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真之

ここにきて之照に新事実

作者: 重左衛門
掲載日:2026/07/05

歴史的事実

別に隠れ住んでいたわけではなかった。AIのアホぅ。

なんで検索しても出てこないのにAIだと出てくるんだ?

今までの歴史家ってサボってたんか??

公的資料に山ほどあるのに


細川之照は中富川の戦いで死んだとか

隆之、允之、之照は同一人物とか

アホみたいなこと言う歴史書書く奴のせいでわけわからんくなっていた。


実際は徳島行って町史など調べれば一発でわかるわけだ。アホくさ。


細川之照の子どもたち(3名)

•長男:細川 縫殿助 義則(ほそかわ ぬいのすけ よしのり)

◦動向:之照の跡を継ぎ、櫛渕細川家の基礎を築いた中心人物です。慶長9年の検地帳にも「ぬい(縫殿助)」として名を残しています。 [1]

•次男:細川ほそかわ 喜兵衛きへえ

◦動向:兄の義則とともに櫛渕の地にとどまり、家を支えたとされています。 [1]

•三男:細川ほそかわ 次郎兵衛じろうべえ

◦動向:のちに櫛渕の地を離れ、那賀川の下流にある宮倉(現在の徳島県阿南市那賀川町宮倉)へと移り住み、そこで分家(宮倉細川家)を興しました。


之照(之弘)の子縫殿助は、秋元家の婿。もともと櫛渕城(秋元城)の城主であった秋元氏(秋元治郎五郎など)は、天正13年(1585年)に蜂須賀氏が阿波国に入国した際、その家臣団へと編入されました。知行と居住地:のちの代(秋元成貞の代など)には蜂須賀至鎮に仕え、100石の知行を得て徳島城下の常三島(現在の徳島市)などに居住し、明治時代まで代々蜂須賀家に仕え続けました。

 細川氏は、平島公方に次ぐ国内の名流であり、新太守にとっては統御上好ましからぬ存在である。細川を糸田川と呼ばせ、政所のち庄屋に取り立て懐柔した。立江の小笠原氏も同様である。糸田川家は明治までほとんど大半の時代、庄屋役をつとめるのである。糸田川家にも浮沈はあり、大栗氏・柴田氏に庄屋が移ったこともあり、都合が悪くて、一時古毛の吉田家が兼帯庄屋となったこともある。


 細川之照が金瘡を病んで慶長元年(1596)36歳で死去し、子縫殿助義則が跡を継ぎ、同9年国中一統の検地があって以来、年貢上納となった。家門の中興を願う義則は、家業に励み、家例を興し、祭儀を重んじ、櫛渕細川家の基礎を築いた。義則の長男を治兵衛義経というが、元和年間、蜂須賀氏より淡路の代官を命じられたが、病身の故を以て辞退し、代わって庄屋を命じられた。治兵衛の子が早世したので、弟の徳左衛門長重が家を継いだ。治兵衛の病名は役職辞退の方便と見られないこともないが、徳左衛門は正真正銘の病弱で、公務も家業もつとまらず家計は傾くばかりで、次の清兵衛元則は病父のために山林田地の過半を失った。次の三郎左衛門時則は父と共に奮発して家業に励み、身代を元に復した。


ということはこの数だけ分家が居て、全員細川家を名乗っている。允之の子孫も合わせると相当な数の分家数になるわけだ。


どこが隠れ住んでたんや・・・

有名な歴史書書いた作者はアホなんか??

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