第1話 会釈
八月。
エレベータの扉が、十八階で開いた。
蓮は、一階の喫煙所から戻ってきたところだった。エレベータを降りると、外の八月の熱が首筋にまだ残っていて、廊下の空調が冷たく感じる。
降りた先は、執務室へと続く通路だった。
この通路は、比較的長い。両脇の扉はすべて閉まっていて、奥のほうに、いつもの執務室のドアが小さく見えている。
蓮は、奥のドアに向かって歩きだした。
閉まった扉の横を、いつもの歩幅で過ぎていく。まだドアが遠いところで、奥のほうから誰かが一人、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。エレベータのほうへ歩いてくる。
一階の喫煙所へ向かうのだろう、と蓮は思った。
廊下は長いので、すぐには顔が分からない。ただ、近づいてくる相手の前髪と歩き方で、蓮にはそれが誰かすぐに分かった。
間宮遥だった。伸びた前髪が、目のあたりを隠している。手にはスマートフォンを持っていて、顔を少し傾けて画面を見ている。
その姿を見た瞬間、蓮の胸が強く鳴った。
八月に入ってから、蓮は遥を見るだけで動悸がするようになっていた。
一本しかない真っ直ぐな通路には、脇へ逸れる場所がない。引き返すこともできず、立ち止まるわけにもいかない。すれ違うまでの長い床を、ただ正面から歩いて近づいていくしかなかった。
蓮は、視線のやり場に困った。まっすぐ前を見れば遥の顔を見てしまうし、あからさまに目を逸らすのも不自然になる。喉の奥まで上がった名前は、声にならない。ただ、自分の靴音だけがやけに大きく聞こえる。
二人のあいだに、重くて気まずい空気が張りつめていく。
遥のほうも、前から歩いてくるのが蓮だと気づいた瞬間に、体の内側がこわばっていた。
遥は、すぐさまスマートフォンへ目線を落とす。画面を見つめていれば、ギリギリまで気づかないふりができる。伸びた前髪の下で、目はまったく笑っていない。できることなら、このまま誰とも顔を合わせずに通り過ぎたかった。
喫煙所にいくタイミングが悪かった、失敗した。
遥は、胸のなかで強く悔やんでいた。もう少し遅く席を立つか、エレベータの前で鉢合わせなければ、この長い廊下を向かい合って歩くことはなかった。
近づくにつれて、遥の足がほんの少しだけ緩む。
また、責められるのではないか。
遥のなかには、蓮に対する強い恐怖があった。ここで完全に無視をして通り過ぎれば、あとでまた何を言われるか分からない。そう思うと、スマートフォンを握る指先に、ぎゅっと冷たい力が入る。
一歩ごとに、逃げ場のない距離が詰まっていく。どちらも足を止めないまま、気まずい沈黙のなかで肩ひとつ分の距離まで近づいた。蓮の動悸は、耳の奥で鳴るほど速くなっている。
すれ違う瞬間、遥の肩がすぐそばを通る。
二人はそこで、ほぼ同時に、軽く頭を下げた。
「お疲れ様です」
小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。目も合わせない。遥が恐怖から無理に作ったぎこちない会釈と、会話には決してならないその一言だけで、二人は立ち止まらずにすれ違った。
通り過ぎた瞬間、遥は逃げるようにエレベータのほうへ足を速める。一度も後ろは見ない。
蓮も、振り返ることができない。背中越しに遠ざかっていく遥の靴音を聞きながら、息を詰めたまま、奥の執務室のドアへと歩いていく。すれ違ったあとの冷たい空気と胸の動悸だけが、いつまでも消えずに残っていた。
あれほどに仲がよさそうな二人が、なぜ、こんなにも冷たい関係になってしまったのか。




