与えられた孤独
金曜日の夜になると、吹奏楽部の先輩である中学三年の伊万里京子と二年の私、表谷桜は吹奏楽部顧問の山辺先生の家に預けられる。
伊万里と私は金曜日、親に捨てられる。
「伊万里さんと表谷さんのお母さんはきっと遊びたいのね。さて、今日の晩御飯はどうする?」
山辺先生はいつものようにそう言って広い部屋のソファーに体を沈ませる伊万里の肩を後ろから揺らせた。
伊万里は嬉しそうに口角を上げる。振り返り、小さな声で「お寿司」と言った。
「じゃ、今日は近くのスシローかな? 表谷さんは?」
ほっておいてくれ。この山辺先生のまるでお母さんの様な距離の詰め方は嫌いだ。
本当のお母さんではないのに、保護者みたいな立ち振る舞いは非常に見苦しい。
「任せます」
私の消極的な返事を肯定と受け取ったのだろう。伊万里と山辺先生はウキウキとスシローのチラシを広げた。
そういえば、伊万里は一度確信犯か分からないが、山辺先生を「お母さん」と呼んだ。その時の伊万里の照れくさそうな笑顔と山辺先生の満面の笑みが忘れられない。とても気持ち悪かった。本当の母子の関係ではないし、どうせ中学を卒業したら終わる関係だ。
もし伊万里が卒業したらどうなるのだろう。お母さんはまた金曜日に私を捨てるかもしれない。
「月曜日になったらお母さんも戻ってくるわよ」
山辺先生は事あるごとに私にそう言い聞かせていた。
本を読んで山辺先生の言葉を聞き流していたので、その時山辺先生がどういう顔をしていたかは分からない。
事あるごとに言う山辺先生の声には願望の色がにじみ出ていた。
「この特選がいい!」
山辺先生はいつの間にか伊万里の横に座っていた。私はいつも通り本を読んでソファーに座る二人を対角線上のリビングの机から見ていた。
伊万里は私が中学に入学する前から捨てられていたらしい。
子どもでいたいのに、子どもといさせてもらえなかった。その反動がこの家で起きていると思っている。私だってこんな推測に頭が回る子どもになりたいわけではなかった。
「特選は高いなー」
「でも生エビが入っているの」
「エビか。大きいね。これは食べたいかも」
「表谷さんはどう?」
二人で楽しんでいることの罪悪感か山辺先生の声はやや遠慮がちだった。
「いいと思います」
「そ、そう」
捨て子の私たちに憐憫を持っているのだろう。
家に帰ってもオカアサンがいない子、愛を受けられない子。
それがこの人が可哀相で仕方ないのだ。それを正義感で受け入れている。そんな魂胆が見えるようで私は山辺先生を自分とは別の生き物として見ていた。
「さぁ、頼んだことだし、映画でも見ようかしら」
「今日は何?」
「何にする? 紅茶かコーラとオレンジジュース何がいい?」
「コーラ、いっぱい入れてね」
「表谷さんは?」
「コーヒーでいいです」
私は読書に戻り、山辺先生は軽く息を吐き湯を沸かす作業に戻った。
こういう親切心を持てば、自分のいうことを聞いてもらえるに違いないと思う大人は嫌いだ。
山辺先生は代々、大人に週末捨てられた生徒を預かってきたらしい。今時、週末に子どもが邪魔になる大人は多くて、様々な事情はあれ、どこも似たようなものだろう。
ほんの一度。山辺先生の家でするつもりの宿題を家に取りに帰った。
アパートの部屋の鍵は開いていて、靴脱ぎ場には見慣れないスニーカーが散らばっていて、部屋の奥の電気がついていた。宿題は奥の部屋を通らないと取りに行けない。
まだ設備の新しいマンションの一室、お金はあるからか部屋は多いが欠点は防音が弱いところ。
靴を脱ぐと、ギシギシとベッドがたわむ音と微かに女性の喘ぎ声が聞こえた。
私は振り返らず家を出た。
勢いよく閉めたから音が響くとか考えなかった。
泣いていない、嫌いになっていない、不幸な子どもではない。
ただ私の知っているお母さんはもういない。
泣かない、泣いていない。
私はそう飲み込んで山辺先生の前で「宿題は学校に忘れた」と言った。
それから週明け。
いつだって学校が終わり家に帰ると玄関は汚いものの、前日までオカアサンが《《遊んでいた》》痕跡はどこにも無かった。
玄関からの通路も片しておいて欲しかった。私は居間にあるきれいなオカアサン専用ベッドを見ないように通り過ぎ、申し訳程度にのれんのかかった自室に入った。
学校は友達と呼べる集まりはあるし、先輩からもけして偉そうでないという評価がある。伊万里と所属する吹奏楽部で下手くそなトランペットを吹いているうちに週末がやってくる。
憂鬱な週末。
その憂鬱がもっと憂鬱になる事件が起きた。なんと山辺先生が風邪を引いたのだ。
伊万里と並んで歩いている。担任の先生がそれぞれの家まで行って事情を説明しようかと言ってくれたが、私たちは断った。親切を受け入れてもどうしようもない。
「ねぇ、桜ちゃん。私のこと嫌い?」
帰り道、遠慮がちに問う伊万里に私は思考を止めた。何が正解だ。
「別に」
目をそらしたのは嫌悪感からだった。
「あ、ぁ。そう。私は桜ちゃん好きだなー」
棒読みのように言うのは私の愉快ではない口調を読み取ったからか。伊万里の事は私にとってはどうでもいい。
「ありがとうございます」
「う、うん」
「じゃ、私帰るので」
「待って、桜ちゃん」
そう言って伊万里は私の左手を握った。その手をすぐさま払いたかった。私はお前と違う。大人に媚びないし、あと。伊万里の手を振り払えない。
「うち、来ない? お母さんは今日、外で遊ぶの。桜ちゃんのところはどう?」
家に帰ったらオカアサンはどう言うだろう。
どんな顔をするだろう。どういう言葉を投げるだろう。その全てがきっと鋭利で深く突き刺さる。オカアサンは私の事を週末捨てるのだから。
「行きます」
「え、いいの? やった。一人はお互い寂しいものね」
寂しい? 同族になって安心している伊万里の薄っぺらの感情に反吐が出そうだ。
「はい」
伊万里はまるでピクニックにでも行くようなウキウキしていた。スキップもしている。連れられた家はすごく大きなマンションだった。私の家と比べ物にならない。
「このマンションの最上階だよ。景色はいいのだけど、エレベーターが長いのが欠点。カードをタッチしないと入れないから、このカードを無くすと大変なの」
当たり前だが、慣れた様子でエレベーターのカードリーダーにタッチをした。最上階用のエレベーターなんて初めて乗った。とても静かで上がっていると感じなかった。
着いた部屋はとても大きくて、中がメゾネット構造になっていた。ここがリビング、ここはお母さんの部屋だから入っちゃダメ、ここは私の部屋だけど今日はここで寝てね、他の部屋使うとハウスクリーニング呼ばないといけなくなるの。
要点だけを整理したのは私の頭だ。伊万里の説明は寄り道が多く、しっちゃかめっちゃかだった。伊万里はきっと同胞が出来たと錯覚し、気分上々だった。
「今日の晩御飯はどうする? ピザ、マクドナルド、お寿司?」
「任せます」
「えー、桜ちゃんのいつも任せるね。そこが少しつまんない」
「あのお金は……」
「お母さんが一か月分のお金をくれるの。これで好きなもの買って、好きなところに行きなさいって、十万円ってすごいのよ。いくら使っても無くならないの」
幸せ度数で言えば、伊万里の方が上だ。私より馬鹿なくせに、なんでこいつには金という力があって、私にはただ推測に回るしかない頭だけなのだ。
何を食べたか、その時伊万里がどんな表情をしたのか私は克明に覚えている。悪夢だ。寿司を頼んで、桶にはエビが入っていた。エビを食べることが出来ないというと、もったないと言い、エビを伊万里が食べた。面白くもない映画を見て伊万里は涙を流した。
「夜まで友達と遊んだの、初めて!」
朝、起きたら隣に伊万里がいた。
この女があまりにも醜く映った。金を持っていて、それに甘えられる環境。それを当然のように享受する伊万里が妬ましかった。
次の週末も夜は伊万里の家で伊万里は映画を見て私は本を読んだ。いつの間にか山辺先生の都合が悪い日は伊万里の家に泊まることが多くなった。
「楽しかったね。桜ちゃん」
日曜の夜が終わる度にそう言って笑われると私は嫌な気持ちになった。
この繰り返しをいつまで続けるのだろうか。中学を卒業するまで? そんなのごめんだ。
オカアサンに週末捨てられる。
きっと、近い将来もこのままだ。
そう憂鬱な思いを持ったまま月曜日が終わった。家に帰り、部屋に上がると廊下がやけにきれいだ。ゴミも出されたようで臭いもしない。ベッド周りもきれいだった。
ふとオカアサン専用ベッド目をやると封筒が一通。
「桜へ」
私はゆっくりと上体から体を曲げ落とした。そして膝をつき、右手で優しく封筒を拾った。
中には男と同棲することのこと。当分の生活資金、五万円。
「桜はもう大人だから、大丈夫だよね。家賃は払ってあげるよ」
五万。お母さんの手紙を読むにお母さんはもうここへは戻って来ない。
「なんだよ。なんだよ。伊万里より安いじゃんか」
私はお母さんの手紙を振りかぶって叩きつけようとした。でも、出来なかった。お母さんが私にくれた初めての手紙だったからだ。
私はその場に崩れ落ちて泣いた。
少なくとも週末には捨てるだけで、平日は少し家にいない普通の母親だった。夜トイレに起きた時、お酒を飲んで寝ていて、寒い時なんか布団をかけて、朝起きたら頭痛いって言ったから水をいれてあげて、また夜にでかける。
最後にお母さんに名前呼ばれたのは何年前だろうか。手紙じゃなくてさ、言葉で、口で。
私はその後も山辺先生の元へ通った。山辺先生は私のオカアサンが今も週末に私を捨てていると思っている。
私の歳では子どもだけでお母さんと一緒に過ごした部屋では暮らせない。
私は高校生になるまで、お母さんと過ごした部屋を守りたいのに。
「桜ちゃーん。今日餃子だって! 包むの、一緒にしよ」
恵まれていて、苦労もしらない愚かな先輩の調子にドッと疲れながら、私は渋々手を洗った。




