなら穢される前に買い取るしかないだろう」
「それならば、私があの娘をお前より高値で買い取ってやろう」
マリンダを見ると彼女は、待ってましたとばかりに頬を緩めた。
その目は彼女が自分の味方をする事を意味していた。
「マリンダ、あの娘はいくらだ?」
「彼には100ヴォルドと」
「それなら私は、130ヴォルドで…」
勢いよく言った自分の言葉は遮られる。
「信じられない醜態だな」
すっ、と綺麗に目を細めたケノワに、クロックランは一瞬目を奪われ、言われた言葉の意味を理解し拳を震わせた。
「ふざけるなっ」
これでも地方であっても貴族である自分に、対等とばかりの物言い。
自尊心の高いクロックランには許せぬ発言だった。
「貴様、私を誰だと思っているのだ。ヤサのクロックラン子爵であるぞ」
そうだ、自分はあのヤサ地方の子爵だ。
この王国の中で一番豊かな資源を持ち国王からの信頼も厚い。地位とて王宮の中でも低くない。こんな王都の町人ごときに負けていい人物ではないのだ。
「あの娘もヤサ出身だ。この私が同郷のよしみで買い取るほうが、娘も喜ぶだろう。貴様のような、借金を抱え込んでいそうな平民が買い取るより、な」
「…」
何も言わないケノワを勝ち誇った顔でクロックランは見下ろした。
ヤサ出身の平民の娘一人にこんなに執着を見せるのは、そのヤサ地方自体での売春行為が禁じられているからだった。
領地内の民を統治することに長けている辺境伯が、不純な事に厳しいのだ。領地内外での汚職などしてみようなら一族が次の日には路頭に迷うだろう。
しかし、禁じられるほどに人は求めてしまうのだ。娼館にいるヤサ出身の娘は稀少で高値で取引される。田舎の小娘でも生娘であるだけで価値が違うのだ。
今回など、馴染みのマリンダに情報をもらった時の感動が忘れられない。
目の前で、無言で打ちひしがれる若造を見て一層クロックランは、自分が満足するのを感じた。
「ふぅん、それで?」
ポツリと、やけに明るい声がその場に響いた。
それは、これまで会話をしてきた三人のものとはあまりにも違って、マリンダとクロックランは顔を見合わせた。
「貴方が、ヤサのクロックラン子爵と言うことくらい最初から分かっている。それで、何が言いたいんだ?」
再び言葉が紡がれる。
その先にいたのは、満面の笑みを浮かべるケノワだった。
先程まで貼り付けていた無表情が嘘のように、そこには明るい快活さがあった。楽しそうに細められた切れ長の瞳、口角など先程と比べるために分度器を準備したいほど緩んでいる。
表情と言うのは、人をどれほど飾り立てるものなのかを悟らせる。
先程まで端整で片付けていた瞳を縁どる長いまつげも、綺麗な形で自己主張する瞳もキラキラと眩しいものに感じられた。
自分たちは楽しいピクニックの計画を立てていたのではないかと思わせる雰囲気に、二人はしばし硬直した。
「ヤサ出身の彼女を引き取る事に、貴方の権力が効くというならば証明してくれるんだろう?」
にっこりと微笑んだケノワにマリンダが、途惑った顔で口を開いた。
「なんだか、急に明るくなったわね…いつもこうしていればいいのに」
「本当にそう思うか? クロックラン子爵殿?」
その軽い声音にクロックランは、強張った顔を見せる。
「あ…」
何事かを発しようとした彼の声は言葉にはならなかった。
玄関ホールが急に騒がしさを増したのだ。何か乱暴な物音が響いた後、慌しく足音が近づいてくる。
三人は足音の主を無言で待った。
「ケノワ!」
そこに姿を見せたのは、良く知った顔だった。
いつもへらへらと浮かべている笑みは無く、真剣だ。すぐ後ろには何度か顔を見たことのあるアマゴイのライフがいた。
「どうして、ここへ?」
ゆっくりと訊ねるケノワの声はこの場にふさわしくないほど優しく響く。
ケノワの顔を見たキフィは、驚愕し後ずさりしてライフにぶつかった。
―――それほどまでに、ケノワの表情はいつもと違う微笑を浮かべていた。
「レ、レイダちゃんがやばそうだと思ってな」
キフィが何とか言葉を返すと、にっこりとケノワは笑い再び、クロックランに向き直る。
「それで?」
ケノワは、クロックランの顔に浮かぶ驚愕の本当の意味を既に見抜いていて楽しんだ様子だ。
「その顔……そんな事が…なぜ」
短い言葉しか紡げぬ彼を見やる。
「そんなに驚くか? 最初からずっと見ている顔ではないか」
実に落ち着いた動作でケノワは立ち上がり、クロックランを見据えた。
「貴方の発言はしかとこの胸に受け取った。ヤサの子爵殿の権限はそこまで大きいとは」
「い、いや、それは…」
けして責め立てる口調で言われているわけでもないのにクロックランの顔色は今や真っ青だった。何度か声の出ない口を動かしていたが、掠れるような声が漏れる。
「…何故、このような所にリュウ家の方が…」
ふぅん、と呟きながらケノワは片眉を上げる。
「そんなに私は似ているのか…」
ただ事実を吟味する様子に横から声が入る。
「おい。ケノワ、誰とお前が似てんの?」
キフィが興味有り気な顔でいつも通りぞんざいに聞いた。
しかし、クロックランの顔が引き攣る。
「だ、誰に口をきいてるのだっ、この方はヤサを統治するリュウ辺境伯のご子弟だぞ!」
「お前に聞いてないし」
焦るようにして紡がれた言葉に、キフィがムッとした顔をする。何も知らぬ子供に対するような発言で彼の機嫌を損ねたようだ。
「クロックラン殿? 口を慎むのは貴方だ。彼は私の上司です」
クロックランはぎょっとしたようにケノワとキフィの顔を見る。
「そーそー。俺様が上司でこいつが部下なの、おっさん分かる?」
キフィがケノワの隣に立ってにんまり笑う。
しばらくケノワは観察するようにクロックランとマリンダを眺めていたが、口を開いた。
「家の力を使うのは避けたかったがしょうがない。
クロックラン、貴方の行為についていくつかすぐに調べさせてもらう。ことの裁きについては一軍人の私にはあずかり知らぬ所だが。それから、レディ・マリンダ、貴方についても報告させてもらう。ヤサの身売りされる子女を買うこと自体が、条例を違反しているのだから」
ゆっくりと目を細めるケノワの顔には普段浮かばない笑みが未だに綺麗に浮かんでいた。
「あら、いいのかしらそれで。あの子を売った家族のものも一緒に罰せられるのではなくて?」
マリンダは心外だとばかりに言い切った。
ケノワの口元が嗤う。
「そのことについては貴女に言われなくても分かっている。彼女の事情については私からも報告させて貰う。余計な心配など要らない」
クロックランを見やると、呆然と立ちすくんでいた。
ケノワは笑う顔とは裏腹にずっと湛えていた冷たい怒りを前面に出して二人を一瞥する。
「―――レイダは私が引き取らせてもらう」
すっと、ケノワは踵を返してホール横切ると階段へ向かった。
キフィが後に続いた為、慌ててライフもその後を追う。