第拾壱話:田の神と、三色の新米おこわ
幽心庵のカウンターに座るお桂の髪で、木彫りの未完成のかんざしが優しく揺れていた。
前夜の出来事を経て、すっかり髪に馴染んだかんざしは、どこか店全体を柔らかな温もりで包み込んでいるかのようだ。
ガラリと引き戸が開いた。
「すみません……まだ、入れますか……」
入ってきたのは、大きな旅行鞄を肩にかけ、疲れ果てた表情の青年だった。着ている服にはかすかに泥の匂いが残り、その目は自分の行く末を見失ったかのように泳いでいる。
「いらっしゃい。どうぞ、あたたかいお席へ」
お桂が優しく声をかけ、奥の席へ案内しようとしたその時——ガラガラと音を立てて、再び引き戸が開いた。
「やあやあ、勘吉、お桂さん! 今年も無事に、良い米が獲れたでな!」
背が低く、腰が少し曲がったお爺さんが、大きな風呂敷包みを大事そうに抱えて入ってきた。
使い込まれた素朴な着物に草鞋姿。深々と刻まれた目元のシワの奥で、破顔した笑顔が溢れている。
「おや……田の神様! お久しぶりでございますねぇ」
お桂が目を輝かせる。
青年——勇太は、そのお爺さんから漂う神聖でどこか懐かしい土の香りに思わず息をのんだ。
「これを見せてやりたくてな」
田の神様がカウンターで風呂敷を広げると、そこには三つの小さな俵が並んでいた。
中から現れたのは、漆黒の『黒米』、華やかな茜色の『赤米』、そして澄んだ翡翠色の『緑米』——古代から受け継がれてきた、出来立ての新米だった。
「ほう……これは見事な古代米だ。田の神様、さっそく蒸させてもらいますよ」
勘吉が嬉しそうに目を細め、三色のお米を手際よく準備し始める。
勇太はポツリポツリと、重い口を開いた。
「……僕は、実家の米農家から逃げてきたんです」
言葉を噛みしめるように、勇太は続ける。
「代々続く田んぼを守ってきた父を見て育ちました。でも……今の時代、安く叩かれ、効率化や規模拡大ばかり求められて……。どれだけ汗を流しても『古くさい』と言われる。こんなものに何の意味があるのかって、嫌気がさして家を飛び出してきたんです」
その言葉を、カウンターの隅で丸くなっていたクロが耳をピクッと立てて聞いていた。
田の神様は怒る風でもなく、曲がった腰をさすりながら、静かに勇太の隣へ腰掛けた。
「お待たせしました。『三色のおこわ』と『キノコ汁』です」
勘吉が差し出した杉のせいろの蓋が開けられると、ぶわっと甘く香ばしい湯気が立ち上った。
湯気の向こうに並ぶのは、漆黒の黒米、茜色の赤米、翡翠色の緑米。そして、旨味がたっぷり溶け込んだ熱々のキノコ汁。
漆黒の中に深みのある紫が輝く黒米には、香ばしい黒ごまとひとしおの粗塩。
茜色に染まった赤米には、ホクホクとした黄色い新栗の角切り。
翡翠色に澄んだ緑米には、鮮やかな緑の銀杏。
「……きれいだ」
勇太は思わず目を見張り、吸い寄せられるように赤米のおこわに箸を伸ばした。
もちもちとした弾力とともに、噛むほどに溢れ出すお米本来の力強い旨味と、栗の素朴な甘み。熱々のキノコ汁を一口啜ると、身体の奥底で強張っていたものが、じわ〜っと解けていく。
「うまい……こんなお米、食べたことがない……」
「……いや、食べたことがあるはずじゃよ。お主が『忘れてしまっていた』だけじゃ」
田の神様が、深く刻まれたシワをほころばせながら優しく言った。
「え……?」
「毎日毎晩、パソコンの画面とにらめっこして、効率や数字ばかり追ううちに入り込んどったな……。お主、実家の店のことも、田んぼの土の匂いも、ぜんぶ遠い過去のことみたいに頭から追い出しておったろう」
田の神様の言葉に、勇太はハッと息をのんだ。
都会に出てきてからというもの、朝から晩まで売上やコスト削減に追われ、実家の米屋や田んぼの風景を思い出すことすら「古いもの」「関係ないもの」と心の奥底に押し込めてしまっていたのだ。
「思い出してみなさい。お主のじい様じゃよ。昔、家の脇の小さな田んぼでな……『家族に美味いもんを食べさせたい』『孫の喜ぶ顔が見たい』と、家族のためだけに手間暇かけて黒米や赤米、緑米を作っておったろう」
「あ……っ」
止まっていた記憶の歯車が、一気に動き出した。
すっかり忘れていたはずの景色が、鮮やかな色彩を持って脳裏に蘇る。
泥だらけになりながら、小さなお米の穂を嬉しそうに摘んでいたお祖父さんの笑顔。
ハレの日に、家族みんなで食卓を囲んで食べたあの色鮮やかなごはんの香ばしい匂い。
そして、夕暮れの田んぼで自分を温かく抱き上げてくれた、お祖父さんの大きな手のぬくもり——。
「そうだ……。じいちゃん、売上とか効率なんて関係なく、ただ僕たちの笑顔が見たくて作ってくれてたんだ。……僕、なんでこんな大切なことを忘れてたんだろう……っ」
勇太の目から、ぼろぼろと大きな涙が溢れ出し、せいろの脇にぽとぽとと落ちた。
「人間はな、忙しくなると大事なことほど忘れてしまう生き物じゃ」
田の神様は曲がった腰をさすりながら、我が子を見守るような温かい眼差しで微笑んだ。
「じゃが、土と種は覚えておる。お主が忘れておっても、こうして芽を出し、美味い米になって、お主が帰ってくるのをずっと待っておったんじゃよ」
お桂も優しく頷き、髪に挿した未完成のかんざしをそっと撫でた。
「形あるものも、想いも……本当に大切なものは、どんなに時が流れてもちゃんと受け継がれていくのね」
勇太はおこわを一粒も残さず噛みしめ、熱いキノコ汁を飲み干した。身体の奥から、ふつふつと温かいエネルギーが湧き上がってくるのを感じていた。
「ごちそうさまでした!」
勇太は深々と頭を下げた。
「行ってらっしゃい。良い未来になりますように」
お桂の優しい見送りに背を押され、勇太は重い木枠の引き戸を押し開けた。
一歩、店の外へ足を踏み出す。
ひんやりとした秋の夜気が頬を撫で、ふっと一瞬、意識が遠のくような感覚に包まれた。
からりと音を立てて閉まった扉を振り返る。
そこにはただ、街灯の灯りに照らされた静かな古びた路地があるだけだった。あれほど鮮やかだった小料理屋の灯りも、赤い暖簾も、いつの間にか夜霧の向こうへ消え去っている。
「あれ……僕、どこにいたんだっけ……?」
勇太は狐につままれたように首をかしげた。
あのお店で誰と出会い、何を話していたのか、具体的な言葉や店主たちの顔は、朝の夢のようにすーっと指の隙間からこぼれ落ちていく。
だが——。
お腹の底に残る、じんわりとした温もり。
口の中に残る、香ばしく力強いお米の滋味と、熱いキノコ汁の旨味。
そして、胸の奥でポッと灯ったような、お祖父さんの温かい手の感触と『命の種を繋ぐ』という誇り。それだけは、消えることなくはっきりと残っていた。
「……そうだ。帰らなきゃ」
勇太は自分の旅行鞄をキュッと握り直し、しっかりと地面を踏みしめた。
頭の中の霧がすっきりと晴れ渡っていく。
「始発の電車で、実家に帰ろう。……父さんと一緒に、もう一度あの田んぼに立とう」
迷いの消えた青年の足取りは、夜の静けさを切り裂くように、どこまでも力強く踏み出されていった。
「……ふふ、行っちゃったわね」
路地の奥、人間には見えなくなった幽心庵の店内で、お桂が微笑む。
「へっ、店のことや俺たちの顔は忘れても、あいつの胃袋と心には『あの味』がちゃんと残ってるさ」
クロが満足そうにヒゲを擦り寄せる。
「さて、田の神様。おかわりはまだたくさんありますよ」
「おお、勘吉! いただくぞう。今夜は存分に、美味い酒と米を味わうとしようかの!」
どこまでも深く温かい幽心庵の夜が、静かに更けていくのだった。
第十一話をお読みいただき、ありがとうございました!
前回(第十話)の「職人が手仕事に込めた想い」から、今回は「世代を超えて受け継がれる命の種と家族の愛」をテーマにお届けしました。
忙しい毎日に追われていると、自分を支えてくれていた大切な記憶や感謝を、つい見失ってしまうことがあります。田の神様がもたらした三色の古代米おこわと熱々のキノコ汁が、青年の止まっていた時間を動かしてくれました。
幽心庵を出たあと、店や神様の記憶は薄れてしまっても、お腹と胸に残った温もりだけは消えない——そんな幽心庵らしい余韻を感じていただけたら幸いです。
次回もまた、あたたかいお料理とともに皆様をお待ちしております。
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